四章 魔獣ミノタウロス
そこは豪華な調度品が並んだ部屋だった。
海外からもっともすばらしいアンティーク家具ばかり買い集めて並べたのかと思うほど、豪華絢爛な部屋だった。
たとえるなら、一流ホテルのロイヤルスイートルームといったところだろうか。
壁には細やかな彫刻がほどこされ、天井にも金の細工。フランス窓をおおっているのは金茶色したベルベットのドレープカーテン。白い大理石のティーテーブルに、ゆったり置かれた革張りのソファ。ロココ調の猫脚キャビネットの上には真鍮製の燭台と、裸婦のブロンズ像が飾られている。テーブルの真上には琥珀色のクリスタルシャンデリアがつりさげられ、真下にはゴブラン織りのカーペットが敷かれている。だが、この部屋でいちばん目立つのはやはり、親子三人で眠れそうなほど大きな天蓋つきのベッドだろう。
この部屋には扉が二つあり、一つはとなりの部屋へとつづいている板チョコ型の扉。もう一つは廊下へと通じている両びらきの扉。
両びらきの扉の前に、一人の少年が立っていた。
絹糸みたいにさらさらとした髪は雲ひとつない蒼穹の空を思わせ、形のよいアーモンド型の瞳は賢そうな輝きを放つサファイアブルー。肌はこの年頃の少年にしては白く、体型も男の子にしては細身。着ているのは、喪服かと思うほど黒いブレザーの学生服。
魔術師養成学校マギアマグス学園一年A組に在籍中の男子学生、青衣風之である。
風之は、青玉の双眸を見ひらきながら、奥へとつづく板チョコ型の扉を凝視していた。
豪華。絢爛。荘厳。壮麗。華麗。美麗。華美。優美。あらゆる美辞麗句を並べても、けっして装飾にすぎるということがないくらい、この部屋はゴージャスだった。
しかし驚くべきは部屋の豪奢さではなく、その保存状態にある。
この部屋は東雲明良の私室だ。それは間違いない。だが、東雲明良が亡くなったのは十三年も前のこと。主人がいなくなって長い年月が経っているというのに、なぜこの部屋には、ほこりが積もっていないのだろう。蜘蛛の巣がたれさがっていないのだろう。家具が傷んでいないのだろう。カビの臭いがしないのだろう。
……まるで、いまでも誰かがこの部屋で暮らしているかのように。
そしてその誰かは、あの扉の向こうにひそんでいるかもしれない。
気配を感じるのだ。生き物の気配を。
魔力を感じるのだ。精霊ではない、もっとまがまがしくおぞましい、強大なる魔力を。
あの、板チョコ型の扉の向こうから……。
風之はごくりとつばを飲みこむと、おそるおそるといった足どりで扉に近づき、ノブをまわし、ゆっくりと扉を開けた。
扉を開けるとそこは迷宮だった。
予想すらしなかった光景を前に、風之の脳内でクエスチョンマークが乱舞する。
左右にそびえ立つのは灰色の石の壁。それはどう見ても、RPGゲームなどに出てくるダンジョンそのものだった。
あわててうしろを向くと、先ほどまで存在していたチョコレート型した扉は跡形もなく消えており、かわりに広がっているのは灰色の石の壁だった。
ふたたび前方を向くと、左右にそびえ立つ、灰色の石の壁。
ここは、どう見ても迷宮だ。
自分は、どう考えても閉じこめられている。
しかしいくら東雲邸が広くても、さすがに迷宮を造れるほど広大なんてことは常識的に考えてありえないはず。ということはここは――「異次元?」
ここは黒魔術師が住んでいた屋敷だ。悪魔召喚がおこなわれていた場所だ。異次元空間につながっていたとしてもおかしくはないだろう。
風之はポケットからメタリックブルーの携帯電話をとりだすと、画面を開け、電話帳を呼び出した。
携帯の画面に『赤星流火』が表示される。
通話ボタンを押した――が、案の定というべきか、ツーツーツーというビジートーンが聞こえるだけで、いっこうにつながらない。
電話はあきらめて、つぎはメールを送信。
