山から降りた雪 2
時は流れ、上総が深雪を失って一年が経とうとしていた。
深雪と出会い、そして失った城の背後に聳え立つ山を故意に避けていた上総は、ふと気まぐれを起こして登ってみた。
深雪と出会ったのは、秋から冬へと移り変わる頃だった。谷川で水浴びをしている彼女に一目惚れして連れ帰った。懐かしいその場所に近づくと、まるで水浴びをしているようなパシャパシャという音が聞こえた。
驚いて、上総は枯れ草を踏みしだいて駆け寄った。
「深雪っ」
だが、川の真ん中にいたのは恋しい女ではなく、溺れもせずにぷかぷかと浮かびながら水面を叩いてはしゃぐ男の赤ん坊だった。
「うわっ。待ってろよ、今助けてやる」
放っておくと溺れるか心の臓が止まって死んでしまうであろう赤子を助けに、上総は冷たさをこらえて腰までの深さの川へ入り、抱き上げた。その片手で抱ける小ささに驚いた。
「こんな所に捨てるなんてどんな親だ、一体」
濡れた素っ裸の赤ん坊を懐に入れて温め、上総は火を起こそうと川原に枯草を集めた。
赤子は人の気も知らずに笑っていた。だが、かじかんで震える手ではなかなか火が点けられない。
「本当に困った人。最初に火を点けてから水浴びすればいいのに」
そこへ白い手が伸ばされ、上総の火打石を取り上げた。カチッカチッと手際よく枯れた杉の葉に火を点ける。火は瞬く間に小さな炎となり、そこへ深雪は枯れ枝を足して小さな焚き火を作った。
「ほら、これでいいわ」
上総は呆然とした。
別に俺は水浴びをしてたわけじゃないと言えばいいのか、今まで何してたんだと言えばいいのか。
言葉が出なかった。
長い黒髪をそのまま垂らした彼女は出会った時のように何も身につけていなかった。パチパチと火がはじけ、暖かさを生み出していく。
「また明日って言ったでしょう? 約束の日から一冬が過ぎてしまったじゃないの」
「起きたらお前がいなくなっていたんじゃないか。俺はお前を探して・・・。ん? 一冬? お前、明日って言ったよな。約束の日から一冬って、もしかして」
「そうよ。冬の始まりの一日目に決まっているじゃないの。だって春夏秋は、私にとって一眠りなのだから」
「・・・・・・!」
まさか。まさか、この女・・・。認めたくない事実を口にしたくなくて、上総は話をずらした。
「ならお前が来てくれてもいいだろう。城の場所は分かっているのだから」
「着物がないと人里には行けないわ。あなた、私の着物を置いていってくれなかったんですもの」
恨みがましく上目づかいで言われ、上総は言葉に詰まった。
誰がまさか惚れた女が本物の山の精と思うだろうか、いや思うまい。
「それならそうと言っておいてくれればいいだろう」
「まあ。ちゃんと私は言ったわ。もうここに帰らなきゃいけないって。そしてまた明日会いましょうって。ちゃんとあなたと約束したじゃないの」
本当にひどい人と詰られ、ぐっと上総は口ごもった。確かに言われた覚えはある。しかし誰がそういう意味だと思うだろう。普通、明日と言ったら明日をさすのだ。
だがプライドを捨て、手っ取り早い解決方法を上総は選んだ。なんと言っても一年ぶりに愛しい女が裸で目の前にいるのだ。どこまでも譲れる、男なら。
「悪かったよ」
そのまま女の傍に寄ろうとした時、懐の赤ん坊がぐずり始めた。
「あらあら、坊やったら。そこがとっても気に入ったのね。いいわ、坊やはお父様と行きなさい。私はまたここで一眠りするから、明日、一緒にお母様を起こしに来てね」
「は? ちょっと待て。会ったばかりなんだぞ、深雪っ」
「おやすみなさい。また明日、ね。・・・上総、会えて嬉しかったわ」
にっこりと微笑んで深雪の姿は空気に溶けていった。取り残された上総は、伸ばした手の行き所を失った。
明日って、明日って・・・・・・明日じゃないだろうっ。
