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マギアマグス~東雲邸~  作者: ネルミ
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五章 光と闇の追走曲

 薄暗い廊下を一人の少女が歩いている。

 足どりは場違いなまでに軽く、綿菓子みたいな薔薇色の髪はふわふわ波うち、血色のよい頬と唇はさらに赤みを増し、丸みを帯びた薔薇水晶の瞳に不安や恐怖の色はなく、それどころか期待と好奇に輝いている。

 女子にしても華奢で小柄な身体を包んでいるのは、喪服かと思うほど黒いブレザーの学生服。

 魔術師養成学校マギアマグス学園一年A組に在籍中の女子生徒、桃木ありあである。

 炎の蝶に導かれながら、ありあは隠れ場所を探していた。

 しかしいまのありあの心境は、かくれんぼ気分半分、肝だめし気分半分、といったところだろうか。

 愛らしい顔に似合わず、心臓に毛がはえているような女の子であるありあは、怪談話やホラー映画、お化け屋敷が大好きなのだ。

 それもまた、流火たちの頭を痛くする要因の一つなのだが……。

 ありあは左右をきょろきょろと見まわしながら、「どの部屋から見てまわろうかな?」と、足どりと同じくらい軽やかな声でつぶやいた。

 どうやら彼女の中で、かくれんぼ気分より肝だめし気分のほうが勝ったようである。

「あら?」

 ありあは足を止めた。

 前方から、ピアノの音色が聞こえたからだ。

 切れ切れに聞こえてくる、静かな、切ない調べ。

 わずかにひらかれた扉から漏れ聞こえてくるその曲は、ショパンのノクターン第一番。

 まさに夜を想いながら弾いているかのような憂いを帯びた旋律に、ありあはこんな状況であるにもかかわらず、その場で目を閉じると、ピアノの伴奏に聞き耳を立てはじめた。

 ――感情がこもっていて上手だわ、この人。

 幼いころから声楽を習っているのだ。音感には自信があるし、本物を聞く耳だって持っているつもりだ。

 だからこそありあは、音楽の精霊に愛されているのだ。

 ――あ、曲が変わったわ。

 今度はすこし明るい、砂糖菓子めいた甘美さを含んだ調べ。

 ショパンのノクターン第二番である。

 ――うーん。このまますべてのノクターンを聴きたいんだけど……そういうわけにもいかないわよね。

 ありあは目を開けると、小川のせせらぎのようにメロディがこぼれてくる扉に向かって歩き出した。


 ひび割れた窓から射しこむ月の光が、スポットライトのように漆黒のグランドピアノの上に降り注いでいた。

 グランドピアノの前に座っているのは一人の少女。

 少女の指が鍵盤の上で踊っている。

 弾むように。楽しげに。ここがどこかなんて関係ない。誰も聴いていなくたってかまわない。ただ、ピアノが弾けることがうれしいのだ。

 彼女が奏でるメロディはそう言っていた。すくなくともありあにはそう聞こえた。

 少女は深いため息とともに、最後の一音を弾き終えた。


 ぱちぱちぱちぱちぱち。


 ありあは軽やかに手を叩いた。

 心からの拍手を初対面の少女へと捧げた。

 途端、少女は弾かれたようにありあのほうを向いた。

 突然の侵入者を前に、驚愕の表情を浮かべている。

「あ、大丈夫よ、怪しい者じゃないから」

 ありあはあわてて自己紹介をはじめた。

「あたしは桃木ありあ。マギアマグス学園の生徒なの。ここにはただ友達とかくれんぼをしに来ただけだから。だから全然怪しくないわよ」

 こんな時間にこんな場所でかくれんぼをしている女子高生。常識的に考えればじゅうぶんに怪しいのだが、しかしそれを聞いた少女の表情はやわらかなものへと変わる。

「そうなの。あなたもかくれんぼをしに来たのね」

「あなたもって?」

「数ヶ月前にも男の子がこの部屋に来たのよ。その子も友達とかくれんぼをして遊んでいたわ」

「へぇ」

 どうやら昨今の若者たちのあいだではかくれんぼが流行しているらしい。

「それより、あなた本当にピアノがお上手ね。ていうかもはやプロ並みよ。すでにデビューしてるんじゃないの?」