メールのアイコンが点滅し、『送信完了』と表示される……はずだった。
しかし画面に出てきたのは――『送信できません』
圏外ではない。ちゃんと電波はある。だが、それでもつながらないのだ。流火だけではなく、あらゆる知り合いに手あたりしだいに電話をかけたりメールを送ってみたが、しかしそのたびに返ってくるのがツーツーツーというビジートーンか――『送信できません』
風之は軽く頭をふると、携帯をポケットにしまった。
考えてみた。この迷宮を生み出したのは誰なのかを。闇の魔術師だった東雲明良に次元を操る力はない。ということはつまり、彼が召喚した魔物の中に、次元に関与できるほどの上位魔族が存在しているということになる。その魔物の名前はやはり――「ミノタウロス?」
その名を口にした直後、風之は赤面した。そんな安直なモンスターしか思い浮かばない自分の貧困な知識を恥ずかしく思ったからだ。無事に帰れたらもっと勉強しよう。そう心に決めると、顔を赤らめたまま、迷宮のどこかにあるであろう出口をめざし、風之は歩き出した。
行けども行けどもつづいているのは灰色の石の壁。ときたま左右にわかれている道があらわれるので、勘で選んだ方向に曲がる。進む。進む。曲がる。進む。進む。曲がる。壁に印をつけて歩きたいのだが、しかし残念なことにマジックなど持ち合わせてはおらず、道しるべとなるパン屑や小石も持ち合わせてはいない。ゆえに、迷わず出口に向かっているのか、それともただひたすらに同じ道をぐるぐるまわっているだけなのか、それすらも判断することはできない。
さすがに疲れがにじんだ顔で、「……どこかにアリアドネの糸でも落ちていないかな?」などとこれまた安直なアイテムの名を口にしてしまった、直後。
女の子の泣き声が聞こえた。
か細く、儚げな、いまだ幼い女児のものであろうその泣き声が耳に届いた瞬間、風之の中性的なかんばせから疲労が消え去り、かわりにその表情はけわしいものへと変わる。
誰もいないと思っていた迷宮に、人が、それも子供がいるなんて……。
子供? 本当に? 魔物が愚かな迷い人をおびき寄せて喰らうために、子供の泣き声を真似ているだけではないのか?
だが、たとえそうであったとしても、無視するわけにはいかない。せっかくあらわれてくれた生き物の気配だ。出口への案内人かもしれないのだ。
ひょっとしたら、案内される先は出口ではなく魔物の口内かもしれないが……。
だが、たとえそうであったとしても、無視するわけにはいかない。いつまでもこんなところをさ迷っているわけにはいかないのだから。
風之はけわしい表情のまま、泣き声が聞こえてくる方向に向かって歩き出した。
冷たい石の床の上に、小学校高学年くらいの子供がうずくまって泣いていた。
さらさらの髪を肩より上のあたりで切りそろえた、清楚そうな女の子だ。白い丸襟のブラウスの上に、品のよいベージュのカーディガンを着ている。
真夏なのにカーディガン? 一瞬いぶかしんだが、しかしすぐにアレルギーなどで肌を隠さなければならない子もいるということに思い至り、気にしないことにした。
風之は女の子の前まで歩いてゆくと、ひざまずき、これ以上はないくらい優しい声で語りかけた。
「もう泣かないで、迷子の白ウサギさん」
突然降ってきた声に驚き、びくっ、と肩を震わせると、女の子は弾かれたように顔をあげた。
大きな瞳には大粒の涙がたまっている。
本物のウサギのように真っ赤な目で風之を見つめながら、震える声で女の子は訊いた。
「お兄ちゃん……誰?」
「僕は青衣風之。恥ずかしい話だけど、実は僕も迷子なんだ。友達とかくれんぼをしていたら、ここに迷いこんでしまったんだよ」
「お兄ちゃんも?」女の子の顔がぱっと輝いた。
「あたしもだよ。あたしもお友達とかくれんぼしていたらここに迷いこんじゃったの」
どうやら昨今の若者たちのあいだではかくれんぼが流行しているらしい。
