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全話収録

5年前にとあるライトノベル新人賞に応募し、三次落ちした作品です。暖かいコメントから辛辣なコメントまでなんでもいただけると幸いです。

プロローグ


因果のもとを辿るなんて、不毛なことにしか思われないが、こんな異常な生活を送るはめになってしまった原因を無理やりにでも辿って行けば、それはやはり親父たちに帰するのだろう。

あれは姉貴が高校に上がった時のことだったから、俺は中学生になったばかりだったということになる。

 「旅に出てきます。一週間もしたら帰るでしょう」

 と、朝起きてリビングの机を見ると、寝ぼけ眼がこんな手紙が置かれているのを見つけたわけだ。子供たちに黙って急に消えてしまうとはなんとも無責任な話で、その当時、茜はまだ小学四年生だったはずだ。

 俺でさえ不安に感じたんだ、茜は随分と不安だったことだろう。それでも姉貴が親代わりとなって俺と茜がお手伝い、何とか一週間を乗り切った。

しかし親父たちったら金も満足に置いていかないで出て行ってしまったため、毎食を外食ですませるなんてこともできず、三人して料理およびその他の家事に奮闘したというわけだ。おかげで姉貴と茜にとっては振り返ってみればいい花嫁修業になり、俺も料理の一つくらいはできるようになったのはたしかである―――――――――――――

しかし………何事も経験とはよく言ったものだが、なんにしたってひどい話だ。子供三人、生活していくことはできても親のいない不安の方が大きかったと記憶している。四年も前のことだというのに一日一日が鮮明なのだ、当時のことがよっぽど印象深かったということだろう。

 そんな苦い経験をしたわけだが、その旅行自体が大阪家の子供たちにとって別段大きな問題だったというわけではない。しかし、きっかけとなったのは間違いなかった。

親父たちに大した土産話もなく、そればかりか、ろくな土産だって買ってこなかった。ただ、旅行から帰ってきて子供たちの無事を確認した親父たちはそれからというもの、子供たちがみんな学校だというのに急にヒョイッと旅行に出かけるようになってしまった。夏休み期間とかいうのならまだしも、子供たちがみんな学校へ行かねばならないという時に突如として消えてしまうわけだ。朝起きてリビングに行ってみると朝食は用意されておらず、さっきのような手紙が置かれているということが度々となった。

 こんな状況で子供三人、またか、なんていってよく笑えたものである。

 そしてさらに問題なのが、親父たちの旅行に行く長さというものが次第に長くなっていったということだ。

 初めから一週間というのも長いのだが、二度目には十日、三度目には二週間、以下省略……となって、今から三か月前、たしか二月に入ったばかりで、かなり寒かったという記憶があるが、ついに問題の手紙がリビングにおかれたわけである。

「旅に出てきます。今回は世界一周なので少しばかり長くなるかもしれませんね。ですが、

一年もしたら帰るでしょう 母より」

いつも通りの文句である。『帰るでしょう』とは、なんとも無責任な話である。しかし一年とはまた長い。前回の六カ月から大幅に記録更新とは、まったくとんだ道楽カップルだ。

ヒラリ

書置きが風に吹かれて床へ落ちる。するともう一枚紙があることに気付いた。書置きには続きがあったみたいだ。

 「まとまったお金として三百万円置いていきます。大事に使ってください」

 無責任な書置きの隣には、確かに茶封筒が三つ、二段になっていかにもそうに置かれている。

 ひゃくまんえん それは概念として理解してはいても、未知の金額。

 三か月前の俺には果たしてその額が三人で一年という時間を過ごすのに十分であるのか、判断がつかなかったが、結果を言えば―――――全く足りなかったのである。

もちろんいつだって置いて行く額はぎりぎりだったから、余るほどあるはずはないと思っていたのだが、姉貴の計算によると九カ月でもう危険域だというのである。紙の輪で留められた束を三人で何度も何度も数えたところ、耳をそろえてきっちり三百万であった。

わずかな足しとなったのは「旅行貯金」三万円強である。もちろんこの「旅行貯金」なるものは自分たちで計画を立てて旅行に行こうというものではなく、いつ両親の気まぐれが降りかかってもいいようにと、姉貴が提案したものである。子供たち三人が、なけなしの金を出し合ってできた、気休め程度の金だった。

 こんなことをしないでも親父たちに文句を言えばいい話なのだが、姉貴は断固として親父たちに文句を言うのを禁ずるのである。そんな姉貴の言うことを盲目的に信じるのが茜であり、二人に迫られると文句も言えないのが姉妹二人に年齢的にサンドイッチされた俺なのである。

 さてさて、三百三万円を手にこれまでよりさらに生活を切りつめてなんとか一年を乗り切ろうと意気込んで始まったこの生活なのであるが、よくよく考えれば無理な話である。

この世には年齢が上がるにつれて使う金の少なくなる奴なんていないんだ。食費は無論のこと、茜だってここ何年かでおしゃれに気を遣うようになってきた。なってきてしまったのだ、あの茜が。

それだというのに、食べるのだけがぎりぎりという生活ではあんまりというものだ。この時ばかりはさすがに親父たちに腹を立てたね。いったい何を考えてるんだって。でも、姉貴は依然として両親にはだんまりとして文句を言わなかった。たぶん姉貴は俺たちに内緒で言伝でも預かっているんだろう。もちろん気になりはするが、問い詰めたところでのらりくらりとかわされるのがおちだ。無駄な労力を使っては腹が減る。腹がへっては食費がかかり、食費がかかれば金は減る。

 はした金を手にした俺と姉貴が始めたことといえば――――言わずもがな、アルバイトなるものであった。なにせ家計は火の車。ゴロゴロと音を立てて転がる始末。行き先は奈落の底。

 というわけでバイトは避けられなかったのだ。ただ、俺も姉貴も出来れば労働なんてものはしたくなかったのである。

 元来がのんびり屋の姉貴で、おいしいご飯にあったかいお風呂、さらにあったかい布団があればそれだけで幸せという人間なのである。こんなのんびり星人に大事な大事な家計の財布のひもを握らしておいていいのかと本気で心配になるのだが、これが弟と妹の危機だとわかると肝っ玉母さんになる。両親が初めて旅行といって飛び出して三年という月日がたつのだ。大阪家の大黒柱として過ごした年月はだてじゃない。月日はいつの間にやら姉貴をなんでもござれの完璧超人にしてしまった。

 だが……………働くのはやっぱり相当覚悟がいるようだった。姉貴が働き始めたのはつい一週間前のこと。自分のかわいさと妹の可愛さを両てんびんに掛けた結果、やはり働かなくてはならないと決意したようである。

 姉貴が働き始めた。それは一向に構わないのだが、高校生となって労働が可能となった俺が姉貴一人に働かせるわけにもいかないのである。俺がバイトを始めたというのは自然の成り行きだった。

 この一週間でわかったことだが、たかだかアルバイトでまとまった金を手に入れるというのは案外骨である。というわけで俺と姉貴はそれぞれ高校・大学に通いながら汗水流して働いているのだ。大変なんだな、大人って……………そう思いつつ、どうしても親父の働いてる姿は目に浮かばない。

 姉貴が家を空けることが多くなった今、誰が家の家事をする?

 流れからして茜に任せたくなるところである。この三年、俺も姉貴も親父たちのおかげで随分と成長した、もといさせられた。だがなんといっても一番たくましく(?)なったのは茜だ。中学生となった茜は今や大阪家では一番のしっかり者となった。家事ならなんでもござれの完璧超人二号…………は言い過ぎだが、間違いなく中学生としては非凡なハウスワークテクを身につけているのだ(どうもホームワークの方は苦手らしいのだが……俺の妹なのだから仕方ない)。小さな妹だと思ってた茜がなんとも立派になったものだ。いやしかし、まだまだただのガキンチョであることも確かだ。なんといっても言動は中学生だ。

 ということで不公平なぐらいに茜を可愛がっている姉貴は、家のことをすべて茜に押し付けることはできないといって、家事は三等分というのが大阪家の大原則となった。曜日毎の当番表まできっちり作って、そういうところはマメなのだ。

 ここでもうひとつ、忘れてはならないことがある。いやむしろ、これを忘れてはなにも始まらないのだが、大阪家にはクサンティッペなる雌猫が存在する。この猫、見た目は何ら普通の猫なのである。なにを持って普通とするのかは知ったことではないが、いつだって一日中家でゴロゴロしているのだから、これ以上の普通はないだろう。家族からはクーと呼ばれ、もはや長ったらしいフルネームなんて忘れられているのだろう。俺はいつだって『クサンティッペ』と呼んでいる。

 名前は少し変だが、全身真っ白の体躯に耳としっぽだけが黒い、たぶん探せばどこにでもいるごく普通の猫。一日中フラフラと近所へ出歩き、家に帰ってきたかと思うと必ず何か貰ってきて口にくわえているという、妙に世渡り上手で、町内ではわりと名の知られた、人気の猫。

しかし時々不思議な猫に見えることがあるのは、クサンティッペがよく家族で話しているとこちらを見ていることがあるからだ。もちろんただボーっと眺めているだけなんだろうが、もしかしたら人間の言葉を理解しているんじゃないかなんて感じてしまう。ただ、そんな疑念もクサンティッペの平和そうな顔を見ていればなんだかどうでもよくなってしまうし、そんなこと考えている自分もばからしくなってしまうのだが。


 いずれにしても、これですっかり舞台は整った。俺と姉貴は家事にバイトに学校に、茜は家事に部活に学校に、とにかくひたすら忙しかったわけである。

 そう考えてみると、この忙しさの責任は親父たちってことになるよな?

とすると、俺がバイト漬けでくたくたになったゴールデンウィーク明けの朝、『猫の手も借りたい』だなんてクサンティッペ相手についつい話しかけてしまったのも、決して俺の責任ではないだろう?



 かわいくって、仕方がないのである。好きで好きで、仕方がないのである。

 なにが?

 クラスの意中の女の子が? いやいや

 今売れっ子の女性タレントが? ノンノン

 

『ねこ』がである。

 

それはもう、誰が何といったって猫がかわいいのである。あの円らなうるうるの瞳はもちろん、ぴよ~んと伸びるひげ、ちっちゃな顔の上に乗っかる、二つの三角帽子みたいな愛らしすぎる耳、ふにゃふにゃと柔らかくて、ついつい撫でてしまうのだ。ねこちゃんのほうも目を瞑って気持ち良さそうにすると、こちらまで雲の上に浮かんだような安らぎが得られる。

雲の上どころか天国へ…………………いやいや!!

ついついため息だって出てしまう。

全身真っ白な毛を首から背中までスーッと指を走らせるあの感覚、それは、この世のありとあらゆる毛皮や合成素材なんかより気持ちいいのだ。なめらかな指触りに、人間よりも少し高めの体温はあったかく、体全体が柔らかくってふわっふわ、もうたまらないのである。

ぎゅっとしたくなるのだ、包み込んでしまいたくなるのだ。

それにしっぽ。しっぽ!しっぽだ!なんだかもう、かわいいを通り越して官能的でさえある。反則だ、あのうねうねは!!触ろうとすると先の方だけぴくっと反応して避けようとする。それがまたたまらなく、いい!!!!!

そして、極めつけは『にくきゅう』 なんだこの響き、心臓をきゅーって締め付けられるような、なのについにやけてしまう音の調和。声に出して『にくきゅう』 この言いづらさがまたなんともいえない。

前足を片手で持ちあげてやって、もう一方の手でピンクで丸っこいのを指で押す。それは押されるとフニフニとしていて、これ以上の感触は、この世には存在しないのである。

 にくきゅうを触っているとき以上の幸福なんてものはこの世にはないわけで、それすなわち猫と一緒にいる時間が、生きているうえでの至福の時間なのである、誰が何と言おうと。

 だから、なにをされたって平気なのだ。たとえば今、現在時刻五時三分四十秒、この季節になってやっと日の出時刻と相成った早朝も早朝、いきなり本棚の上から顔面めがけて腹からダイブされたって、それがレスラーがポールから思いっきりのしかかるぐらいの衝撃に感じたって、全部平気なのである。

 なぜ?

 それが猫だから。むしろ、待っていたのである。最初はにゃーなんて可愛らしい声をあげて起こそうとする。あえて起きない。

次に軽いねこパンチを繰り出してくる。にくきゅうが当たる。わざと気がつかないふり。

そして顔の上にのしかかる。そんなんじゃ目は覚めない。

それでもだめならダイブする。顔に張り付くそれは天使の羽、息することなんて忘れて、快感に昇天しそうになる。仕方ないから俺は起き上がる。けど、クサンティッペを驚かせないように静かに、どこかへ逃げてしまわぬようにゆっくり。

 それがラブコールでも何でもない、ただ朝の餌をねだっているだけだってのは重々承知でも、起きてしまうのである。それが、猫好きの性だから。無償の愛を与えるのである。

 いつも俺のベッドの端に用意された、専用のねこ用ベッドで丸くなっているクサンティッペは、昨日の夜なんか俺の脇の下に頭をすりすりとしてきた。そのこそばゆくも愛に満ちた感覚がよみがえり、さらに愛しい。

 だから五月といえどまだ早朝は寒いこの季節、クサンティッペに先導されながら、ダブダブのグレーのパーカーになにもはおらず、下は穿き過ぎてあまりにもフィットしたジャージ、髪を十九世紀の音楽家の頭みたいにして部屋を出る俺は迷惑だなんてカケラも思わない。

そう、そこには愛があるから!

 階段を下りてキッチンへ、いつもの場所からいつものやつを、いつもの量だけ取り出して与えてやる。そうしている間も我が愛猫はしっぽを天へとピンと伸ばし、足元ですりすりと体をなすりつけてくる。ドライフードと缶詰をスプーンを使って適当に混ぜてやる顔は、にやける。        

頭の上には天使が舞い踊る。

 餌をうまそうに食べるクサンティッペを眺めつつ、またにやける。それは赤ん坊がおっぱいをおいしそうに飲むのをみる母親の気分。顔を綻ばせながら、今日は何回もってくるかな?なんて考える。

うちの利口なクサンティッペちゃん、なんの訓練もしないのに、ボールをひょいと投げたらくわえて持ってきたのだ。その健気さったら!!

 一度もってくると、次を催促するように、あの翡翠色とエメラルドと牡丹色とゴールドとを混ぜ合わせたような、特別な虹色に輝く目でこちらを見つめるのだ。もの欲しそうな目で、こちらを見上げるのだ。それは仲間にして欲しそうな目でこちらを見ている魔物なんかより、百倍はかわいくて、その瞳に、もうまいってしまうのである。

 たくさん持ってきてくれれば、それだけたくさんあの目を眺められる。

 しかしこの猫ったら飽きっぽい。毎日欠かさずやっているというのもあるが、十回もってくれば上出来なのだ。なんとか記録を伸ばしたい、そう思って一日我慢させようと毎日試みているのだが、足元でねだるように「にゃ」って鳴かれると、それを無視して部屋に戻るなんてことはできないのである。それが飼い主の性だから。

「ほら、いくぞ~」

 ポイッ たったったったった パク たったったったった ぽとり なでなで じ~

「もう一丁いくぞ!」

 ピューン たったったったった パク たったったったった ぽとり なでなで じ~


   ―――――――――――――――――――――――――――

 

「よし、いくぞ~!」

 ピューン ぷいっ スタスタスタ 

 行ってしまった…………………いいのだ、愛があれば。今日は十回も出来なかったけど、明日はきっと出来るさ。

 筋金がいったい何本入っているかわからないこの愛猫魂は、これしきの事じゃ音を上げない。

 この後もうひと眠りして起きる頃にはたぶん瞼を開けるのさえつらい。さっきはあんなにも心地よく目覚めたというのに、時計の短針が二回りもする頃になると、茜という名のプチ恐竜が俺の部屋へドシドシと踏み込んでくる。

 枕もとへ立ったかと思うと『にゃー』ではなく、「起きろー!!!!」

 軽いねこパンチではなくホンマもんのビンタ。

 ふわふわのおなかでのしかかるどころか、手ごろな雑誌で顔を強打。

 そして……………そのあとは言うまい。



 ドスドスドスドス バタン ドスドス

「おにいちゃ~ん、朝だよ、起きろー!!!!」

 朝っぱらから廊下を音をたてて走る奴などこの家には一人しかいない。

 重いのではない、踏み込む一歩が、強いのだ。

髪を緑色のゴムで頭の両側に結って、まとめられた髪の束を元気よく揺らしながら耳に響く声でわめきたてるのは大阪 茜(14・女)。

窓から差し込む金色の陽光をものともせず、むしろそれを押し返すような光輝のオーラを放ってで~んとしている。

原色緑の、やたらにポケットがついたエプロンをつけ、腰に手を当て仁王立ち。学校の家庭科の時間に作らされたのであろう、華のないそのひらひらは、裁縫さえ超絶にこなす大阪家の台所守の作だけあって、見事な出来栄えだった。

「贅沢は敵」が口癖という哀れな女子中学生は「モッタイナイ」の精神で二年間同じエプロンを使い続けている。真緑の下にはもうすっかり制服を着込んでいて、久しぶりの学校が楽しみでたまらないと見える。まったく、羨ましいというか、おめでたいというか―――

「あー、しちじよんじゅうろっぷんとさんじゅうびょう、ってなんだ?」

 呪文みたいに何かを唱えつつ、口から出る時刻はさっぱりと頭に入らない。

「なんだ、起きてるじゃん」

 申し訳ほどにちょいちょいとある細い眉で漢字の八を作る顔は残念そう。今日はどうやって起こそうかなんて悪魔の脳内会議を開いていたに違いないのだ。

「俺はお前の十分の一ほどの大きさの哺乳類の吐息で毎朝目覚めてるんだ。恐竜がバッタンバッタンと階段を踏みならす音があれば目ざましには十分過ぎだ」

「ねここん」

「なんだ、ねここんって?」

 茜の健康そうに薄赤く染まった唇から投げ捨てるように出た単語はどことなくマヌケな響き。

「猫コンプレックスだから猫コン」

「なに、俺の愛をそんな不純そうな単語で集約しようとするのは許せんぞ」

「あ~もう、うるさいな~。今朝だって、クーに餌あげて一緒に遊んでたでしょ!そこまでするならみんなの分の朝食も作ってよ!」

「クサンティッペが俺を求めるんだ」

「ご飯を求めてるんでしょ!いい、おにいちゃん!クーをかわいがるのもいいけど、あんまりご飯あげすぎると『デブ猫』になっちゃうんだから!」

 その単語が鼓膜を響かせ脳に到達したと同時、体中には電撃、喉は綿をつめられたみたいに詰まり、つい「うっ」と声をあげてしまう。文字にして三文字、音にして四文字のその呪詛に満ちたワード。『で・ぶ・ね・こ』 「ねこ」とつくのに、まったくかわいげのないその響き。

 目を瞑った闇の中に佇むのはぶくぶく、まるまるとした、マシュマロ………もとい鏡餅みたいな真っ白な愛猫の姿。

「あうぅ」

 情けなくも首をうなだれる。そんな兄を見下ろすのは鼻っ柱が強い強い我が妹。

「それにしても今朝は随分とご機嫌そうだな」

 犬みたいに頭をぶるぶると振って眠気を飛ばそうとする。

「今日は茜、体育の授業でサッカーがあるんだ!」

 学校が楽しみというのにも驚きだが、サッカーの授業が楽しみだというのはそれ以上に驚きの一言だ。

「中学、それも二年になったってのに、サッカーの時間が楽しみとは。だいたい女子が体育の授業でサッカーをやってるのなんて俺は見たことないぞ」

「茜、体育委員になったから、できるようにしたの!」

 我が妹の一人称は『茜』である。

「お前なぁ、一人称を名前で呼ぶのはかわいい子にしか許されないんだぞ」

「茜は茜だから茜なの!」

 言いたいことはわかるのだがいかにも頭の悪そうな返答だ。

「頑張れよ、サッカー」

「うん、おにいちゃんもたくさん頑張ってね」

 学校生活の中のどこにたくさん頑張ることがあるのかを教えてほしいものだな。

「コイに・部活に・勉強に・だよ!おにいちゃん!」

 俺に部活でも頑張る時間を分けてほしいものだ!それに勉強なんて頑張る奴がこの世にいるとは信じたくない。鯉?―――――恋か、そんなもんは頑張らん。俺の体の内に作りだされる愛の欲望はしっかりと行き先を定めて一直線に向かっているのだ。ただ、その熱玉がどこまで相手に届いてるかはわからないが―――――――いいのだ、無償の愛だから。

 だいたいこいつの中ではこれが学校で頑張ることの優先順位なのか?

 嘘を付け、どうせクラスメイトの人気者の女子の言葉の受け売りだろ。

 お前なら「飯に・遊びに・雑談に」だろうからな

「まぁ、なんだっていいが無理はするなよ」

「わかってるっ!心配してくれてありがとうねっ、おにいちゃん!」

 語尾にハートマークを付けるような言い方をするな、気色の悪い。

バタバタ バタン バタバタ

 本当に、風のように去って行くやつだ。

 相変わらず瞼は落ちてくる。この時間はいつもそうである。日本全国の小中高生が寝ぼけ眼をさすって学校なる収容所への支度をしているのだ。

 だがしかし、俺に限ってはこれは時間の問題なんかではない。

Who wake me up ?

