第一章 霧向こうの虚無 (1)
スリノアの英雄編
第一章
(1)
星歴935年。
森と湖の国スリノアの平和が、引き裂かれた。
大臣のクーデターにより王と妃が殺害され、まだ7歳だった王子は、ごくわずかな騎士たちと遠く辺境の砂漠へ落ち延びた。
7年後の星暦942年、大臣の圧政と独裁の暗黒下から、スリノアを救った者がいた。
建国時から代々騎士団長を務めてきたライト家の、若き嫡男、ベノル=ライトである。
彼は共に落ち延びてから先、幼い王子を護り、スリノア奪還の指揮をとってきた。そして、国民の圧倒的支持の下、大臣を捕らえ、王子を正当な王位継承者として即位させた。
それから1年。
ベノル=ライトが率いたスリノア奪還軍は解散したものの、多くの面々が、未だくすぶる残り火を消し去ることに追われ、スリノアの平和を取り戻すことに尽力していた。
少年王、ジャスティス=G=スリノアは15歳。
騎士団長、ベノル=ライトは、29歳であった。
「陛下、いつまでここにおられるおつもりですか」
デスクについたままのスリノアの英雄、ベノル=ライトは、洗練された上品な発音でそう言った。軍事関連の書類に落とされたままの瞳の色は、スリノアの象徴のひとつである森の色だ。
うららかな午後。ここは、スリノア王宮の騎士団長室、ベノルの執務室である。美しい中庭に面した二階に位置するこの部屋には、大きな窓から明るい光が注いでいた。その光が届くか届かないかのところには、腕のある職人がこしらえた木製の応接セットが誇らしげに置かれている。壁一面に並んだ背の高い本棚には、ぎっしりと書籍が詰められており、部屋の主の博識さを物語るようであった。
必要なもののみが追求された印象を与える質素なこの部屋であるが、先刻から、異分子が紛れ込んでいる。一人の少年が、チョロチョロと落ち着かないのである。
黒髪黒眼で、線の細い、やや丸顔のその少年は、先ほどのベノルの言葉を浴びた張本人、スリノアの少年王である。白人種が大半であるスリノア国の王にふさわしく、若干日焼けの跡があるものの、首筋などは抜けるように白い。背はまだ、平均的な女性ほどである。そのことに触れると、クーデターから落ち延びる際にろくに栄養をとらなかったことが原因であると、本人はいつも愚痴を言う。
少年は本の順序を並び替えるいたずらをやめ、光差す窓へと歩み寄った。
「よいではないか、ずっと居たところで」
発言の内容は実に子どもじみているが、少年の口調は一国の長らしく、大人びて堅苦しい。
「ここは絶好の隠れ場なのだ」
「明日までの書類の処理は、片付いているのでしょうな」
書類から顔を上げず、ブロンドの頭を向けたままベノルが問う。王の空いた時間には歴史の教師がつくはずであるが、そこにはあえて目をつぶり、「最低限」を求めた格好だ。
少年は日の光を浴びて窓枠にもたれ、不満そうな視線をスリノアの英雄へ向けた。
「当然だ。やるべきことは済ませている」
「では、明後日の書類は」
やり込められそうな少年王は、ベノルの思惑通りの言葉を使わざるを得ない。
「……最低限、やるべきことは済ませている。悪いか」
「城内では、王は遊んでばかりいると噂されておりますよ。最低限のことを行うにも、周囲への見せ方というものがございましょう」
王は黙り込んだ。負けを悟ると、いつもこうである。話を変えるため、話題を探す。
「そうだ、ベノル。噂と言えば」
指を鳴らし、少年はニヤリとする。
「昨日、おまえが男趣味ではないのかとの噂を聞いた」
ベノルはやはり、書類から顔を上げず、ペンを走らせながら応えた。
「それは、心外ですね」
「本当のところ、どうなのだ」
「私は大の女性好きです」
そっけない応答にも意を介さず、少年は一人で楽しそうに言い募る。
「29にもなって独身を貫く男の言うことではないな」
「女性が好きだからこそ、独身でいるのです。多くの女性と、多くの素晴らしい時間を過ごしたいのです。彼女らも、それを望んでおりましょう」
「冗談はよい。早く結婚し、後継ぎをつくれ」
「もう少しスリノアが落ち着いてから、考えます。陛下こそ」
すかさず、
「ヘイカと呼ぶな」
と、王が口を挟む。
「ジャスティス様こそ」
ベノルが訂正する。軽口のようなそのやりとりは、この二人にとって、もう何度為されたか分からないほどに定番となりつつある。そこに含まれる互いの意図から、目をそらしたまま。
「将来の王妃のところへ、顔をお見せしておりますか?」
「もちろんだ」
王の顔から、笑みが薄れる。億劫そうに、彼は肩をすくめた。
「昨日も行った。特別、愛があるわけでもないのに」
「かと言って、特別愛のある女性がいるわけでもない。私も同じでございます、陛下」