「そっか」うなずき、立ちあがると、「君、名前は?」
「さやか」
「さやかちゃんか。かわいい名前だね」
いまだ赤く染まった目で自分を見あげている女の子――さやかに向かって風之は、
「さ、一緒にお友達を探しに行こ」
やわらかな笑みとともに手をさしのべた。
「うん」
さやかも満面の笑みを浮かべると、さし出された手をつかみ、ぴょんと飛び跳ねるように立ちあがった。
風之は歩き出す。今度は一人ではない。となりにさやかがいる。二人、本当の兄妹のようにしっかりと手をつなぎながら、灰色の迷宮の中、出口をめざし、並んで歩き出す。
前を向いたまま、風之はさやかに訊いた。
「さやかちゃん、君、何時間くらいここにいるの?」
「う〜ん。時計持ってないからわかんないや」
時計、と聞いた瞬間、風之は携帯をとりだすと、画面を開け、時間を確認した。
やはりというべきか。さっき開けて見たときと同じ数字が浮かんでいる。風之の携帯はすでに時を告げることを放棄していた。
時計が止まっている。否、時間が止まっている。
やはりここは異次元空間なのだ。
異次元に、時間は、存在しない。
ダンジョンの中なのであたりまえながら窓はない。
ゆえに風も吹かなければ、陽光や月光が射しこむこともない。
時間が止まっているので、歩いて、歩いて、歩きつづけても、足が疲れることもなければ腹が空くことも喉が渇くこともない。
時間のない空間で時間を訊くなどなんという愚問。
そんなおのれの浅はかさを恥じている風之の耳に、
「見て、お兄ちゃん、ドアだよ。それも二つもあるよ」
さやかの弾んだ声が飛んできた。
その声にうながされて前方を向くと、二つの扉が視界に映る。
右側には赤い扉。左側には青い扉。その前には小さなテーブルが置いてあり、その上には一冊の白い本が鎮座していた。
「わ〜い。出口だ〜」
扉に向かって駆け寄ろうとしたさやかの手を、風之はあわててつかんだ。
「だめだよ、さやかちゃん、考えもなしに扉を開けたら。二つあるということは、一つは出口につながっているけど、もう一つは開けたとたんに即死系トラップが発動するようになっているんだからさ」
風之はRPGゲームの常識を説明したあと、テーブルの前まで歩いてゆくと、その上に鎮座している白い本を持ちあげた。
本の表紙には『ラジエルの書』と書かれている。
ページをめくってみると、ただ、白い紙だけがつづいていた。
『ラジエルの書』と書かれた白紙の本をテーブルに戻すと、風之は青い扉の前まで歩いてゆき、ノブをまわし、扉を開けた。
扉の向こうには、左右にそびえ立つ、灰色の石の壁。
どうやら出口ではないようだ。しかし、即死系トラップが仕掛けられていなかったので正解というべきだろう。
「お兄ちゃん、どうしてこっちの扉を開けたの?」
さやかの当然の疑問に、「ほら、あれ」風之はテーブルの上にある白い本を指さした。
「『ラジエルの書』って書かれているだろ。『ラジエルの書』というのは、秘密と神秘をつかさどる大天使ラジエルが書き記した書物で、全宇宙の謎を解く1500の鍵が書かれているらしいんだ。もちろんあれは、写本ですらないただの白紙のノートだけどね」
「ふーん。すごいね」さやかは全然すごくなさそうに言うと、「でも、その天使さまの本とこのドアと、なんの関係があるの?」
「『ラジエルの書』の原書はサファイアで構成されていると伝えられているんだ。もちろん僕も、実物は見たことないけどね」
「な〜る。だから青い扉を開けたんだね」
そんな、新人教師と模範的な生徒のような会話を交わしつつ迷宮を歩いていると、ふたたび前方に、二つの扉が姿をあらわした。
右側には緑色の扉。左側には紫色の扉。その前には小さなテーブルが置いてあり、その上には一冊の白い本が鎮座していた。
「あ、また色違いの扉が二つある」