 それが問題だ。

 クサンティッペはこの時間は起こしに来てくれない。今朝だって餌をやったのに……………

 いいのだ、クサンティッペの貴重な日向ぼっこタイムを奪うだなんてとんでもない。

 キリスト者のごとく、一方通行の愛を、わが愛猫に与えておけばそれで満足なのだ…………



 バシャバシャ キュッキュ

 宿題ってのは、どうして提出日の当日の朝まで気がつかないようになっているのだろうか?

 それは、学校側の陰謀だ――――――――――言ってみたかっただけである。

自分が悪いのはわかっているのだ。自分でやらないのはともかく、宿題を見せてもらう友達がいないというのはあまりにも大きな痛手だ。見せてくれなくったって、勉強の話になって宿題があることを思い出させてくれるようなやつが周りにはいないんだ。あいつとか、あいつとか、別のあいつとか。頭の中で指折り、片手で済んでしまった。やっぱり勉強面で頼れる男はいない。運動だけは猿みたいにできるやつならいるんだが、猿知恵に勉強を問うほど、俺も落ちちゃいない。

バシャバシャ キュッキュ

ゴールデンだというのに輝きなんてほとんどゼロだったこの連休、バイトバイトで忙しかったのも事実だ。ただでさえ家の外で働いているというのに、ホームでワークなんてする気にもなれなかった。働いて、家でのんびりして(猫と)、働いて、家でのんびりして(猫と)の繰り返しだったのだ。

いまだって本当はシャーペン片手に頭と右手を動かしていなければならないはずなのだが、していることといったら大阪家の人々+一匹の朝食の洗い物をすること。特にクサンティッペの餌入れは念入りに。

今日も、全速力で学校までダッシュしなければいけないんだろう。休み前に配られた白いプリントを真っ白くしたまま。

憂鬱の色を隠せない洗い物当番の隣、クサンティッペがちょこんと座っていた。

目が合ったかと思ったら、大きな欠伸をかまされる。普段は見えないぐらいに小さな口が、縦に大きく開いて、野生の牙があらわになる。でもそんな牙さえチャーミング。

しかし、なんとなく心は折れる。

疲れは人を弱くする。普段ならマイラヴァーなクサンティッペに対してこんなことを言うなんて絶対にないのに、ついつい口からこぼれてしまった。

「まったく、猫の手も借りたいよ」

 バシャバシャ キュッキュ

 ぼやきつつも右手にスポンジを、左手に皿をひたすら洗う。ファミレスのバイトに家の家事、皿洗いならお手の物。かかった時間はわずかに二分。しかし登校前にはあまりに貴重な二分。

 面倒くさいことも済んでしまえば案外に気持ちのいいもの。猫の手も借りたいだなんて暴言を吐いてしまったことを謝罪すべく、クサンティッペの頭をなでてやろうとふと横を見る。


 しかしそこには、すでにクサンティッペの姿はなかった。






濃い青のボディにグレーの肩掛け、ごくごく普通の、高校生が持つ学生かばんを手にぶら提げ、広くはない背に背負うのは孤独と陰鬱。

詩的な気分になっているのではない、本当に、猫もびっくりの猫背になって、まだ日の沈む気配のないアスファルトを黄色く染める日を背に歩いているのだ。左右交互に出される足が確実に前へ進んでいるのを確認しながら、歩く歩幅はできるだけ大きく、動かすスピードは出来るだけ早く。はたから見ればそれは夢・希望に満ち、颯爽と歩く高校生にも見えただろう。

家に帰ったって特になにをするでもないのに、どうしてか早く家に着きたがる。わき目もふらず、アスファルトに映る影と動く両足を交互に眺めて。

おしゃべりしながら歩く二人組の買い物帰りの主婦や、日光を受けててかてか光る真黒なランドセルをぶん回す少年群とすれ違うのをちらっと眺め、すぐにまた目を元の位置に戻す。

自分は全身日光に照らされていることなんて気がつかず、ただなにも考えずに歩いている。

足を動かす動作は、いつもの赤信号によって阻まれ、仕方がないからそこで足を止める。

何気なく開いた携帯は、メールが二件届いていることを知らせる、どちらも姉貴からだ。


「from:大阪乙姫 題:夕飯 本文:今日の夕飯はなにが食べたい? 早い者勝ちだよ!」

 茜にも同時送信されているみたいだ。

「from:大阪乙姫 題:夕飯 本文:茜の勝ち!今日の夕飯はハンバーグで~す!」

 茜にも同時送信されているみたいだ。


「なんかもう、二人でやってくれよ…………………」

信号が青に変わり、待っていたほんの数人の人たちが歩きはじめる。

海高の生徒は、他には一人もいない。

俺もつられて、歩き慣れた、歩き飽きた一本道に歩を進める。その道は、本当に殺風景だ。

残りの半日、夕食のハンバーグだけを唯一の楽しみにして、いつもと変わらぬ日常をただただ歩き始めた―――――



「憧れのマイホーム」なんて言葉をよく耳にする。だが一軒家なんて、戸締りが面倒だったり、近所付き合いが煩わしかったりと、決して楽ではない。

色とりどりの傘がたててあるのを横目に、木製の玄関ドアのドアノブに手を掛ける。

ガチャンという音で予想外の反発を受けた。鍵がかかっているということは、茜はまだ帰ってきていないということか。今日は茜の奴、部活あったんだっけかな?

仕方ない、バッグの下のほうに埋もれていた鍵をガサゴソととりだしてドアを開ける。

     ガサッ、ガサガサッ

 ドアが閉まるのに合わせて家の奥のほうから聞こえてきたのは何かを漁るような、ビニールの袋がこすれる音。音の主はリビングのほうか。茜が買い物にでも行ってきて、買ってきた品を冷蔵庫へ詰めているのか。

しかしならどうして鍵がかかってた?

もちろん物騒だからいつも鍵をかけるように注意はしている。しかし茜がそれを守ったためしがないじゃないか。

頭蓋骨にビンビンと鳴り響くいつもの「おかえりっっっ!!!!!」も聞こえない。

それにこの背中を下から上へと這い上っていくようなゾクっとしたなんとも形容しがたい感じはなんだ?思わず背筋がピンとなる。

不安感か、いや、これは恐怖感だ。いるはずのないものがそこにいるという不思議な感覚。

そいつは俺の帰宅に気付いただろうか?ドアが閉まる音は遠慮なしに鳴ってしまったが、依然としてビニールのガサガサはなり続ける。

 そこでふとあることに気付く。

そうだ、なんの驚くことはない。クサンティッペではないか。そうだ、そうに違いない。無駄に悪寒など走りおって、この体め。まったく紛らわしい。そういえば前にもこんなことがあった気がする。そうしてリビングに近づいて中へ踏み込もうとする。

と、部屋へ入ろうとするほんの間際、

  ギィいィ ギィいィ

 猫とは違う、一定の重さをもって何かを踏みしめるような音が密室の静寂にこだました。そう、まるで二本足で立つ霊長類のような、それはまさに『ヒトの』「足音」

 さらに西日が作り出す影。直立するそれは「人間」のように見える。しかしやはり人間ではないのだと、体の中の何かが俺に注意を促す。

それは、ありえない影だった。

丸っこくてなんだかわからなかったそれは、ぬらっと立ちあがると、ぴたりと動きを止めた。

とても本体を見る気が起きない。見るために動いてうっかり音を立ててしまうことが恐ろしいのではない。ただただ見てはいけないもののような気がしたのだ。

黒きシルエットは、なにに近いかと言われれば、人間に近い。しかし金縛りの時間は俺にその姿を眺めるだけの時間を与えた。

そして、気がつく。頭の形と下半身が人とは決定的に違うのだ。頭には角のようなものが生え、人でいえば尻に当たる部分には何か奇妙なものが生えくねくねと動いている。黒い影となって動くそれは怪しさを感じさせる動きで、頭に生えた角もたまにぴくぴくと動いているよう。

 その時突然影が主を従えてこちらへ向かってきた。まるで底なし沼に足をからめとられるよう、動かそうとする足は少しも密着から逃れられず、だんだんと獲物を引きずりこんでいく。

 いつのまにか、両腕も機能しなくなっている。

徐々に近づいてくるそれは急に目の前にスッと姿を現した。

 目を閉じる余裕もなかった。しかし見るより何より、まず聞き慣れない、しかし妙になれなれしい声が耳に入ったのである。

「ああ、お帰り、優。待ってたんだから。なにを死にそうな顔をしているの?」


 回り始めたのは、超巨大ロボだって動かせるんじゃないかってほどの、大きな歯車。



少女は一糸まとわぬ姿で立っていた。

俺はただただ頭が真っ白になっただけ、何も考えることはできない、それなのに目に焼きついたイメージはあまりにも強烈で、おそらく死ぬまで忘れることはないだろうと自覚させられていた、目の前の圧倒的光景の前に。

最初に感じた驚きはそこにただ初めて見る少女がいるということだった。年齢は、自分といくつも離れているようには見えない。

しかし強烈な印象を与えたのは登場そのものでは、なかった。あまりに美しいその肢体にただ呆然としてしまった。ひと言で形容するならそれは白の元素を纏いし天使。

『白』 普段意識の外にある色、色とは認識していない色、なのに、目の前の白は圧倒的な存在感で、俺の目を覆った。

際立たせる肌のきめ細やかさ、美しい純白でありながらもまるでガラスでできているかのような透明感。西日を横から照らされた体はキラキラと眩しいぐらいの光の粒子を放っていた。

立っている姿は両腕を身体の横に垂らすいたって自然体。こちらを不思議そうに眺め首を傾けている。麗しくしなやかな肢体をさらしているというのに全く恥じらう様子もない。

しかしその身体を眺める俺に、やましい気持ちは全く湧かない。それはたぶん聖職者が聖母を眺めるような心境だった。神々しさの前に現れる感情は憧憬と渇仰。

少女の艶やかな身体に吸い込まれるように見入ってしまった俺は、はじめて少女の顔を見る。気付いたのはその肢体だけでなく、面貌もこの世の人とは思えない美しさだということ。頭

の中でこの少女は美しいと考えることができたわけではない。そんな余裕はなかったが、美術

館で肖像画を見た時に思わず圧倒されてしまうときの感覚と同じものが脳を駆け巡った。それ

は美しさを味わうことも許さない、感覚への圧倒的支配。

電車の中で見かけた女の子をぼんやりかわいいなと思うのとはわけが違う。顔全体の印象としての美しさはあるが、それだけでない、独立した顔のパーツの美しさがあった。どれが欠けても完全ではなくなってしまうと思われるパーツが、輪郭の中にやはり絶妙のバランスで備わっている。大きな目は丸くって黒目がち。純粋な黒なのに瞳は潤んでいて輝きを放ち、今にも吸い込まれてしまいそうだ。すっきりと通った鼻筋は優美なラインを描き、小さな口を形作る唇は艶めく薄桃色。

どれくらいの時間がたったのだろう。向かい合う二人の間に(あるいは俺だけか)悠久の時が流れたように感じた。しかし図らずも耳から入っていた時計の秒針の発する音が何分と立っていないのだと告げる。    

急にその少女が口を開いて、俺は初めて時間の感覚を取り戻す。

「どうしたの優、ボクの顔をまじまじと眺めて、顔に何か付いてる?」

 身体を隠そうとせず、しかし少し寒いのか、体を抱え込むような格好をして見せる。表情には恥じらいの意思が全く見えないのだが、そんなポーズをされると、つい見てはいけないものを見てしまった気がして、

「ああ、ごめん!でっ、でも、君はいったい……それにどうして俺の名前を……」

 冷静さを保とうと努力するが声は無様に上ずる。

もうなにがなんだか、なにをどうすればわからないままどぎまぎしていると、玄関の外で物音がした。まずい、茜が帰ってきた。この状況はたぶん見られたら大惨事だ。俺は別になにも悪いことはしていないのだが………うむ、とにかく茜には見られないようにするのが最善のはずだ。つーか、何でこの娘は服着てないんだよ!あんだけじっくりと少女の肢体を眺めたうえで今更そんなことを言うのもおかしい気がするが、とにかくそう思うんだから仕方がない。

 そう思っている間にも時間が過ぎ去って行く。そして茜が迫りくる。

「こっちに来て!」

 少女の体を見ないように、腕を引っ張ってニ階の俺の部屋へ急いで連れて行く。「あっ」一言そう声を上げると少女はわけがわからないように、それでもなすがままについてくる。自室に少女を押しこんで、自分も部屋に入る。

「帰ったよー、おにいちゃ~ん、いるんでしょー」

 茜が玄関からニ階に向かって俺を呼ぶのがほぼ同時。そして当然そんなものは無視!

しかしそんな兄の気持ちを知ってか、我が妹はドスドスと階段を上がってくる。まるでそこに何があるのかの確信をもって迫ってくるみたいに、ミニマムダイナソーは勢いよくダダダダ。

「まずい、部屋のカギを掛けていない」

 心の声でそう叫ぶと同時、一直線にドアノブへと駆け寄り、ダイブしながら何とか内側から鍵をかける。その直後、勢いよくドアに何かがぶつかる音がした。

「うげっ」

 間一髪で閉ざされた内開きのドアに今度は茜が身体ごとダイブする形になった。しかし驚きの声にしたって「きゃっ」とか、もう少し可愛い声を出せないものか。

「いったーっ、どうして鍵が閉まってるの~。ここを開けろ~!」

ドアに真正面から直撃したのに怯みもせず、今度はこぶしでバシバシとドアを叩いてくる。

「おい!ドアが壊れるだろ、やめろ!」

「なんで鍵を閉めるんだよー!」

「なんでって、たまにはいいじゃないか。そう、プライバシーってやつだ。お前こそどうしてドアをぶち破ろうとするんだ!」

 必死にドアを内側から押さえて茜をなだめようとする。

「うるさ~い!何にもないんなら開けろー!!!!!」

 遂に右ストレートから前蹴りへ、何箇所かに凹みができたのは間違いない。

ちらっと少女のほうを眺めるとやはり生まれたままの姿。急いで顔をそむける瞬間謎の少女が見せたのは眉を吊り上げる不穏な笑い。

俺はなるべく少女の体を見ないように、ジェスチャーで押し入れの中に隠れるように伝える。どうやら通じたみたいだ、少女は頷いて見せた―――――――が、何を思ったかこちらのほうへ近づいてくる。

それはそれは優雅な足取り、まるで水面を歩いているような白鳥の舞―――じゃねえ!今はそんなことよりもさっさと隠れて欲しい……少女の接近は止まらない…………隠れろ!

いったい何をするつもりだ。俺と茜のやり取りは城を陥落させるためならどんな兵力も厭わない構えの将軍と、なんとかそれを死守しようとする城主が一対一でどなり合っているかのような絵で、はたから見たらいかにもおかしかったろう。しかし二人して怒号を浴びせかけていた声の合間を縫って扉の近くで口にした少女の一言で俺も茜も凍りついた。

「ね~ぇ、優ったら、早く楽しいことしましょうよ~、私待ちきれないんだから~、優のい・じ・わ・るっ」

「なにっ!」

 目玉が二、三ミリは飛び出すのを感じた。ついつい言葉が出てしまうと、それを見た少女は片頬を膨らましてプッと息を漏らす。

 「プッ」って……………笑われた、俺?

からかわれているんだろうが、それをとがめる余裕はない。というかわけがわからない。

 誰だよ、こいつ……………

最初に口を開いたのは茜だった。

「なっ、なっ、何よ楽しいことってー!そこにいるのは誰だー、開けろー!!!!!!!」

 扉の向こうにリンゴみたいに顔を真っ赤にした茜の姿が目に浮かぶ。この声は危険すぎる!前に何度か聞いたことがある声だ。そしてそんな茜はいつだって手がつけられなかった。

 茜の反応が予想通りで満足したのか、少女は満足したように腕を組んでゴソゴソと押し入れの中に入った―――――――遅せえ…………………

しかし押し入れに隠れたところで何になろうか。茜がこの部屋に誰かが入ったのを見ているのなら、探す場所なんて押し入れ以外にないじゃないか。先ほどからギィギィいわせていたドアと壁との接合部分の一つがついに外れ、瞬く間にもうひとつも悲鳴を上げて外れる。こうなってはドアは役割を果たさない。茜の渾身のタックルで、兄は妹に軽く吹っ飛ばされる。

 終わった……茜にあれを見られたらどんな流言飛語が起こるか分かったものじゃない。自分の部屋の上を転がりながら、茜に踏みつけられながら、あきらめの境地で茜が狭い押し入れの中、ちっちゃくなっているはずの少女を発見するのを待った。何なんだよあの娘は!もう知らん!自分の部屋だというのに、情けなくも丸まってなにも見ない、ダンゴムシポーズ。

 目を瞑って、何も考えないようにし、ただ時間が流れるのを待った。耳から入るのは茜が押し入れの中をガサガサとやる音。しかしそんな音が聞こえ始めてからだいぶ時間がたつ。もう見つけてもよさそうなものなのに。

「おっ、そこか、見つけた~!」

 暗い押し入れが茜のキラリと光る目で一瞬間明るくなる。

 万事休すか…………………しかし―――――

「あれぇ、クーかあ、またこんなところに入り込んでぇ」

 茜が押し入れからベッドの上へ放り投げたのはクサンティッペ。可哀そうに、首のあたりをつままれてポイと投げられる。しかしさすがは俺のクサンティッペ。見事に四本足で着地を決めた。まったく、猫を平気で放り投げるたあ、いつか………一週間後くらいに注意してやろう。

当のクサンティッペは茜が押し入れを探し出すのを半目になって無関心そうに眺めている。

「おっかしいな~、なんで見つからないよ~。ぜったいここにいると思ったんだけどなぁ」

 頭をポリポリと掻きながら、押し入れから出てくる。その表情は宝のあることを確信して掘り起こした土の中からなにも見つけ出せなかったトレジャーハンターのような拍子抜けした態。どうにも納得できないらしい。それにしても体が小さいとはいえ、よくもまああんな狭い押し入れの中を動き回るもんだ。

いや、そんなことより――――――――少女が見つからなかったって?

そんなはずはない、少女は確かにそこに隠れたのだから。見つからなかったのは俺にとっては幸いなことに違いないのだが、不思議は不思議だ。そうしている間にも茜はベッドの下やら、机の下やらを探し続けるが、やっとこあきらめた。

「ぐうぅ、しぶとい奴めぇ。やいエロガッパ、あの女をどこへやったー!」

 お兄ちゃんと呼んでくれ、妹よ

「だから、そんなもんはハナッからお前の勘違いなんだよ」

「くそー、言い逃れできないんだから。そうか、窓から飛び降りたんだな………」

 いいかけて口を紡ぐ。そして急にうって変わって、『女の子』みたいに、顔を紅潮させ恥ずかしそうにする。

「いや、そんなことあるはずないもん……だって……あの女……はっ、はだかだったもん……」

「なっ、そこまで見てたのか」

 驚きの言葉がうっかり口を出る。

「そんな、本当に……おにいちゃんのスケベっ!変態っ!お母さんたちがいないからってこんなことするなんて……おにいちゃんなんて知らないっ!痴漢!」

 いまやドアとはいえない、廊下が丸見えとなってしまった壁と壁との間の隙間を通って、走って部屋から出ていく。一瞬見えた茜の横顔から覗いたのは恥ずかしさから生まれる顔の赤ではなく、思わず泣いてしまう時の赤だった。目は涙でうるんでいた。

痴漢か……………もしかしたら金輪際お兄ちゃんと呼んでくれなくなるかも知れんな。そう思うと案外ショックだ……………

「なんだよ茜の奴、どうしてあんな顔するんだよ。いつもみたいに怒りゃあいいじゃないか。泣かれたってどうすればいいかわからないっての」

 独り言は独り言。誰にも聞かれることはない―――――――――――

「本当にショックのときは怒るんじゃなくて泣くんだよ」

「うわぁっ!」

 いきなり背後から声がした。後ろを振り返るとベッドの上に腰かけてくつろいでいたのは紛れもないさっきの少女。依然素肌になにもまとわず、憮然とした態度でベッドの上に腰かけているのを見て、振り返ったはずの腰を百八十度捻って目を反らす。

「な、なんだいきなり!」

 自分でもなんといっているのかわからない。脳を介さず、真っ先に口に出た言葉。

「いやいや、ごめんごめん。人間の兄弟愛ってものが、こんなにも素晴らしいものだとは思わなかったから」

 少女はいたって平然。顔は見えないけど。

「兄想いの可愛い妹は人の部屋のドアをぶち破ったりはしないと思うんだが」

 冷静を装って少女に答える、が、この状況を全く飲み込めない。

「これだから人間は、まったく、人間は心ってものがヒトにのみ備わる特別なものみたいに考えてるけど、少なくとも優が思慮に富んでいるとは思えないなぁ」

頭の中はグルグル回り始めた。俺は残念ながらいくつものことを同時に考える力を持ち合わせていない。わかったのはどこかへと消えてしまったはずの少女が今ここにいるということ。そしてこの光景を茜に見られたら今度こそ俺の部屋は吹っ飛んでしまうのではないかということ。ドアがぶち破られた今、この部屋にプライバシーなんてものはないに等しい。

覗き穴どころか、もうなにのかも大解放のパノラマ状態。

 まず何をすべきか?そう考えベッドシーツをはがし、入り口を覆うように画鋲でとめる。

「これでなんとか外からのもろ見えは回避できたな。しかし次にさっきみたいな強行突入を敢行されたら防げないか」

「どうしてそんな布っきれを入り口の前に吊るしておくの?みっともないな~」

「どうしてって、中が見えちまうだろ」

 少女のほうを振り返り、眩し過ぎる裸体が視覚に攻撃を浴びせる。乱反射するスキー場の雪のように眩しく光る。違うのはゴーグルをかけてもその眩しさからは逃れられないということ。

「とりあえずこれを着てくれ。目に毒だ」

 少女のほうを見ないようにしながら、着やすそうなのを箪笥から取り出しベッドのほうへ投げつける。なるべく着古していないものを渡したつもりだが、別に少女のほうは一向に気にしてなどいないようだった。

「ふーん、へんな優。ボクの裸なんて見飽きたと思ってたよ」

 よくも平気でそんなことがいえるな。

「それはおまえ……君が服を着ていないからだろ?」

 初対面なのに『おまえ』なんて呼んでしまいそうになるほど、少女は馴れ馴れしい。

 そして俺の名前を知っている………………

 だいたい俺は女の裸を見て見あきたなんて言えるほどの色男ではない、残念なことにな。

「ボクはいつも服なんか着ないよ、まあ、優がそういうんなら仕方がないか」

ため息をひとつついて、もぞもぞとジャージを着ようとする。いつも服を着ていないなんていったいどんな子なんだ………変態?痴女?

