第四章 名声を捨ててでも (1)
第四章
(1)
アニタ、という侍女は、よく働く明るい女であった。ダナと同い年の、25歳である。挙式の直前に訪ねてきたワオフ兵が、「姫さんの唯一の女友達さ」と、ベノルに彼女を紹介したのだった。幼少の頃から武芸と勉学に追われていた王女にとって、年の近い侍女であったアニタだけが、心を許して笑い合える女友達であったのだそうだ。
ベノルは一日の終わりに、必ずアニタを呼びつけた。そして、部屋に閉じこもったきりのダナの様子を、逐一、報告させた。
食事はとっているか。体調は良さそうか。眠れている様子か。泣いてはいないか。何か話をしたか。困っていることはないか。
アニタは快くベノルの質問攻めに付き合い、最後に、にっこりと笑うのだった。
「英雄様と騒がれていますが、巷で言われているような厳格な方とは、全然違いますのね。わたくしも、あなたのような殿方に、愛されてみたいものです。姫様は、なんて贅沢な方なのかしら」
ベノルは、そんな彼女から、多くの情報を引き出した。
ダナがルビーに目がないことも、そのひとつであった。それを聞くと、ベノルはルビーの指輪を手に入れずにはいられなかった。
「ダナ」
彼女が部屋へ引きこもって三日目のことである。ベノルは小箱を片手に扉を叩いた。
「ダナ、出てきてはくれぬか。顔が見たい」
不思議ではあるが、彼の胸を痛めつける憎悪に満ちた顔も、三日見られぬだけで、どうしよもなく愛しいのである。
部屋には、アニタもいるようだった。かすかな女の会話が、戸の隙間からもれてくる。渇きの中で水を欲するように、ベノルは妻の声を拾った。
「うるさいわね」
「姫様、もっとよくあの方をご覧になって。とても素敵な方じゃない。ワオフのことを見下す素振りもないし、この部屋にもいろんな気遣いがみえるわ。女は愛された方が幸せだって、よく言うでしょう」
「おまえの説教は、もうたくさんよ。放っておいて」
「姫様……」
沈黙の後、アニタの声が続いた。
「旦那様には、私から説明をしておきます。今夜はもう、お休みなさって」
彼女の声が近づいてきたため、ベノルは慌てて扉から離れた。が、出てきたアニタは察したようで、小さく笑った。ベノルはバツが悪そうに嘆息した。
「すまない」
「とんでもございません。旦那様が奥様を気になさるのは、当然のことです」
「すまないついでに、これをダナに渡しておいてくれないか」
ベノルは、小箱をアニタに託した。彼女は受け取ったものの、何かを言いかけた。
その時であった。扉が開き、ダナが現れた。
彼女は、彼女なりにこの場面を解釈したようだ。例の禍々しい嘲笑を浮かべた。
アニタが息をのむ。彼女は、主の狂気を初めて目にしたのだった。
「なるほど、そういうことか」
ダナは、抑揚なく言い放った。血塗られた鈴のような、鈍い響きの声であった。
「やけにアニタがうるさいと思えば。そういった物で抱き込んでいたというわけか。アニタに説得させたならば、私の心を動かせるとでも思ったか」
アニタが、顔を真っ赤に染めた。
「姫様、なんてことをおっしゃるの! ひどい侮辱だわ」
彼女の憤怒を見、ベノルは自身の精神の麻痺のほどを知った。彼はもはや、平然とダナの歪みを受け止めることができるようになっていた。いいや、そうするために、幾重にも鎧を着込むようになったと表現した方が正しいか。いずれにしても、アニタの反応は健全で、それがベノルにとっては救いのように新鮮であった。
「この方は、あなたに贈ろうと、この品を私にお預けなさったのよ。あなたが部屋に閉じこもったきりだから!」
アニタは、ベノルに小箱を突き返した。
「何を突っ立っておられるのですか。旦那様、あなたの手で直接お渡しください!」
ベノルは言われるまま、緩慢にダナへ小箱を向けた。ダナはベノルが何か言うのを待つこともなく、小箱を払って床に捨て、その上、蹴飛ばした。
「姫様!!」
今にも手を上げそうなアニタをなだめてから、ベノルは移動して小箱を拾い上げた。そして、自らの服で汚れをぬぐい、もう一度、ダナへ差し出した。
「しつこいな」
ダナは、冷たく笑った。
「何が入っているのか知らないが、中身を取り出し、砕いてやろうか」
「それでもいい。この包みを開き、一瞬でいい、中身を見てくれ」
「貴様が望むことを踏みにじるのが、私の生きがいだ」
ダナは小箱を奪い取り、部屋へ戻る際にくずかごへ投げ入れた。
扉の閉まる音がひときわ大きく聞こえたのは、この場の空気が例えようもなく張り詰め、冷え切っていたからかもしれない。
「彼女を、責めないでやってくれ」
ベノルは、立ち尽くすアニタへ、静かに呼びかけた。
彼女は、この夫婦のありように、言葉もないようであった。