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山から降りた雪 1

 凍えてしまいそうな風が吹きつけていた。

 人気のない山の中、洞窟を前に紺の着物に鉄紺色(てつこんいろ)(はかま)をつけ、刀を腰にさげた上総(かずさ)は辛そうな顔で尋ねた。


「どうして逃げたりした…?」


 蘇芳色(すおういろ)の着物をまとった女、深雪(みゆき)はその質問にただ微笑んだ。

雪をあざむく白い肌に夜空の如き黒髪、そんな深雪には緋色(ひいろ)真紅(しんく)の着物ではあまりにも際立ちすぎるだろう。そう思ってわざわざくすんだ赤色である蘇芳色(すおういろ)を選び、上総が仕立てさせたものだ。

 上総が与えた着物は、やはり深雪に似合っていた。


 自分が見つけ、自分が捕まえ、自分が連れ帰って自分のものにした深雪。まさに上総だけの女だった筈なのに。

 

「答えろ、深雪。なぜ、俺から逃げたっ」


 怒りのままに追いかけてきても、こうして姿を見れば(いと)しさが(つの)る。


「これ以上あなたと一緒にいられないから」


 その言葉を上総が理解するまで少し時間がかかった。

すとんと言葉が心に落ちてくると、上総は自分を否定された衝撃(しょうげき)に耐えなくてはならなかった。

 彼女を強引に城へと連れ帰り、愛妾(あいしょう)という日陰(ひかげ)の身に落としたのは確かに自分だ。どこの者とも分からぬ、身元知れずの女を本妻(ほんさい)にはできなかった。


「俺を憎んでいるというのか。お前をそんな身の上にしたこの俺を」


 くくっと、片手で目を抑えて笑い出す。

 もしも女の憎しみに満ちた目を見ようものなら自分の心臓は止まってしまうだろう。

 ただの村娘なら愛妾ですら光栄だと思っただろうが、この誇り高い彼女が思う筈もないことなどわかっていた。その誇り高さが、今は、ただ憎かった。


 だから上総は気づかなかった。深雪が上総の言葉に眉をひそめて頭を横に振ったのを。

 上総の哄笑(こうしょう)はすぐに力を失って止んだ。己の浅ましさを上総は受け入れたのだった。


「いいさ。憎めばいい。憎み恨んで俺を地獄に引きずり込めばいい。だがな、深雪。俺はお前を手放す気など全くない。ほかの全てを失ってもお前だけが俺の傍にいればいい」


 上総は深雪の腕をつかんで引きずり寄せた。

 名残りの雪が降る最中、蘇芳色の小袖を身につけた深雪の体はいつものようにすんなりと抵抗などせず上総の腕におさまった。自分の胸ほどの背丈しかない深雪は、いつも上総を見上げてくる。

 間近に見た女の瞳に憎悪の光は全くなく、そのことに上総は内心ほっとした。そんな自分に気づくと余計に思い通りにならぬ女に苛立った。


「お願いよ、上総。私を手放して。私はもう城では暮らせない」

「嫌だ。そしてお前はどこへ行く気だ。俺を、俺を置いて」

「私はここに帰らなくては。私がいるべき場所はこの山にあるのだから」


 唯一の愛妾が逃亡したと聞いて即座に追ってきたものの、想像していた男がらみとは別だったことに上総は安堵してもいた。

 自分と暮らす城よりも生まれ育った山が恋しいというのは情けなかったが、説得すればわかってくれるだろう。


「とりあえずそこの洞窟(どうくつ)に入ろう。このままでは風邪をひく」


 目の前にあった洞窟へと移動して雪と風をしのぐ。洞窟の中は暖かかった。


「深雪。こんな山に何があるというんだ。俺の城がそんなに不満か」

「この山を侮辱(ぶじょく)しては駄目よ、上総。あなたの領地を敵から守り、幸を与えてくれる山なのだから」


 とても優しい声だった。他の人間にはほとんど口もきかず、愛想笑いの一つもしない彼女は上総だけに優しく(さえず)る白い小鳥だった。

 洞窟の壁にもたれて座る上総に重なるようにして身を預けてくる深雪は軽くて華奢(きゃしゃ)だ。力を入れたら折れそうで、いつも大事に抱かずにはいられない。


「そうだな。そして俺がお前と出会った場所だ。だからお前はこの山の神からの俺へのくだされもの。逃げるだなんて許さない」


 すでに会話は睦言(むつごと)の響きを帯びていた。

 立っていれば旋毛(つむじ)しか見えないが、こうしていれば長い睫毛(まつげ)と黒い瞳が自分を見つめてくる。二人だけの時は、互いの声も低く(つや)()びていくものだった。