 ありあは目をきらきらと輝かせながら、少女に向かってまくし立てた。

「あたしも幼いころから声楽をやっているからわかるんだけど、あなた間違いなくミューズに愛されているわよ」

 見知らぬ相手とはいえ、さすがにそこまで褒められたら悪い気はしないらしく、少女はやわらかな笑みを浮かべると、素直に喜びの言葉を口にした。

「ありがと、褒めてくれて。お世辞でもうれしいわ」

「お世辞なわけないじゃない。ていうかあたし、音楽にかんしてだけは嘘をつかないから」

「ありがと、ありあさん。お礼に一曲プレゼントするわ」

 礼を言い終えると、少女はふたたびピアノのほうを向いた。

 少女の指が鍵盤の上をすべりはじめる。

 華麗で軽快なメロディが室内を満たしてゆく。

 曲はショパンの幻想即興曲だ。

 ショパンの即興曲の中ではもっとも有名な曲であり、ありあのお気に入りの曲の一つでもある。

 ありあは目を閉じると、琥珀色の美酒に酔いしれているかのようなうっとりとした顔で演奏に耳をかたむけた。

 少女の演奏は魅力的だった。

 ちゃんと曲を理解しており、そしてそれを伝える表現力もあった。

 音の洪水に包まれながらありあは思う。

 ――やっぱりおかしいわ。なんでこんなに上手い娘が、プロデビューしていないのよ。ありえないわ。

 最後の余韻を残し、少女の演奏は終わりを告げた。

 ありあは拍手を送った。惜しみない拍手を。

 そして訊いた。あなたはなぜ、プロデビューしていないのかと。

 少女はありあの目を見つめると、逆に訊いた。

「ねえ、ありあさん。あなた、鈴鳴詩音-(すずなりしおん)というピアニストのたまごをご存知かしら?」

「鈴鳴詩音?」

「ええ。かつてN音楽大学付属高校に在籍していた、鈴鳴詩音よ」

「うん。知ってるよ。その道ではけっこう有名な人だもんね。たしか彼女」

「そう。知ってるのね。だったら聞かせてあげるわ。あたしがこの東雲邸にいる理由を」


 そして少女は語り出す。呪われた姉妹の物語を。


 わたしには妹がいる。名前は花音-(かのん)。一つ下の年子の妹だ。幼いころ、わたしと妹はとても仲がよく、いつも二人で遊んでいた。

「詩音お姉ちゃんと一緒がいい」

 それが妹の口癖で、わたしが行くところにはどこでもついてきたがり、わたしの持ち物はなんでも欲しがった。幼いころの写真を見ると、わたしと妹はまるで一卵性の双子のように同じ服を着て、同じぬいぐるみを抱えながら写っているのだ。

 わたしがピアノを習い出したのは小学校に入学したばかりのころだった。友達のお母さんがピアノ教室をひらいていて勧誘されたからだ。妹は案の定、わたしと一緒にピアノを習いたいと言い出し、わたしと妹は週に三回、ピアノ教室に通うことになった。

 小さな手はオクターブ和音に届かないし、小さな足もペダルにふれることはできない。バイエルを弾くのもやっとだったが、それでも自分の手で美しい音を生み出すのが楽しく、わたしは夢中になってピアノを弾いた。それは妹も同じらしく、わたしのとなりできゃっきゃっと笑いながら小さな指を鍵盤の上で弾ませている。


 私が弾き、妹が弾く。私が弾き、妹が弾く。


 でも、いったいいつのころからだろうか? 妹のほうが、わたしよりも先に弾くようになったのは……。


「みんな、聞いた? 今年おこなわれるA国際コンクールの優勝候補に、鈴鳴花音さんの名前が挙げられてるんですってよ」

「聞いた聞いた。すごいわよね彼女。十歳のときから何度も賞をとっているみたいだし」

「そういえば彼女、二年前におこなわれた国際コンクールで二位を獲得したんでしょ?」

「そーよ。史上最年少だったらしいわよ」

「今回のコンクールに優勝すればピアニストとしての将来は約束されたも同然だし、天才っているところにはいるものなのね」

「そういえば、花音さんにはお姉さんがいて、たしか彼女もピアノ科だったわよね」

「ああ、詩音さんね。彼女も二年前のコンクールで四位をとっているし、姉妹そろって才気にあふれているのね」


 なぜ? あなたはわたしの妹でしょ? それなのにどうしてわたしより先を行くの? あなたがわたしのうしろを歩き、わたしの影となるべきなのに!


