二章 メイドの日記
扉を開けるとそこは細い廊下だった。
大の男が二人、なんとか並べるくらいの横幅しかない、細く、暗い、廊下。窓はなく、夏とは思えないほどひんやりとした空気が流れている。赤い蝶に導かれるままに廊下を歩み、角を曲がると、三つの木製の扉があらわれた。
流火はいちばん近い扉の前で足を止めると、ノブをまわし、扉を開けた。
扉を開けるとそこは食堂だった。
部屋の中央には大きなテーブルが鎮座し、テーブルを囲んでたくさんのイスが並んでいる。テーブルの上には金の燭台と銀の燭台が置いてあるが、もちろん、明かりはついていない。
すると――。
蝶が、金の燭台の上に止まった。瞬間、ロウソクに火がともる。暖かな橙色の炎が宿ると、蝶はふうわりと舞いあがり、今度は銀の燭台の上に止まった。刹那、ロウソクに火がともる。暖かな橙色の炎が宿ると、蝶はふうわりと舞いあがり、流火の頭上へと戻った。
二つの燭台に明かりがともると、流火は室内を見まわした。
食器棚が置いてある。中には素人目にもわかるほどの高級な陶磁器製の洋食器や、クリスタル製のワイングラスなどが並んでいる。食器棚のとなりには、料理の本やマナーの本などが並んだ本棚が置かれている。
流火はそれらを見やったあと、その場にしゃがみこむと、くすんだ色のテーブルクロスを持ちあげ、中をのぞきこんだ。
テーブルの下には誰も隠れていない。
ただ、白い骨が散乱しているだけだ。
流火は、骨のひとつをつまみあげた。
「東雲明良は犬でも飼っていたのか?」
これだけ大きな屋敷である。番犬を飼っていてもおかしくない。
まさか生け贄にされた少女の骨……ではないだろう……たぶん。
骨をテーブルの下に戻すと、立ちあがり、もう一度、流火は室内を見まわした。
置いてあるのはテーブルとイス、食器棚と本棚、あとは恐ろしいまでに美しい風景画が飾られているだけである。
それらを確認したあと、流火はいぶかしげに眉根を寄せた。
「十三年間ほったらかしにされていたわりには、あまりほこりがたまってないんだな」
食堂には廊下に通じる扉とは別にもう一つ扉があり、その扉を開けるとそこは厨房だった。
食堂も広ければ厨房も広く、主人が生きていたころにはこの石畳の床の上を、キッチンメイドとスカラリーメイドが汗だくになりながら走りまわっていたのだろう。
しかしいまは誰もいない……はずなのだが。
厨房に足を踏み入れた途端、なにかおいしそうな匂いが鼻腔をくすぐり、それに反応し、ぐるきゅうと流火のお腹が鳴った。
匂いのもとをたどると、ガスコンロの上に、童話に出てくる魔女の大鍋かと思うほどの大きな鍋が置いてあり、その中から食欲をそそるよい匂いがただよっていた。
流火は鍋の前まで歩いてゆくと、おそるおそる中をのぞきこんだ。
細かく切ったキャベツが浮かぶトマトシチューの中に、大きな肉のかたまりが沈んでいる。まるで先ほどまで火を通していたかのように温かい。具材は……腐ってはいなさそうだ。
「……ていうか、誰が廃屋でシチューなんか作っていたんだよ」
考えられるのは一つ。というか一つしかない。浮浪者だ。浮浪者が屋敷に忍びこんでいるのだ。誰も近寄らない廃屋なんて、浮浪者どものかっこうのたまり場ではないか。
そのことに気づいた瞬間、流火の胸中に不安がよぎる。不安は確信へと変わる。
