閑話休題 獣によりそう
幼いころに傍に居た獣と意志の疎通が普通にできた。
「言葉」という情報量の少ない、確定、固定されたモノの中ではなく、雑多なもの、模糊曖昧なものも、そのまま受け取ることが出来た。
その頃のことを、少し説明出来たらと思う。
以前に友人のブログでイタチの話題が出たので、それに
「ネコ母に「イタチに道をつけられたら殺せ」
と教えられていたから、今でもペットショップでフェレットを見ると緊張する」
と書いたら、「人には実用的ではない教えですね~」
と楽しんでくれたような反応だった。
たしかに人として生きるには、関係のないことを教えてくれていたな。と思い返す。
そのころ付き合っていた彼氏にもその話をしたら、
「猫に教わったって、どうやって?ジェスチャー?」
とか聞かれる。
そんなワケない。
犬も猫も言葉では考えない。
人が空を見て「青い」と思う時「青」という漢字を思い浮かべないままに「青」を感じるのや、風の匂いを嗅いで、草や排気ガスや食べ物の臭い、夕方の空気の湿り気などの全部を一瞬で感じるのに似ている。
体の周りの空気とか毛や筋肉の動きとかの、緊張とか呼吸とか同じものを見ている時とか。
ああ、昨夜見た夢を追うような感じで、感覚が戻らずもどかしい。
模糊曖昧なるものを、言葉で表現するのは難しい。
我はもう言葉を使う人間だから。
そして獣の種類で、考え方の構築がまったく違う。
猫は時間の感覚が弱くて「今」しかない。
「あとで」は、分からないのだ。
また他の種族への理解の範囲が狭い。
猫である自分と、人である我との種の違いの理解はあるが、習性や体の違いは判ってなかったようだ。
また、二つのことを関連付けて考えるのが出来ないので、「相手の立場で考える」というのを種が違うと分からないようだった。
例えば、
我が ネズミを食ったら 腹を壊した
が理解できなった。
猫である自分の食べ物が、他者にとっての食物にならないことが理解できなかったのだろう。
逆に犬父は、
我が 腹を空かした時 自分のメシを 食わして 我の腹が壊した
次からは、我に食べさせずに自分が食べて「腹を空かせた時は体を冷やすな」と体をくっ付けて暖めてくれた。
犬は比較的人に近い考え方をするようだ。
猫は自分と世界となっているが、犬は自分と仲間と世界となっている違いだろうか。
しかし、そのなかで、
猫母が「イタチに道を付けられたら殺せ」は猫という種を越えた考え方なのである。
猫はたとえ自分のテリトリーに、食性と行動時間のかぶる敵が現われたとしても、殺して排することはしない。
普通の猫は居合わせない限り戦いを避ける。
それでも、鶏を囲っている鳥小屋の小さな穴を見つけた猫母は、我にそう伝えたのだ。
「人の飼っている鶏
入ったら全滅させるだろうイタチ
お前ら人間は困るだろう?
ならば、殺せよ」
今から思うと種を越えた考えである。
他を殺してまで猫はテリトリーに執着しないのだから。
言葉を覚えた今、当たり前に受けた心が輪郭さえ朧になってしまいそうで、思わず書き留めたいと思ったが、書けば書くほど心から離れていきそうだ。
う~む。う~~ん。考えがまとまらない。
あの昔の感覚が戻らない。
結局鶏小屋は、犬父の糞を周りに埋めたら寄り付かなくなった。
言葉を覚え、人と話すことが出来るようになったとき、獣と意志の疎通が出来なくなっていた。
使う脳の場所が違うのだろう。
獣との意思の疎通には色も臭いも感覚も過去も思いもあったのに、言葉では言葉の意味しか伝わらず伝えることが出来ない。
言葉では説明できない感覚的なもの。という文章で逃げているようにも思うが、
「言葉」という「共通」を「共有」する道具により、単純化された物事は、
それ以外の不純物を除外してしまった。
今でも、あの感覚を懐かしく思う。