さっきまで裸を見ていたというのに―――音が聞こえるだけというのが逆にいやらしいもんだ。着るのに大分時間がかかるのは男もので慣れていないせいだからか。ジャージに男ものや女ものがあるのは知らんが………

着終わったらしいのを耳で確認し、ベッドへと顔を向ける。やっと心の休まる気持ちになるかと思ったのだが、

「下を履け」

「エー、ヤダー」

ジャージのズボンはベッドの隅に放り投げられて、少女はというと大きめのパーカーで下半身は何とか隠れているというありさまだ。

しかもそんな格好だというのに、ベッドに座って足をブラブラさせながら文句を言っている。いつ『みえる』か気が気ではない――――が、見えない。狙ってやっているんだろうか、この少女は………もちろん、決して見たいわけではない。

「早く隠せ」

「もー、ワガママなんだから」

 ど・っ・ち・が・だ!

 内心では怒っているのだが、両腕を両足の間に伸ばして下半身を隠す姿は恥じらうようなポーズで、正直にいえば………ドキドキしてしまう。胸が脈打って音が聞こえ、なんとなく体中がそわそわする。少し鳥肌が立って―――恋をしているのでも風を引いているのでもない。

エロいのだ。

目の前の少女が―――――いや、自分が。

 とりあえず布団をかぶってもらうことにして、することなすことが悩殺なこの少女を落ち着かせ、俺の心も体も落ち着く。

そして、冷静になれば新たなことに気がつくのだ。それはピクンピクンと動いている、頭の上のなにか。

ああ、これは前にテレビで見た『コスプレ喫茶』の『猫耳メイド』?

ということはこれは猫の耳?それにしてもよくできている。本物そっくりだ。

さっきからずっとついていたんだろうな、作り物ではなく本当に頭から生えているように見えるし、ちゃんと動いている。髪の毛とは違う、およそヒトとは違ったふわふわな毛におおわれて、体温が通っているというのが見ているだけでわかるようだ。とても即席でくっつけたものには見えない。どんな仕掛けなんだろう?

だが納得だ。リビングで見えていた影に映っていたツノのようなものとはこれだったのか。しかし今までこんな異様なものによく気付かなかったものだ。

「ボクなら見られたって全然かまわないよ、優にだって茜にだって乙姫にだって」

 俺だけでなく、姉貴や茜のことも知っているご様子。

「俺にとっては大問題なんだ。そりゃあ君が『一応』服を着てくれたから、俺の目は守られたけど、君が俺の部屋にいるのを茜に見せるわけにはいかない」

「ボクの『この』姿を人に見られたくないっていうんなら全然問題ないよ。さっきみたく茜から『この』姿を気付かれないようにできるし。それに優は着てないほうが喜ぶと思ってさ」

「喜ばん」

 この女の冗談にも付き合いきれんな。

『さっき』とはあのイリュージョンじみた消失か。

しかしこいつ、布団に丸まったかと思うとぬくぬくと居心地よさそうにしやがって。まるでここにいるのが当然みたいな顔をしてやがる。で、そんな顔をしているから、もっと根本的なことを問いたださなくちゃいけないのに、ついついいらんことを聞いてしまう。

「で、さっきはどうやって身を隠したんだ?てっきり本当に外へ飛び降りてしまったかと思っていたのに」

「ボクはは飛び降りてなんていないし、身を隠してだっていない。優にとって驚きだっただろうということはボクにもわかるけどね」

 ああ驚きだよ、何もかも驚きだ。あんたが平気な顔して俺の部屋に居座っていることもな。

「そのー、疑問が解決したところでなんなんだが、とりあえずもうなんでもいいから出て行ってくれ」

「この部屋出ていったら茜に見つかっちゃうよ?」

 少女は首を傾げきょとんと尋ねる。

「ああいや、そういうことじゃなくて、この家からだな………」

「ひ、ひどい、優ったら、どうしてそんなこというのさ………」

 声は震え、涙が詰まる。今にも泣きだしてしまいそうな、か弱い少女の声。端正も端正、整い過ぎた美貌はくしゃっと崩れる。それは突き付けられるピストルとかわらない凶暴さ。

 有無を言わさずに帰らせようと、頭の中で考えていたセリフはすべて呑み込んでしまった。

 涙目の美少女と地頭には勝てぬ。ただただお手上げで立ちすくむ。

「ああ、わかった!泣かないで!―――――でもこうしてここに居座られてもいけないからな……………」

 遠まわしに言ってみるが、女の子の涙の前に俺があらがえるわけもない。

「うーん、優がボクにベッドから出てほしいんなら出るよ、すぐに」

 少女は「よっこいしょ」とでも言うように気軽に布団から出ようとする。あのフェロモン全開の姿で。

「待て待て!履け!ズボンを」

「えーっ、ボク着たくないなー、これー」

 眉を八の字にして不平たらたら、丸まってクシャクシャになったズボンを持ち上げる。

「これだとムズムズするんだもん」

 そういって丸みを帯びた下半身を撫でまわす姿は(もちろん見えてはいないが)官能的の一言。俺と同じか少し下ぐらいの年齢の少女のどこにそれだけの魅力が詰まっているというのだ。

 まずいまずい、幻想を振り払うように頭を横にブルブルと振る。         

俺は名前も知らない、初めてあった子に対して何を考えているんだ。それにこの子はなんだか普通じゃない。身ごなしから言動、しゃべり方まで、普通の『人間』ではない印象を与える。それにあの耳はなんだ。全身をさらしていながら、ちょこんと頭の上に乗っている装飾品。あんなものつける前に体を隠したらどうなんだ?

 ………目に焼きついた『女の体』が頭に浮かび上がってくる………助けてくれ。

「なにか別のがいい」

 ぶっきら棒、というより不機嫌そうに言い捨てる。そうだ、まずは少女のムズムズを解消してやらねば。たぶん下着がないからだろう。とはいっても女ものの下着の持ち合わせなんてもちろんない。姉貴か茜から借りるか?しかし茜とは今まともに話せそうにないし、しかも「下着を貸してくれ」なんて、そんなこと言ったら痴漢どころの騒ぎではない。

 しかし俺の思案もこの女の次の一言で全くどうでも良くなってしまった。

「もっと隙間のある、ゆったりしたもののほうがいい、しっぽが邪魔になるから」

…………………………しっぽ?

しっぽって尻尾か?あの動物についているあれか?クサンティッペも持ってる、あの愛らしいうねうね?

 布団の暑さに耐えられなくなったのか、少女は唐突にベッドから飛び出そうとする。

「待った待った!」

 慌てて止めたってなんのその。下半身を露わにすると同時、ぴょこんと現れたのはかわいい

『しっぽ』

髪の色、耳の色と同じ少し薄い黒色。先のほうがくるっとしていて、たまにぴょこぴょこと動いている。毛におおわれているみたいだが、さほど太くはなく、細長さが際立つ。

 どうやら今は力を失って垂れ下がっているようだ。

なんというか………かわ…いい……猫みたいで………じゃねえ!!!

「なんだそれは」

「しっぽ」

 平然と答える。

「どうしてしっぽなんてついてるんだ?耳といいしっぽといいよくできてるな。どんな仕掛けで動いてるんだ?」

 頭に浮かんだ疑問をつい聞いてしまう。もっと他に聞くべきことはあるのに。

「ふーん、やっぱり優には見えるんだ。やっぱり優で間違いはいなかったというわけだね。わかってはいたことなんだけどさ」

 ……………ビックリ人間?……………じゃあ済まないだろ。

もしかして体にくっつけることで神経とリンクして思いのままに動かせる装飾具が発明されたのか?なんというテクノロジーだ。エジソン先生もびっくりだ!

だが………たぶんあのしっぽも猫耳も、引っ張ったって、取れないだろうな、そんなことが理解できてしまうのである。

じゃあどういうことなんだ?やめておけばいいのに、思考の回路は音速で回り続け、ついに、突拍子もない、それなのに妙に現実味のある考えに突き当たってしまう。

あってほしくはない考え、しかし妙に納得のいく考え。

いやまさか……しかしそう考えればいつの間にかベッドの上からいなくなっているクサンティッペのことも、茜が少女を見つけることが出来なかったのも説明がつく。

だが、そんなこと、ぜぇっっっっったいに!!認めたくない!

認めたくないのだが、確かめなくてはなるまい………この考えを頭の片隅に追いやっておくこともできない。真相を確かめるための質問は一言で十分。

「き、君、名前は何て言うの?」

 恐る恐る尋ねると

「なにさーいまさら~。クサンティッペ、優はそう呼んでるじゃん」

「へ、へぇ、珍しい名前だね………日本人なの?」

 何かを言っておくことで頭の中を整理する時間を得られると思って、おろかな言葉が思わず口を出る。

「ボクは日本で生まれたけど『日本人』っていうのはへんだよ。というより今後ボクのことを絶対にそんな呼び方をしないでもらいたいな。今はこんな姿だけど、人間呼ばわりされるのは大っ嫌いなんだから。ちなみにボクは雑種だから外国の血が入っているかもしれない。でも人間が作った国境で隔てられた土地の概念としての外国ってのはボクたちにとっては全然無意味」

 喋る口はべらべらと饒舌。

「そもそもなぜそんな愚門を口にするのかな、優は。ボクがクサンティッペ、つまり大阪家の飼い猫だっていうのは優だってもうとうに気付いているでしょ?わざわざ口にするのもばからしいから言わなかったけどさぁ」

 バキューン

 突き付けられた空気砲は見事に俺の左胸に命中し、仁王立ちもままならず、丸太のごとく、真後ろへ。泡を吹かなかったことがせめてもの救い。薄れる意識の中、瞼の裏に映ったのは、四本足で気持ちよく走り、振り返ることなく俺から遠ざかって行く愛猫の姿だった。

 


 はっと気がつき目の前の少女に対してはなった第一声。


「認めん!絶対に認めんからな!」

 別に娘の結婚を断固拒否している頑固おやじではない。

 そんなことよりも、もっと深刻な話なのだ。俺の愛の行方が、アイデンティティが、命が、俺という人間そのものが存続の危機に立たされているのである。

「うちのクサンティッペちゃんはそんな破廉恥で、節操のない子じゃない!」

 いうなれば天使、穢れなきまん丸の瞳に映るのは清純の世界。優しさとかわいさにあふれ、飼い主を思いやる心はつつきこむよう。表情の変わらない顔だって、俺には微笑むマリア様にしか見えない。

 それが………それが

「こんなのがうちのクサンティッペちゃんなわけがない!!」

「あー!ひどいんだあ!今日の朝だってあんなに優しかったのに!『こんなの』ってどういうこと!」

 いつの間にかクサンティッペ専用の座布団を取り上げて尻に引いているのは紛れもない美少女、だが、違うのだ。

「クサンティッペちゃんはもっとおしとやかで、高貴で、利口で、素晴らしいのだ!」

「だからボクがそうなんだって!」

「証拠を見せろ!」

「ほら、これこれ」

 そういってぴくぴくと動かす猫耳とヒョコヒョコと揺れるしっぽ。それはわんこでもうさちゃんでもない、紛れもない、にゃんこ。

「俺はお前が猫の変身した姿だというのを疑っているわけではない。おまえが、あの、誉れ高き、ク、ククク『クサンティッペちゃん』だということが、し、信じられんのだ!いますぐその座布団から降りろー!!」

 あの、こちらを見て小さく「にゃ」って鳴く、愛猫だとは、到底、思えないのだ。

「しょうがないなー」

 溜息一つにあきれ顔、首を三度四度と横に振り、俺のことを駄々をこねるガキみたいな目で見る。

「そうだ、こうしようよ。優とクサンティッペ、まあボクなんだけど、は固い絆で結ばれてるんだよね?」

「当り前だ。俺とクサンティッペ、おまえでは決してないが、はウォータージェットなどでは絶対に斬れない絆で結ばれているのだ。それはむしろ縁と呼ぶべきかもしれない」

「へへ、そんなこと言われると照れちゃうな………………じゃあさ、優がクサンティッペ、まあボクなんだけど、のことを呼んだら、たぶんすっ飛んで来るよね?」

「ああ、もちろんだ、クサンティッペ、おまえでは決してないが、を呼んで、来てくれなかったことは一度も……………………十回ぐらいしかない!あとはいつでも来てくれた!」

「じゃあさ、試しに呼んでみなよ。さっきまでこの部屋にいたんだから、すぐ来るはずでしょ?」

「そんなこと、我思うゆえに我あることぐらい当然だ。よし、呼んでやろう」

 部屋にはクサンティッペのいないのを確認、息を大きく吸って家じゅうに届くぐらいの声で、

「クサンティッペ~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!」

 …………………………

 …………………………

「クサンティッペ~~~~~~~~!!!!!!!!!!!!」

 …………………………

 …………………………

 六畳一間は静寂に包まれた。俺の口から発せられた音波は木霊することもなく、静かに消えた……………目の前には、無表情の少女が。目が合うと同時、

「なにか用?」

 愛猫のためだけにある俺の叫びに答えやがった。



 色々と頭を整理した。頭を冷やし、体温は二度ほど下がった。

「えーっと、聞きたいことは山ほどあるんだが」

「うん」

 別になんでも聞いてくれて構わないよ、みたいな平気な面構えでこちらを見る。可愛いんだが、かわいくない。

「このことは、隠すべきだよな?」

「いいんじゃない、別に」

 それは意外すぎる答え。

「これから先ずっと茜や乙姫にボクの正体を明かさずにいるっていうのは無理なんじゃないかな。それに優に正体を明かしておいて他の二人には明かさないっていう理由がないよ」

「いや、何となく直感でこういうのはなるべく隠すべきもので、当人も知られたくないものなんじゃないか思ったから」

 あってるよな?俺の常識?

「たしかに大きく騒がれるのは困るけどさ。でもここの住人には知ってもらう必要があると思うよ、二人と遭遇するたびにわざわざ体を入れ変えるのは面倒だからね。ただ目下の問題は未だに解決しないしっぽのムズムズ。ズボンのおしりの部分に穴をあけるかスカートを用意してもらうかしてほしいんだけど」

 こいつ(目の前の少女が可愛いクサンティッペちゃんだとは認められないのでこう呼ぶ)が俺の「服を着ろ」という切実な願いを聞き入れてくれたのはいいのだが、ジャージをひとつだめにしてしまうのは、財政上痛すぎる。しかしスカートを拝借してくるなど難易度が高すぎだ。

「よし、そのジャージは好きにしていいぞ」

「ボクとしてはこんなものは身にまとわないのが一番なんだけどな~」

 邪魔くさそうにズボンのすそを引っ張って伸縮性を確かめる。

「それだけは勘弁してくれ」

 どうやら女の裸体というものはいくら見ても耐性ができるようにはなっていないようだ、たぶん男ってそんな生き物なんだ。わかって、くれるよな??

「ふーっ、それにしてもこの体は疲れるよ。だいたい前足がぶらぶらしているのが気持ち悪くて仕方ないね。よく人間は平気でいられるよ。フラフラして仕方ない。

だからって前足をついて歩こうとするとすごく疲れるし、速度も全然出ないんだから、つくづく出来の悪い体だね。だいたいなんなんだろうこの無駄な脂肪は。こんなものやっぱりつけなきゃよかったかな」

 そういってぷにぷにと胸をつついてみせる。たぶんその仕草が人間の男子の息をどれほど詰まらせるものであるのかという認識がないのだろう。しかし瞼に焼きついた少女の裸体を、目を閉じて思い返してみると、肌がどうこうの前にスタイルが抜群だったことに気がついた。

しかし今はダブダブのジャージに隠れて胸のふくらみの具合も曖昧化されている。そこがまたなんとも…………………パチン 脳内で自分にビンタを喰らわせる。

 そんなことより、今はっきりと否定された人間の体の利便性を、人間代表として猫(?)相手にしっかりと説くべきなんだろうか?それもなんだかむなしい気がして代わりに素朴な疑問をぶつけてみる。

「さっきその耳は模造品じゃないって言ってたよな?それがついてるってことは、人間の耳はないのか?」

「そんなことはないよ。形だけは付いてる。使う必要がないだけ。ほら」

 そう言って耳を掻きあげる姿はまるでどこかの国のお嬢様のよう。その手は華奢で、口のきき方と身ごなしを除けば、容貌だけなら完璧なのだ。猫(?)相手に思わず生唾をゴクンと飲んでいる自分に背徳感を感じつつ、そこにはしっかり人の耳がついていることを確かめる。

「ふふっ、この耳はいいよ~」

 両耳(猫の方)を動かして見せる。見慣れた猫耳が人の頭の上でくるくると自由に動いているのは一種異様。回転させてみたり折りたたんでみたり、面白いように形を変える。と、急に少女はこちらに背を向け、窓辺に立って話し始めた。なにやら真剣そうに。今までとは雰囲気がかわって。


「こうやって窓の外から聞こえる音に耳を傾けると、いろいろな音が聞こえてくるね。人間には聞こえないような音も、この耳なら聞こえる。

より多くのことが見え、聞こえるということは、楽しそうな笑い声がよく聞こえると同時に、泣き叫ぶ声もよく聞こえるってこと。いいことばかりじゃないね。

優にはあちこちで鳴いている猫の声が聞こえる?

ボクにはよく聞こえるよ。人間の体だから優と同じようににゃーにゃーとしか聞こえないけどね。それでも嬉しさか悲しさのどちらで鳴いているのかぐらいはわかるんだ。

でもさ、猫の鳴き声はたいてい悲しみに満ちてることが多いんだ。甘えた声を出すのは裕福な人間の家で養われている猫ぐらいのものだけど、果たしてそれだってその猫にとって本当に幸せなことなのかどうかはわからない。

ボクたちは本来一人で生きていく存在。大人になったなら親にだって媚びることは許されない。それが餌に釣られて他の種族のものに媚を売るなんて、サーカスに飼われるライオンと同じだよ。おまけに可愛い可愛いと餌を与え続けられた猫たちはぶくぶくと太ってなんて無様。まったくの人間のエゴイズムだね。猫はそういう欲望にあらがうことができないっていうのに。

でもそれでも路上で生活する連中、これが本来の猫の姿だけど、人の言い方にならって野良ネコと呼んでおくことにするよ、あの子達はもっと悲惨だよ、やっぱり。

優、野良猫の子供が親のお乳が欲しいと鳴いてる時、それは嬉しさと悲しさのどちらだと思う?」

「そうだな、人間の赤ちゃんが母乳をねだるのと同じことだろう?だったらそれは嬉しさか悲しさかでいったら嬉しさなんじゃないかな。確かに赤ちゃんが何かをねだって泣くときは涙が出てるけど、それは純粋に悲しいと思ってるんじゃなくて、生理現象として出るようなものなんだから。愛する母から乳をもらえるのを期待して泣いている赤ん坊ってのはどちらかというと嬉しさを感じているんじゃないかな?」

 いきなり語り出した少女に、これまたいきなり難しい質問をされて驚きつつ、真面目に答えてやらねばいけないと肌で感じて、少女の背中に答える。

 少女は俺が口を閉じると、少し含み笑いを見せ、続けた。

「優の人間性というか、心の優しさ、それとも甘さと言ったほうがいいのかな、そんなものが伝わってくる返答だね。でもそれは優が幸せな家庭に育ってきたから。猫は鳴きはするけど、泣くことはしない。それに表情もないから猫がなにを考えているかを人間が頭で『理解』しようとするのは不可能。それは優にだってできないよ。

猫の赤ちゃんがお母さんに向かってもの欲しそうな声で鳴くと、お母さんは本能で乳を子供に与えようとする。それは優の想像通り。でも、母猫が十分に栄養をもっていなければお乳は出ない。それでもなんとか乳をしぼりだそうとする母猫、何とか乳を吸いだそうとする赤ちゃん猫。わが子のために自分の命を削っている親猫の姿は、もしかしたら人間にとって悲しくも心を温めるような感動物語に見えるのかもしれない。でもそれがある種の感動になるのは、親猫が子供のために命を犠牲にしていると知りながら乳を与え続けているのだと人間が錯覚しているから。栄養のやり取り、言いかえれば命のやり取りを無意識にしている親子は残酷の一言以外は似合わない。赤ちゃん猫は親猫の命を奪っているとも知らずに生きることに一生懸命に乳を吸い続けるんだ。

でもこれは人間だって同じこと。優は日本という飽食の土地に生まれて、何一つ不自由なく過ごしたからいいよ。でも世界には満足に食事を得られない人々もいる。そんな土地で赤ん坊が食べ物欲しさに泣き叫ぶ姿が、優には悲痛の叫び以外に聞こえる?」


