茅葺き屋根の家 5
母が生まれた時にはすでに他界していた曾祖父は、村役場に勤めていた。そのため、農作業は主に曾祖母の坂詰フキの役目だった。曾祖母は、家のこともすべて一人でこなしながら、苦労して祖父らを育てた。
祖父の家に行くと、戦死したという大伯父らに混じって、曾祖母の写真も飾られていたが、意志の強さが顔に表れた曾祖母の遺影は、子どものわたしをいつも怖がらせた。
「おっかない(怖い)人だった」と誰もが教えてくれたが、法事などで親戚が集まって昔話がはじまると、いつも決まってフキさんの話になるのは、それだけ曾祖母がしっかりとみなの記憶に残っていたからだと思う。
「ゴウギなバサマだった(すごいおばあさんだった)」と誰もが話したフキさんがいた頃が、祖父の家が最後に輝いた時間だった。
当時は農耕用に馬も飼っていたという。おとなしい黒い馬で、赤い元気な子馬を生んだ後、病気で死んでしまったそうだ。
山の中にある先祖代々の墓には、この馬の墓もあった。墓参りに行くと、小さな苔むした石にも水をかけ、線香をあげるように言われた。
「この石はなに?」
とわたしが聞くと、祖父は「馬のお墓だよ」と教えてくれた。
「馬がいたの? 会いたかった」
「ゲエニ(たくさん)家のために働いてくんた馬だから、ご先祖さまとおんなしように(同じように)おまいりしてくんねかね」
祖父は牛もニワトリも犬も、家族と同じように大事にしていた。家族を愛し、家畜を愛し、故郷を愛した人だった。
昭和7年、祖父の兄貴一が隣集落から嫁をもらった。
親同士が決めた結婚だったが、二人は恋仲でもあった。
けれど、皮肉にもその年、貴一は徴兵検査で甲種合格となり、兵役に服することになってしまう。
当時、中等学校卒業者は軍事訓練をうけていると見なされ、1年で除隊になれる制度があった。祖父は兄の留守中、家をまかされるのが嫌なあまり、貴一に「制度に則り、1年で帰ってきてほしい」と懇願したそうだ。しかし、あの頃多くの若者がそうだったように、海軍に憧れていた貴一は弟の必死の願いを聞き入れず、晴れて横須賀海兵団に入営した。
そして、その翌年、若い命を失った。
旧日本軍がしかけた無謀な戦争を、いまは誰もが口をそろえて言う。
「勝てるわけなかったんだ」と。
けれど、当時は誰もが勝てると信じていたのだ。
故郷が永遠になくならないと信じていたように。