「凡人であるわたしたち夫婦のあいだにまさかこんな才能のある娘が産まれるなんて……。まさに鳶が鷹を産む、だな」

「ええ、本当に。でも、花音の才能が花ひらいたのも、詩音がピアノを習うと言い出してくれたからよ。ありがと、詩音」


 ずるいわ。あなたはずるいわ。あなたはわたしが望むものすべてを手にしてゆく。称賛も、栄光も、愛情も、わたしがどんなに望んでもけっして弾くことのできない音も!


「花音くん。君はわたしの自慢の教え子だよ。君ならプロとしてじゅうぶんにやっていけるよ。詩音くん。君もすごいよ。趣味で弾くぶんにはじゅうぶんすぎる腕前だよ」


 憎い。憎い。わたしはあの娘が、血をわけた実の妹が憎い。殺してしまいたいほどに憎い!


「ねえ、お姉ちゃん。『メフィスト・ファンタジア』って知ってるでしょ? ほら、十八世紀末のドイツの作曲家、ダーク・ディルクの幻の曲よ。異形の天才作曲家とたたえられた彼が生み出した曲はすべてが難曲だけど、でも、『メフィスト・ファンタジア』はダーク・ディルク以外には弾くことはできない、と言わしめるほどの難曲中の難曲……って噂なんだけど、そんな難曲をよ、今日友達が、「花音、あんた今度のコンクールの自由選曲で『メフィスト・ファンタジア』を弾いてみなさいよ。あんたならひょっとしたら弾きこなせるかもよ」なんて言ったのよ。無理に決まってるじゃんね。先生方だって弾くことができないのに、なんでたまごのあたしに弾くことができるのよ。楽譜だって入手が困難なのに」


 いらいらする。いらいらする。いらいらする。妹の姿を見ただけでいらいらする。声を聞いただけでいらいらする。同じ空気を吸っているだけでいらいらする。彼女がこの世に存在しているというだけでいらいらする。いらいらする。いらいらする。いらいらする。


『メフィスト・ファンタジア』


 もちろん知ってるわ。十八世紀末のドイツに生まれた異形の天才作曲家、ダーク・ディルクの残した幻の曲。彼が生み出した曲はすべてが難曲であり、現代でも弾きこなすことができる者は世界にわずかしかいないとか。選ばれし天才のみが弾くことができると言われているダーク・ディルクの曲。そうね。花音もいずれ、ダーク・ディルクの曲を弾きこなせる日がおとずれるのでしょうね。だって彼女も選ばれし天才だもの。わたしとは違うもの。


 そんなことを考えていたせいか、その夜、奇妙な夢を見た。黒光りするグランドピアノの上にコウモリの翼をはやした黒い生き物がちょこんと腰かけている、そんな夢だ。黒い生き物は西洋のホラー映画なんかに出てくる悪魔に似ていた。似ているというかそのものなんだけど。悪魔は裂けた口で笑みの形を作ると、なれなれしくわたしに話しかけてきた。

「お前、『メフィスト・ファンタジア』を弾きこなしたいと思わないか?」

 メフィストファ……ああ、ダーク・ディルクの幻の曲ね。もちろんよ。彼の曲を弾きこなせるようになれば、一流のピアニストの仲間入りができるもの。ましてや難曲中の難曲である『メフィスト・ファンタジア』を弾きこなすことができれば、もう誰もわたしを花音より下に見る者はいなくなるわ。

「そうかそうか」悪魔は嫌らしい笑みを浮かべたまま満足げにうなずき、「だったら俺と契約を交わさないか?」

 契約?

