第四章 名声を捨ててでも (2)
(2)
隔年で催される大陸武術会は、今年、スリノア円形闘技場で開催される。
大陸中の剣豪が集結し、腕を競う見世物である。あくまで娯楽のため、真剣は使用しない。参加は自由であるが、各国、数名の代表を送り込むのが慣習であった。自国が抱える戦士の有能さを知らしめる、絶好の機会であるためだ。
スリノアからの代表には、当然のようにベノル=ライトが名を連ねている。王は謁見の間にて、「外諸国を牽制するように」と彼に命じたのだった。
ベノルは、武術会の開催が目前に迫ったある夜、この一連を妻に伝えようと思った。何の用事か、めずらしく部屋から出てきた彼女をつかまえ、ベノルは告げた。
「おまえにぜひ、観客席にいてほしい」
するとダナは、うつむいたまま静かに応じた。
「もちろんですわ。あなたの勇姿に、声援を送りましょう」
澄んだ、鈴のような美しい声音であった。
ベノルは目を瞠った。まさか、という疑念と、もしや、という期待が、半々に渦巻いた。あれから数日経つが、あの後アニタが持っていった小箱を、ダナは密かに開けてみたのかもしれない。そして、彼の愛の化身である、真紅のルビーを目にしてくれたのだろうか。
「ダナ……」
彼は、妻の名を呼び、近づいた。顔を見たかった。うつむいている彼女の褐色の頬へ、手を伸ばした。
それが触れるか触れないかの瞬間、ダナは突然、彼の胸へ飛び込んだ。
ベノルが息をを飲む。腹部の焼けるような感覚はすぐに脳天まで突き上がる。それを痛みであると認識するより早く、深く差し込まれたナイフの柄を、ダナの細い手を、つかんだ。
怨嗟の言葉を吐きながら、ダナが渾身の力でナイフを押す。歯をくいしばり、ベノルが押し戻す。
力勝負に敗れたダナは舌打ちし、後方へ飛び退いた。たまらずその場へ片膝をつき、ベノルはナイフを引き抜く。おさえた傷口から、赤が溢れ出した。
それを見て、ダナが狂ったように、高らかに笑った。
どっと噴き出す冷や汗と己の血に息を乱しながら、ベノルは妻を見やる。
灯りに照らされて浮き上がる、歪んだ彼女。笑う声は、甲高く、まるで、悲鳴のようだ。
ベノルはこの期に及んでも彼女を「美しい」と思う自分へ、深く戦慄した。
激しい痛みが命の危機へ警鐘を鳴らしているにも関わらず、今、ここで笑う彼女をいつまでも見ていたいという欲望の方が強かった。彼女は笑っているが、同時に、嘆いている。泣いている。その色はやはり、彼をたやすく征服してしまう。全て捧げて身を委ねてしまえと、彼を破滅へ誘ってやまない。破滅を司る女神のように。
そうか。
ベノルはひとつの答えに行き着いた。己がワオフの王女に何を見て、どこへ惹かれたのか。ようやく明確な形が、見えてきたように思えた。
そのとき、何も知らぬアニタが、ダナの部屋からけげんそうに出てきた。ベノルは膝をついたまま、とっさに彼女へ背を向けた。
「旦那様?」
前に回りこんできたアニタの口を、ベノルは血に汚れた手でふさいだ。彼女は鮮烈な赤に、目で悲鳴を上げた。
「静かに。奥の部屋の木箱に、包帯がある」
「これは……これは、一体……」
アニタはハッとし、歪んだ笑い方の主を振り返った。そして何かを言いかけたが、ベノルの言い付けを優先させ、奥の部屋へと走った。
「ダナ。私は死なんよ」
ベノルは、あえぎの間をぬって言った。
「私が死んでしまえば、おまえも死んでしまうであろうからな」
「うぬぼれるな。せいぜい苦しめ」
ダナは満たされたように、足取り軽く自室へと戻った。入れ替わるように、アニタが駆けつける。彼女は手際よく止血を施した。
「すまない。君には迷惑をかけてばかりだ」
アニタは涙を浮かべ、首を横に振った。
「すぐに、誰か呼んできます」
「いいや。それは必要ない」
ベノルはその長身をずらし、ソファにもたれた。アニタが彼の前に座りこんだ。
「なぜです?」
大きく息をついた後、「事を公にしたくないのだ」とベノルは微笑んでみせた。
「離縁させられてしまう」
アニタは、ついに涙をこぼした。
「旦那様、その方が、あなたは幸せです」
そうかもしれんな、とつぶやく。そして、やはり彼は、幸せとはなにか、と考えを巡らすのであった。答えなどない問いを、繰り返し、繰り返し。
「姫様は、もうだめです。どうしてこんなことになってしまったのか……。とても明るく、お優しい姫様であられたのに。もう、だめです」
「いいや、まだだ」
ベノルは、様々なものを振り払うように、双眸に宿る光を強くした。
「まだ、救える。救ってみせる」
「でも」
「アニタ、頼む。ダナを支えてやってくれ。一日に、短く言葉を交わすだけでもいい。頼む、このとおりだ」
ベノルが頭を下げると、「よしてください」とアニタが再び涙を流す。
「なぜ、そこまで……」
ベノルは目を閉じた。愛しているからだ、と答えるのはたやすい。しかし、その手前にあるものが、今の時点での彼の正直な心であった。ようやくわかってきた。それこそが、彼を突き動かしていものの正体に、違いないのだ。
「私には、彼女の気持ちが、よくわかるのだよ」
ベノルは、つぶやくように、そう答えた。