茅葺き屋根の家 3
大正4年7月6日、祖父は「村の生き字引」と言われていた曾祖父・坂詰多作の六男として誕生した。
当時の栄養状態の悪さと重労働のせいか、出産後まもなく子どもが他界してしまうことが続き、4、6、7、8番目に生まれた祖父らだけが無事に成長した。
4番目に生まれた子どもは、貴一と名付けられ無事に育ったので、貴一の次に生まれた祖父には「生存してほしい」との願いを込めて、名前に「2」を入れた「昇司」とつけたのだそうだ。その後、生存を願って名前に「3」「4」の数字を入れた息子たちは、すくすくと育っていったという。
たかが名前、ではない。
名前には、苦しいほどの親の愛と思いが込められていると、わたしは知った。
祖父はとても勤勉で博識だった。
本当は教師になりたかった、と後年、酔ったはずみで話してくれたことがある。
学業成績も優秀で、高等科2年生までずっと首席で通したそうだ。
常に学級長をつとめ、模範的な生徒だったと叔父や叔母も葬式の時に話していた。
しかし、高等学校卒業後、師範学校に入学したいという祖父の願いは叶わなかった。
子どもの頃身体が弱かった祖父を心配した両親は、百姓にして身体を鍛え、役場勤めでもできればいいと考えていたようだ。さらに、曾祖父の親友が村役場に勤務していたため、役人になってその家の婿養子になればいいと約束もされていたようだ。
とにかく、自分の意見などなにひとつ聞かれることもなく、親に将来を勝手に決められる。
そういう時代だった。
「勉強しろよ」
親に言われると腹が立つのに、祖父に言われると少しも嫌じゃなかったのは、教師になりたくて必死に勉強していた祖父の姿が想像できたからかもしれない。英語が好きだ、と話すと、「これからは外国語ができないと世界に太刀打ちできない。一生懸命勉強しなさい」と励ましてくれた。
祖父の家、祖父のぬくもり、祖父の生き方。
それらは、すべて、わたしの生きる源だ。