そこまで言い終えて少女は一息つく。顔は窓の外に向けられて表情までは読み取れない。でもきっと悲しげな顔をしているんだと思っていた。何一つ文句のつけようのない完璧な美貌を社会が抱える闇に曇らせて。

沈みかけた夕日に照らされたその後ろ姿は、リビングで日の光に照らされて輝いていた姿とは全く別のものだった、ほんの何十分か前のことなのに。それは陽の高さが違っていたから?それはわからない。それでも俺は少女の後ろ姿に美しさを感じた。この世のむなしさを知りながら、それでも自分はちっぽけな存在で、どうすることもできないということがこれ以上にないくらいにわかっている。彼女の後姿にはそんな哀愁が漂っていて、不謹慎だったかもしれないけど、ただただ美しいと感じるばかりだった。


キイィ ガシャン

唐突に玄関が開かれ、閉じる。

それは誰かが帰宅したことを告げる音。

「どうやら乙姫が帰ってきたようだね。ボクも今日はなんか変だよ、こんなに長々と話しちゃうなんて。人間の体になって話ができるようになったことをボクは案外嬉しいと思っているのかもしれないね。そんなこと認めたくもないけど」

 こちらを振り向かずに続ける。

「でも優、これだけは知っておいてほしい。この世界で生まれた歪みは人間が自ら作り出したものだよ。ただ、人間同士の格差を取り沙汰する一方で、動物、これも人間が自らの種を特別視した言い方だけど、その問題には人間は目を向けようとしない。家猫と野良猫、はたまたどら猫なんていう区別、格差を生み出したのも人間なんだよ、優。

一匹の動物を愛でる優の姿は素敵だけど、猫が生きる社会は、人間が抱えている問題よりもよっぽど深刻なんだ。猫好き、動物好きを自負する人間は猫が今立たされている状況を考えてほしい。それって当然のことなんだけど、考える人はあんまりいないことなんだね。でも、優には少しそういうことに関心をもってもらえるとボクは嬉しい」

 

なんにしたって、人間は世界を壊し過ぎたよ。


 最後に一言付け加えて振り返った彼女の顔は憂いの表情ではなかった。顔には出さない思いが顔に浮かぶという表現がぴったりか、歯ぎしりする口元に浮かぶのは決意の表情。てっきり悲しみに満ちていると思っていたその表情に表れていたのは、可憐な少女には似合わない、紛れもない怒りと憎しみだった。

 


「案外楽しいものなのね、アルバイトって!」

 夕食の席で、俺と茜の気まずさを感じ取って気を使ったか、それとも全く気付いていないでのんきにぺらぺらとしゃべっているのか、おそらく後者だと思うが、なにやら姉貴の本日のバイトは実りのあるものだったらしい。

「店長さんも優しくって、たくさん褒めてもらっちゃった。うれしいわぁ、仕事で褒められるって、なんだか自分が社会に認められたって気がするの!」

 普段なら俺と茜とのやり合いに相槌を打つだけの姉貴がこんなにも饒舌なのはよほどバイトが気に入ったんだな。いつもの通り舌足らずなその声は嬉しそうで何よりだ。

「聞いてなかったけど、いったいなんのバイトなんだ?怪しいのじゃないんだろうな」

「やだなぁ、優ったら、ごく普通のコンビニのバイトよ」

 なるほど、コンビニのバイトなら初挑戦だって姉貴はうまくこなすだろう。自分の姉をこんな風にいうのもどうかと思うが、コンビニのバイトなんてさせておくにはもったいない人間だ。

「しかし朝からだったんだろ?学校が休みの日は一日八時間か。随分たいへんだな」

「大丈夫、大丈夫、楽しいからあっという間よ」

 姉貴は腰まである長いサラサラの明るい色をした髪を耳元でスッと掻きわける。

「ほんっと、誰かさんとは大違い」

ハンバーグの付け合わせのブロッコリーにフォークを力強く刺しながら、茜はこちらを見ずにそう言う。

妹のチクチクと針で刺してくる攻撃に何も言えない兄。いいさいいさ、俺の役どころなんていつだってこんなところだ。姉貴だってニコニコしてるしな。

しかしどう弁明すればいいんだ。実はお前が見たのはクサンティッペだったんだなんて言っても信じないだろ?

俺だって信じちゃいないのに。

「まあ、まあ茜、そんなに優をいじめないであげて。優だってアルバイト頑張っているんだから。ね?」

 笑顔で姉貴は聞いてくる。

「ああ、もちろんだとも。二人とも頑張っているのに俺だけ休んでいるなんてできないよ。そうだ、手始めに夕食の食器洗い、俺がやるよ」

「いい、やんなくて」

 ぶっきらぼうに答える茜はコーンポタージュをスプーンでちびちびと掬っている。

「遠慮すんなって」

「遠慮じゃない。おにいちゃんは忙しそうだもんね。茜と違って」

 だからあれは誤解なんだってば……………

 まぁこんな調子だっていずれ機嫌を直してくれるだろう、今までいつもそうだったんだから。

 そう思いつつ、茜と顔を合しているのは気まずくて、そそくさと二階へと逃げてしまった。

 一階に、クサンティッペの姿はやはりなかった…………………………



 二階に上がるなり目に入ったのは、ドアがぶち抜かれた空間にゆらゆらと一枚のベッドシーツの揺れている光景。シーツというか暖簾というか……………

 まあなんだって部屋に入らないわけにはいかないので布っきれをくぐって部屋に入ると、

「ぶっ」

 目の前に現れた光景に思わず噴き出す。

「どう、扇情的?そそる?そそる?」

 部屋の中央には少女。

 春先にしてはまだ少し薄着で寒いんじゃないかっていう格好―――――どころじゃねえ!!

水着?いや、それよりも露出は少ないのに、はるかに、ヤバイ!!

上はもともとパーカーだったものを体を覆う部分を胸が見えるギリギリぐらいのところで切り落としたようなスタイル。両腕は黒とピンクの縞模様。申し訳程度に首から胸のあたりまでせいぜい二十センチぶんくらいファスナーが付いているのだが、それも途中までしか上がっていない。下半身はもっと過激だ。下着をはかずに、一応黒のスカートらしきものは履いているのだが、その丈は超ミニスカートの域をはるかにほえるほど短い。それもチャックは全開―――――――横なんかは紐一本でなんとか止まっている。それがベルトもなしに履かれているものだから今にもずり落ちそう。そして短いスカートを補うように履かれているのが艶のある素材でできた黒ニーハイ。上の部分に一本ピンクのラインが入っていることから、上着(?)とおそろいなのだとわかる。

血管も見えてしまいそうなほどの真っ白な肌に、頬だけが赤く染まって艶めかしさを演出。さしずめ姉貴の部屋からファンデーションでもくすねてきたのだろう。

「どっからかっぱらってきたんだそれ。日本全国のソープ嬢を終結させたってそんなもん着てないぞ」

「人聞き悪いなぁ、風で飛ばされたのをボクが拾ってあげたんだよ」

「うそをつけ、今日はそんなに風強くなかったぞ」

 だいたいそんなもんを日常的に着ている女がいたらお目にかかりたいものだ。

「わかったって、ちゃんと返してくるよ。それにしたって女の子が男の子を喜ばそうとこんなに大胆な格好して頑張ったって言うのに第一声がそれなんてなぁ。ショックだよ、ボクは。それでも優は健康な男子高校生?」

 そりゃあもう耐えられないくらい扇情的だとも。思わずムズムズしてしまうほどだが、

「さっきまで何のためらいもなく素っ裸でいた奴がそんな格好したってそそられるか。猫は猫らしく余計な気なんか使わずにごろごろしていろ」

 だが……………それにしたってなんだってこいつは猫だってのにこんなにもスタイルがいいんだ――――――たしかに普通の猫に比べたらスリムな体形ではあったが。この乳ときたら……………冗談抜きで『デ・カ・い!』

またこいつが猫だとは思えない要素が出来てしまった。そもそも猫にも貧乳や巨乳ってあるのか……………?

 いけないいけない、なにを考えているんだ俺は………ついつい頭を抱えてしまう。すまない、クサンティッペ……………

 四方からの板挟みになって悶々としつつ、吸い寄せられるのは品種改良で真っ白になったメロン(そんなものは多分ないが)としか見えない豊満な二つの揺れる玉。規格外だ、こんなの……………大きさはもちろんすごいわけだが、なにが規格外って、そのバランスだ。なにしろこの少女ときたら体はウナギみたいに細いのに、この揺れる果実は…………法外だ……………

「ふーん、それなりに興味はあるんだ。最初は全然反応がなかったから心配しちゃったよ」

 そう言いながら向けられる視線は俺の下半身。

「ふん、思ったとおりだ。よかったこれぐらいにしといて」

急いで隠すが間に合わず。だが少女の方もすでに俺のナニなんかに興味は失ったようで、自分の胸をつついたり揺らしたり、大きさや弾力を確かめているようだ。 変態だ!変態!

「仮にも女の子なんだから言動は慎めよ。それに俺の好みはそんなことを平気で言ったりする子じゃない」

「あーはいはい、もう、固いなー優は。こういうのが最高のシチュエーションだって書いてあったのに」

 いったい何に書いてあったんだか。

 少女はぷっと右の頬を膨らまして拗ねたような表情。残念ながらこんな光景を前に喜べるほど女慣れしてないし、目が肥えてもいないんだ。悪かったな、クサンティッペ(?)

うむ、やっぱり違和感がある。

「なぁ、おまえのことなんて呼べばいいんだよ」

「えっ、いいんじゃない、今までと同じで?」

「俺はなんかスゲー違和感を感じるんだよ。万に一つとして、おまえがクサンティッペである可能性のあることは認めよう。しかし、俺はお前を決してクサンティッペとは呼ばないぞ!」

 瞬間、少女の顔がムッとしたのを見たが、何とか抑えたらしい。

「わ、わかったよ。じゃあせっかくだからもっとかわいい名前をつけてよ。なんかクサンティッペって嫌な感じがするよ。わかんないけど性格悪そうな名前だなぁ」

 さすが悪妻として歴史に名を遺すほどの女、猫にまで嫌な印象をもたせるとは、同情するよ。

「せっかくだから世界一可愛い名前を付けてよ、人間の姓名のことは良く分からないからさ」

 世界一とはまたすごい頼みだ。大体名前に世界一もなにもないだろ―――――――――――

「クレオパトラとかどうだ?」 

「長い」 

「楊貴妃は?」 

「語呂が悪い」

 失礼な奴だ。 

「小町ってのは?」

「それがいい!よし、ボクはこれから大阪小町(?才)と名乗ることにしよう」

「なんだ(?才)って」

「未定というかなんというか」

 頭をポリポリ、ついでに耳をポリポリと掻きながらとぼけ顔。

「だいたいお前に肩書なんて必要なのかよ。猫だろ、猫」

 すると小町は待ってましたとばかりに破顔一笑。水を得た魚のように、いや、魚を得た猫のように、さっきから上がりっぱなしのテンションはますます上がっていく。

「もちろん!これから人間社会で生活していかなくちゃいけないのにそれぐらい名乗れないと格好悪いからね」

 いや、それが名乗れたところでどうにもならんだろ、お前猫だし。戸籍ないだろ、戸籍。今まで通り食って寝ての生活を繰り返していればいいんだ。

「いやー、人間界で生活しなきゃならないってのは癪だけど、せっかくだから楽しんでやりたいもんね」

 依然としてけちょんけちょんにされているぞ、人間!

「これ以上は聞いてられん。俺は寝るからな。お前は猫になって茜の部屋にでも行って隅のほうで丸くなってろ」

「あー、ひどいんだー。どうしてそんなこというのかなぁ?いいよいいよ、ボクは押し入れの中で丸くなってるから。変なことしないでよ!」

「しねーよ」

 本当に押し入れの中に入って行ってしまった。

 なんだかもう何も考えたくなくて、明日のことなんて全部ほっぽり出してベッドに入る。今日は疲れた。すぐ寝れるだろう。

 ……………

……………

まあ言い聞かせたところで簡単に寝付けんのはわかっていたことだ。大体なにも考えないでスヤスヤと寝られるわけがないじゃないか、こんな状況で。

あんな危なっかしそうな、スタイル抜群の美少女があられもない姿で、同じ部屋に無防備に寝ているというのに……………と、冗談を言っている場合ではなく。

いったいなんなんだろう、あいつは。名前は小町だ、それはいい。

またやつはクサンティッペであるとも言った。それは………保留だ。

しかしあいつは猫か? 

それは疑問だ。俺は奴が猫に変身するのを直接には見ていないのだから。

わからないことだらけだ。

わからないといえばもうひとつ疑問なのは『どちらが』本当の小町かということだ。窓を眺めて淡々と語っていた、饒舌だがどこかさびしげだった小町、いきなり過激な格好で現れて常時ハイテンションで言いたいことだけ言って押し入れに閉じこもってしまったちょっとエッチな小町。それは猫の世界を生きてきた本来の小町と、人間の世界に順応するために作り上げた偽物の小町のように思えた。

どちらが本当の小町の性格なのかはわからない。それでもどちらの小町にも共通していたのは人間というものに対する嫌悪。窓から振り返って夕日に逆行となった顔に浮かんでいた怒りと憎しみの表情は果たして人間に向けられたものだったのか?

もしあの眼をしていたのが本当の小町なんだとしたら、少し悲しいと思う。大きな影に立ち向かっている小町は強さをもった少女の姿だったけれど、別にそんな大きなもののためにあんなつらそうな表情をしなくったっていいんじゃないか?

「猫なんだから」なんて思ってるわけじゃない。社会に立ち向かっていくことは立派だが、やはりどんな生きものだってまずなにより自分の幸せが一番だろ?人間だって他人のために犠牲を払うような行為をしても、結局は自分のことを一番に考えているだろ?

明日からどうするんだろうな、あいつ。人間の社会に進出するって言ってたけど……………

まぁあいつがなにをやったって構いやしない。どうとも好きにしてくれ。


どうとも好きにしてくれ――――――こんなこと言ったのをなかったことにできるんならそうして欲しいよ。でもその時は、本当に言葉通り好きなようにしてくれるとは思わなかったもんでな。











 「今日は今年一番の暑さで、気温は三十度近くにもなり、七月の陽気です」

 天気予報でそんなことを言っていたもんだから覚悟はしていたのだが、天気予報というのもよく当たるものだ。学校までの道のりを全力疾走、ホームルームには間に合ったものの、ワイシャツは汗でじっとりと背中に張り付く始末。

別に走ってまで間に合わせることはないのに、遅刻しないようにと汗水たらして走る俺は真面目なのだ、不幸にも。

しかし教室に空調ぐらい効いていたっていいと思う。こちとら地球温暖化とやらを肌で感じる毎日なのだ。

海高はだいぶ歳がいっている。今年で創設何年になるのかは忘れたが、たしか相当な御老齢だったはずだ。だが学校が何十周年だろうと何百周年だろうと、実際にはなんの恩恵もないわけで、むしろ公立高校だって新しくできた方が人気があり、当然のように冷房の使用も可能なわけである。まったく、今時空調の付いていない公共機関なんて古びた公立学校ぐらいのもんだ。

 しかし文句を言ったってしょうがない。俺は何の考えも無しに家から最も近いという理由でこの学校へ来てしまったのだから――――――――――

「おっ、朝から元気だな、大阪。こんな日に教室ダッシュか。なんかいいことでもあったのか?」

「暑さでゼイゼイいっている男をつかまえてなにを言い出す。いいことどころか昨日は悲惨な目にあったんだ。この面倒をおまえに押しつけられたらどんなに楽だかしれんのだが」

「まあまあ、助けになれるかはわからんが話してみろよ~。親友だろぅ!」

 人の気も知らんと面白がって話しかけてくるこいつは鹿児島 拓(17・男)

小学校時代からの悪友で、わけもなくいつも何かと絡んでくる。だが悪友といっても俺がこいつと一緒になって悪さをしていたわけではない。俺は中学時代だっていたって真面目な、もとい教師には逆らわない生徒だった。

それでも教師たちから何かと目が付けられることがあったのはいつもこいつが俺に何かとちょっかいを出してきたからだ。いたずら好きの拓に俺が構ってやってるだけで悪だくみの共犯者扱い、なぜか俺は拓とコンビとして扱われ、そしてそれはいつだってマイナスに働く。

最初見た時から落ちつきのない奴だとは思っていたが、案の定、破天荒を具現化したような奴で、いつでもクラスを盛り上げるムードメーカーなのだが、残念ながらもてたりはしない。もしかしたら俺がモテないのはこいつの恋の厄病が俺に感染しているからではないかと、最近は考えている。

「だいたいお前が元気すぎるんだ。今日だって朝練だったんだろう?」

「チッチッチ、わかってないな、大阪は。この広がる青空のもと、がむしゃらに体を動かす、それ以上に疲れの吹っ飛ぶものなど、他に何がある」

 なんというか、小中高と一緒なんだから環境要因はさして変わらないはずなのに、これだけものの考え方が違うのは、たぶん生まれもったエネルギーが違うんだ。

「しかし悲惨な目とは穏やかじゃないな。お兄さんに話してみなさい」

「だれがお兄さんだ、姉妹が二人いれば十分だ」

「わるい、わるい!大阪には愛しの茜ちゃんがいたもんな、『おにいちゃん』!」

「からかってるつもりか?妹が兄をそう呼ぶのは当たり前だろ」

「おいおい、その認識は改めた方がいい!このご時世、兄貴のことを『お兄ちゃん』なんて呼んでくれる妹、茜ちゃん以外にいないぜ。ホント、お前にはもったいない妹だ。そうかー、茜ちゃんも中学生か、後三年ぐらいか、美人になるぜ~!」

「あんなのでよければいくらだってもらってやってくれ」

 まあそんなつもりは猫の毛ほどもありゃしないのだが。

「ノンノンノン、俺には愛しの乙姫さんがいるからな。

ああ、乙姫さん、マイラヴァー!

優しくて、料理がうまくて、面倒見がよくて、なにより綺麗。こんな、可能な限りオプションを付けまくったような人、あのお方以外にはいねえぜ。いいか、よく聞け、海高のミスコンで三連覇は学校創設以来初めての快挙だったんだぞ。うちのミスコンはレベルが高いって有名なのにな」

たかだか地方の公立高校のミスコンにどれだけの歴史と権威があるのかは知らないが、確かに三連覇の話は聞いたことがある。

「それだけでなく!なんと袖にした男の数合計104!これも未来永劫永遠に破られない記録と言われているんだ!」

 たかだか地方の公立高校の未来とやらがどこまで続くか疑問だな。だいたいそんなもん誰がカウントしたんだ。

「さてさて、そこで疑問が生まれてくるわけだ、大阪」

 そう言いつつイスをこちらへ近づけて座りなおそうとするこいつは……暑苦しい―――――

「くだらん前置きはいいからさっさと言え」

「まぁまぁ焦るなよ、いいか、乙姫さんは学校中の男をほとんど全てフッたわけだ。逆に乙姫さんの方から学校の男の誰かに告白したことは今までに一度もない、推測だがな。ここから導き出される結論は、乙姫さんには思いを寄せる人がいるということだ。それも乙姫さんが在学中にいた海高男子全員が除かれる」

 行き過ぎな感はあるが、まぁ納得しておいてやろう。

「となると人物は限られるわけだ。同じ学校ではないのに、乙姫さんが思いを寄せるほど近くにいる男、そうなると数は限られてくるな」

「そんな人間俺は知らないけどな」

「まあそう言うな、大阪。お前は俺と小学校時代の友達で、いつもお前の家へ行っていた。そしてそこには乙姫さんもいた。つまり俺と乙姫さんとはかれこれ十年の付き合いになるわけだ。つまり!」

 くだらなすぎる。

「なんとなく言いたいことはわかったから言わんでいいぞ」

   ……………………

「乙姫さんは俺のことが好きなんだぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!」

「うわっ!」

 ぐわぁぁぁぁーーーーー!! という音が聞こえてきそうなほどの大口を開けて、大声よろしくイスを薙ぎ倒して立ち上がる。

 教室中の女子からは白い目。そして、モテない男というのはこうした視線に気がつかず、立ち続けているのである。

「いや、その、なんというか…………ガキとしか思われていないよ、お前は。お前が茜のことをガキとしか思ってないのと同じだ」

「いや、俺は茜ちゃんだって全く構わないぞ!」

 いいのか茜、こんな野郎にこんなこと言わせておいて。

「これはお前のために言うんだが、うちの二人はとてもお前の手に負える代物ではないぞ」

「そんなことはない!愛だ!愛があれば何もかもだ!愛は地球を救う!」

こぶしをギュッと握りしめて天井を決意のまなざしで見つめるこいつにはなにを言ってもわからんのだろうな………

そもそも俺が何度拓におまえの抱いているわが姉妹へのイメージは幻想なんだと言い聞かせても未だにこいつは信じようとしない。茜の毒舌っぷりは大阪家じゃ常識、といってもそれは兄以外に向けられることはないが。そのうえ俺のことを兄貴なんて思っちゃいないんじゃないか。口では「おにいちゃん」なんて言ってはいるが、遊び相手ぐらいにしか考えていまい。

姉貴は家族の前でも他人の前でも全くと言ってもいいほど裏表を見せないが、そもそも姉貴はいったい本心で何を考えているんだか分らない。要は、不気味。最近は一見とぼけている姉貴の姿は本当は世をしのぶ仮の姿なのではないかなんて考えてしまう。