さっきと同じくらい弾んだ声で告げたあと、扉に向かって駆け出そうとしたさやかの手を、風之はあわててつかんだ。
「だめだよ、さやかちゃん、考えもなしに扉を開けたら。二つあるということは、一つは出口につながっているけど、もう一つは開けたとたんに魔物の口の中って相場は決まっているんだからさ」
風之はRPGゲームの常識を説明したあと、テーブルの前まで歩いてゆくと、その上に鎮座している白い本を持ちあげた。
本の表紙には『ヘルメスの書』と書かれている。
ページをめくってみると、ただ、白い紙だけがつづいていた。
『ヘルメスの書』と書かれた白紙の本をテーブルに戻すと、風之は緑色の扉の前まで歩いてゆき、ノブをまわし、扉を開けた。
扉の向こうには、左右にそびえ立つ、灰色の石の壁。
またまた出口ではなかったようだ。しかし、魔物の口の中ではなかったので正解というべきだろう。
「お兄ちゃん、どうしてこっちの扉を開けたの?」
さやかの疑問に、「ほら、あれ」風之はテーブルの上にある白い本を指さした。
「『ヘルメスの書』って書かれているだろ。『ヘルメスの書』というのは、知恵と学問の神ヘルメスが書き記した書物で、魔術や錬金術の秘法が書かれているらしいんだ。もちろんあれも、写本ですらないただの白紙のノートだけどね」
「ふーん。すごいね」さやかは思いっきりどうでもよさそうに言うと、「それで、その神さまの本とこのドアと、なんの関係があるの?」
「『ヘルメスの書』の原書はエメラルドの板に掘りこまれていると伝えられているんだ。もちろん僕も、実物は見たことないけどね」
「な〜る。だから緑色の扉を開けたんだね……って、なんか似たようなセリフ、さっきも交わしたような気がするね」
などとさっきと似たような会話を交わしながらも二人、出口をめざして歩き出す。
天井、床、壁、四方すべてが灰色の石で構成されており、それが、果てしなく、果てしなく、どこまでもつづいている。
進む。進む。ときたま曲がる。進む。進む。ときたま曲がる。
なんどそれをくり返しても、しかしいっこうに出口は見えてこない。
ひょっとして開ける扉を間違えたかな?
風之の胸中に不安がよぎりはじめた、そのとき。
前方に、二つの扉があらわれた。
「あ、扉だ、また二つある。でも、今度はどっちも白いね」
さやかの言うとおり、目の前にある扉は二つとも白色だった。
ホワイトチョコ型の扉の前に、やはり、小さなテーブルが鎮座している。
右の扉にはアルファベットのMに似た、しかし先の部分が矢印になっているマークが刻まれている。
左の扉にはゼウスの雷を二つ、横に並べたようなマークが刻まれている。
風之はテーブルの前まで歩いてゆくと、その上に置いてある一枚の白い紙をつまみあげた。
紙には黒インクでこう書かれていた。
『闇につながるは毒の水 光につながるは知恵の水』
風之は暗号が書かれた紙をテーブルに戻すと、左側の扉の前まで歩いてゆき、ノブをまわし、扉を開けた。
扉の向こうには、左右にそびえ立つ、灰色の石の壁。
またまた出口ではなかったようだ。しかし、猛毒の闇に飲みこまれなかっただけ正解というべきだろう。
「お兄ちゃん、どうしてこっちの扉を開けたの?」
さやかの疑問に風之が答える。
「右の扉に刻まれているのはさそり座のマークで、左の扉に刻まれているのはみずがめ座のマークなんだ。さそり座は毒の水を、みずがめ座は知恵の水をたたえていると言われているんだよ」
「な〜る。だから左の扉を開けたんだね。お兄ちゃんてほんと、博識だね」
「いや、魔道師をめざしている者なら知っていて当然の知識だよ」
「お兄ちゃん、魔道師見習いなの? ひょっとして、マギアマグス学園の生徒さん? あ、だからそんなお葬式に出席する人みたいな制服を着てるんだね」
「ぐっ。やっぱ、さやかちゃんもこの制服、ダサイと思う?」
「うん」さやかは邪気のない笑みで答えた。