「行くなよ、深雪」

「困った人」


 ねだるように甘えるように上総が深雪の耳の近くで(ささや)くと、深雪がゆっくり顔をあげてくる。そうして優しく包むように深雪が(つむ)ぎだす言葉は、彼女が自分を受け入れる合図でもあった。


 困ったと言いながら、その言葉さえ出れば深雪は上総の願いを聞き入れる。


やがて安心して上総は深雪を抱いたまま目を閉じた。

あれほど(あせ)って追いかけてきたせいだろう、こうして捕まえたことで上総も安心して眠気が訪れていた。

他の誰よりも近くに寄り添う二人だけの世界で、洞窟の中は暖かかった。


「おやすみなさい。また明日、ね」


 強烈な、それでいて安らげる闇に引きずり込まれ、上総の口は言葉を紡げなかった。それでも深雪には伝わっただろう。かつて何度となく交わした挨拶だったからだ。


―――ああ、また明日な。


 だが、上総が目覚めた時、深雪は傍にいなかった。眠る上総が風邪をひかないようにとの心遣(こころづか)いからか、深雪がまとっていた着物一式が上総に掛けられていた。彼女の(かんざし)も、上総の刀の横に置き去りにされていた。


「深雪?」


 裸で出歩いているとしか思えない状況に驚き、上総は慌てて辺りを探した。しかし彼女の姿は見当たらなかった。

 自分が与えた着物も(かんざし)も置いていった彼女。

 不思議と捨てられたようには感じなかったが、それでも大きな喪失感があった。


 上総は肩を落としてとぼとぼと山を下りた。何度も何度も振り返りながら。









「おお、若様。探しましたぞ。で、深雪様は?」

(じい)か。見つけたがいなくなった。もう、捜す必要はない。捜索(そうさく)は打ち切らせろ」


 気落ちしている主人に、白髪の老爺(ろうや)は慰めの言葉をかけた。


「お腹がすいとりましょう。まずは鍋を召し上がってゆっくりお休みなさりませ」


 身元がはっきりしない深雪を城に連れ帰った時、反対する母や乳母を説き伏せてくれたのがこの爺だった。


「なあ、爺。俺は深雪に憎まれていたのか」

「それは違いますでしょう」

「ならどうしていなくなったんだ」

「はて。好き嫌いだけで物事は動いておりませんからの」


 いつもなら上総の世話を焼くのは乳母の役目だったが、今日ばかりは爺が遠ざけてくれているようだった。それがとてもありがたかった。

 老爺は鴨肉(かもにく)や葱、人参や白菜を煮込んだ鍋をよそって上総に差し出した。受け取ると、その椀の温かみが手のひらから心に沁みた。


「お方様(かたさま)乳母殿(うばどの)は、深雪様を恩知らずの性悪女(しょうわるおんな)だなどと(ののし)っておいでですが、さて上総様、深雪様はこの城に来ることで何か得たものはあったのでしょうかな」


 上総は息を呑んだ。自分が手に入れた美しい小鳥は不幸だったのだろうか。


「綺麗な着物も人に頭を下げられることにも興味のないお方でしたな。親も家もないという話でしたが、下賎(げせん)な身の上ではありますまい。城に来たのも上総様が望んだからにござりましょう。ほんに地上に舞い降りた天女のようでござりましたな」

「・・・下賎の身の上ではない?」

「あの物腰と気品、人に頭を下げることなどありえないお育ちでございましょう。愛妾ではなく奥方としてお迎えすべき所を、身元を明らかにしてくださらなかったばかりに」

「・・・てっきりそこらの村娘かと思ってた」

「若様は世間知らずでいらっしゃいますからな」


 むかついた上総は黙って(わん)すすり、大盛り飯(おおもりめし)も漬物と一緒に咀嚼(そしゃく)して飲み込んだ。


「なあ、爺。俺は今も逃げられたようには感じんのだ」

「それはまた」


 自信家なことでと、揶揄(やゆ)された気がして、上総の突っ張った気持ちがしぼんでいく。感情的な母や乳母と違い、爺は自分よりも一歩も二歩も先を見通しているところがあった。気弱になりつつ、上総はその心を吐露(とろ)する。