「そうだ。いいことを教えてやろう。ダーク・ディルクが『メフィスト・ファンタジア』を創作できたのは、俺と契約を交わしたからさ」

 なんですって!?

「『メフィスト・ファンタジア』はダーク・ディルクが晩年に生み出した曲だが、それまであいつは長いあいだスランプにおちいっていたんだよ。あいつは間違いなく時代が生み出した鬼才だったが、しかしいかんせん年をとりすぎていた。年をとるとどんな天才でも感性が摩擦する。普通なら曲が書けなくなった時点で弟子たちに譲って引退するものだが、しかしあいつは違った。老いてなお向上心を抱き、死ぬ前に最高傑作を書きあげたいと願ったんだ。誰も、自分以外の誰も弾きこなすことができないような、そんな最高の曲を書きあげたいと、そう望んだんだよ」

 誰も弾きこなすことができなければ、最高最低以前のシロモノじゃないの?

「まったくだ。天才の考えることはわからんよ」ひひひ、と悪魔は笑い、「ま、そんな理由で俺はあいつに呼び出されたのさ。俺はあいつに魔界のビジョンを視せてやった。そのビジョンをもとにあいつは『メフィスト・ファンタジア』を書きあげたのさ」

 報酬は? わたし、魔術師じゃないからくわしくは知らないけど、でも、悪魔が無償で人間の願いを叶えるわけがないということくらいはわかるわ。あんたがダーク・ディルクから受けとったものはなに?

「これはこれはかしこいお嬢さんだ。それでこそ契約のしがいがあるというもの。俺がディルクから受けとったもの。それは三つの魂さ」

 三つの魂? なにを言ってるの。人間の魂は一人一つに決まってるじゃない。一つしかないものをどうやったら三つもさし出せるのよ。

「もちろん、自分の魂じゃなく、他人の魂を捧げたからさ。考えてもみろよ。俺に魂を捧げるということは、死を意味するんだぜ。死んだら曲を書いたりピアノを弾いたりできねえじゃねえか。だからディルクは他人の魂を捧げたのさ。自分の三人の愛弟子たちの魂をな」

