クラムチャウダー
師匠であるアサギリに“他人ともっと関われ”と言われた後、ユズリハはカレンと関わろうと少しだけ考えた。カレンへのイメージが変わったのだ。
自分の正体を知ったあの日からもう扉の前に来ないかと思っていたが、カレンはいつも通りにやって来ては料理と、近況報告をして行く。てっきり怖がられていたと思っていたが、彼女の声音からはそんな感情は全く無いようだった。それどころか、嬉しそうなのだ。
「全く理解出来ないな……」
部屋の中で新薬の研究を行いながらユズリハは呟く。アサギリ以外、この屋敷で会話する人はいない。発声するのは独り言を呟く時ぐらいだ。だからこそ、今更どう他人と距離を詰めたら良いのかユズリハには分からなかった。
「ユズリハ様、起きていらっしゃいますか? カレンです」
今日も彼女がやって来た。
「そういえば、人と仲良くなるには相手の話を聞くことが大事って本に書いてあったな……」
ユズリハは昨日読んだ“初等院で友達を作る本”の内容を思い出す。
アサギリが『どうせお前、資料が無いと行動出来ないだろ』と言って、貸してくれた本だ。表紙に初等院レベルと記載されているあたり、アサギリの嫌がらせを感じる。
確かに自分は初等院に通う子ども達よりも、他人との距離の詰め方が下手だということは重々承知しているので文句はないが。
ユズリハは作業の手を止め、扉の方へ近づき聞き耳を立てた。
「実はわたし……にんにくが大の苦手だ、って料理長さんに言ったら理由を聞かれて答えたら大笑いされてしまったんですよ! あ、何で嫌いかって言うと幼い頃、兄に鼻へにんにくを詰め込まれたのがきっかけで……」
「フッ」
笑ってしまった後で驚いて口を塞ぐ。しまった……笑い声を聞かれていたら、と思うと複雑な気持ちになる。
「……それでですね、料理長さんったらわたしの料理にあまりにんにくを使わないで下さいね、って念押ししたのに何かしらすりつぶしたにんにくを隠して混ぜて来るんですよ!」
彼女はこちらの笑い声に気付いていないのか、くだらない話を続ける。
ユズリハは無駄な事があまり好きじゃない。無駄話もそうだ。あんな非生産的、非合理的な何の価値も生み出さない行動に共感は出来ない。
ただ、今は何だか楽しいとさえ思えたのだ。
もしかしたら、自分の姿を見ても歩み寄ってくれるこの少女に興味を抱いたのかもしれない。
ユズリハはそう考えながら、カレンの話を扉に寄りかかりながら終わるまで聞いていた。
それからユズリハは、毎日やって来るカレンの無駄話を聞くようになった。
「ユズリハ様、今日はクラムチャウダーを作ってみました。料理長から聞きました、ユズリハ様ってクラムチャウダーがお好きなんですよね」
いつもなら扉の近くの机上に置いておくのだが、今日のカレンは違った。
「もし……もしよければですが、ご相伴させて頂いても良いですか?」
「……」
きっと気まぐれなのだろう。だから自分も気まぐれで答えた。
「…………良いよ」
扉を開けると、トレーに湯気の立つクラムチャウダーが2つあった。初めから一緒に食事をする気だったのだろうか。
暖かくなってきたというのに、冬の食事を持ってくるとは……と思わない事も無かったが、カレンの表情を見ているとそんな事どうでも良いように思えた。
まさか扉が開くとは思っていなかっただろうカレンは、驚きとユズリハが扉を開けた事に対する喜びで顔が忙しかった。
部屋に誰かを入れたのは本当に初めてだ。春に入りたてのこの季節には似つかわしくない、秋や冬の植物が部屋中に森のように自生しているこの不思議な部屋を見て、カレンは放心状態だった。驚くのも無理はないだろう。そもそも屋敷の中に足場さえ芝生になっている部屋など無いのだ。
使用人も入れた事がないユズリハの自室では、研究に使う器具や資料は散乱しているものの、ゴミなどはなく汚く散らかってはいない。
「……びっくりしましたか?」
「え、ええ……」