「だが取り戻す為にはどうすればいいのかわからん」

「いつでも迎えに行けるようにしておくしかありませんな」


 そう言われると、深雪が戻ってくることがはっきりしているように思えた。


「そうだな。この冬、深雪に溺れすぎた。さぞかし皆には腑抜(ふぬ)けと思われてもいよう。まずは明日からすべきことをなさねばな」


 深雪を城に連れ帰ったその日から、上総は一日たりとも深雪を傍から離さなかった。自分でも凄まじい執着だったと思う。


「その調子でござりますよ」


 負け惜しみにすら聞こえる言葉に頷いてみせ、爺は食べ終えた膳を片付けて廊下に出た。


「おや、もう春でござりますな。若様。庭に黄色い花が咲いておりますぞ」








 突然城から消えた上総の愛妾に、「あの女は泥棒だったのだろう」「いや、間諜(かんちょう)だったに違いない」などと噂はたったがすぐ消えた。

 城から持ち出された物が何一つなく、また上総以外の人とは会話すら避けていた女だったからである。

 その寵愛(ちょうあい)ぶりから、くだんの愛妾を失った息子の落ち込みようを心配した父の城主だったが、却って上総は吹っ切れたかのように精力的に動くようになっていた。


「爺。上総を知らんか?」

「若様なら大雨で(せき)がどうなったか心配だから見に行くとおっしゃっておいででしたが」


 言われずとも率先して動くのは良いことである。とはいえ、父としてはそのがむしゃらぶりが息子の痛手を物語っているようにしか思えない。


「大分たつが、まだ吹っ切れんのかのう」

「おかげで見回りにも精が出て、領内の人気は鰻上(うなぎのぼ)りでござりますよ。結構なことで」

「見回りついでに気に入った娘の一人も連れてくればいいものを」


 新しいおなごをあてがえば心も落ち着こう。そう言った城主に、爺は「それはどうでしょうな」と控えめに苦笑する。


「乳母殿が吟味(ぎんみ)して選んだ娘ごもおりましたが、いかんせん若様が嫌がられまして」


 城主はふうっとため息をついた。


「あの深雪というおなご、爺はどう見た? 上総が傍にいる時には優しゅうて大人しゅうもあったがの、上総がいない時に呼び出した日には夜叉(やしゃ)の顔を見せおったわ」

「夜叉とは剣呑(けんのん)剣呑。よくぞ手打ちになさらなかったもので」


 そう言いながら、爺はまるで手打ちになど出来る筈がないといった様子である。


「わしの前でわざとあのおなごに熱い茶をこぼした腰元の顔に、湯飲みの残りをぶっかけおった。そして『(しつけ)がなっとらんの、ご城主殿』とのたもうたのだ。あそこでわしが逆上しようものならわしの株が下がるわ」


 城主は苦虫をかみつぶしたような顔になる。


「あんなきついおなご、上総の気がしれん。あの目は、まともな人のものではない」

「殿様もお若うていらっしゃりますからな。年寄りから見れば深雪様は下手につつかなければお優しいお方ですぞ。・・・・・・ですが」

「なんじゃ、もったいぶりおって」

「いえ。ですが初めてお迎えになったお方がそれというのもまた若様も不憫(ふびん)なことではござります。始めは少々器量(きりょう)が落ちるくらいがよろしいので」

「おなごは器量よしに限ろうよ。まあ、あのおなごも顔だけは良かったではないか」

「だから殿様も若うておいでと申します」


 爺にけなされて城主もフンと鼻を鳴らす。どういう意味かと尋ねると、爺は「おなごを選ぶのは刀を選ぶのと同じでございますよ」と言う。


「おなごは刀と一緒で、最初は(くせ)のない使いやすい物を、そして慣れたら己にあった特徴の物を選び、使いこなせるようになったらとびきりの業物(わざもの)を手に入れる、そんなものでござりますよ。・・・ですが深雪様は初めからとびきりでございました」

「ならば何故あのおなごを城に入れるよう、わしに薦めた?」


 身元の知れぬ女を連れ帰った息子を怒鳴(どな)りつけた城主に、そこでただ一人上総の味方をしたのがこの爺だった。


「最初に目にしたのが一流の刀なれば、今更(いまさら)他の物など目に入りませぬからな」

愛妾というのもある意味で不道徳的なのかと思いまして、R15にさせていただきました。

・・・この程度は大丈夫ではないかとも思ったのですが、今どきの15歳未満がどこまでOKなのかが分からなかったのです。

「この程度は大丈夫だろう」と思われたら、全くもってその通りです、すみません。


ただ・・・もしも、この短い話を見つけてご覧になった大人の方がいらっしゃいましたら、・・・・・・描写していないだけで、描写したらR18になることはバレバレではないかと思ったりもしています。はい、けがれた大人ですみません<(_ _)>。

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