「お前もあの二人には気をつけろよ」

 混じり気なしの本気の忠告をしてやる。

 だがまた、女の子のこととサッカーのことだけで脳みそができているこいつはなにを考えているんだか、もうどっか遠くの方を見るような眼だ。もちろんサッカーのことか女の子のことを考えているのは間違いないのだが、もしかりに茜のことでけしからん妄想をしているのだったらとっちめてやらなければ。

 だがまあいいか、勝手にさせておけ。

「そういや、なんなんだ?悲惨な目って」

 いそいそとイスに座りなおすと、いかにも軽い感じで聞いてくる。でもその目は笑ってなくて、長年の付き合いから拓が真剣に俺の話を聞こうとしているのがわかった。

 それでも―――――――――――

「まあ、おまえに話してどうこうなる問題でもないから」

「そうか………それなら仕方ないな」

 こんなやり取りは、今まで何度繰り返されたのかわからない。いつでも拓はあっさりと承諾し、それ以上の追及は決してしない。

「でも、またいつか相談するかもしれない、今は、疲れているんだ………………」

 そう言いながら、後ろめたさを感じてしまう。それはその場を適当にごまかす言葉。

「疲れとな?ん~~、そうだ!おまえに疲れも吹っ飛ぶいいニュースを教えてやろう。一度しか言わないから心して聞けよ!」

 何か思い出したみたいにポンっと手を叩くと、拓は声を張り上げた。もったいぶった風にするのはこいつの昔からの癖だ。

「どうせ一言で済むようなニュースだろ。聞き方もくそもあるか」

「転校生だ、転校生。どうだ!これはヒットだろ?なぁ?なぁ?」

 鬱陶しくも俺の肩に手を掛けて同意を求めてくる。暑苦しいったらありゃしない。

 大親友の頬を掌で押しのけ、本音を吐く。

「俺は転校生なんてもんに過度な期待はかけんようにしているのだっ」

「なんだなんだ、つれないなぁ。女の子って話だぜ」

「ふんっ、そうか」

「あっ、いま一瞬こっち見たろ!気になるか?気になるんだな、おい!大阪、おまえの期待通り、かなり可愛いって話だぜ」

 放っとこう。

「そんな態度してっと、おまえの分の楽しみまで俺が頂いちまうぞ!!」

お楽しみなんて好きなだけ奪ってくれ。俺が学校生活に期待するお楽しみなんてもんはハナッからないんだからな。

「早く来ねえかなあ転校生」

 両足をぶらぶらさせて両手は頭の後ろで組む姿勢。目を少年のように輝かし、頭の中ではなにを考えているやら。

 聞き慣れたチャイムの音が無機質に響き、担任がそれと同時に教室へ。

一通りの儀礼的挨拶をすませると、担任の教師がなんだか転校生を紹介する時のプロトタイプとなりつつある言葉を棒読みし始めた。

「え~、突然だが今日はお前らに転校生を紹介する。はいりたまえ」

「いよっ、待ってました」と、うるさい声が隣から。驚きの声があちこちから聞こえる。

 ガラガラと古びたドアが力任せに開けられる音。それと同時に姿を現したのは誰であったか。

「なにっ!」

 

皮肉にも『悲惨な目』の原因である人物が、そこにはいた。



ドアが開いてから教壇に上がるまでの数歩、それさえ他の人が歩くのとは何かが違う。薄めの黒髪は艶やか、長さはショートとミディアムの中間ぐらい。パーマがかかっているようには見えないが、毛先が内や外に少しハネていて、あまり手間をかけていないようなのに、整った印象を与えてどことなくおしゃれに見える。サラサラの髪は窓から入る風に吹かれるに任せてカーテンレースのようにゆらゆらと揺れている。

白と水色のコンビネーションが特徴的な海高の制服は新品なのだろう、しわ一つなく、まるでオーダーメイドで採寸を合わせたかのように体にぴったりと合っている。スカートは長すぎず短すぎず、可愛さを強調しながらも清楚な感じは失わない。

スカートが揺れるたびに覗く真っ白な素肌は日光に照らされて輝くばかり。その白さは制服の純白に負けない、混じり気のない白。踏み出される一歩一歩はまるでペガサスが歩くよう。髪をかきあげるその手は天使か女神か、細くてどことなく弱さを感じさせるのに、絵画に描かれた女性のようにしなやかだ。

そして隠しきれないのは薄手の夏服から盛り上がるふくよかな胸。教室中の男子は美貌を確認すると今度はすぐさまそちらに目をくぎ付けにされていた。小町が保ち続けている微笑みもなんのその、ただただ細い体躯に不釣り合いなふくらみに目をとられるばかり。

邪魔なほどに教室に注ぎ込む日光の中でさらに輝くその姿は、日光に小判。

「キター!女神キター!」

「ありえねぇ……………何もかも超越している!」

 口々にそんなことを言って終いには声をそろえてブラボー!!!!!なんて叫ぶ始末。

 転校生にたいする配慮なんてものは、ない。

一方の女子も動揺を隠しきれない。ただ目の前の少女に驚くばかり。

「えーっ、あの子どっかのモデルかなぁ?」

「私見たことないよー?」

「でも足細―い」

「スタイル良すぎー!あんな子本当にいるんだぁ。芸能人だよ、絶対!」

ただただ驚きの表情。

 転校生はというと、照れることも謙遜することもなく、笑顔で目を細めるばかりで知らんぷり。自分が注目されていることにも気付かないふりだ。だが間違いなくクラス中からの熱視線に気づいてるんだ、昨日一日でそんなおとぼけなおにゃの子ではないってことはネタが挙がっているんだ。

小町は送られる熱視線に対し、それ以上の輝きをもった笑顔をクラス中に振りまく。それはあまりにも自然で、ただただ眼球が動くままに任せて見入ってしまっていた。担任もクラス中のどよめきが鎮まるのを待ちながらも、ちらちらと小町の方を盗み見ているというんだから、もう止められない。

 

 クラスの喧騒が落ち着くと、始まったのはホームルームを費やすために行われた時間稼ぎの質問タイム。どうやら担任も転校生の紹介だけで三十分のホームルームを乗り切るらしい。まったく、自習時間にでもしてくれればいいものを、担任ときたら気を利かせやがって。 

しかし生徒たちは俄然やる気。授業中は質問タイムなんて時間が与えられても誰も手を挙げやしないというのに、この時ばかりは腕が何本も天井を向いているというありさまだった。

 俺は質問タイムなんて他愛のない暇つぶしだろうと考えていたんだが、どうも俺にとっては安らげる時間にはならなかったみたいである。

どこぞの転校生の陰謀のおかげでな。


「どんな食べ物が好きなの?」

 最初は当たり障りのない質問から始まる。

「お野菜かな。お肉とかお魚はあんまり食べないの」

 嘘を付け肉食獣め!生野菜を喰ってる姿なんて見たことがないぞ。

「休みの日はどんなことしてるの?」

「うーん、本を読んだり、音楽を聞いたりかな」

 そういえば最近猫セラピーってやつを聞かせてやった様な気がしないでもない。

「どこに住んでるの?」

 その瞬間、俺は転校生の顔がニヤっと笑いを浮かべたのを確実に見た。そして背筋は凍る。

 そして再度微笑みを作りだすと、とんでもないことを平気で、明日の天気の話でもするみたいに平然と言ってのけた。


 ボクは優と一緒に暮らしているんだ。


「なにぃ!」

小町の一言に静まり返った教室に、俺の声が響いた。ただ、あるいは誰も聞こえなかったかもしれない。転校生が言葉を切った瞬間、みんなが「ユウ?」と、頭の上に?マークを浮かべていたからだ。だが冷静になって黒板の方に目をやると、転校生の苗字が偶然の一致にしてはあまりにも珍しいものであると気付く。

「大阪 小町」

 時間にしてわずか三秒、一斉に窓際最後尾、俺の方にクラス全員の目が注がれる。総勢70の目。そのうちの半分、男子連中の目は、完全に血走っていた。これが殺気か。初めて感じたよ、んなもんが本当にあることを。

 だがクラスの全員がそう馬鹿でもない。委員長が気付いて

「でも苗字が同じってことは、兄弟か親戚ってこと?」

 よし、委員長よく気付いた。いつもは堅くてうるさいだけの小姑みたいな女だが、こんな時には頼りになる。そうなんだ、俺たちは怪しい関係ではない、全くない。

 だがこの転校生は本当になにを考えているんだか。

「ボクはペット。優はその飼い主」

 当然のように、というよりにっこりと笑ってそんなことを告白しやがった…………

発言とは不釣り合い、手は後ろで組まれて、なんだかご機嫌そうに体を揺らしている。

 クラスの面々は笑っていいやらそうでないやら、転校生の言葉は冗談だろうかと、周りの奴らとコソコソやっている。

クラス替えから一カ月、未だ互いによそよそしかったクラスが、一人の転校生を通してまとまりをとり始めている――――ただ一人、俺を除いて………………

 いかがわしい関係ではないと確認するために投げかけられた質問は、謎の転校生の猛烈なレシーブで爆撃となって2―Aに投下された。

 だが2―A大空襲はそんなことでは止まらない。もはやクラス全員委員長に全権委任、手綱を委員長に握らせる。

「ぺ、ペットって、冗談だよね?何されてるの」

「なにを?ペットだもん、ボクは別に何もしないよ。優から餌をもらってるだけ」

 『餌』――――それはあまりにも不穏な響き。もちろん主人とペットの関係ならば当り前。しかしそれは人間の口から発せられるべき言葉では、ない。すでにクラスは小町が口を開くたびにざわめく始末。

周りなんか見なくたって突き刺す視線は激痛。人体の構造が目からビームが出るようになってなくて本当に感謝した。もしそうだったら今頃この体は原形をとどめていなかったはずだからな。

 平日、朝八時四十五分、学校の教室、健全過ぎる空間で、次に委員長の口から出た質問は全く場違いだった。しかしそんなことを思うのもやはり俺一人。質問は混沌へと進んでいく。

「あの、なんというか……………『飼われて』いて、見返りみたいなものは要求されていないの?」

 なんてことを聞きやがる!!!学級委員たる人間が、よりにも寄ってそんな直球を。

 平気で打ち返してくるってのに……………

 小町は人指し指を顎に当てうーん、と唸って思案顔。先ほどまでの笑顔は崩れているが、そんな表情さえチャーミング。じゃねえ、全っ然!

 頼むからお前はなにも口にするな――――――

「そうだなー………一緒に寝て、優の体を温めてあげるくらいかな?」

 打ち上げられたのは、小町号と名付けられた核兵器。

獲物を射程距離に入れたライオンのような目をした男子と、不審者を見るような目をした女子に対し、俺も視線で違う違うと必死に抗議をするが、そんなもんは全く伝わらない。こいつらの目が何をいっているのかはわかりすぎるぐらいわかるのに、なぜ俺のテレパシーは伝わらんっっっ!

そして爆撃の嵐も最終章へ――――――

「そ、それは、その、服はき、着たままだよね?…………そ、添い寝みたいなものなのかな?」

 おい!今は平日の朝九時前だということを忘れるんじゃない!僕たちは健全な高校生なのだから!と、今やクラス一のド変態のレッテルがぺたぺたと貼られ放題であろう俺が突っ込むわけにいかないので、返答が予想できてしまっていながら何も言えない。

「ううん、ボクは家ではいつだって裸だから」

 何か問題でも?と聞くかのよう。手を顔の前で横に振り、まさかまさかと、あっさり否定。

ゲームセット――――――――

再度俺に向けられるさっきの視線。なんかもう、どうでもよくなってきた。

だって――猫に服着せないだろ?………………普通は…………

ここまで大胆に不純異性交遊を暴露されたら教師でもさすがにとっさに対応できないんだな。

「は、はい、それじゃあ転校生の大阪小町でした。拍手~!みんな仲よくするようにな」

 プロトタイプもくそもない。声は動揺を隠し切れていない。

 パチパチ……パチ………

 気のない拍手がかすかに起こる。

「席はっと、お、ちょうど大阪の後ろの席が空いているな、よし、じゃああそこにしろ」

 ん?俺の後ろに席なんかないぞ、俺の席は窓際最後尾のベスポジ。そう思って後ろを振り向くと


   あった


 それは机以外の何物でもない、机。さもずっといましたよと言わんばかりの馴染みっぷり。

「はい」

 そう笑顔で答えた小町はこちらへスタスタと歩いてくる。

「やぁ、優、同じクラスだね!」

 ハイタッチを求めてくるこいつの神経はたぶん猫なみなんだろうな。でなきゃ神経ってもんがハナッからないんだ。そうじゃなけりゃ教室が暗雲立ち込める中で平気な顔して鼻歌なんぞ歌っていられないはずだ。

 転校生が来るのを知っていて、しかもそれが女の子で超ド級に可愛いと知っていて、ずっと楽しみにしていた奴がいる。

言うまでもない、俺の隣の大親友だ。恐すぎて横なんて見れたもんじゃないのだが、横から聞こえてくるのは――――シクシク?

「大阪よ、おまえは仲間だって信じていたのに。早々と卒業していたとは。うぅ、しかもその相手が今日の転校生だったなんて………それを知ってておまえはそんな態度をとったんだ。シクシク、もう俺、生きていられねぇ………死ねばいいのか?……………死ねば何もかも解決するのか?……………」

 どこまで本気か知らないが、気の毒なのはよくわかったから、な?泣きやめって。ジュースの一本ぐらいはくれてやるぞ。いや、もう昼飯だって今日はおごってやるから………

はぁ~  最近はバイトが忙しくて溜息をつく暇もなかったというのに、ついつい出てしま

うよ、溜息。

といっても、後ろの席の奴のへったくそな鼻歌でかき消されてしまったがな……………



 『人のうわさも七十五日』

「噂は長続きしないものだからあまり気にする必要はないということ」

 なんとか理性を保とうとなにか救いを求めて探した末にぶち当たった昔の偉い人の言葉。

 どうやら人のうわさは七十五日たつと忘れられるから気にするなっていうことらしいのだが。

 いったいこんな文句に何の救いを求めればいいというんだ。七十五日=二ヶ月半 ということはたっぷり一学期中は『これ』に付き合わされるということでなないか………

そもそも悪いうわさがたってしまった人に、気にするなっていう趣旨のことわざなのにどう考えたって長いだろ、七十五日は。

 だいたい噂が消えんのにそんだけ時間がかかんのに、どうしてうわさが広まるのはこんなに早いのか。二年の廊下の端から端まで伝わるのに間違いなく七十五秒かかってないぞ。うわさの広がりの速度にギネス記録があったら間違いなく記録更新ものだったな。

しかし―――――大きな噂となってしまうのも冷静に考えれば当然といえば当然なんだ。転校初日で今年の海高ミスコングランプリの大本命、倍率一・四倍の大阪小町とのペット疑惑だってんだから。(ペット疑惑?もう少しセンスのいいネーミングもあっただろうに)

 

あまりにも急過ぎる反比例のグラフの上に立っていたとしか思えない、一日にしてある意味頂点に上り詰めた半面、校内での俺の評判は地に落ちた。

「はあ~っ」

休息とはまったく言えない『昼休み』、屍となった俺はもう何度目だか分らない溜息を吐く。

拓からはどうしても口を割らない大量殺人者に対してするような真剣さで尋問された。

痛くもない腹を探られる、というより抉られて、なんとか再従姉妹ということでけりをつけたわけだが………ちょっと待てよ――――――ある重大なことに気がついた。

それは現状打破のための一筋の光明。

俺の席の後ろで足を組んで暇そうに外なんか眺めているこいつは、よくよく見れば耳も尻尾も付いたままではないか。こんなの、誰が見たっておかしいと思うはずだ。

そうか、もしかしたら学校中を駆け巡るうわさというのは、俺と小町が怪しい関係にあるということではなく、猫耳としっぽの付いた奇妙な女がいて、大阪優はその知り合いであるというだけのことなのかもしれない。(それだけだって十分迷惑な話なのだが………)

それにしたって不用心な格好だ。人間の姿で家から出ようというのなら耳としっぽぐらいは隠す工夫をしたらどうなんだ。

「おい、耳としっぽはそのままじゃないか。そんなもの付いてたら怪しまれるだろうが」

 俺が小町に話しかけるのを今か今かと待ちわびていた生徒たちが一斉に耳をそばだてる。

「ひぇ?なに言ってんの優?」

 教室がざわめくのが聞こえた。ふん、化けの皮がはがれる時が来たな。しかしなんだってみんなこのぴょこぴょこ動く異様な猫耳に気付かなかったんだ?どう見たっておかしいのに。よくよく考えれば教室に入ってきたときからずっとくっついていたんだ、すぐに気付かないのがおかしい―――――――――

かくいう俺も猫耳としっぽがついていても、見慣れたことのように違和感一つ感じなかったわけだが……………

まったく、自分が異常に巻き込まれているのを実感させられる。なんにしたって、文字通りしっぽを出したわけだ。

「とぼけたって無駄だからな、何を考えてこんなことまで来たかは知らないが、この世界にはそんな変なもんをつけた人間なんていないんだ。わかったらさっさと帰れ」

「うぅ、ひどい、優ったらまたそんなこと言うの?」

 これで二度目だ。目は涙に溢れそう、まるで餌に飢えた子犬のように上目遣いでこちらを見る。弱者の瞳に犬も猫も関係なしというわけだ。しかし、こんな視線を向けられたんじゃ責めることができないじゃねーか……………いやいや!小町のペースに乗せられては俺の学校生活は破綻する。クラス中を全員敵に回す覚悟でなんとかこの流れを断ち切らなければ。それに猫耳としっぽは多分みんな変だと思ってるんだ。小町にさえ分からせればみんな俺の味方だ。

「いい加減にしろよ!お前はこんなところに来ないで家でじっとしてれば……………!」

「うぅ、ひどいよぉ…………」

俺の言葉は急に遮られた。

「やめなよ大阪!よくわかんないこと言って!小町ちゃん泣きそうじゃん!家でじっとしてろだなんて、あんたが小町ちゃんを家でどんな風に扱ってるのかわかんないけどさ、わけわかんないこと言って女の子泣かすなんて、男として最低だよ!」

 クラスの女子の中心格、見てくれは良いが気の強いといったギャル風の女に一刀両断される。

「そうだぞ、大阪、耳やしっぽなんてありもしないものを。お前はそのふくよかな胸のふくらみに目がいかないのか!不届き者め、まさかお前はこの秘宝を家で拝み放題にしているんじゃないだろうな!」

 いつの間に教室へ戻ってきていたのか、拓まで攻撃の輪に加わっている。

「あなたはだまってて!でも大阪君、変なこと言って小町ちゃんを困らせてしまうのは良くないことだわ。転校してきた初日にみんなの前でどなりつけるようなことをするなんて。大阪君は小町さんと知り合い…………というか…ど、…同棲しているのなら………むしろ小町さんを助けてあげるのが普通じゃないの?」

 委員長は俺にもかすかな優しさを与えつつ、しかし確実に非難のベクトルはこちら向き。

 あれ……………俺………責められてる?

 

 よくわかんないこと?ありもしないもの?変なこと?

