38話 硯
竹林を分け出でるオッサンが実父だと知ったとき、なんだか微妙な気分だった。
本気で、竹林に潜んでいる妖怪か何かが、時折話にやってくると思っていたが、手土産を持って現れたので、ああ、実物の人物なのか。と妙に寂しかった。
実父と知ってからも、何をやっているのか分からない、胡散臭さは、ずーっと消えなかった。
祖父母の所にいたとき、極々稀に、父親がこっそりと来た。
その時には、この男を知ってはいたが、父親だとは知らなかった。
海外へフラフラと出かけているらしい奴が、土産を買ってきたことがあった。
中国や韓国を行ったらしいが。
硯を買ってきた。
大きな物で、A4サイズのノートと同じくらい。厚みも20センチ近く。
「いやあ~重かったよ」
(バカだ。この男…)
蓋も(蓋のある硯って何さ)側面も縁も龍がうねっている細密な彫刻がされてある。
って、我は習字も習ってない。水墨画も分からん。
ナゼ小学2年生の子供にコレか意味分からんが、「良い物」と「喜ぶ物」が違うのはしょうがないか。
と子供なりに大人になってみたが、単純に父親が我のために買ってくれたのが嬉しくもあった。
実際は、書を嗜んでいた祖父への上納品を断られたのだと、今になって思うが。
次の日、墨を磨ってみる。
しょり。しょり。しょり。しょり。
…臭い。
臭い。なんだろう。獣の臭い。
その後、調べてみる。
墨は膠を使っているので、それかな~と墨を何種類か用意する。
祖父が書道家でもあったので、ちびたのなら掠め取るができた。
普通、墨を磨ると、墨によって臭いが変わる。
しかし、同じ臭い。獣の脂と糞尿の臭い。
墨じゃない。やっぱり硯だ。
硯を前に腕組みをしていたら、猫母が散歩から戻ってきた。
数日振りのご帰還である。
硯を見た途端、普段は教育的指導でしか怒らないのに毛を逆立てて凄まじい威嚇をした。
シャーシャーと、我と硯の間に割って入り唾を吐きかける勢いだ。
驚いて飛びずさると、我を背に庇うように硯を威嚇したまま、我を離れから出した。
離れから出て猫母を抱き途方に暮れた。
その後、猫母と相談して(独り言を聞いていただけだけど)
井戸の脇で洗おうとしたら、割ってしまった。
とした。
言い訳をしなければならない父親はもういなかったし、祖父母もいなかったので割らずに捨てるだけで良かったのかもしれないが。
それでも、良いモノだったと思う。
水に入れたときの、水を吸い込んで石の肌が滑らかになる。
硯の墨を入れる窪みを覆うように水紋の様な、薄い模様が流れている。
しかし、猫母の警戒を見ると、どうしても自分で持っていたくはなかった。
そばの竹林に穴を掘り、埋めてしまったが、さて、なんだったのだろうか。
霊に関する本を読むと、「臭い」は霊感では良くあるらしい。
予想通りに、臭いにおいは悪い霊。
その頃は何も知らなかったが、獣の死臭に感じたそれには、恐怖の感情しか持てなかった。
猫母の目には、どう映っていたのだろう。
見た途端の、全身の毛を逆立てた姿は、その一回しか見ていない。




