36話 それは腐臭だった
辛かった頃の人間関係というのは、顔を見るだけで、当時を思い出し親しい付き合いをしていたものでさえ、苦々しい記憶と共によみがえる。
おそらく、顔を見たときに我は「ギョッ」とした不快感を示していたかも知れない。
それが、心残りである。
君にではないのだ。
あの時期の思い出が我の顔を歪ませたのだ。
働いていた映画館に、古い知り合いが客として来た。
ああ生きていたか。と安心をした。
向こうも我に気づいたが連れの女性がいるので、ひっそりと会釈。
帰りは背中で手を振る。
「バイバイ」
中学高校と我の居た場所で知り合った同年代は、荒れた人種だった。
そんな不良が多い中の一方で、心が病んでいる者も多かった。
彼もその1人でヴァンパイアフィリア(吸血症)だった。
今なら冷凍した牛肉を解凍した時に出るドリップを飲ませたりトマトジュースにオイルを加えたのとか、吸血症への血の代替の情報が得やすいが、当時は何も分からなかった。
それでも授乳のようなものだろうと嫌悪感はなかったので、我を含めた3人で交替で血を与えた。
発作は月に1~2回でカレースプーン一杯で納まったので、一度やれば1~2ヵ月は空いたので、そんなに負担には感じなかった。
銭湯あがり、酒を飲んで腕を縛り(未成年ではあったが)、親指の付根をカミソリで切る。
我は手の平が傷つくのは嫌だったので、甲側の親指を反った時にできるくぼみを切る。
血を摂った後は瞬間接着剤でくっつけていた。
傷は残っていない。10回くらいはやっていたのだが鋭いカミソリでやったのが良かったのだろう。
それは、唐突に終わった。
我との約束は、肌からじか飲みしない。血のままではなく牛乳か酒に薄めて飲む。の二点。
発作が起こると、普段無口で話す際は理路整然としていたが、その時は
「あのさぁ。お願い。ね。お願い。お願い」
と幼児のような言葉使いになるのが奇妙だった。
我との最後の時、彼が妙に臭かった。
血の腐ったような臭いが、息や髪や体から発していた。
動物の、日数の経った死体を思わせた。
臭いのは嫌だな~。
もう、止めようか。と思った頃、我自身の高校の後期の授業料を納めなければいけない日が近づきバイトを掛け持ちして忙しくなり彼から遠のいてしまった。
そんな時に事件は、起こった。
授血していた1人は、彼の彼女だった。
彼は彼女の腹をナイフで刺し、その血を飲んでレイプした。
彼女は、彼が放心状態になった隙に逃げ出し、自分で救急車を呼んだ。
彼は捕まり病院に入った。
彼女の怪我は小さなナイフだったので、数週間で退院したし、心のショックも大きくはなかったようで安心したが、彼は戻ってこなかった。
あれから、15年は経っていたか。お互い無事に成人できてナニヨリだ。
連れがいて顔を合わせれないなら、無視すればいいものを、陰でパタパタと何等かの意思表示を示そうとする。
彼自身の真面目で気の良い本質なのだろう。
安心した。もう、会わないだろうが嬉しかった。
でも、あの短期間の悪臭はなんだったのだろう?
彼女が言っていた。
少し前から、別人のような顔になったり声になって怖かったと。
低くしゃがれた声が、乱暴に刃物を突き立てようとする。
それを宥め抑えて、自分で手を切ると、唸り声をあげて、しゃぶりついたそうだ。
普通じゃないよね…
そんなことを言っていた矢先だった。
我は彼の変異を「腐敗臭」として感じ取り、彼女は「別人の様」と感じたのだろうか。
今も彼は血を欲しているのか不明だ。
しかし、一緒に居る女性とは上手くいっていそうだ。
バンパイヤフィリアのような精神病は、環境が落ち着き大事な人を持ったら、無くなることもあるそうだ。
そうであってほしいな。
背中で手を振るという、身体の堅い人には難しいであろうことを一生懸命にやっている。
あの事件は、何が理由で起こったのか不明だが、今はとても穏やかな頼りがいのある男の顔をしている。
良かったね。
もう、合わないと思うけれど、お幸せに。
バイバイ。
ヴァンパイアフィリアというものの発症は良く分かってないが、幼児期の成長過程で親との接触が極端に少なかった人に出やすいと聞いた。
究極の接触は、授乳であり、大人になってそれを満たしてくれるのは、吸血衝動だからか。
彼が、別方向に行き「赤ちゃん返り」や「スカトロ」だったら、自分の手では負えませんと思ったが、
血を与えることに躊躇はなかった。
それらが落ち着いたのならナニヨリである。