 そんな……。

「さてと、お嬢さん。この話を聞いてもまだ俺と契約を交わす気はあるか? 決めるのはあんただぜ」


 答えを出した直後、わたしの視界は暗転した。


 目を開けると、そこは街頭に照らされた夜の街だった。

 わたしの手の中で月光色の光を放っているのは、飾り気のない銀色のナイフ。

 目の前には少女がいる。

 突然あらわれた、ナイフを握りしめたパジャマ姿の女を前に、派手めの衣装に身を包んだその少女は、厚化粧がほどこされた幼げな顔を、恐怖と驚愕の色に染めあげていた。

 耳もとで悪魔がささやく。

 目の前の女を殺してその魂を俺に捧げろ、と。

 わたしは小さくうなずいた。

 ナイフをたかだかとかかげたわたしを見て、少女はかんだかい悲鳴をあげた。

 風を引き裂いて斬りつけられる、月光色にきらめくするどい刃。

 根もとまで突き立てたときの、にぶい感触。

 恐怖と苦痛に染まった、断末魔の悲鳴。

 闇をいろどる、鮮やかな血しぶき。


 わたしは狂ったように、何度も、何度も、それこそもの言わぬ肉のかたまりと化すまで、少女の体内へとナイフを突き刺していた。


 悲鳴をあげてわたしは飛び起きた。

 息が荒い。

 額と背中を冷たい汗がつたい落ちてゆく。

 心臓が早鐘のように脈うち、いまにも口からとび出しそうだ。

 目覚ましがわりの携帯がメロディを奏でているが、しかしいまはそれどころではない。

 わたしは自分の右手を見た。

 ナイフはない。

 血もついていない。

 しかし感触は残っている。


 ナイフで人間を刺したという感触は、いまだこの手に残っている。


 夢とは思えないリアルさに、なんとも言えない不快感を抱きながらも階下におりると、リビングからニュースが流れてきた。

 リビングに足を踏み入れた途端、視界に飛びこんできたのは、夢に出てきた少女だった。


「……さんは帰宅途中、何者かに襲われ、するどい刃物で全身を何箇所も刺され死亡……」


 その夜。

 また夢を見た。

 昨夜の続きのような夢。

 街灯に照らされた夜の街。

 手には飾り気のないナイフ。

 眼前には帰宅途中のサラリーマン。

 男は背を向けていて、わたしの存在には気づいていない。

 わたしは男に向かって駆け出した。

 ナイフをたかだかとかかげ、ふりおろす。

「がっ」という悲鳴とともに、男の背中から鮮血が噴き出した。

 返り血を浴びながらも、何度も、何度も、男の背中にナイフを突き立てる。

 何度も、何度も。

 目の前が真っ赤に染まりながらも。

 何度も、何度も。

 男がもの言わぬむくろと成り果てるまで。

 何度も、何度も。

 何度も……。


 自分の悲鳴で目が覚めた。


 二日つづけてのリアルすぎる夢に、なんとも言えない高揚感を抱きながらも階下におりると、リビングからニュースが流れてきた。

 リビングに足を踏み入れた途端、視界に飛びこんできたのは、さえない中年男の顔だった。


「……さんは帰宅途中、何者かに襲われ、するどい刃物で全身を何箇所も刺され死亡……」


 その夜。

 また夢を見た。

 舞台はやはり、街灯に照らされた夜の街。

 手には飾り気のないナイフ。

 目の前には恐怖に顔を歪ませたОL風の若い女。

 女に向けてわたしはナイフをかかげた。

 女の顔がさらに恐怖に歪む。

 銀色にきらめく刃が、街灯の光を弾き、風を引き裂いて、舞う。

 闇夜をいろどる、真紅の花びらのような、鮮血。

 夜闇を震わせる、怪鳥の雄叫びのような、悲鳴。

 わたしは、女が絶命するまで、何度も、何度も、女の顔を、首を、ナイフで切り裂いていた。


 身体が痙攣し、上半身が跳ね起きた。

 ベッドの上で、いまだおさまらない動悸と眩暈をこらえているわたしの前に、はらりと黄ばんだ紙片が降ってきた。

 つまみあげるとそれは――。

「『メフィスト・ファンタジア』の楽譜!?」

 驚くわたしの耳もとで、夢の中で聞いたあの声がささやいた。


 ――魂、ありがとよ。お礼にお前の願い、叶えてやるよ。


「お姉ちゃん、自由選曲に『メフィスト・ファンタジア』を入れたって本当なの?」

「本当よ。たまたま楽譜が手に入ったから弾いてみることにしたのよ」

「弾いてみることにした……って、お姉ちゃん、ダーク・ディルクの曲がどれだけむずかしいか知っているでしょ? 楽譜を見ただけで弾けるような曲じゃないんだよ。ましてや『メフィスト・ファンタジア』に手を出すなんて……自殺行為だよ!」

「うるさいわね。舞台の上で恥じをかくのはわたしなんだから別にいいでしょ。あんたは自分の演奏にだけ集中していればいいのよ」

「お姉ちゃ」

 いまだなにか言いたげな妹に背を向けると、わたしは舞台へと足を踏み出した。


 スポットライトに照らされた舞台。

 その中央に置かれた漆黒のグランドピアノ。

 大勢の観客と、きびしい顔つきをした審査員たちの視線がいっしんにわたしに注がれる。

 いままでのわたしなら、あがって震えていたことだろう。

 そして、実力の半分も出せなかったに違いない。

 だが、いまのわたしに緊張は、ない。

 わたしの目に映るのは、ピアノのみ。

 わたしの頭にあるのも、ピアノのみ。

 ピアノの前に置かれたイスに腰かけると、わたしは目を閉じた。

 楽譜を見る必要はない。

 そんなものを見なくても、曲のイメージは、わたしの脳内ではちきれんばかりにふくれあがっているのだから。

 わたしの指はなめらかに鍵盤の上をすべりだした。


『天才少女あらわる! 人間離れしたすさまじい演奏技術。いかな名手の腕をもってしても弾きこなすことができなかった『メフィスト・ファンタジア』を忠実に再現したのはなんと、いまだ十七歳のピアニストのたまご。彼女はダーク・ディルクの生まれ変わりなのか?』


