終章 夜明け
さいわいなことにというべきか、どこをどう走ったのか、どこをどう通ったのか、四人が四人とも、かけらも覚えてはいなかった。気がつけばいつの間にか屋敷の庭に出ていたのだ。
流火は息をととのえたあと、屋敷に目を向けた。
そこは瓦礫の山だった。
昨夜まで傲然とそびえ立っていた東雲邸は、いまやその原型をかけらもとどめてはいなかった。
瓦礫が散らばる大地を朝陽が薔薇色に染めている。この光のもとでは昨夜の出来事がまるで夢のように思えた。いや、やはりあれは、よどんだ闇が見せた悪夢だったのかもしれない。
「なーんて夢オチですむんだったらどれだけ楽か」
流火はため息とともにつぶやいた。
「一晩の恐怖体験はおもしろかったか? 悪ガキども」
聞きなれた、聞きなれすぎた男の声が耳に飛びこんできた瞬間、流火は反射的にふり向いた。
闇を消し去る朝の光。その光を浴びながら門を背にして立っているのは、二十代半ばの若い男。
男は若かった。そして美しかった。
生命力に満ちた力あふれる美、とでもいうのだろうか。
広い背中に滝のように流れる黄金の髪は南国の太陽のごとく輝き、肌は健康的な象牙色で、鼻筋は通っており、くっきりとした二重の瞳は強い意志の光を放つインペリアルトパーズ。均整のとれた長身を包んでいるのは仕立てのよいベージュのスーツ。
男の名前は黄龍雷矢-(きりゅうらいや)。雷の魔術師であり、一年A組の担当教官である。
しかし、雷矢がどれだけ美しくスタイルが抜群であろうと、今年四年目のつきあいになる流火たちが見惚れるわけもなく、いや、見惚れるどころか、流火たち四人はそろって顔を引きつらせていた。幽霊や魔物と対面したときでもここまでの恐怖に満ちた表情は浮かべなかったというのに……。
「なぜ教官がここにおられるのです?」
顔を青ざめさせながら、のばらはおそるおそるたずねた。
「学園長から知らせを受けてな。お前のクラスの生徒四人が東雲邸に侵入したから迎えに行って来い、てな」
「え?」ありあは小首をかしげた。「あたしたちが東雲邸に不法侵入したことに、なぜ学園長はお気づきになられたのです?」
「あほ桃木。学園をなめんな。こんな危ねえ化け物屋敷、学園がなにもせずに放置してるわけねえだろ。屋敷から出ていくモノがいないか、学園長はちゃんと監視しておられるんだよ。見てみろ」
雷矢は肩越しから親指を背後にそびえる正門へと向けた。
よーく目をこらして見てみると、正門の周囲には何粒もの朝露が、まるで精巧なビーズ細工のようにきらめいていた。
蜘蛛の巣に朝露が溜まっているのか?
いや、違う。あれは蜘蛛の巣なんかじゃない。あれは――。
「そうか。時の魔術師が操る監視の糸か」
「さすが青衣。正解だ。景品は出んがな」
「監視していたのならなぜっ」風之は声を荒げた。「さやかちゃんたちが屋敷に入ったとき、助けなかったんですかっ!?」
「そーですよ。教官方が助けに行けば、鈴鳴花音も悪魔に殺されずにすんだんですよ」
「学園をなめるなと言ったが、悪魔もなめるなよ。十三年前、学園は東雲明良を倒したが、悪魔は倒さなかった。いや、倒せなかった。東雲明良が契約を交わした相手は魔界でも高位の魔族。魔術師とはいえ人間の敵う相手ではなかったからな。だから学園長は東雲邸を取り壊さず、館の周囲に結界を幾重にもはりめぐらせ、正門に監視の糸を巻きつけるだけにとどめたのさ」
「そんなに強かったんですか、あのドラゴン」
流火の目がカマボコ型に変わる。
「てことは、あのドラゴンを倒した俺は、教官よりも強いってことですよね」
「あほか。ンなわけねえだろ。お前がかろうじて勝てたのは、俺がアレの弱点を教えてやったからだろうが」
「あの閃光、やはり教官の魔術だったんですね」
「あったぼーよ」
「でも、たとえ教官が手助けしてくれたとはいえ、俺がドラゴンを倒したのは事実なんですからね」
胸をそらしながら鼻を高くして言う流火に、雷矢はやれやれと首をふった。
「だからお前はあほガキだと言うんだ。たしかに勝ったのはお前だ。しかしお前はアレを倒したわけではない。なぜならアレはまだ生きてるんだからな」
『えっ!?』
雷矢の衝撃発言に、四人そろって驚愕の声をあげた。
『ドラゴンが生きてる? そんなばかな!』
「いや、全然ばかなことじゃねえよ。つーか、プロの魔術師でも倒せなかった悪魔を、たまごのお前らが倒せるわけねえだろ。常識でものを考えろよ」
「えっと……それじゃ……悪魔はまだ……」
ありあは真っ青な顔でうしろを向いた。
薔薇色に染まった瓦礫の山。
その山が突然、
がたっ、
がたっ、
がたっ、
と、動き出した。
途端、ありあの表情が静止した。
流火、風之、のばらの三人も、無言でその動きを見守る。
雷矢だけはあいかわらず、よゆうの笑みを浮かべている。
崩壊した建築物のすきまから、
ぎらり、
と、琥珀色の光。
それは眼だった。
ドラゴンの片眼だった。
そのことに気がついた四人は――。
「うわあぁぁぁぁぁぁっ」
「いやあママァァァァッ」
「僕もう戦えませーんっ」
「お祖母さま助けてーっ」
四人は正門に向かって一目散に駆け出した。
土煙をあげながら去っていった四人を見送ったあと、雷矢はふたたび黄玉の双眸を瓦礫へと向けた。
崩壊した建築物からのぞく、琥珀色の光。
その光にははげしい憎悪の色が宿っている。
低い、低い、地の底を這うようなうなり声にまじり、怨みのこもった少女の声が響く。
「許さん……許さんぞ人間ども……よくもわたしの屋敷を……」
しかし雷矢は哀れな魔物の怨み言など最後まで聞いてやるつもりはなかった。
「ごちゃごちゃうるせえな。とっとと地獄に帰りやがれ」
罵声を口にしながら、象牙細工のような指をすばやく動かす。
空中に描かれる、奇怪な紋様と文字。
雷矢の指が動きを止め、光り輝く魔法陣が完成した、瞬間。
魔法陣から、無数の稲妻がとび出した。
大気を震わせ、黄金の火花を散らし、すさまじい速さで走りぬける、無数の稲妻。
直撃。
鼓膜が破れるほどの轟音があたり一帯にとどろき、まばゆい閃光が瓦礫の山を包んだ。
もうもうたる粉塵が消え去ったあとに広がるのは、さらにこなごなに砕けた瓦礫の山。
ドラゴンの眼はもう見えない。少女の声ももう聞こえない。
悪魔は魔界に帰ったのか。それともまだこの瓦礫の下で息をひそめているのか。
「ま、どっちでもいっか」
雷矢は本当にどうでもよさそうにつぶやいた。
彼が学園長から命じられたのは流火たち四人を回収することだけであり、悪魔退治など命じられてはいないのだから。
雷矢は蜜のごとき長髪をさらりとなびかせると、瓦礫の山に背を向けた。
そしてそのまま正門に向かって歩き出す。
背後からかすかに聞こえてくる、低い、低い、獣のうなり声など無視して。