ユズリハは苦笑する。彼女の反応は素直だ。
温度はちょうどよく、寒くも熱くもない。どうしてか、部屋に生えている植物は自生する地域も季節も違うのにここでは一緒に生えてくる。まるでここが居場所だというように。
カレンに椅子を勧め、彼女が座るのを見てユズリハは座って彼女が持ってきたクラムチャウダーの器を手に取る。
乳白色のスープを口に含むと、すぐにアサリのうま味がやって来る。出汁に包まれていると、ベーコンや生クリームの味も追いついて来た。息を吐くと白ワインがふわりと香る。ブラックペッパーの風味が全体を重くさせない。全てバランスが取れている。
これは美味しい。とても美味しい。
想像していた以上だった。いつもカレンの手料理は食べているが、こんなに美味しいクラムチャウダーを食べたのは久しぶりだ。
夢中になって食べ進めていると、いつの間にか器は空になっていた。残念そうにスプーンで最後を掬って飲み込んだ。野菜もちょうど良い大きさに切り分けられていて、全ての具材にうま味が濃縮されていた。
カレンが食べ終わるまで2人の間には会話は無かった。静かな部屋で食器のぶつかる音が響く。
窓から外の新鮮な空気が入ってくる。水にさらされているように、部屋内の植物は左右に揺れた。
「……貴女は」
「えっ?」
気付けば口に出ていた。この沈黙がそうさせたのか、それとも彼女の隣は心地が良いからか。
「貴女は僕がこんな奴だって、誰よりも分かっているはずなのに、どうして僕に構うんですか? その……迷惑とかじゃなく……純粋にそう思っただけです」
最後の付け足しはカレンがあまりにも悲しそうな表情をしたからだった。自分でも違和感を覚えるほど、カレンの悲しげな顔を見たくない一心なのがむしろ笑えてくる。
「それは、あなたに花が咲いているからですか? あなたの部屋に植物が生えているから?」
「そうですよ……普通の人間じゃあり得ない事じゃないですか。それに……」
「それに?」
「貴女みたいな人がどうしてこんな化け物と結婚しようと思ったのか……叔父から何も聞かされていなかったんですか?」
きっとそれに違いない。でないとそんな縁談断るに決まっている。
しかし、カレンの返答は意外なものだった。
「知っていても、知らなくてもわたしはここに来たと思います。ユズリハ様の事を聞いた時、知っていくにつれて助けになりたいって思ったから」
「……そう」
「それに独りはきっと寂しいだろうな、って」
まるで彼女がそうであるかのように言う。その言葉にユズリハは不思議に思った。
「貴女は孤独を知らなそうじゃないですか。愛想も良くて誰とでもすぐに人と仲良くなれる。現状、うちの使用人とだって仲が良いみたいですし……君なら友達はたくさんいるでしょう?」
「…………そうでもないですよ」
その時、初めて彼女の横顔に暗い影が差し込んだ気がした。いつも笑顔を浮かべ、色々な人と接しているカレン。どうしてそんなに悲しげな表情をするのか、そう訊けたらどれだけ胸は苦しくなくなるだろう。しかし、ユズリハは訊くことも出来ず彼女を撫でようとした右手を元に戻した。
◆ ◇
部屋で共に食事をした日から数日。いつもではないが稀に一緒に食事をする機会が増えていった。あれから扉の前でカレンが話しかけると、返ってこなかった声が届くようになっていた。
そして彼自身の事も少しずつ話してくれる。草花の研究をしていること、呪われた体の植物をどうにかしたくて研究を始めたのがきっかけだということ。彼に関する知識が少しずつ増えていく楽しさにカレンは毎日胸を弾ませる。
「僕の体に生える植物は20年以上前から生えていたんです。物心つく頃には心臓に花が咲いていたんです。貴女みたいな人には分からないと思いますが……徐々に体を植物が覆っていくのって結構怖いんですよ。あ、いや、今の別に他意はないです……ごめんなさい」
「ふふっ、大丈夫ですよ。気にしていませんから」