「優勝おめでと、詩音さん。すてきな演奏だったわ。最後なんて鳥肌が立っちゃったわよ」

「あなたの演奏を聴いているあいだ、胸がしめつけられるように痛くて涙が止まらなかったわ」

「ほんと、もう、理屈じゃないのよ。心に共鳴するって言うか……心をゆさぶるって言うか……ピアノを通して人々の心を一つにするって言うか……ああ、なんて言えばいいのかわからないわ!」

「あなたが演奏しているあいだ、私を含め、ホールにいた人たちはみな、至高の音楽にふれ、新しい世界を目にしたのよ」

「そういえば、妹の花音さんも二位をとられたそうだけど……なにを弾いてらっしゃったかしら?」


 勝った。勝ったわ。わたしは妹に、花音に勝ったのよ。これからはまた、わたしがあの娘より先を歩くのよ。あの娘が手にするはずだった、称賛も、栄光も、愛情も、望む音も、すべてわたしのものよ!


 だが、そうはならなかった。なぜなら――。


「ピアニストになる前に、姉はあたしに殺されてしまったんですもの」

 鈴鳴花音は血まみれのナイフを握りながら、足もとに転がる少女のなきがらに向かってそうつぶやいた。

「ずるいのは姉のほうよ。黒魔術なんかにたよって。努力したわけでもないのに。自分の力でもないのに。あたしから優勝と、観客の心を奪うなんて!」

 花音は、桃木ありあの死体を見おろしながら、昏い笑みを浮かべた。

「ありあさん。あたしがあなたに語ったのは、姉を刺したときに流れてきた姉の記憶よ。知らなかったわ、あたし。姉があたしを殺したいほど憎んでいたなんて。でも、別に驚かなかったわ。だってあたしも、姉がコンクールで優勝したとき……いえ、あたしが望んでもけっして弾くことができない難曲を奏でたとき、同じくらい姉を憎んだんですもの。……だから悪魔はあたしにもささやきかけてきたのよ。

 お前も『メフィスト・ファンタジア』を弾きたくはないか? ってね」

 花音は握りしめていたナイフをありあの死体のとなりに放り投げると、ピアノの前に置かれたイスに腰かけた。

「あたしは一瞬のためらいもなく契約を交わしたわ。悪魔からもらったナイフで姉を刺し、その魂を悪魔に捧げた。でも、その光景を両親に見られてしまい、家にいられなくなってしまったのよ。悪魔に導かれるままにあたしはこの東雲邸に避難したわ。不思議ね。この屋敷の中ではお腹が空くことも喉が渇くことも年をとることもないのよ。だからあたし、この部屋でピアノを弾きながら、獲物がおとずれるのを待っていたの」

 花音は昏い笑みを浮かべたまま、床の上に転がっているありあの死体を見おろした。

「ありあさん。あなたはあたしの一番の理解者よ。そして最後の協力者。だからこの曲をあなたに捧げるわ。『メフィスト・ファンタジア』を聴きながら、地獄へと旅立ってちょうだいね」