 なにがなんだかわからないのはこっちのほうだ。これを見てもなんとも思わないのか?普通の人間にはこんなもん付いていない。それはあってるよな?自分では良識はなくとも常識はあると確信しているんだ。

だが問題は常識の問題ではなく、むしろ可視・不可視の問題のようだった。まるで俺が討たれるべき仇であるかのようなこの雰囲気。

俺は生れてこのかた常に少数派には回らない生き方をしてきたのに…………………………            

 起爆剤は一人の言葉、堰を切ったように俺への集中攻撃が浴びせられる。クラス中を敵に回してしまった俺の最後のあがき。

「よーく見てみろよ、頭の上と尻の部分。あるだろ、猫耳としっぽが。しっぽなんてこれ見よがしにフリフリと動いているじゃないか」

 教室中を包み込む沈黙。それは多数決での敗北をありありと伝えた。

「ああ、これはもう何を言ったって無駄だ」―――――そう思ったのはクラスの連中も一緒。俺を見ていた目は憐れむような眼に変わり

「多分疲れてるんだよ」

「いや、小町ちゃんがきて舞い上がってるんじゃないか?」

「家ではいつもそんな格好をさせているとか」

「というより照れ隠しでちょっかい出してるんじゃないの?」

「なるほど、俺たちに見せつけようってわけか」

 好き放題言ったのちにみんな各々の席へ着いてしまった。 

こころなしか授業の開始を告げるチャイムの音もいつもより大きい。その音で、自分一人だけ未だに広い広い教室に突っ立っていたことに気が付いた。


 

苦難の時間は案外早く過ぎた。もう何を言われたって気にしない。脳に耳栓をして、鼓膜から入ってくる聴覚情報を脳に到達する前にシャットアウトする。それだけに意識を集中させたら、物理的音の遮断なんかよりもよっぽどうまくいった。

だがこんな空間、好んでいたいと思う場所ではない。終業のチャイムが鳴ると同時、さっさと靴に履き替えてグラウンドを横切り、校門を通り過ぎる――――――――――――――――が、教室を出た直後からずっと付いてくる奴がいる。しかも一番かかわりたくない奴。さんざん人を馬鹿にしといてからに。

「何の用だいったい」

「なにって、帰る方向同じだよ、なにせ同居してんだからね、ど・う・きょ」

 いたずらっぽくウインクなんかしてそう言いやがる。昼休みに泣きそうになってた面はいったいどこへ置いてきたのやら。

「まったく、あることないことぺらぺらと喋りやがって。よくもまああんだけ舌が回るもんだな。『猫舌』と書いて『びょうぜつ』とは読めたって『じょうぜつ』とは読まないぞ」

「全部事実だよ、ボクが言ったことは」

 ぬけぬけというこいつの態度に俺もよく耐えるものだと、我ながら人の良さに感心するばかりだ。

「問題なのは真実かどうかではない、おまえに俺を陥れる意図があったということだ」

「いやいや、この際ボクと優の関係ははっきりさせておかないと、と思って」

 猫の脳みそでいらん事に気が回るもんだ。

「そんな互いに不利益なことをして何になる」

「優に変なムシが寄り付かなくなる」

「ペットの猫にそんな心配されたかね―よ。猫じゃあるまいし、体を這いまわるノミに苛まれることもないんだからな」

「お、優はよくわかってるね!人間の体の唯一の利点は体の痒みが解消されたことだよ!」

 そう言ってご機嫌そうにそう言って返す小町は新品の制服が嬉しいのか、スカートのプリーツを撫でまわしてみたり、上着の裾を引っ張ってみたり、胸元の紐をいじったり、せわしない態度。

 そうか、猫だもんな、機嫌に関わらずじっとしてられないんだろう。そういや、クサンティッペの奴、紐見つけるとひたすらに猫パンチを喰らわしていたな。

「猫ってやっぱ落ちつきねーのな」

 人間ばっかコケにされてもシャクだと思ってからかってやる。どんな返答をするかと思えば、

「そうなんだよ~、優はわかってくれてるねぇ。猫ってのは何か面白いことがあるとついやってみたくなる性分なんだ。うん、うん、そうやって終わったことは全部水に流してくれる優が好きだよ」

開き直りやがった。

だが、『好き』の安売りに買収されるほど、俺は甘くない。

「言っとくけどな、今朝のあれは断じて許さんぞ!明日からどんな顔して学校に行けってんだ」

「笑えばいいと思うよ」

 笑えるか。

「まったく、手のひらを返したように態度を変えやがって、いいのか、誰かに見られても知らねーぞ」

 麗しの転校生がこんなとんでもないやつだって知れたらみんなどう思うんだろうな。だがこんな奴でも顔だけはいいんだからな、なにをしたって許されるというわけか。

「優ったらさっさと帰っちゃうから誰もいないよ。まったくせっかちなんだから。そんなにボクと一緒の家が好きかなぁ」

「誰かさんのせいで学校にいるのが嫌なだけだ」

「誰かさんて誰?」

 本気で分からないようにこくんと首をかしげて、人差し指は口元へ、無垢な瞳をこちらへ向ける。

「おまえだよっ、お・ま・え!」

「なんだ、だったらそう言えばいいのに。まったく人間は回りくどい言い方が好きだね」

「都合の悪い時だけ一丁前に猫のふりなんかしやがって。だいたい人間の格好して人間に文句付けるな。偉そうに聞こえるぞ」

「いいんだよ、ボクは偉いんだから」

 胸を張って傲岸不遜にフンッ、と鼻息。

「なんだ、猫のくせして」

「はは、そうだね」

 てっきりからかってやったつもりでいたのだが。小町は少しかがんで、両手を後ろに組み、こちらを覗きこむように笑っただけだった。その顔は妙に嬉しそうで、怒った様子は微塵もなかった。

 まったく、おしとやかさのかけらもないような奴だってのに、こんな笑顔を見せられるとつい心臓に金鎚の一撃をくらった心地がするんだから、かわいさというものに対する反射行動とは恐ろしいものだ。

ふと立ち止まってそんなことを思いながらも、「ほら置いてくよ~」と手を振ってこちらに笑顔を向ける少女を恨めしく思いながらも、小走りでそちらへと向かってしまう自分に、はぁーっ、とため息をひとつ。



駅周辺の繁華街は賑わい、住宅街も子供たちのたわむれる声で活気にあふれるこの町で、ひときわ静かな、というよりもむしも少し不気味な場所がある。

その場所とはとある公園なのだが、そもそもがこの公園、狭い敷地を無理して公園と呼べるものに作り上げようとしたもので、自然公園なんてたいそうな名前は付いているものの、市民の憩いの場にもなっていなければ、幼稚園児や小学生の遊び場にさえなっていない。

備わっている公園らしいものといえば水飲み場と小さなベンチくらいのもの。鉄棒やブランコは付いていないし、広さを考えれば鬼ごっこも野球もできないわけだから子供が寄りつかないのも当然だ。なんとか公園らしくしようということで小さい公園の中央に植えられたばかでかい木も、温かな日光を遮るだけに終わって、公園全体を薄暗くしている。

そんなわけだから夏は涼しいが冬は寒い。だからってこんな不気味な場所、夏の夜に涼むためにだって来たいと思う場所じゃない。動物さえ寄りつかないここは人呼んで幽霊公園。なにか秘密の取引をしたい場合や、カップルが誰にも見つからない場所を求める場合はよく使われるみたいだが、それ以外には好き好んで入りたがる人はいないし、むやみに入ってはいけないというのが、地域での暗黙の了解のようになっている。


 小町と二人でこの場所に来たのは別に両親に結婚を反対された報われないカップルが夜な夜な密会するだとか、怪しい薬の取引をするだとか、そんな愉快な理由ではない。

 小町が気になることがあるといって嫌がる俺の右腕を引っ張って無理やりこの公園へと連れてきたのだ。

猫に引かれて公園参り。ただしその先になにかいいことが待っているとは到底思えない。

公園の入り口から、通路とも呼べない、手入れなど全くされていない、狭いくせにやたらと長く続く小道を、横から飛び出している小枝に刺されながら通っている。

 まったく、こんな道、猫の姿にでもなって一人で好きなだけ通ればいいのに。

「おい、腕を引っ張るな、枝が顔を突くんだ」

「よけられる!優にも運動神経があることを見せるんだ!」

 人を運動音痴呼ばわりしやがって。

 小町のちっちゃな握られる腕は制服の上からでも温かみを感じる…………………………って、熱すぎやしないか……………?

「おまえすこし熱いんじゃないか、まさか熱とかないだろうな?」

「へっ?体の調子は悪くないよ」

「それにしたって熱すぎやしないか、おまえの手」

「う、うん、ボク、ゆ、優の腕を握ってると、ドキドキしちゃうから」

 一瞬こちらを振り返った目は潤んでいて、真黒なのに輝いているように見える。息をハァハァ言わせて、紅潮する左の頬は桃色に染まっている。その姿は本当に可愛く、そんな言葉を口にされると卒倒してしまいそうになるのだが……………

「うそをつけ」

 こいつがそんなオトメチックなことをぬかすはずがないんだ。

「うん、猫って体温高いから。走るとさらに体温上がっちゃうんだ」

 いや、猫がどうのこうのというが、現時点こいつの体は紛れもない人間のはずなんだが……………

 だがチクチクと攻撃してくる小枝に耐えるのがやっと、小町の冗談に付き合ってやる元気も失せ、ひたすらに枝を払い払い進み続ける。

 狭い小道を抜けるとそこは……………別になんの絶景もなく、むしろただ薄暗い、手狭な空間に出ただけだった。天気は快晴、時刻は夕方前だというのに、公園内は薄暗く、まるでどこかのドームに閉じ込められたかのようだ。

「ここまでくれば優でもこの臭いに気が付くでしょ?」

 たしかに、なんだろう、この臭いは。決して気持ちのいい匂いではない。知っているものの匂いで一番近いのは生ゴミだ。なにかが腐っているような、でもそれは野菜とは違う、肉や魚の腐乱臭。でも、魚の生臭さとも違う、獣臭さだ。

「あっちだ」

 顎を前に突き出し鼻を動物みたいにクンクンと動かし、臭いのもとの場所を探り出す。そうしている小町の髪は風に揺られ、髪の一本一本の細さ、しなやかさが際立つよう。あたりをつけるとと茂みの方へと歩いて行く。走りはしないが、その方へ確実に近づいて行くような、踏みしめる足取り。

「いいんじゃないか、無理して臭いのもとを調べることはないじゃないか。きっと不快なものだぞ」

「ボクにだってそれくらいわかるし、それがなんなのかもわかってるつもりだよ」

 ためらいがちに言った俺の言葉なんか無視して、今までの少し浮かれ気味だった表情はどこかへ行ってしまったかのような真剣な顔をしてまっすぐへその方へ向かって行った。

俺はどうすればいいのか分からないまま、突っ立って小町がだんだんと茂みへと近づいて行くのを見守っていた。

昨日の夕方、西日に照らされながら窓の外、遠くの方を見つめて猫という種が置かれている現状を真剣に話す小町の姿が目に浮かんだ。そんな小町の姿と、俺の前方、まっすぐ歩いていって茂みの中を手で探っている姿の小町を見比べる。

 そうしているといたたまれなくなって、自分から小町に近づいた。小町の隣に立つが小町の顔は見られない、ましてや声なんてかけられない。俺と小町が並ぶ前、横たわっているものに目をやる。

目にした瞬間、体の中から外に吐き出したいという衝動に強く駆られるドロっとした感じがこみ上げてきた。それが最初はなんなんだか分らなかった。粘着性の強い黒い塊のようになって体を中から強烈に刺激して、ただただ体から出してしまいたいと思った。

 それを見ているだけでいけないことをしていると感じさせるような、そんな感覚。

 言葉で表すならばそれは純粋な気持ち悪さと、正直にいえば、嫌悪感。

その二つが混ざりあったようなものが気持ち悪さの正体だった。それは悲惨の一言。

腐乱臭は近づくたびにひどく、目の前に立った今、それは他の一切の匂いを感じさせないほどの悪臭を放っていた。さらに視覚からの刺激も絶え間ない。かすかに原形をとどめる四本足と長い胴体、それに細長い尻尾。全体は真黒に染まっていてよく見えないが、しっかりと目を見据えると、その黒は有機物が腐って黒くなった色であり、血が固まってできた黒なのだとわかる。そしてそんな黒に隠れて動き回っているのは得体の知れぬ虫の黒。それらが混ざりあって、もはやそれがどんな形をしていたのかがわからない。もちろんその生物の一般的な形は思い浮かべられる。しかし目の前のこれがどんな体の色をしていたのかは知るすべがない。ただ、黒い何かがそこにはある。

 俺はそこに這いまわる虫の全てを取り除いてやりたかった。いったいこいつは自分と比べ何分の一かもわからない小ささの虫に体をぐちゃぐちゃにされて、なにを思うんだろう?

 もちろんなにも思わない。死んでいるから、なによりそれは動物、猫だから。

 今胸に込み上げるこの感情はなんだろう。目の前の横たわる生物が感じる屈辱を自分が代わりに受けるような、「かわいそう」というのでもない。今の俺にそんな道徳感情は紡ぎだせない。ただ何とかしてやりたいと思うのに、なにもできない。虫たちを取り除いてやりたいと思う一方で、俺はこの光景から早く遠ざかりたいと考えている。たたただ気持ち悪い何かを遠ざけたいと考えている。そんな自分が情けなくて…………………隣の小町がなにを思ってこれに近づき、なにを思ってこれに近づいたのかがわかりかねた。カバンを片手に持って、乾き切ってはいるものの確実にそこに血の海があっただろうという、変色した地面に立って、その悲惨を眺めている隣の少女、猫耳としっぽの生えた少女に、なにも言葉を掛けてやることができない。

「優は気付いた?」

 急に声を掛けられて、俺はじっと小町を眺めていた視線を反らす。すると凄惨な光景が目に入って、今度は目の前の木々を眺める。

「き、気付いたって…………この臭いには公園に入ってからでないと気付かなかったよ」

 なんとなくそれが答えではないとわかりつつ、なにか答えなければいけないと思って口を開く。すると案の定

「そのことじゃないよ、この子のおなかのところ、パックリ開いているのに気がつかない?」

 小町は視線を死骸に向けたまま、しかし言葉では俺にしっかりと尋ねる。本当に、目だけは瞬きも少なにじっとそれを見つめて。

 俺は陰惨な光景に目を戻す。たしかに、腹のあたりが大きく割られていて、虫たちもそこから出入りしているように見える。

「これはね、人間がやったものだと思うよ、ボクは」

 そう言った瞬間、体の中の黒い塊がさらに大きくなって、体からはい出そうとしている感覚を受けた。俺は懸命に生唾を飲み込むと、その原因が罪悪感なのだとわかった。

 俺がなにをしたわけではないのに、その光景を見ているだけで、それが目の前にたしかに存在しているというその事実だけで、俺は闇を背負っているような感覚を受けた。まるでそれが人間全体で背負っている罪であるかのように。小町は俺を責めているんじゃないかと思った。

 小町は無表情を守ってただその光景を見つめるばかりであったが、そんな小町を見ていると、いわれのない申し訳なさを感じた。その感じは隣にいるのが純粋な『人間』でも、ある程度は感じたんだと思う、気まずさを互いに察知する程度には。

 でも、今体の内から全身を包み込むようなこの感覚は、それともどこか違っていた。小町が怒りや悲しみを表面に出さないだけに、俺はどう振る舞い、どう反応したらいいのかがよけいにわからなかった。

「優はこれをどう思う?」

 小町は単刀直入にそう聞いてきた。それに対し俺は何と答えたらいいのかわからなかった。

「可哀そうだ」とか「ひどい人間がいるものだ」とかそんな言葉は無意味な気がした。同情や怒り、小町がそんなものを求めて聞いたのではないことが俺には分かっていた。だけど、こんな時に気の利いた言葉なんか見つからなくて、ただ俯いてしまった。目の前の光景を目に焼き付けることが罪滅ぼしにでもなるかと思って…………………………

「優がいったい何に対して後ろめたさを感じているのかボクにはわからないけど、安心して。ボクはこんなものを見たからってなんの心の変化も起きないし、ましてや悲しみなんて全然感じないよ。見慣れちゃったせいかな。それとも人間の姿になんかなっちゃってるから心なんてものを無くしてしまっているのかな」

 そういう小町の顔は確かに情動なんて一切ないような、先ほどと変わらぬ無表情だった。だがかすかに感じ取れたのは、夕日を背にして決意の表情を浮かべていた昨日のもう一人の小町の顔、人間に対して明らかな憎悪を感じている小町の顔だった。

「ボクはね、人間がこんなこと平気でするって知ってるから、なにも感じないし、人間を責めたりしない。それは、どうしようもないこと」

 俺は、なにも言葉を紡げなかった。こんなとき、なんて言葉を掛けるべきなのか、俺の引き出しに、その答えはなかった。

人間というものをことごとく嫌っているが故のあきらめ。そこには怒りも悲しみもない。すべての感情を無に帰するあきらめの言葉を口にする小町の横顔はさびしげに映った。人の姿をして目の前に現れた大阪小町は、こうして会話ができるようになったというのに、一昨日まで一緒に家で一緒にゴロゴロしていたクサンティッペよりも、はるかに遠い存在だった――――


「とりあえずはここを出ようよ。悪いね、付き合わせちゃって。変だねボクは、どうして優をここへ連れてきちゃったんだろう?ボクはこの子を土にかえしてあげるから。少し手遅れだけどね……………でもなんとか形はとどめているから――――――――――優は先に出て待っていてよ。そう長くはかからないはず」

 そういって小町は人の姿のまま土を掘りはじめた。

骸となった猫を触ることに全く抵抗はないみたいで、それは俺が同種の人間の虫や何やらに引っかき回された死体を平気で触ることと同じことなんだと思うと異様なことに感じて、黙々と土を掘っている、綺麗に整いすぎた顔の小町が逆に恐ろしく思われた。

 俺は小町の言葉に黙って頷き、チラチラと後ろを振り返りながらも、小町に声をかけることはせず、ただ小枝をかき分けながら、急いでその場を離れた。



公園から出てきた小町の表情はいつもの小町のものだった。

「優は今日アルバイト?」

 狭い小道を歩いた時につけてしまったのであろう、小枝のこすれた白い跡を入念に手で払っている。見た目によらず、というよりも、猫だというのにデリケートなのか、頻りに手で制服をパタパタとやっていて、逆に制服が傷んでしまうのではと心配になるが。

「いや、今日は違う。というより、バイトは土日だけなんだ」

「ふーん、なんのバイト?」

 「ファミレスだよ。混む時間は常に人が足りないんだって。いつでも大丈夫ですって言ったらすぐに採用されたよ」

「いいの?そんな安請け合いしちゃって?それに土日なんて優だって予定あるでしょ?」

 おせっかいな母親が休みの日でも家でゴロゴロしている息子に世話を焼くような口調だ。

「わかっていて聞いてるのだか知らんが、俺にとって休みの日なんていうのは一人で部屋で漫画でも読んでいるか、家族でくだらん話でもしているか、ねこじゃらし片手に飼い猫と遊んでいるかの、非生産的な時間なんだ」

「えーっ、じゃあこれからは猫じゃらしやってくれないの?」

 眉は八の字、さっきと打って変わって駄々をこねる子供みたいに両手で俺の右腕をつかんで右に左にゆさゆさと揺らす。ついでに小町の両腕に挟まれる、三まわりか四回りほど大きいふわふわの雪見大福もゆさゆさと揺れるのが、セーラー服と緩められたリボンの隙間からちらちらと覗いている。困ったような顔をして口は半開き、邪心混じり気なしのおねだりに、上目遣いに目が合えば、顔はくぎ付けになりそうだが、何とかして理性を保とうと顔を反らす。

「そ、その体で………ね、ねこじゃらしも、な、ないだろ?それに、他の誰かがやってくれるんじゃないか?」

「それもそうだね、いいや、茜にやってもらおうっと」

 妙に冷めた口ぶりで、パッと腕が放されおいしそうな雪見大福もその姿を潜めてしまった。

 なんだかそう言われるとすこし淋しいというか、名残惜しい気もしてしまうのだが…………

「だいたい生まれたばかりの子猫ならまだしも、おまえがそんなにねこじゃらしで遊ぶのを楽しめるとは思えないんだが」

 俺が何気なくそう言った瞬間、小町はムッとしたような顔になる。立ち止まって俺の顔に向かって右手の人差し指をビシッと突き立て、その細いくせに妙に力強い指に、尖端恐怖症でもない己が後ろにのけぞるのを感じる。俺は思わず後ずさりするが小町は熱弁をふるい始めた。

「いいかっ、優!古人がエノコログサを『ねこじゃらし』といったのはだてじゃないんだよ!

こ、こう言うのはちょっと恥ずかしいけど、ボクたちはあれを見ると食べるのもほっぽり出して、文字通りそれにじゃれるのに夢中になっちゃうんだから!