動くに動けない姿勢のまま、上総は「これってひどくないか・・・?」と呟いた。
切ない気持ちになりながら、深雪の熾してくれた焚き火で濡れた衣服を乾かし、赤ん坊を懐に入れて上総は城に戻った。
そして両親に「深雪の産んだ俺の子です」と、孫を紹介した。
「ご覧なされ、殿様。若様と深雪様によく似た健やかなお子でございますぞ」
爺は相好を崩して喜んだ。
赤ん坊はすくすくと普通の人間のように育ったが、異常に寒さに強かった。
「そんな薄着で出歩いてはなりませぬ、若様。お風邪を召しまする」
「この程度で風邪などひくものか。案ずるな」
上総が生涯奥方を迎えることはなかった。
しかし毎年冬の間だけ城で暮らす愛妾が年をとらずにいたことから、誰もがその正体をうすうす知るようになった。
「今年も深雪様がおいでじゃ。粗相のないようにな」
「分かり申してござりまする」
深雪と深雪が生んだ子供達五人に看取られて、上総は息を引き取った。
それは春になろうとする、冬の名残りの一日だった。
冬の色しか知らない深雪に春の色だけでも見せてやりたいと、上総が選んだ青竹色の着物を深雪はいつものようにすっきりと着こなしていた。
「また明日な、深雪」
年老いた夫に、若いままの妻は笑って言った。
「いいえ。もう明日はないわ。あなたは私と共に行くのよ、上総」
「そうか。それはいいな」
年老いて震える手を上総は伸ばした。深雪がそれに触れて口づけると、深雪の姿は淡くなり空気に溶けた。その時、上総も息を引き取った。
その昔。秋から冬に移り変わったある日、幼い若君は冒険心から山に分け入った。水も冷たいというのに、凍えもせずに川で水浴びをする長い黒髪の娘を若君は見つけた。
「お前。こんな所で水浴びして寒くないのか?」
「寒くはないが、お前は寒いのか?」
挑発するかのような台詞にむっときた若君は衣服を脱いで川へと入った。水は刺すように痛かった。たちまち幼い体は真っ赤になった。平然と水に浸かる白い肌の女は笑った。
「お前は馬鹿だな」
「お前じゃない。若…、いや上総と呼べ。そういうお前の名は?」
「名などない。呼びたければ好きに呼べ」
白い雪のような肌が幼い目にも焼きついて離れなかった。だから深雪と名づけた。
「ふむ。深雪か。良い名をつけたな、上総」
その冬、雨の日以外は毎日のように川で泳ぐ彼女の元を訪れた。さすがに二度と一緒に川に入ろうとは思わなかったが、魚のようにしなやかな彼女の姿を見るのは好きだった。
「今日は遅かったのだな、上総」
「雪が深すぎたんだ。かなり足をとられた。深雪は平気だったのか」
「ああ」
そう彼女の前でぼやいてからは、何故か雪が深く積もる日はなくなった。
別れる時には常に「また明日」と約束した。
それだけに、彼女の姿が消えた日は辛かった。その日は、その年の最初の菜の花を彼女に贈ろうと摘んでいったのに。
その後、毎日訪れても彼女とは会えなかった。やがて彼女のことは忘れていった。
幼かった子供も少年になり、やがては青年になる。ある秋の終わり、雉を捕まえに上総は再び山へ入り込んだ。
どこか懐かしい水音がした。
見ると、綺麗な娘が水浴びをしていた。
「・・・・・・深雪?」
女は振り返った。その黒々とした瞳に吸い込まれるかと思った。
「はい?」
そんな筈はない。
幼すぎてもう深雪の顔は覚えていなかったが、あの時の深雪ならばこんなに若い筈はなかった。
たまたま同じ名なのだろうと思った。
それでも、この思いを何と呼べばいいのだろう。消えない内に捕まえなくてはと焦り、着物もたくし上げずにバシャバシャと音を立てて川へ入り、彼女の手を掴んだ。
それはまぎれもない実体だった。
「俺と来い、深雪。俺は明日もお前と一緒にいたいんだ」
驚いたようだったが、女は笑ってかすかに頷いた。
「いいわ。一緒に行ってあげる。その代わり最後の明日は、あなたが私の所に来るのよ」