流火はさっと顔を青ざめさせると、震える声でつぶやいた。
「もしもあいつらと浮浪者どもが出くわしちまったら……浮浪者どもが危ない!」
早くあいつらを見つけて浮浪者どもを救おう。流火はそう心に決めると、廊下に通じる扉に向かって駆け出した。
廊下に出て三番目の扉を開けると、そこは病院の大部屋かと思うほどベッドがたくさん置いてある部屋だった。
広い部屋だった。それでいて質素な部屋だった。
置いてあるのは簡素な六台のベッドと小さな六台のクローゼット。あとはひび割れた壁の前に立てかけてあるシンプルな姿見だけである。
隠れているとしたら、ベッドの下かクローゼットの中か。
とりあえずベッドの下を探してみようと思い、流火は目線をさげた。
すると、床の上の異変に気がついた。
そしてもう一つ。
飾り気のないねずみ色のシーツの上に、ぽつん、と鎮座しているそれが視界に映った。
床のほうはあとまわしにし、流火はシーツの上に置いてあるそれを調べることにした。
それは一冊のノートだった。
ほこりにまみれてくすんだ表紙にはうっすらと『六花』と書かれている。
流火はノートを手にとると、ふっ…と息を吹きかけほこりを払ったあと、かすかな音を立てながらページをめくった。
○月×日
今日から東雲邸で働くことになった。
あたしみたいな家出娘を雇ってくれるところなんて普通ない。
あたしはなんて運がいいのだろう。
それに住みこみだから、三食のまかないは出るし、家賃は要らないし、とってもかわいらしいエプロンドレスを着て働けるし、衣食住に困ることはなさそうだ。
明日からメイドの仕事、がんばるぞ!
「メイドの日記? ということはここは使用人部屋か。どうりで客間にしては殺風景だと思ったぜ」
○月×日
メイドの仕事は大変だけど、でも、旦那さまは紳士的でお優しい方だし、今年十三歳になったばかりの明星お嬢さまもかわいらしいし、同僚もみんな良い娘たちばかりで、人間関係に悩むことはなさそうだ。
「明星お嬢さま? 東雲明良には娘がいたのか。十三年以上前に十三歳ということは、いまはもう二十五はすぎているよな。もちろん、生きていれば、の話だが」
○月×日
今日、同僚の一子が屋敷を出て行った。
なんでもお母さんが見つかったので一緒に暮らすことになったそうだ。
一子は幼いころにお母さんに捨てられ施設で育ったと言っていたが、そんなお母さんでも一緒に暮らせるとなるとうれしいものなのだろうか?
家出娘のあたしには理解できない。
それに、あたしたちにひとことの挨拶もなしに出て行くなんて、いくらなんでも冷たすぎると思う。
○月×日
今日は、同僚の二美がクビになった。
なんでも屋敷の金に手をつけたらしく、朝早くに追い出されたのだそうだ。
……二美、そんな娘には見えなかったのにな。
○月×日
今日は新しい娘が入ってきた。
七海という名の明るくて活発な女の子だ。
あたしと同じ、家出娘らしい。
そういえば、この屋敷のメイドはみんな、家族がいないか、いても疎遠の娘ばかりだ。
一子と二美は施設出身、三重と四葉と五月も幼いころから親戚の家をたらいまわしにされてきたらしい。
みんな、行くところがなくさまよっていたところを旦那さまに拾われたのだそうだ。
旦那さまは慈善家なのだろうか?