たまに出る棘のある言い方は彼の本心ではないことも分かって来た。長年、人を遠ざけてきた癖が残っているのだろう。
そうした彼の変化も嬉しく感じると同時に、芽吹の巫女ではなくカレンとして接してくれる事に鼓動が鳴るのだ。
『それって恋なんじゃない?』
いつも身近にいるフルールは意地の悪い笑みを浮かべてそう言う。カレンには、まだ恋やら愛やらそういう尊いものは分からないが、彼の事を考える時間は増え、彼の為に何かをしたいと思うようになっていった。そうした変化を人は“恋愛”と呼ぶのならそうなのだろう。
「わたしの気持ちにはどういう名前が付くのかはまだ自覚はないけど……ユズリハ様も同じだったら良いな、って思うばかりなの」
『だから恋なのよ、カレン。相手も同じだったら良いのにな、とか相手の気持ちを覗けたら楽なのに、気持ちが分からないから不安になるのってその人が気になるからなのよ?』
今の時間帯、ユズリハはアサギリと共に稽古をしている。カレンは大人しく自室でフルールとお茶をしていた。
「相手が気になるから……? それだけじゃ恋って分からないんじゃない?」
悩むカレンにフルールは年長者っぽくアドバイスをする。
『勿論、普段だって人間はそう思うかもしれないけど……相手の気持ちを知ろうとして、自分を変えようとするのが恋なんじゃないかしら?』
最も、精霊には恋だの愛だの分からないから本当はどうなのかは分からないけど。そうフルールは続けた。
「自分を変えようって何? 例えば?」
カレンは湧き出る疑問をフルールにぶつけ続けた。分からない事だらけで頭が混乱しているのが分かっていた。それが気持ち悪くてすっきりしたくて、人間の感情を理解は出来ないだろう精霊にまで頼っている。いつからこんなにも感情に揺さぶられやすくなったのだろう。
『その人の為に自分の好きなものを我慢するとか、服装を変えてみるとかじゃないの? あたしよりあんたの方が詳しいと思うけど』
「それってロマンス小説の主人公みたいじゃない」
『そうよ、あいつらは恋愛脳なんだから。でも、自分を変える事は悪いわけじゃないわ』
「フルールなら“自分を貫きなさい”って言いそうだけど」
そう微笑みながら昼食後に焼いたスコーンを頬張る。ダージリンによく合う素朴な甘みが口いっぱいに広がった。
『そりゃあ、そうよ。自分を貫くのが個性でしょう。でもね、自分を殺してまで変えようとする恋なんてあたしは上手くいかないはずよ。恋して人は変わろうとするんじゃなくて、気付いたら変わっているんじゃない?』
「ふふっ、フルールってばわたしより詳しいじゃない。好きな人でもいるの?」
博識なパートナーにそうからかうと、桜の香りを漂わせながら彼女は羽を広げる。
『いっ、いないわよ……! カレンが持っているロマンス小説を読んでいたらそうなっただけ! 第一、精霊にそういう感情はないわよ』
「そうなの? 今さらだけど……フルール達はどうやって生まれてくるの?」
『あたし達は魔力が蓄積された植物から生まれるのよ。だから動物達が必要とする繁殖は一切ないの。その中でも特に人間は複雑よね。動物達のように単純明快な理由で繁殖相手を選ばないもの』
「どうして人は恋をするんだろうね、フルール」
『それをあんたが言うの? あたしの台詞じゃない?』
カレンは窓の外を見た。ユズリハはもう稽古は終わったのだろう。
フルールが言っていたように、この気持ちが恋というのなら自分は何かが変わっただろうか。何となく勘付いてはいた。彼相手だとどの人よりも距離を縮めるのに臆病になる。ユズリハだけは特別だ。彼に嫌われたくなくて、でも近づきたくて。その狭間で悩むのが嫌だから敢えて積極的に動いているという事も。
人は何故、恋をするのだろう。
フルールに問いかけたその答えは既にカレンの中にはあった。
――きっと1人じゃ生きていけないからなのかもね。
最後までお読み頂き、ありがとうございました!