――子供は怖い。とくに女の子は怖い。
そんな失礼なことを思っている風之の胸中など知らないさやかは、邪気のない笑みを浮かべたまま、
「そういえば、お兄ちゃんのお友達ってどんな人たちなの? やっぱお兄ちゃんと同じ、魔法使いのたまごなの?」
「うん。そうだよ。三人ともクラスメイトで幼なじみなんだ」
「幼なじみなの?」
「うん。小等部からのつきあいだからね。あの三人とはじめて話をしたのが入学式の日だから、かれこれ十年近くつきあっていることになるのかな」
風之は遠い目をし、
「男二人、女二人のとりあわせなのに、よくもまあこんなにも長期にわたって友情を育み、保てたものだよ」
「別にそんなのおかしくないよ。だってさやかも、いつも優くんと健くんの三人で遊んでいるもん。女の子を仲間に入れたのは今日がはじめてだよ。でも、明星ちゃん、すっごく良い娘だから、これからは四人で遊びたいと思ってるんだ。あ、ドアだ。また二つある」
前方に、扉が出現した。今度も二つ。どちらも色は白。右の扉には太陽のレリーフが、左の扉には三日月のレリーフが掘りこまれている。その前にはやはり、小さなテーブルがちょこんと鎮座している。
風之はテーブルの前まで歩いてゆくと、その上に置いてある一枚の白い紙をつまみあげた。
紙には黒インクでこう書かれていた。
『光への道は 昼と夜の狭間』
風之は暗号が書かれた紙をテーブルに戻すと、二つの扉のあいだの石壁の前まで歩いてゆき……「えいっ」その壁に蹴りを入れた。
ぼこっ、という音とともに、壁の一部が向こう側に押し出される。
「うわっ、隠し扉だ。すっごーい。なんでわかったの?」
「昼と夜の狭間というのは、太陽と三日月のあいだという意味。そんなの、この壁の部分しかないからね」
さやかに説明したあと、風之は四角く切りとられた空間へと足を踏み入れた。
途端、風之は息を飲んだ。
広い。
広大といっていい広さだ。
床、壁、天井、四方すべてが灰色の石で構成されたその部屋は、圧倒されるぐらい広かった。
その光景を目にした瞬間、風之は察したのだった。
この部屋が迷宮の中心、つまり、心臓の部分なのだと。
はるか前方に扉が見える。
ホワイトチョコ型したたった一つの扉が。
おそらく出口に通じているであろう扉が。
風之は扉に向かって駆け出そうとしたが、そんな風之の背に、さやかの制止の声が投げかけられる。
「待ってよ、お兄ちゃん。まだ、最後の問題を解いてないよ」
「え?」風之は足を止めた。そして、ふり向く。そこにはあたりまえだがさやかが立っている。さやかは笑っていた。先ほどと変わらない、邪気のない笑みを浮かべていた。だが、その笑みを見た途端、風之は本能的な恐怖を感じた。
刹那。さやかの顔がみにくく歪んだ。顔だけではない。身体も大きく震え出し、服もつぎつぎとやぶけ、小さな顔と身体が何倍にもふくれあがったかと思うと、つぎの瞬間、少女は異形のものへと変貌を遂げていた。
その巨体を見あげながら、風之は震える声でそれの名を口にした。
「ミノタウロス……」
牛をかたどった頭をもつ、二足歩行の巨大なモンスター。
その姿はまさに、ギリシャ神話に出てくる迷宮の魔獣、ミノタウロスそのものの姿をしていた。
二本の氷柱のような牙がはえた口を開け、それは言った。
「あたりだよ、お兄ちゃん。あたしの名前はミノタウロス」
口調はさやかのものだが、しかしその声はもはや人のものではなかった。
獣だ。
獣が人語をしゃべっているのだ。
「最後の問題。あの扉を開けたかったら、あたしを倒してみせてよ、魔法使いのたまごさん」
魔獣のするどい爪が輝き、丸太のような腕が大きく動く。
爪が風之に届く寸前、
「運べ、ゼピュロス」
風之の口から力ある言葉が放たれ、それに応えるように、彼の周囲に風の渦が生まれた。
風の渦はミノタウロスの腕を弾くと、風之の身体を後方へと運んだ。