読み進むにつれ、流火は背筋が冷たくなるのを感じた。
脳裏に風之の言葉がよみがえる。
『東雲氏は呼び出した悪魔に生け贄を捧げ、かわりに悪魔の知恵や力、魔界の秘密などを聞き出していたらしい』
『実は東雲氏が生け贄の少女を殺害していた場所は、この屋敷の地下室なんだ』
突然やめてゆく、あるいはやめさせられてゆく、身寄りのないメイドたち……。
生け贄の少女というのはつまり……。
その意味に気づいた瞬間、
「うわっ」
情けない悲鳴をあげ、流火は読んでいた日記帳を放り投げた。
そして、姿見のほうを向くと、
「この屋敷、まじでやべーぞ。かくれんぼなんかしている場合じゃねえぞ。最初から入るべきじゃなかったんだこんなところ。おいっ、とっとと出るぞ!」
怒鳴りながら大またでずんずんと進んでゆき、姿見の前で立ち止まると、姿見を持ちあげ、横にずらした。
姿見の裏には人ひとりが入れるくらいのくぼみがあり、そのくぼみの中には――。
すっきりとしたペパーミントグリーンのぱっつんボブと、涼やかな切れ長のエメラルドグリーンの瞳と、大学生と偽っても通用しそうなほど大人びた表情と物腰が特徴の少女、緑山のばらが隠れていた。
のばらは流火を見すえながら、あっちゃ〜見つかっちゃった〜、と小声でつぶやいた。
彼女はくぼみから出ると、
「わたしがここに隠れているってどうしてわかったの?」
のばらの問いに、流火は無言で視線を床に投げかけた。
のばらも視線を床に落とすと、あ、と小さな声をあげた。
床の上にはほこりが雪のように積もっており、おそらく十三年分はあるだろうほこりの上に、二人分の足跡が、扉からくぼみの前までてんてんとつづいていた。
「さすがは流火。すばらしい観察眼だわ。かくれんぼキングの異名は伊達ではないわね」
のばらは心底感心したふうに言った。
「勝手に変な異名をつけるな。それに観察眼なら俺よりお前のほうがあるだろ。よく鏡の裏にこんな穴があるってわかったな」
「それなんだけど、実はわたし、この屋敷に足を踏み入れてから、じょじょに魔力が高まってきているみたいなの」
「お、さすがサラブレッド。やっぱ俺らとは違うね。だったら浮浪者どもの居場所もわかるんじゃね」
「浮浪者?」のばらは緑の目をしばたかせた。
「さっき、食堂と厨房をのぞいたんだよ。そしたら食堂には全然ほこりがたまってないし、厨房には温かいシチューが大鍋いっぱいに入っていたんだよ。犯人はズバリ、雨露しのぐために忍びこんだ浮浪者どもに違いない」
「あら、それはおかしいわ」
のばらはそっこうで流火の推理を否定した。
「もし本当に浮浪者が入りこんでいるのなら、真っ先にこの部屋をねぐらにするはずよ」
のばらに言われ、流火は室内を見まわした。
床の上にはほこりがたまり、天井には蜘蛛の巣がたれさがり、ベッドも使われた形跡がない。
それにこの部屋はかび臭い。ずっと閉めきっていた部屋とくゆうのこもった臭いが立ちこめている。
のばらの言うように、浮浪者が入りこんでいるのなら、なぜこの部屋をねぐらにしなかったのだろうか?
「二階の部屋を使っているんじゃないのか?」
「あら、わたしが不法侵入者の立場なら、誰かが入ってきたときすぐに逃げ出せるように一階の部屋をねぐらにするわね」
「それもそうだよな」
流火はしばらく黙考したが、しかし考えるのが性分に合わない彼はすぐにブチ切れた。
「って、そんなの浮浪者どもに聞かなきゃわかんねえことだし、それにそんなことはどうでもいいことだろ。早くあいつら見つけてこんなうすっ気味悪いところおさらばするぞ!」
「それもそうね。だったらつぎはあそこを探してみましょ」
のばらが指さした先には大きなガラス窓があり、その向こうは庭だった。
とうに陽は沈んでいた。夜の帳は降りきっている。薄墨色の闇の中、そのガラス張りの建物は、月の光をあわく反射しながらたたずんでいた。
「温室?」
「あの中から気配を感じるのよ。うっすらとだけど、なにか生き物の気配を感じるのよ」
のばらは温室を指さしたまま、神が宿った巫女のような表情でたんたんと告げた。
そのとなりで流火も、にらむように温室を見つめ、
「ありあか風之か。それとも浮浪者どもか。あるいは野良猫が迷いこんでいるだけなのか。どちらにせよ、行ってみるか」