第三章 崩壊の兆し (3)
(3)
ワオフ族との和平条約が、無事、結ばれた。
帰国した大使は、ベノル=ライトの結婚に驚きを示しながら、報告をした。
スリノア属国、旧ワオフ王国は、亡き王の妻の下、女王国として成立したこと。自治権はあるが、領土はスリノアのものであること。貿易において、市場は開放すること。年に一度、忠誠の証として、名産と名高い絹織物を献上すること。
「よくぞ、我がスリノアに有利な条約を取りつけた」
王は大使をねぎらったが、本音は「どうでもいい」の一言であった。この先、ワオフ族に干渉するつもりなど、毛頭ないのだ。貿易を密にし、経済的に依存せざるをえない関係を保つことができれば、それでいい。そうして適度に牙を抜いておけば、彼らのプライドを刺激することなく、良好な関係でいられるに違いない。
翌日の定例議会で、王はまず、議員たちの働きを誉めた。
「ここに和平が成立し得たのも、諸君らの理解と協力があってこそである。ようやく、内乱の残り火も片付いたと言えるな」
拍手が起こった。王は、莞爾とした。
「しかし、問題は山積みだ。しばらくは内政に力を入れ、国内を充実させたい」
スリノア内部が抱える諸問題について、報告と議論がなされた。当面の重視すべき問題として、遠方の領土の治安維持に手が回っていないこと、臨時に置かれた役職や機関が放置されたままであること、以上の二点が挙がった。
「治安維持の方は、すぐに解決するであろう。スリノアには、心強い英雄がいる」
雰囲気良く進んでいた議会であったが、しかし、次の王の言葉で一転した。
「だが、役職整理など、他の細々とした仕事には、別の責任者が必要であろう。そこで、提案する。内政を本格化するにあたり、私の右腕となる者がほしい。宰相、とでも呼ぶべきか」
不穏な沈黙が降りた。
スリノアでは代々、政治の長は王ただ一人であった。その位置付けが、有力貴族の勢いを退け、王族の権力を揺るがぬものとしてきたのである。
先王は、多忙に悲鳴を上げ、大臣という役職を置いた。そして、悲劇を招いた。少年王は、父の失策を目の当たりにしているはずである。
「陛下。それは、どのようなお考えでしょうか」
長く議員を務める国民代表が、勇気をもって問うた。
「右腕となる者が欲しい。何度も言わせるな」
議員の視線が、ベノルへと集中する。
「次回までに」
王は、張り上げた声で、強引に視線を引き戻した。
「各部それぞれ、宰相に推挙する人物を挙げてこい。出自は問わない。我こそはという者の立候補も受け付けよう」
王は一方的に解散を命じた。いち早く彼が退場した後、議会は重苦しい空気につぶされんばかりであった。
ベノルはその夜、少年王の部屋を訪ねた。
毎日のようにベノルの傍で遊び呆けていたこの少年であったが、プライベートで顔を合わせるのは、実に七日ぶりであった。
王は、出窓に体を上げてだらしなくもたれ、夜風にあたっていた。
「陛下。少々、お時間をいただけますか」
王は応えない。星を見上げただけである。
「本日の議会でのご意見を、詳しくお聞かせ願えませぬか。陛下のご真意が、私には図りかねます」
ベノルは、少年の返答を待った。
やがて、王はため息をついた。それだけであった。
いたずらに過ぎていく時間。ベノルはやや厳しい声で、少年を諭そうとした。
「陛下。どうかお忘れにならぬよう。あなたは一国の主であり、あなたの発言が、この国の命運を握るのです」
「知っている。もう聞き飽きた」
ひどく億劫そうに、少年は応えた。星を見上げたまま。
「おまえは先ほどから、私の真意がどうのと申しておるな。私はおまえの体を思うがゆえ、荷を軽くしてやろうと思い立っただけだ。何をわざわざ問いただすことがある」
ベノルは、じっと王を見据えた。彼には、この少年が慧眼ゆえにあのような提案をしたとは、とうてい思えぬのであった。
仕方がなく、彼は核心を突いた。
「私がダナを娶ったことが、未だお気に召しませぬか」
少年は微動だにしなかったが、胸中明らかに雰囲気を変えた。幼い不機嫌な沈黙は、ベノルの脳裏に七日前の出来事をよみがえらせた。ダナへの求婚を報告した時の、少年の表情を。
「それとも、私がそうすることを事前にお耳に入れなかったことをお怒りですか」
少年が「両方だ」と怒鳴ったならば、ベノルは謝罪することができたであろう。しかし、王はただ満天の星空を見上げるだけだった。しばらくして、億劫そうに、その口が動いた。
「おまえも、所詮は私の家臣に過ぎぬのだな」
王はさらに、口の中で何かをつぶやいた。
全ては、という初めの言葉のみ、聞き取ることができた。
「もう寝る。出て行け」
王は力なく命じ、寝室へ向かった。
「陛下」
呼びかけに応じぬまま、少年は扉を閉めて空間を隔てた。
開け放されたままの窓から、夜風が吹き込む。
心地よいはずのそれを受けながら、ベノルは崩壊の兆しである小石の転げる音を聞いた気がした。
会話の中で、ベノルは四度も彼を「陛下」と呼んだ。しかし、王はついにいつもの台詞を返すことはなかったのだった。
第四章へ続く