ミノタウロスからかなり距離のある場所へと着地した直後、風之はふたたび力ある言葉を口にする。
「舞え、ノトス」
風之の周囲に無数の青い風の輪が生まれた。
青い風の輪が舞う。
戦輪のように、円盤のように、くるくると回転しながら、ミノタウロスめがけていっせいに突き進んでゆく。
風の輪がミノタウロスの巨体を傷つける――ことはなかった。
放たれた風の輪がすべて霧散したあと、傷ひとつ負っていない魔獣は風之を見おろしながらにたりと笑い――「効かないよ、お兄ちゃん」
「なっ……」風之の口から驚愕がもれる。
顔におびえの色を浮かばせながらも、「運べ、ゼピュロス」力ある言葉を放つ。直後、周囲にらせん状の風が生まれ、風之をさらに後方へと運ぶ。
着地とともにもう一度、「舞え、ノトス」魔獣に向けて攻撃魔法を放つ。直後、周囲に無数の青い風の輪が生まれ、くるくると回転しながら魔獣に向かって突き進んでゆく。
風の輪がミノタウロスの巨体を傷つける――ことはやはりなかった。
放たれた風の輪がすべて霧散したあと、傷ひとつ負っていない魔獣は風之を見おろしながらにたりと笑い――「さっき言ったじゃない、効かないって」
「くっ……」風之は血が出るほどきつく唇を噛みしめた。
絶望の二文字を青ざめた顔に浮かばせながら死を覚悟した、そのとき。
声が響いた。
鼓膜を通すことなく脳細胞に直接、その声は響いた。
聞き覚えのあるその声は、風之の頭蓋の内側に向かって語りかけてくる。
天啓のような言葉が舞い降り、泡雪のように消え去った、直後。
「聡明なお兄ちゃんでもさすがにこの問題は解けないみたいだね」
さやかの口調を真似した、しかし彼女のものとは似ても似つかない獣の声が室内にとどろく。
「それじゃお兄ちゃん、バイバイ」
魔獣のするどい爪が輝き、丸太のような腕が大きく動く。
爪が風之に届く寸前、
「運べ、ゼピュロス」
風之の口から力ある言葉が放たれ、それに応えるように、彼の周囲に風の渦が生まれた。
風の渦はミノタウロスの腕を弾くと、風之の身体を空中へとたかだかと舞いあがらせた。
ミノタウロスの真上でくるりと回転し、魔獣のちょうど背中のあたりまで舞い降りると、力ある言葉を口にした。
「貫け、エウロス」
風之の周囲に無数の青い風の鏃-(やじり)が生まれた。
青い風の鏃が飛ぶ。
解き放たれた矢のように魔獣めがけていっせいに突き進んでゆく。
鏃が吸いこまれてゆく。
ミノタウロスの背中の一部分に向かって。
途端。
「ぎゃあぁああぁあああぁああああぁあああああぁああああああぁあああああああぁっ」
魔獣の口から絶叫が鮮血とともにほとばしる。
風の防御壁がなければ風之の鼓膜はやぶれていたのではないかと思うほどすさまじい断末魔の悲鳴をあげながら、牛の姿をしたモンスターはその場にくず折れてゆく。
「なぜだ……? なぜ……俺の急所がわかったんだ……?」
うずくまり、血泡を吐きながらもミノタウロスは風之のほうを向き、聞かなければ死んでも死にきれないであろう疑問を口にした。
「本物のさやかちゃんが教えてくれたんだよ」
風之は床の上に着地すると、瀕死の魔獣をこれ以上はないくらい冷たいまなざしで見すえた。
「お兄ちゃん、背中にあたしの顔があるから、そこを刺せばお化け牛は死ぬよ、ってね」
それを聞いたミノタウロスはくやしげなうめき声をもらした。
魔獣の巨体はじょじょに形を失ってゆき……消滅。
屍骸も、あたり一面に飛び散っていた血しぶきさえもきれいさっぱり消え去り、あとに残ったのは――。
おそらくさやかのものであろう小さな白い骨。
いくつか散らばったそれを風之はしばらくやりきれないまなざしで見つめていたが、
「助けてくれてありがと、さやかちゃん」
つぶやくように礼を口にすると、おそらくここから出られる唯一の出口であろう扉に向かって駆け出した。