人間は猫と遊ぶための模造品みたいなのを作りだしたけど、もう、全っぜん!!格が違うよ!!あのなんともいえない独特のしなり方、うまい具合に揺れるあの振れ幅。それになんといっても触った時のあの言葉では表現しがたいふわふわとした、どこかくすぐったい気持ちよさ。人間の格好をしてたって、あれを思い出すだけで首から背中のあたりがゾクゾクッとした寒気ともいえる、快感ともいえる感覚が駆け巡るんだからね!」

 いつの間にやら耳は硬くピンと上を向き、しっぽも上を向いて若干太くなって逆立っている。猫というのは興奮するとこうなるんだからまことにわかりやすい。

それにしたって…………熱弁を聞かされた俺にどんな反応を期待しているんだこいつは……自分のお気に入りのものを誰かに伝える喜びは理解できるが―――さすがに猫じゃらしがどうこうといわれても……………

はーっ、はーっと息を継ぐ姿は「言いきってやった」という表情に満ちている。本当に、ご苦労なこった。ご満悦の表情を浮かべると大股で機嫌よく歩いて行くんだから世話ない。

しかし何十メートルと歩いているうちに恥ずかしくなってきたのか、俯き加減に

「う~っ」

 といったかと思うと小町の方から口を開いた。

「でもどうしてファミレスなのさ?優ならペットショップなんて向いてそうなのに」

 顎にこぶしを当てて不思議そうな顔で悩むこいつにペットショップが俺に向いているという根拠を聞きたいね。

「まあ、大変かもしれないけど、飲食店ならまかないもあるって話だし。家計が苦しい今、給料以外の現物支給はありがたいよ。それも含めての時給七百八十円さ」

「まかないってうのは残飯のことか。確かにボクたちも随分とお世話になってる。人間の食べるものだから猫の口には合わないけど。それでもかけがえのない栄養だからね」

 なるほど、野良猫には捨てられる残飯は食料なんだな。野良ネコという単語を小町の前で口にするのが憚られて心の中でそう言う。

「ところで食いぶちぐらい自分で稼げよ。知っての通り家にはただ飯を食わしてやるような余裕はないんだからな。いくら猫とはいえ姿は人間なんだ」

「ボクは前と同じ分しか食べてないよ。食事のときは本来の姿に戻って食べるから。でも、うんとね~、人間の食事にも少し興味はあるよ。七百八十円てどれくらい?なにが買える?」

「そうだな、おまえが食ってるあの缶詰あるだろ、あれを七、八個は買えるんじゃないか?」

 そう言った瞬間の目の輝きったらなかった。手はこぶしに握り締め、「うんうん!」といって話の続きを待つようにこちらを見つめて頷く。しっぽをしならせ陽気に地面をぺたんぺたんと叩いている。本当にこいつときたら、俺よりも大人びたような表情をすることもあれば、今みたいに猫丸出しの幼さを見せることもあって、なんだかよくわからない奴だ。

「おまえまさかバイトなんて始める気じゃないだろうな。履歴書とか必要なんだぞ。どうするつもりだ?」

「ふふ~ん、優はまだボクたち、猫のネットワークがわかってないみたいだね?」

 それはそれは恐ろしい悪魔の笑い。両手を腰にあて、鼻をフンとひとつ鳴らしたかと思うと、顎を少しあげて不敵な笑みを浮かべ見下すような顔をする。

 なんだなんだ、猫のネットワークなんて、今日はどこそこの塀の上がポカポカしているぞとか、その程度の話じゃないのか。

「『一人の』猫が『いた』ようにすることなんて、簡単なことなんだよ?」

 うん?どういう意味だ?―――――――一人の猫?いた? 考えること三秒―――――――そういうことか……………

小町が転校初日からかましてくれたのも衝撃だったが、そもそも海高の生徒としてそこに立っていることそれ自体の方がよっぽど驚きだ―――――

「まさかその猫のネットワークとやらで合法的に転入手続きを済ませたってのか………」

 深くは考えなかったがどうせ校長に色仕掛けでも使って入り込んだのかと思っていた………

「失礼だなァ、合法も合法、たぶん今頃は住民票だって…………」

「どうやってその手続きとやらをとったのか、聞きたいものだな」

 純粋な興味からついついそんなことを聞いてしまうのだが、

「聞かない方がいいと思うよ、それは世界規模の、哺乳類全部を取り巻く裏事情だから」

 小町の顔はさっきの悪魔の笑いから一転、ふむっ、といっていやに真剣な顔をして見せる。そっちの方がよっぽど怖いってんだ……………

「しっかし猫のくせに難しい言葉を知ってるんだな。さっきから話していて驚くばかりだ」

「わかると思うけど、ボクは普通の猫とは違う。優が普通の人間ではないようにね。でも一応人間の脳を形としてもっているわけだから、猫といったってあんまり驚くことはないんじゃないかな。この一年間優のそばで暮していたわけだし、人間の世界の情報は嫌でも入ってくるよ」

 種も仕掛けもない押し入れの中で猫から人へ早変わりするのだから確かに普通じゃない。だがこうして裏事情みたいな話を聞いていると、いやが上にも猫と話しているんだってことを実感させられる。小町も普通じゃないが、猫と話している自分もよく考えれば普通じゃない。しかしそんなこと、積極的に認めたいこととも思えないな―――――

「俺が普通の人間じゃないって?俺はこの上もなく普通だぞ」

「いや、優には力というか能力というか、うーん、才能とでもいうのがぴったりかな、そういったものがあるんだよ。確かに最近になるまで、ここ一年くらいかな、その力は見受けられなかった。今だって、人間が目で見てわかるような力ではないけれど、今日になって明らかになったね。ボクが学校に行ったのだってそれが目的だったんだから。勿論それだけじゃないけどねっ!」

 小町は何が嬉しいのか、薄いピンクの頬を赤に近い色に染め、かすかに口元に笑みを浮かべる。

「俺はこの一年で別に何も変った覚えはないぞ」

「別に新しく備わったんじゃないんだよ。ボクたちが気付かなかっただけ」

 ボクたちっていうのはやはり猫全部を指しての言葉だろうか。

「とりあえず明らかになったのは俺の学校での評判が大幅にマイナス値を示したってことだけだ。才能なんか明らかになってない」

「それは悪かったよ~。許して、ねっ!」

 ウインクしながら片手でゴメンネ!のポーズをする隣の少女は、忘れかかっていたがとてつもない美少女だ。たぶんこんな少女だったらどこにいたって周りではそれを巡る旋風が吹き荒れて、隣にいる男は常に糾弾の対象になってしまうんだろうな。

そう思うと学校でさんざん腹が立っていたのもどうでもよかったような、とまではいかないが、許してやろうという気になってくるから罪なもんだ。

顔がいいってのは、随分と得なことなんだなと、実感したくもないことをさせられる。

「まあいいけどよ。それはさておき、その能力とやらがなんなのかは気になるな」

「優一人に見えて、他の人には見えないものがあった。さ~てそれはなんでしょう」

 やはり悪戯なウインク、右手の人差し指をリップでつやつや、ぷるぷるの薄紅色の唇にあてて、男をとろかしてしまうような甘い蜜の囁き。

「それがねこみみとしっぽだとか言ったら結構怒るかもしれないぞ、俺は」

「ははっ、そ~のま~さか~」

 そういうとぴょんぴょんとはねるようにどっかの家に入って行ってしまった。おいこらと止めようとして目に入った表札で、もう我が家の目の前にいたのだと気がついた。


小町の後を追って庭へ駆け込むなり、ゴロンと仰向けになって大きな欠伸をかましている猫が、そこにはいた。言うまでもなく小町、いやクサンティッペだ。こんなあられもない、というより、みっともない姿を果たして小町と呼んでいいものか。海高の男子には絶対に言えないな。まぁ、格好以前の問題だよな、猫なんだからこいつ。

「庭に駆け込むのもいいが姉貴か茜にばったりあったらどうするつもりだったんだ。言っておくけど俺は責任取れないからな」

 聞こえているのかいないのか、情けない声で「にゃっ」とひとつ返事をすると、くたーっとなって耳までぺたんと折って、終いには眠ってしまった。そこまでの動作にわずか一分。赤の混じる日差しに照らされぬくぬくしているクサンティッペはこの世の極楽を一人で受け持ったような顔をしている。猫なんてのはこうしてのんびりしている瞬間が一番幸せなんだろうな。そんなことをしみじみと感じてしまう。

「まったく、気持ち良さそうに寝やがって。こちとら面倒事が一つ増えちまったっていうのに。こうしていればどこにでもいるただの猫じゃないか」

 そういいながら久しぶりに撫でるクサンティッペの頭は、ふわふわして、あったかくて、撫でるとふにゃっと崩れる姿の何もかもが心を癒した。

 とても、クサンティッペと小町が同一人物(?)とは思えなかった。

 そんなことを考えつつ和んでいると、後ろに立つものがあるのに気がついた。

「あ、ああ、茜、帰ったんだな」

「ふんっ、猫と話してる時間があったら労働に時間を回してよね」

 プイっと背中を向けて去っていこうとする茜に

「また土日には一日中仕事なんだ、勘弁してくれよ」

「へぇ、期待しないで待ってるね」

 口を尖らしてそんなことを言う茜はしかしどこか嬉しそうで、どうにか今日の晩飯にはありつけそうだ。なにかいいことでもあったんだろうか?

 おもしろいな、こんなことがなんだかやけに嬉しいことのように思えてくるんだから。学校ではあんだけ今日は最悪の一日だと思っていたのに。飯にありつけるという喜び以外の何かを感じつつ、人の幸せのメカニズムもアテにならないものだと、自虐的な気分になってみる。

 それなのに、ひとつ、なにか胸の内に引っ掛かるものがあるのを感じてしまう。どうしても素直に茜の笑顔を喜べない自分は、その時はただの気のせいだと思っていた。

全然、その時は胸をよぎる不安の理由なんて、深く考えもしなかった。








小町は学校に現れるとすぐにクラスの男子・女子の心を掌握してしまった。なにせあれだけの美貌、そして抜群のスタイル、人柄がどうこう以前に、外見で目を引く人間のもとに人は集まるものなのだ。だがいくら舞い降りた天使並みにかわいいからって、転向後一週間やそこらですでにクラスの中心になりつつあるというのだから恐ろしい。

「何度見てもおっどろき!どうしてそんなに髪サラツヤなの~?触っていい?触っちゃうよ?」

「ヤバい、マジこれヤバいって!肌つるっつる!滑っちゃうよ!」

「そんな、なにもして……ひゃうっ!!―――――――――――」

「『ひゃうっ』だって!わーっ、小町ちゃんかわいすぎ!!!ぎゅっ!」

「ひゃにゃー!!」

今だって、いろんなところを触られつつも、女子連中は小町を中心に話の輪を咲かせている。

小町は……楽しそうだということにしておこう。

どうやら小町を輪の真ん中にした会話の光景は、おせっかいな輩が転校生が物珍しくて興味本位に話しかけているというのとは違うみたいだ。これからの一年間、クラスで、いや、それどころか、学校単位の中心人物になるんだろうな。

全くたいそうなことだ。

だがたしかに小町があれだけもてはやされるのもわかるのだ。古風なのは名前だけ、学校での小町は身ごなしは垢抜けていて都会風なオーラを漂わせる。それはこんな地方の公立高校だもんだからより目立ち、それでいてモデルのようなオーラはなく、あくまで一般人。お高く止まったところもなく、男子からだけではなく、女子からも人気の的となっているというわけだ。やれどうしたらそんなにスタイルがよくなるだとか、ダイエットはどんなのしてるだとか聞かれ、プール楽しみだね~!なんて盛り上がる。

クラスの女子いわく、「あんなにかわいいのに、全然気取らないで、すっごく話しかけやすい!明るくって性格もすっごくいいよね!」だそうである。

これは女子全員一致の意見だというのだから凄まじい。転校してきた初日から人気をかっさらう美少女なんてのは、それまでクラスの中心だった女子グループから目を付けられそうなもんなのに、むしろそのグループのリーダーのようになっているんだからなんとも名状しがたい。一匹の猫にこれだけの求心力があるとは…………呆れるばかりだ……………


「ボク人見知りだから転校初日なんてすっごく緊張しちゃうんだ」

 そう言いながらもかすかに照れるような表情は残しておく。小町流可愛い女の子の作り方。

 転校生ということで逆に箔をつけるなんてこと、普通の『人間』には出来んだろうからな。

「そうなんだー、全然そんな風に見えなかったよー!」

「ううん、そんなことないよ、みんながボクに優しくしてくれるからこうやってクラスに溶け込めるんだ!ありがとうね!」

 そう言って笑顔を作るのだが、ただじゃ終わらない。話している相手だけじゃなく、さりげなく笑顔の状態で教室を見まわし、クラスのみんなと目を合わせようとする。

特に『オス』に対しては!――――――無論俺だけはサラッと無視されたがな。

「そんなぁ、優しくだなんて、小町ちゃん可愛いからみんな大好きなだけだよぉ」

 周りの女子たちはうんうんと頷く。ふん、全く微笑ましいな!輪の中心が小町という会話があと何日続くやら。なんだか最近は他のクラスからも混じってきてるようだし。本当に、いい迷惑だ。まぁ俺の席の後ろでざわざわしていないことだけがせめてもの救いだ。

 というより、クラスの女子はわざと小町を俺から遠ざけようとしているらしい。かわいいかわいい小町ちゃんを魔の手から救おう、というのが合言葉になっているそうだ。

勝手にしてくれ。            

転校初日の小町に対して放った「ねこみみとしっぽ」発言以来、女子はおろか男子にさえ引かれている始末なんだから。何とか話し相手になってくれるのが、他の男子と同様にアホ面で天使が振りまく笑顔を眺めている拓だというんだから情けない話だ。

しかしウチのクラスの男子ときたら、あいつの陰謀にコロッと参りやがって。

いつもの馬鹿話はどこへやら、あまりシーンとしていると不自然だからという理由で会話は途切れることのないものの、そんなものは上の空、クラスの新アイドルの一挙手一投足を逃すまいと、五感をすべて駆使している。

あぁあぁ、こいつらだって小町の本性を知ったらいったいどんな反応をすることやら。

まあクラスの男子ばかりを責められるわけではないんだが。なにせ小町の転校初日から2―A前の廊下にはむさくるしい男どもがのべつ幕なしに顔を寄せ合っているというのだから。

ついでに俺の顔も見ていき、色々といわれのない悪口を吐いていくのだ。そして俺が小町の方をチラッとでも見るたびに

「おい、見たぜ」

「うわ~、独占欲つえ~」

 と、廊下から聞こえてくるわけである。いまさら何を言われようと気にはしないがな。

 さて、どうしてこんなことになってしまったのか――――――かわいさは罪―――――それは認めてやるのだが、やっぱり一番の問題は、転校生が聴衆の前でぶちまけたあの誰も得することのない、いかがわしいとしかいえない関係なわけだ。

 だいたい、俺がこの昼休みの2400秒という、数えるには随分と骨な時間を、四方から向けられる嫌悪の目線や、八方から飛ぶののしりに耐えつつ律儀にも教室の自分の席に座っているのは、小町が『あの噂』を否定してくれるのを今か今かと待ちわびているからである。

 そして、待っていればチャンスは訪れるものだ。

小町が現れるまでクラスの女子のリーダー格だった女子生徒が言いにくそうに小町に尋ねる。

「それで、大阪君と一緒の家に住んでるって言うのは本当なの?」

「う、うん、そうだよ」

 いきなりもじもじ小町発動。なぜ恥ずかしそうにする!!!そっから否定しちまっても一向に構わないんだぞ!だがそんな表情さえ女子からは同情を誘い、男子からはさらに胸をうちぬく可愛らしささえ感じさせているんだろうな。そして俺はまた一歩、学校中からの敵となる。

「それから、その、なんていうか……………小町ちゃんが大阪君にしてる……させられていることも本当なの?」

「えっ、それは、その………………」

 急にパッと顔を赤らめて、たまごのようにすべすべなほっぺたを両手で挟み恥ずかしそうにする。「瞬間赤面術」とは大した特技だ。一発芸大会にでも隠しておけ。だいたい「させられてる」なんて人聞きの悪い、俺は自分からクサンティッペを布団の中に入れた覚えはないぞ!

「あっ、変なこと聞いちゃったよね!ゴメンネ小町ちゃん、嫌なこと思い出させちゃって――無理して聞きたいわけじゃないの」

 そう言って同情の色を浮かべる女子ともどもと、またもやこちらを睨みつけているこの男どもは、一応一カ月半という時間を共に過ごしたクラスメイトの話を聞いてやろうという気はないのか。小町への追及は今日もここで終わり。固唾をのんで見守っていたクラス全員+廊下組は緊張から解放されて一斉にほーっと息をつく。

 とりあえずわかったことは、小町がだんだんとクラスになじんでいく中で俺はだんだんとクラスから仲間はずれになっていってることと、その原因はすべて小町という一人の少女のもとに帰すということだった。



謎の転校生―――――――聞き飽きたそんなセリフはしかしどうやらしがない一公立高校においても当てはまるみたいだ。

「大阪小町には謎が多い」

ルックスがハンパない、という噂は1週間足らずで、4階建てのちんけな建造物ぐらいは呑み込んでしまうぐらいのビックウェーブが伝えたわけだが、同時に右のような言葉も流布した。

まず前歴がわからない。自分の個人情報を、この転校生は絶対に明かそうとしない。というより、なんだか自分のことがわかってないというように見えるのである。

さらに、この転校生ときたら、自分のこと以上に、世間のことを知らなさ過ぎる。現在の首相はおろか、超人気アイドルグループS○APのメンバー5人の名前を言えないときてる。

さらに 好きな曲は? と聞かれて「おさ○な天国」と答えたそうであり、周りにいたものは必死で笑いをこらえたとか。

さてさてどういうことか?一応は世間知らずのお嬢様だということで片がついたのだが、ここで一番の疑問がわいてくる。

『なぜ大阪と一緒に暮らしている!?!?!?!?!?!?!?』

俺の帰りはなぜか必ず小町と一緒だというのも叫ばれた謎のひとつ。小町はクラスの女子に一緒に帰ろうと誘われても、いつも何らかの理由をつけて断っていた。そんな小町の姿は一見すると彼氏と一緒に帰りたいと願う健気な女の子に見えるわけだが、そんなわけはなく、別に必死になって追いついてきたって、息を切らしながらの「ごめんね、待った?」の一言もなく、いつものように自分勝手に振る舞うだけなのだ。だいたい小町が誘いを断るたびに俺に向けられる冷たい視線はなんなんだろうな。俺は一切小町にそんなことを強要していないぞ。

 まったくもって何のつもりなのかわからない。今だってこうして小町と帰宅路を共にしているわけで、世間一般には羨ましいことなのだろうが、猫耳としっぽの付いているのが見えている俺にはどうも下校デートなんて甘酸っぱいものとは思えない。相変わらず俺を除く学校全員にこの超リアルコスプレは見えていないようだし。

とはいっても、慣れや習慣とは恐ろしいもので、隣を歩くビックリ人間にも違和感がなくなってきている俺がいるのだ。

「なにを企んでる」

「ほえ?」

 俺が隣にいるのを今気がついたような返事。右手に持つ真っ白なそれに全ての神経が注がれていたみたいだ。まあこんなものさ。

「別にこうやって帰り道に近所のスイーツを食べ歩くために俺と歩いてるわけじゃないだろ?」

 学校帰りの日課となっているのが駅の近くの店で手当たり次第に人間の食べ物を頬張るということ。そして金の出所は俺のバイト代だ。

「でもおいしいよ、これ」

 五月だってのに汗ばむ陽気の中、無邪気にソフトクリームをぺろぺろとやっているその横顔は幼気な少女そのもの。鼻の頭にはアイスがついてしまっている。しかもそれを一切気にしない、というか気が付いていない様子。教えてやったほうがいいのかな。でも猫って鼻の頭が湿っていれば健康って聞くな。んじゃいいか。そのほうが少しはかわいげもあるってもんだ。

「昨日のあれはひどかったよ、ボク舌が焼けるかと思った。今日のは冷たくて最高だね。まったくどうやってこんな物作るんだろう?」

 「不思議だ不思議だ」と独り言、食べる手を止め、目を皿にしたまんまくるくるとコーンを回して眺めている。

全部自業自得なのである。何日か前に食った屋台のたい焼きを「うわ~甘い魚なんて初めてだよ。ボクこんなの知らなかった!人間はおもしろいものを見つけるね」なんて言って味をしめたか、昨日は「あれ食べよ」なんていって同じ屋台からたこ焼きを買ったのだが、「熱くて食べらんない!」といって俺の口に無理やり詰め込んできやがった。猫舌ってやつか、うまいことできているもんだ。

「まだ舌ザラザラして変な感じがするよ」

 で、火傷したわけだ。よかったじゃないか、ざらざら感が猫の舌に近づいて。

「俺が言いたいのは、こんなもん買って食べるのは俺以外とでも出来るだろってことだ。むしろ女子高生が何人かで集まって甘いもん食ってる絵のほうがよっぽど普通に見えるぞ」

「でもぼろが出ちゃうかもしれないから。慣れないことも多いし、優と一緒が安心でしょ?」

 お○かな天国はボロに入っていないのだろうか?小町らしいと言えばらし過ぎるのだが。

「あれだけうまく人心を掌握しておいてよくもまあそんなセリフが吐けるもんだ。大体俺としてはこれ以上お前と一緒にいる姿を目撃されて反感を買うのはごめんなんだ」

 今こうしてるのだって海高のだれが見ているか――もとい監視しているかわかったもんじゃない。それどころか最近は他校にまで噂は広がっているそうじゃないか。あんまり目立ってはいけないんじゃなかったのか、こいつは。

「羨望のまなざしを受けてこんな美少女をエスコートできるなんて、優はどんな幸せ者なんだろうね」

 心からそう思っているみたいに言ってのけるんだからな。本当に、なにを企んでいるんだか。

「なにが幸せなものか、あの眼差しは羨望というより殺意に近いぞ、くらったものにしかわからないな。学校内で四面楚歌の俺の居場所はいったいどこにあるのやら」

「なんりゃ、そんなことか」

 アイスを口にあむあむと頬張って、かったるさ丸出しで答える。

「そんなこととはご挨拶だな。俺、最近学校でまともに友達と口を聞いていないぞ」

 拓と話すといったって、奴は「はァ~、大阪はいいよな~」の一点張りだ。

「だからボクならいつだって話し相手になってあげるのに。ボクはいつだって待ってるよ?」

 ――――――――――もともとこいつのおかげでこんな目にあっているんだが、今みたいに無邪気にかけられた言葉に優しさを感じてしまうのは俺が悪いのか?人が傷心だってときに甘い言葉でつけ入るつもりか。小町を見て胸をときめかせていては負けた気分がするので常日頃からこいつは猫だと言い聞かせているのに、心で何を決意したって、視覚から脳に直接送り込まれる夏の海のように照り輝く微笑みや、聴覚情報として流れ込むシロップのような甘い囁きにはあらがえないわけで、結局この桃色小町の前に完敗してしまうのである。

「話し相手なんて、こっちからお断りだ、これ以上自分の首を絞めるようなことをするつもりはない。だいたい俺なんかに構っている暇もないだろ?おまえのことだ、どうせ転校から二週間足らずで男子からのお誘いもごまんとあるんだろ?受けてやりゃいいじゃないか」

「いい、意味ないもん」

 それは高飛車な女王様というよりも、そんなことには興味がないいたいけな少女のよう。

「まあまあそう投げ捨てずに、一度ぐらい相手になってやったらどうだ?たぶん精一杯に尽くしてくれて、気分いいぞ」

「だから、意味ないんだって」

 顔つきはさっきと変わらないのに、小町の口から出る言葉にはどことなく違和感を覚えた。意味のあるないで物事を判断するのが、俺には小町らしくもないと感じられた。

「遊びとか恋愛にそれ自体以外の意味を見出すものじゃないだろ。それを言ったら俺とこうしているのにも意味なんてないんじゃないか?」

 本当にそうだな、言いながら少しさみしくなっている自分を感じる。

「ううん、優と一緒にいることには意味がちゃんとある」

 一瞬、脈打ちが早まるのを感じた。それは心臓を軽く握られるような、小さな、しかし実感のある息苦しさ。一緒にいることに意味がある、意味があるから一緒にいる、意味がなければ一緒にいない。その三つは、厳密には別々の意味。それはわかっているのに、どこかいわれのない不安が全身を襲った。何かに焦るような不思議な感覚。

 「意味がある」という返答を期待しての質問だったのに、いざ期待された答えが返ってくるとどうだ、なにか、変な気持ちになる。

 「意味ってなんだ?」そう聞き返す意志は、無意識のうちに消えていた。

「あれはどうなのさ、あれも、あれも」

楽しそうに歩いているカップルを指さしてあれ呼ばわり。失礼な奴だ。

「あれはカップルで、お互いに楽しんでいるからいいんだよ」

「ボクはこうしていて楽しいけどな。優は楽しくない?」

 ………………じっとダイヤのまなざしをこちらに向けるこいつは、こういうセリフをわかって吐いているのか?

