神依士見習いと孤児のミナ
ミックは神堂と呼ばれる大広間の中央に立っていた。
端から端まで優に三十メートルはあろうかという広い空間。
三角の形をした天井は、ミックの背を三倍にしてもまだ届かないくらい高いところにある。
石が詰まれ石膏で固められた壁の中に、木や鉄板を釘で打ち付けた元ガラス窓がいくつも埋め込まれている。
その窓から中に入ることはもちろん、中から外の様子を伺い知ることもできないくらい暗く閉ざされた空間だった。手入れを怠っているせいですっかり曇った天窓が、ぼんやりとした朝日を広間に届けるのみだ。
ひいふうみいよおいつむうなな。ここに来るのは一週間ぶりだ。
神堂の奥、上部には、石壁と一体化するかのように連なって彫られた大きな石膏像があった。
ミックたちが神と崇める、ルクスさまの像である。
何百年も昔に作られたものだが、その荘厳さは輝きを忘れることを知らなかった。
彼でも彼女でもないルクス神は中性的で柔和な顔立ちで、優しく慈愛に満ち溢れていた。大きく広げられた両腕と背中から生える鳥の翼は、信じる者全てを包み込む、父のような頼もしさと母のような温かさをどちらも感じさせた。
ルクスさまの足下では、早く起きていた父が箒を持って掃除を既に始めていた。
ミックの父は、ルクスさまに仕え、祈り、信者たちの悩みに寄り添い、神の御言葉を伝え、冠婚葬祭を執り行う神依士と呼ばれる神職である。
群青の夜空にたくさんの星を散りばめたような煌びやかな法衣を纏う父は、見習いであるミックの憧れであった。ミックは先に神に祈りを捧げることを父に断って、ルクス像の下に跪いた。
ルクスさま。
真心からの信仰を捧げます。今日もぼくたちを守り、お導きください。
祈りの言葉は普段と同じだ。
だが、この神堂の中で、ルクスさまの前で祈るときは、いつも以上の喜びと安心感が胸の中に広がっていくのを感じる。
「遅くなってごめん、お父さん。扉を開けてくる」
父は手を止めてミックに頷いた。
神堂から外へ向かう扉の前には、重い銅像が置かれ、椅子や机が乱雑に積み上げられている。ミックはそれをひとつずつ丁寧に下ろし、脇によけていって、最後に扉の取っ手につけてある鎖に手をかけた。
厳重に巻かれているそれをほどき、ようやく鍵を差し込んで扉を押し開くと、ふわっと明るい空気がミックを出迎えた。
ひいふうみいよおいつむうなな。ようやく来た日曜日、休戦の日。
神堂と共に自分の肺の空気も入れ替えたミックは、ふうと息をついて袖をまくった。
今日は日曜日、神殿の外から大勢のルクス教徒が集まって来る日だ。
宗教的儀式である昼餐会が開かれる日。
邪教であるユス教との対立は日に日に増してミックの生活を脅かしていたけれど、信者たちが集まってきてくれる今日は、希望のない日々に差す一筋の光のようだった。
準備に取り掛かろうと思ったミックが父の方に足を向けたとき、開け放たれた扉の向こうで草を踏む音が聞こえた。
昼餐会の時間にはまだ早いが、この時間にここに現れる者をミックも父も知っている。
「ミナ」
神堂の奥から父が名前を呼ぶと、娘はびくっと体を震わせて、か細い声で神の名を呼んだ。
「ルクスさまにお祈りを捧げに」
娘といえるほどでもない。十歳かそこらの孤児の少女だ。
ミナはよたよたと歩いてきた。
一本の針みたいにひょろっとした体は真っ黒に垢で汚れているし、その金の髪もふけだらけでぼさぼさだ。仮にもルクスさまに顔向けできるなりとは思えない。
ミナが神殿に来るようになった頃に風呂を沸かしてやったこともあったが、「お兄ちゃんが知ったら大変なの」と言って、身綺麗にすることを頑なに拒んだ。昼餐会にも顔を出そうとしなかった。
その語るところをつなげて考えると、ミナの兄はルクス教を毛嫌いしていて、ミナの信仰心を疎んじているらしい。
けれどミナは兄の目を盗んで、毎週必ず祈りを捧げに来る。
ミナは文字こそ読めなかったが、頭はかなりよかった。
ミックや他の神依士たちの唱える祈りを聞いて、一語一句暗記してしまったほどだ。
ミックはそんなミナのことが素直に好きだった。ルクスさまの教義を真っ直ぐに実践しているように思えたからだ。
「ミナ、おはよう」
ミックが声をかけると、弾かれたようにミナは振り向き、口をもごもごさせて答えた。知り合ってもう随分になるのに、ミナはいくら経ってもミックと馴れ合おうとしなかった。その傾向は年々増していくかのようだった。
……お兄ちゃん、分かってくれないの。
ミナはよくそう言った。そう言っては泣いた。
ルクスさまの前で、金色の瞳を潤ませてはぽたぽたと涙を流した。
彼女の悲しみはミックの胸に突き刺さり、何もしてやれない自分の情けなさがまた彼を苦しめた。
愛せ、そして理解しろ。
何も、ミナが好んでこうしているわけではない。
ミナの様子を見れば、神殿を降りた下町の生活環境がどれほどのものか、手に取るように分かった。それが原因なのだと、自分にも言い聞かせた。
ミナは先ほど彼がしていたように、ルクスさまの足下に跪き、祈りの文句を唱え始める。みるみるうちに、彼女の体の震えが収まっていく。
「ありがとうございます」
ミナが細い声で礼を言う。胸がひゅうひゅう鳴っている。
はっきり聞いたわけではないが、なんらかの持病を抱えているのではないかとミックは思う。
ミナは回れ右をすると、ミックと父に順番に礼をして、たっと駆け出した。
大急ぎで扉を抜け、坂を下りて下町へと駆けてゆく。
それが胸の病気にはよく響かないだろうことは簡単に想像できる。
それでもそんなに急いで行くのには何か訳があることも分かった。
それがミナの発する兄という言葉に集約することも、また予想がついた。