 言い終えると、ふたたび花音はピアノのほうへと向いた。

 そして、いきおいよく両手を鍵盤へと叩きつけた。

 途端、あふれだす、華やかな音の奔流。

 くり返し、くり返し、鍵盤の上をすさまじい速さで動く、白い指。

 楽譜なんか要らない。

 ただ、脳内に浮かぶ、鮮やかなビジョンを追えばいいだけのこと。

 花音は目を閉じていた。

 自身が奏でている音だけに耳をかたむけていた。

 だから彼女は気づかなかった。

 室内を支配しているのが、ピアノの音だけではないことに。

 最初は小鳥のさえずりのように静かに。

 しかしじょじょに高まってゆく。

 透き通るような歌声。

 ピアノの音色と歌声がリンクし、最高潮に達した、その瞬間。

 耳をつんざくような破壊音が室内にとどろいた。

 グランドピアノの上に、シャンデリアが落下したのだ。

 きらめく破片。

 飛び散る血しぶき。

 そしてほとばしる、絶叫。

 ほんの一瞬前まで軽やかに舞っていたしなやかな指は、しかしいまは無数の破片が突き刺さり、おびただしい鮮血に染めあげられていた。

「指が……あたしの指がぁぁぁぁぁぁっっっ!」

 イスから転げ落ち、両手を真っ赤に染めながらうずくまる花音の前に、何者かが近づいてきた。

 自分のもとに近づいてくる存在に気がついた花音は、目線を上に向けた。苦痛に歪んだ顔が一瞬で驚愕のそれへと変わる。

「あ、ありあさん、あ、あなた、死んだはずじゃ……」

 桃木ありあは花音の前に立つと、彼女を見おろした。その目には哀れみの色がこめられている。

「花音さん。あなたが刺したのはあたしが生み出した幻影よ。あなたの話がだんだん怖い方向へとかたむきはじめたので、護符で自分の幻影を生み出したあと、カーテンのかげに隠れて様子をうかがっていたのよ」

「そ、そんな……」

 苦痛と驚愕に染まった顔を、花音はありあの死体が転がっているはずの方向へと向けた。

 そこに死体はなかった。血の跡もない。ただ、飾り気のないナイフが転がり、黒墨で流麗な文字が書かれた白いお札が一枚、落ちているばかりだ。

 花音はふたたびありあのほうを向いた。そして訊いた。

「シャンデリアを落下させたのもあなたなの?」

「ええ。あんな呪われた曲、いつまでも聴いていたくなかったし、あなたにも弾いていてほしくなかったから」

 自愛に満ちた顔で無慈悲なセリフを口にするありあ。

 花音はくやしげに唇を噛んでいたが、しかしつぎの瞬間、けが人とは思えないすばやさでナイフを拾いあげると、その切っ先を自身の喉首へと突き立てた。

 花音の白い首筋から真紅の鮮血が噴き出すのと、ありあが絶叫をあげるのは同時だった。

 血しぶきをあげながら、花音の身体はあお向けに倒れてゆく。

 だが、床に接触する直前。

 髪が、肌が、血が、肉が、骨が、着ている服が、一瞬で霧散した。

 塵のように。

 霧のように。

 飾り気のないナイフ一本を残して、鈴鳴花音という存在はこの世からかき消えてしまったのだ。

 あとにはなにも残っていない。

 血の一滴さえも。

 しかしそれはあたりまえのことだった。

 鈴鳴花音の肉体は、この屋敷に着いてすぐに、悪魔に食べられてしまっていたのだから。

 いままでありあの前にいたのは、花音の残留思念だったのだから。

 彼女は自分が死んでいることにも気づかず、この部屋でずっと、ピアノを奏でつづけていたのだ。

 姉の魂を捧げ、この部屋に迷いこんできた子供の魂を捧げ、自分の魂をもすでに悪魔に捧げていることにも気づかず、三人目の生け贄がおとずれるのを待ちながら、この部屋でずっと、ピアノを演奏しつづけていたのだ。

「姉妹そろって愚かで哀れなピアニストの成りそこないだこと!」

 ありあはにくにくしげに吐き捨てた。

「悪魔と契約なんてばかなことさえしなければ、いまごろはひょっとしたら、天才ピアニスト姉妹と呼ばれていたかもしれないのに!」

 ありあの肩は震えている。怒りと、そして悲しみのために。

「鈴鳴姉妹はたしかにばかだったわ。でも、いちばん悪いのは……」

 ありあはつぶれたグランドピアノに視線を向けた。

 その薔薇色の双眸には怒りと憎しみが宿っている。

 彼女がねめつけているのは、ピアノの上にちょこんと腰かけている黒い物体。

 コウモリの翼をはやした、西洋のホラー映画なんかに出てくる『悪魔』と呼ばれるモノ。

 ありあの憎悪のまなざしを受けているというのに、悪魔は笑っていた。

 人の神経を逆なでするような嫌らしい笑みを浮かべながら、悪魔は言葉を放つ。

「そんなに見つめんなよ、お嬢ちゃん、恥ずかしいからさ」

「本当に恥ずかしいと思うのなら、死んでわびなさいよね」

「なにをそんなに怒っているんだよ。お嬢ちゃんもたまごとはいえ魔術師ならよく知っているだろ。俺たち悪魔は人間と契約をむすんで魂をいただくのが仕事なんだ。俺はただ自分の役目を果たしただけだ。それなのになんでそんなに責められなきゃならねえんだよ。理不尽な話だぜ」