王族や高名な貴族に生まれた者は、愛のある正式な結婚など望むべきではない。それが当然と考えられなくなっているのは、彼らが七年もの間、地べたを這うような逃亡と戦乱を繰り返し、様々な邂逅を経てきたせいなのかもしれなかった。屈辱と苦しみの中、しかし彼らは自由に人と語らい、自由に人を愛せたのだ。
「なるほど」
国の英雄の言葉を受けて、王は慰められたような気分になる。そして、窓の外へちらりと目を遣る。
「おまえの妻を夢見る女は、いったい、何百人いるだろうか」
「何万人、でございます」
すげない口調での冗談は、この英雄の得意とするところである。それを知っている少年は、楽しそうに笑った。
会話が途切れると、少年は再びソワソワと落ち着かない。今度はベノルのデスクに寄って、その手元を覗き込んだ。
「ベノル、先ほどから何を真剣に読んでいる?」
騎士団長は、信じ難い王の言葉に、ついに顔を上げた。広い肩幅の上の、整った品のある顔立ち。だがそこには、単純に「上品」と括れない、野性味を帯びたようなわずかな影も見え隠れしている。鍛錬で剣を振るうだけの者には身につかない、磨き上げられた強かさである。
そんな英雄の面のうち、ひときわ目立つ緑の双眸が、のんきな少年の怠慢を責めた。
「陛下」
「ヘイカと呼ぶな」
「ジャスティス様。今、私が追われている仕事を、把握しておられないのですか」
「ああ、思い出した。ワオフ族の問題だな」
「知ったかぶりではございませんね?」
「知ったかぶりだ」
悪びれもせず、断言する王。
ベノルは太い眉を寄せ、ため息をついた。少年は一切を知らぬわけではない。さすがに、専属の教師から大筋は聞かされているであろうし、議会で恥をかかぬ程度には知識を仕入れているだろう。だが、それはあくまで「最低限」であり、それが王として怠惰なことであると、少年は承知しているのだ。そして、その穴埋めをベノルに頼るのである。
「陛下、この問題についての議会が、明日、ひらかれるのですよ」
「そうだったか」
白々しく無知を装ってベノルから知識を引き出そうとするのも、少年にとってはお手のものだ。自分から智をひけらかして誤りを指摘されたり補足をされるよりも、この方がうんと楽で面倒がないと、賢い彼は学んでいる。
「大臣派の残党が、最後の戦いを挑んできたのです。これに勝利したならば、スリノアは真に平和な、もとの姿へと戻るでしょう」
少年は、はて、と首を傾げた。
「大臣派の残党とワオフ族と、何の関係がある?」
「彼らはワオフ族を味方につけたのです」
「なぜワオフ族は、大臣派などの味方をするのだ」
「スリノアは今日まで、彼らに圧政を敷いてきました。大臣派は、政権を取り戻した暁には自治を認めると、ワオフをそそのかしたのです」
これこそが、少年の聞きたがる知識であった。教師や高官たちが伏せて、王の耳に入れまいとする事柄。黒い瞳が、真摯に輝いた。
「彼らに対する圧政、とは?」
「荒れた西方の地へ追いやり、国民の5倍もの税をかけておりました。他の様々な制約を挙げれば、いとまがありません」
「なぜ、そのような仕打ちを」
「一言で申し上げると、国家の利害のためです」
ほぅ、と不機嫌に目を細める少年王。
「スリノアの繁栄は、彼らの犠牲の上に成り立っていたということか」
少年の胸に去来するものを、ベノルははっきりと見たように思った。
スリノアを追われている間に、彼らは理不尽に虐げられる多くの人々に出会ったのだった。権力者の私利私欲のために不幸を強いられた一族や、国家に抗する術を持たぬまま人間として扱われない民族。その中には、彼らの戦友となった者もいれば、まだ王子であった少年が淡い気持ちを抱いた少女もいたのである。逃亡者である彼らに、異国のそのような情勢をどうにかすることなど、できるはずもなかった。無力感に苛まれながら見過ごし、祖国へ戻るだけで精一杯だったのだ。
それが今、王となった彼の権が及ぶ範囲で、起きている。少年が何を思ったか、共に落ち延びて戦い続けた者ならば、推し量るまでもなかった。
「我々は、自由と平和を掲げ、このスリノアへ戻りました。よって、この問題を見直そうというのが、明日の議題です」
「うむ。よく分かった」
いつの間にやら一国の王の顔で、少年はデスクの脇に佇んでいる。
「和平しかあるまい」
予想に違わぬ一言は、さらりと王の口から流れ出た。それは、スリノアの英雄の微笑を誘う。
「和平が成立したならば、大臣派の残党を捕らえるのみです」
「奴らには速やかに死を。慈悲は無用だ」
「仰せのままに、陛下。ようやく、長かった戦は終わりを迎えます」
ベノルはふと、自らの言葉をかみしめた。
戦が終わり、平和が戻る。
元の、8年前の、美しく輝くスリノアへ。
「父上は」
少年は、亡き先王を想い、
「なぜ、彼らに圧政を」
わかっていながら、そうつぶやいた。