「だまらっしゃい。あんたたち魔界の住人の事情なんて知ったこっちゃないわよ。あんたさえよけいなことをしなければ、罪のない人たちの命が散ることも、あの姉妹の才能が散ることもなかったのよ」

「それこそ逆恨みだぜ。あの似たもの姉妹は自分の意思で俺と契約をむすんだんだからさ」

「だまれと言ったはずよ。あの二人は死ぬことで罪をつぐなったわ。あんたも死んでつぐないなさい」

「死ねと言われて死ぬばかはいねえよ」

「あ、そ。だったらあたしが殺してあげる」

 死刑の宣告を放つと同時に、ありあは大きく息を吸った。

 彼女の薔薇色の唇から透き通るような歌声がこぼれだす。

 高く。

 低く。

 祈るように。

 嘆くように。

 まるで彼女の唇から見えない光がこぼれだしたかのように、清らかな歌声が室内に広がってゆく。

 歌声は満ちてゆく。

 壁や扉や窓を通過して。

 屋敷全体を包みこんでゆく。

 しかしその歌声は、悪魔のダミ声によってかき消されてしまった。

「うまいうまい。悪魔の俺でさえも聞き惚れちまうくらいだぜ」

 悪魔は、耳ざわりとしか言いようのない拍手をありあに送った。

「……だがな、そんなお上品な歌ではこの俺さまを倒すどころか、傷ひとつつけることはできねえぜ」

 悪魔の両眼が琥珀色の光を放つ。

 刹那。

 床の上に転がっていた飾り気のないナイフが、糸で引かれたかのように宙に浮き、その切っ先の照準を、ありあの胸もとへと向けた。

 ナイフが飛ぶ。

 解き放たれた矢のように。

 あるいはダーツのように。

 月光色にきらめく刃先がありあの胸を鮮血に染める――ことはなかった。

 彼女の前に突然、エメラルドグリーンに輝く半透明の壁がそびえ立ったからだ。

 ナイフは壁に弾かれ、硬質な音を立てて床の上に転げ落ちた。

 悪魔のにやけ顔が驚愕のそれへと変わる。

「なんだ?」

 そうつぶやいた、直後。

 すぱっ、と。

 悪魔の首は胴体から離れた。

 刃と化した風に切断された首が、口を半分開けたままのまぬけな表情を浮かべながら、くるくると舞う。

 首が赤い糸を引きながら床に着地した、直後。

 悪魔の首と胴体めがけ、炎の蛇が襲いかかる。

 灼熱の業火に巻きつかれた首と胴体は、またたく間に消し炭と化していった。

 数百年生きた悪魔とは思えない、実にあっけない最後であった。

 炎が消えたあともいまだくすぶりつづけている黒いかたまりに向かって、ありあは勝ち誇ったように言い放つ。

「ふっ、しょせんは雑魚ね。あたしの敵ではなかったわ」

「お前はなにもしてないだろ」

「あら、あたしのいちばんの攻撃魔法は、仲間を召喚することよ」

 真横からの幼なじみの突っ込みに、ありあは胸をそらしたまま返した。

 そして彼女は、扉のほうへと身体ごと視線を向けた。

 扉の前に、流火、風之、のばらの三人が、呆れと疲れをにじませた顔で立っていた。

 全員、ありあの歌声に導かれてこの部屋までやってきたのだ。

 ありあは三人に向かってにっこりほほ笑んだ。

 そして、訊いた。

「つぎは誰が鬼になるの?」

「帰るに決まってるだろ!」

 流火の力いっぱいの突っ込みが、薄暗い室内を震わせたのだった。

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