「そ、そりゃあ楽しくないことはない」

「それならいいじゃない、楽しければいいんでしょ♡」

 いつも通りの悪戯な表情を顔に浮かべたかと思うと、名残惜しそうにソフトクリームのコーンの最後の一口を口に放り込み、おいしいおいしいと満面の笑み。隣のこいつに見事に言いくるめられてしまった俺は今日もいつもと変わらない帰宅路を歩んでいる。でも小町と一緒になって歩くようになったこの道は、前ほどに殺風景ではなくなったように思われた。

 五月中旬のさわやかな風を感じてそんなことを考えていた俺の顔からはらしくもなく笑みがこぼれていたかもしれない。

 そのころ大阪家に雷と暴風が吹き荒れているなんて知らずに。



「ただいま~」

 おそらく生涯で最も多く発する単語の一つである言葉で帰宅の合図。「おかえり」の返事を期待してそう言い放ったのだが、返事は返ってこない。

そのかわりに目に飛び込んできたのは見慣れない靴。自分のローファーを見慣れているからその表現は変かも知れないが、どうやら拓のものでもない。サイズを見る限り持ち主は女性だろう。そんなに新しいものではなさそうなのだが、丁寧に使われているというのはわかる。差し詰め茜の友達でも来ているのだろう。一応顔ぐらい見せておこうと思って居間に目をやる。と、そこにいたのはほかでもない

「あ、葵?」

「ゆ、優くん!」

 出された安い紅茶を啜っていた幼馴染は目を丸くしてハトが豆鉄砲をくらったみたいな驚きの表情。右手のティーカップと左手のソーサーがカチャっと音を立てる。

とするとさっきのローファーは葵のものだったのか。制服姿であるところを見ると学校が終わるなり家を訪ねてきたようだ。それほどの急用なのか、第一俺に用があるのなら学校で直接伝えればいいのに。

 頭ではそんなことを冷静に考えていたのだが、その実視線はずっと葵の髪に注がれていた。

 ついつい

「おまえ、そんなに髪多かったっけ?」

 なんて聞いてしまう。

「ひどいよー!なんで多いって言うの?長いって言ってよ!」

 葵は膝の上で握りこぶし、そっぽを向いて、もーっ、と呟く。だが「多い」と錯覚してしまうのも事実、明らかに目に入る髪の面積が大きくなっているのだ。というか、ロングストレートになっていたのだ。

「いつもの丸っこいのはどうした?」

「おだんごって言ってよねぇ、も~っ」

 いつもあるはずの丸いのがないのを確かめるみたいに後頭部をさすっている。

 怒ったせいか、頬が紅潮している。それは小学校以来変わらない、もとい、治らない葵の癖。 緊張したり興奮したりするととにかく、赤くなるのだ。

 赤いのはいつものこととして、ヘアーが、違うのだ。いつもは髪の後方、うまそうな…ではなく、上手く束ねてある団子…だんごがあるのだが、今日はゴムも簪も見当たらないストレートヘア。それだけに目立つのが

「大きいな………そのリボン」

「うーん、やっぱり大きすぎたかなぁ?」

 両サイドに結わえられたリボンを小さな両手で整えるように引っ張ったり戻したり。鏡もないのにうんうん唸って曲がっていないかを確かめて、器用に整える。

「いや、そんなに大きくはないと思うんだが、おまえにしちゃ目立つな………」

「そ、そうかな、ちょっと頑張ってみたんだけど………そ、そんなことよりさ、ゆ、優くんはこの髪型、気がつかなかったの?」

 両手の人差し指をちょこんちょこんと突き合わせて、口はへの字に俯く。昔から何か気に入らないことがあるときに葵がよくやるポーズだ。それは姉貴が、まして茜や小町が決してやらない、女の子らしいポーズ。

「だから気がついたじゃないか。まさかおまえの頭のおはぎみたいなのが、解放するとあんな長さになるだなんて知らなかったよ」

「おはぎじゃないよっ!おだんごっ!―――――もう…………昨日だってストレートだったのに………優くんったら気付いてないし……………」

 あれ、どうしてだ?………………「クラスが同じったって席が遠いし、気がつかねえよ」なんて言って笑い飛ばせない。いつだって葵の不機嫌そうな顔なんて、苦笑いでも作ってとぼけて軽くスルーしてきたはずなのに………なんだか、そうさせない力がどこかから働いている。どこからだ?髪かっ!髪型なのかっ!葵が、なぜか、………かわ…い…く…見える―――――?      

いや、しかし、たしかにかわいいくみえるが………うむ、それだけだ。

「あー、ほら、その、実は気付いていた!な~んて……………?」

「いいよもぅ、知らないんだからっ……………!」

 頬を膨らましてそっぽを向いてしまう。赤くなってないのは、あきれてしまったからだろう。

まあこんなもんさ。いつもこんな感じだったんだからな。


「それにしても俺の顔を見てそんなに驚くとは心外だな、ここは紛れもなく俺の家なんだが」

「ああ、ごめん優くん、てっきり茜ちゃんかと思ったから、そうか、一応おじゃましてるね?」

 とってつけたようではあるが、俺に対しても他人行儀にきちんと挨拶するのは葵らしい。

「ああ、驚いたのはこっちだよ、随分久しぶりだったからな、おまえが家に来るなんて」

そう言って眺める葵の制服姿は新鮮だった。そういえば葵とこうして話すのはおろか、顔を眺めるのさえもう何週間も前のことのように感じられる。正確にいえば目の前にあのにゃんころが現れて以来だ。久しぶりだからなのか、学外で見ているからなのか、それとも他の何かのせいなのか、ついつい葵の制服姿を眺めてしまう。

よく見ればうちの学校の女子の制服はなんともかわいかった。白を基調に、スカートと腕の裾に青のラインの入ったシンプルなものだが、襟の部分はブルーで目立ち、それでいて二重の白いラインが青をキツくし過ぎず、いいバランスをとっている。胸の部分には黄色いひもで蝶々結びが作ってあってよいアクセントとなり、全体として清楚なイメージを与える。

女子の制服に気なんか使ったことはなかったし、制服が可愛いからといって海高に入学する女子もいるなんて聞いて正気の沙汰ではないと思っていたが、制服は学校のイメージを決めるのに重要なファクターなんだなというのは頷けた。

 とまあそんなことばかり考えてもいられない。いったい葵はなんの用で訪ねてきたのか?

 昔ならそんなこと考えたこともなかった。あっ、葵の奴また遊びに来てるのか、っていって、気兼ねなく遊んでいたのに、今目の前にいる葵は、なんの目的もなしにただ遊びに来た葵ではない。単純な行儀の良さに加えて、よそよそしさまで加わって。それはまるで仲の良い『友達』に接するような態度。みんなで笑顔を交換し合って楽しそうにする『友達』のごとき。

「茜ともしばらく会っていなかっただろ?」

「うん、茜ちゃんすっごく大人っぽくなっててびっくりしちゃったよ」

 そう答えるもどこかおずおずとした感じ。

「茜が大人っぽくねえ、どうだか」

 目に浮かぶのは手に腰を当てニャッハッハと豪快に笑う145㎝の妹。

「でも乙姫さんに会えなかったのは残念だったかな」

「そうだな、姉貴は今日もバイトっていってたからな」

「そっかぁ、じゃあ私が帰っちゃうと優くん茜ちゃんと二人だけになっちゃうんだね………?」

 なにやら心配そうな顔を浮かべる―――気にかかるな………………

「茜と二人で留守番なんてガキの頃からしょっちゅうだったのは葵だって知ってるだろ?いまさら心配なんかないさ」

「あ、いやっ、そうじゃなくて、なんていうか、私が茜ちゃんに変なこと聞いちゃったみたいで……………」

 いつだって語尾をはっきりと言わない葵だが、今日の歯切れの悪さはいつものそれではない。

「変なこと?」

「うん、茜ちゃん、最初は私の聞いたことがよくわからなかったみたいだったけど、そのあとで急に納得しちゃって。結局私はわからないままなんだけど…………………………」

 目はあたりをきょろきょろと見回していてやはりおどおどとしている。ソファに腰掛けて紅茶を啜っているというのにリラックスという言葉はカケラも見えない。

「俺に関係する話なのか?」

「うん……………優くんのことなんだけど、優くん自身のことではないというか………」

 ほんとに、俺以外の何かに気をとられているような話し方だ。

「なんだなんだ、はっきりしないで、直接俺に聞いちゃいけなかったのか?」

「うん……なんかね、優くんには聞きづらかったから。それに、さっきからすごい音がずっと聞こえていて…………」

「音?俺にはそんなもの聞こえないけど」

 葵の表情は心配というより恐怖のそれだった。

「うん、壁を何かで叩きつけるような」

「そうか、なんだろうな。それで、茜の奴はどこにいるんだ?お前をほったらかしにして」

「それが、トイレの中にこもっちゃったみたいで」

 体の調子でも悪いんだろうか。心配ではある。バスケット部で毎日汗を流している茜は体がそんなに丈夫ではない。生まれつきの喘息持ちで、全力疾走などすると何かの拍子に発作を起こしてしまうのだ。それなのに昔からいつも無理してみんなの輪に加わって運動するもんだから体調を崩すことも多い。また注意してやらないと。

「で、なんだったんだ、聞きたいことって」

「それは……こま――――あ、茜ちゃん」

「おう茜か、何してたんだ?」

 そういって居間の入り口を振り返った目線の先、


 般若が立っていた


「お帰りィ、おニいちゃん?今日も帰り少し遅かったネぇ。いったい誰と何してたのかな?」

 いったいいつからそこに佇んでいたのか。いたって冷静に話すその声はいつもの茜―――ではなかった。声をひそめて、聞かせるように、語りかけるようにゆっくりと口を動かすのなんて未だかつて見たことがない。俺の知っている茜はいつも俺より十メートル後方の奴に話しかけてでもいるんじゃないかっていう元気な話し方だったはずだ。

いつもは両側で結われている髪は髪留めが外されて肩に垂れている。さらに俯いているもんだから髪に隠れて顔も見えない。見慣れた海中の制服は上着もスカートも乱れ、握られるこぶしは新しい血と乾いた血とが混ざりあっていて赤と黒の中間色をしている。声を聞かなかったならそれが誰だか分らなかったかもしれない。それでも茜が間違いなく般若だったのは、茜の周りをまとわりつくように闇色の妖気が漂っていたからだ。

「ど、どうしたんだ、妹よ、なんだか物騒だな」

 俺がどんな顔をしてそう口にしたのか、誰にも見えていなかっただろう。茜は磔にされた殉職者の様に首を垂れて影を作っていたし、葵はというと、俺の真後ろで一帯どんな表情をしているのか、俺にはわからなかった。

「茜は普通ダヨ?ソンナことより質問に答えてよ、おニいちゃん?」

 そんな顔をしてお兄ちゃんなんて呼ばないでおくれ、かわいい妹よ。大丈夫、いつも通りこうして対応しておけば茜もすぐに元通りになるはずだ。

「ど、どうしたんだ、そんな怖い顔して、今まで俺の帰りなんて気にしたことはなかったじゃないか、お兄ちゃんのこと心配してくれてるのかな~」

「心配だヨ?お兄ちゃんのこと。いったい誰と一緒にいたのカナァ?こたエてよ」

 その質問で俺はやっと妹が般若のごとき表情となっている理由もソファーに姿勢を良くしてちょこんと座って恐る恐る兄弟のやり取りを見守っている葵の理由もわかった。

 それと同時に葵が『聞きたかったこと』も、暴露の張本人は助けにならないこともわかった。

「ごめん、優くん……まさか茜ちゃんがこんなに怒るなんて思わなくて」

 俺だけにそう伝える葵の表情は恐怖そのもの。見慣れた乳白色の両頬は引きつって、見る見るうちに薄墨色へと変わる。体はこの場から早く逃げ出したいと思っているみたいにのけぞっていた。自分でも誰に救いを求めているのかわからないような声でどうしようと呟いている。

 葵には悪いことをした。葵はまさか俺以外の大阪家の人々が小町の存在を知らないとは思わなかったろうし、茜が人格を変えてしまうほど怒るとも思っていなかったろう………確かに茜の人格は変わっている…………というかこれは人格の変化というより、大阪茜ではない。容姿、言動、話し方、声まで、なにからなにまで違っている

俺が知る限り茜が最も感情をむき出しにしたときでも、俺の部屋のドアをぶち破った時に見せたあの真っ赤なリンゴのように怒った顔。しかしそんな茜もいつもの茜の延長だとわかった。でもこの茜は違う。まるでスイッチの切り替わった様な変貌ぶり。いったいなにが茜をこんなにさせたっていうんだ?

「ついに完全究極体アカネを降臨させてしまったか」、なんて冗談を言っている場合ではない。

「ねぇ、いったい誰といたのカナァ?」

「と、友達だよ、ふ、普通の、ぜ、善良なと、友達」

 火に油を注ぐとわかっていながら自己防衛の本能でうっかり口に出る声は意識していないのに震えが止まらない。

「『善良な友達』だってサ。とぼけるんだネ、へ、へェ~、そう」

 握りしめていた茜のこぶしに力が入り、圧迫された肉と爪の間はは真っ白になっている。しかし茜の手に目をやると、目立つのは赤黒さ。言葉は震える唇から何とか紡ぎ出すように、声がこわばりはじめる。今にもこちらに飛びかかってきそうで―――――茜が恐い―――――

「な、なんのことだ?」

 浮かべる苦笑いは最終防御網。これを崩したら終わりだとわかっているから必死に耐える。

「そ、そっか、言われなくちゃ、ワ、ワカラナイんだね。でもアオイちゃんの手をワズラわせるわけには、い、いかないから茜から話してアゲルよ」

 依然声の震えは止まらないが、寒そうにしている様子もなければ涙ぐんでいる様子もない。

 だいたい寒いわけがないんだ。俺の背中は汗でびっしょりなんだから。茜は顎をさらにグッと引き、こぶしは握りなおす。その手も力が収まりきらずに震え、

 

だ、誰?大阪小町って?


そういって顔をあげてこちらを向いた茜の口元は赤く染まっていた。こいつ、唇を思いっきり噛んでいたんだ。それで声が震えていたんだ。怒りを気持の中だけでは抑えきれずに、激情を自分の体を傷つけることでなんとか話を続けていた。

いずれこうなることはわかっていたのに、そう思った瞬間、小町が家にやってきてからの俺の生活が記憶に鮮明に蘇ってきた。いやだいやだと言いながら毎日一緒に下校して笑い合っていた自分と小町。そしてそれを知らず、今までと同じ態度で笑って俺と接していた茜。

俺と小町が秘密を隠していれば姉貴にも茜にもばれないだなんて本気で思っていたわけではないのに――何とかなるだなんて思っていた。この茜は、ちがう。―――――こちらを見る目はほとんど白目状態。俺のほうを見ているのかさえ分からない。しかしじっとこちらを見ているのは恐ろしくわかってしまう。


誰だ!大阪小町って!言ってみろ!どこにいるんだ、あの女!


そういった瞬間、茜の口から血が一滴、二滴と飛び散るのと同時に、目から透明な水滴が飛び散った。喉に唾が詰まっているのか、その声はいつもの茜と同じ大きさでありながら、いつもの茜の透き通った声ではない。言った後に激しくせき込んで、止まらない。ゴホゴホと、ずっと続けているというのに、声をかけてやれない。今にも倒れてしまいそうなのに、両足で全体重を支え仁王立ちしている。

あるいは喉からも血が出ているのかもしれない。たぶん、茜は、今自分がどんな声でなにを言っているかなんて考えもしないし、わかったところで気にしていない。

どうしてこうなるんだ?――――茜とは仲良く言っていたはずじゃないか。ドアをぶち壊した時のことだって、おまえはあれで鬱憤を晴らして機嫌を取り戻してくれたんじゃないのかよ?どうして今になってそんなこと言い出すんだよ。あれはもう『終わった』ことじゃなかったのか?水に流していいことじゃなかったのか?それをそんな形相で、血を出しながら叫んで。


さっさと前に出せっつってんだ!さっさと目の前に連れてこい!


言い終わるとハァハァと息をつく。両足でぐっと踏ん張りなんとか立っているといった態。茜の、威嚇するようなどなり声はもう不思議と恐ろしくなかった。ただ―――悲しいだけだった。そんな全力使ってまで、発作起こして、息を切らしてまで俺に向かって叫んで。いや、茜自身、もう誰に向かって叫んでいるかなんてわかっていなのだろうけど。

茜はもう疲れ切って、それでも続けようとしている。茜をこんな風にしてしまっているのが自分だなんて考えるのが、つらかった。さっきから、俺の口はパクパクと金魚のように動いてるというのに、一言も、1文字だって口から出やしない。

茜の口から流れる真っ赤な血、充血しきった目からこぼれる涙、こめかみに脈打つ血管。その全部が自分を責めているみたいだった。茜が自分に向けている怒りとは違う。『茜をこんなにしているのはおまえなんだ』って目に入る全部の者が俺を責めているみたいだった。

後ろで震えている葵も声が出ない。後ろを振り返って確かめたいが、もう何分も瞬きせずにこちらを睨みつけている茜の目から、逃れられない。茜に縛られているのではない。自分で自分を呪縛している。目を離してはいけないんだと。まるで、それでどうにかなるとでも思っているみたいに………………………

瞬きを一切しないでこちらを見続ける白と赤の混ざる目。目が乾いてしまうんじゃないかなんて、そんなことを考える自分。でも、そんなこと言ったってたぶん茜には届かない。兄の妹を心配してかけてやる声は、もう伝わらなくなってしまっている……………

瞼を閉じるなんていう反射で行う動作さえ忘れて、じっとこっちを睨むばかりの茜。

俺は立ちすくむばかりで口を開くことさへ出来ないで、妹が壊れていく姿を見つめることしかできない。


絶対殺してやるからな!出てこいこのクソ女ァ


も、もうやめてくれ―――――俺は耳を塞いでその場に座り込み、そのまま動けなくなる。

 「うわあぁぁぁぁっ!!!!!」なんて大声で頭抱えて叫べたらどれだけ楽だか知れない。でも、声なんて出すことができなくて。茜は喉をからして必死に叫んでいるのに、俺はそれになにも答えてやることができない。

しかしその時、庭のドアがガラガラと開く音を立てる。無機質な、短いリズムを刻むような単純な音。その音は、この場にふさわしくないようで、それでいて静まり返った空間にどことなくマッチしていた。


茜、これ以上はやめておいたほうがいい


 聞き覚えのある声が、聞こえた。それが耳に入った瞬間、根拠のない安堵が胸を包んだ。なぜだかわからない、でも、これでこの場はどうにかなる、そう思わせてくれる声。いつも隣で聞くのとは少し違った、でも紛れもなくこの数週間聞き続けていた声。この声がこんなにも俺を救ってくれるだなんて、今の今まで考えもしなかった―――――――――――

俺が目を向けた庭へと続く引き戸には、手入れの行き届いた綺麗な制服に身を包む見慣れた姿があった。左手で引き戸をつかみ、楽な姿勢で茜を見つめる。その目は真剣でありながら真面目ではない。


茜、そんなことをしたって君自身が傷つくだけだよ、心身ともにね、特に心のほうは取り返しがつかない。それに――そんな大声でわめき立てたんじゃ他の家にも迷惑だよ


 あの日と同じ、窓から差し込む赤い夕日に照らされて、小町がそこに佇んでいた。でも今日の方が少し光って見えているのは、日に日に陽が長くなっているからだろうか?妙に落ち着きはらった声で、子供でもあやすみたいに。茜を見るその眼差しに、一切の感情は感じられない。


 ダダダダダ

突然聞こえてきたのは重みのある足音。ドスドスと音を響かせるような、体重による重さではない。ただ、一歩一歩確実に床を踏みつけ、蹴り飛ばしていくような疾走の音。

思わず顔をあげていた。

茜はいきなり走り出したかと思うと俺の横をすり抜け小町へと飛びかかろうとした。俺はそれをとめる暇も、勇気もない。裸足でかける茜はほんの短い距離の中で急加速、呼吸なんか忘れて、一思いに小町の懐へ飛び込んで行った。女同士だというのに、体格差は圧倒的だった。子供が大人に飛びかかるよう、細い腕で飛びかかるのを受けとめるのはやはり華奢と呼べるほどに細い腕。でもそれは………全然違った。素手で飛びかかっていった必死の形相の茜に対し、小町は余裕の笑みさえ見せ、茜を十分に惹きつけるまで待つ。

勝負は一瞬で決まった。

 結果は予想できていたが、あまりにもあっけなく、しかしその光景は峻烈だった。小町は見えないような早さの動き、片手で茜の両手を引っ捉えたと思うとそれを一気にねじり上げる。

「っっっ!」

 言葉と同時に食いしばった歯から飛んだのは、粘着質の唾と、それに混ざりあう真っ赤な血。

小町はもう一方の手で鋭利な刃物のようなものを茜の首に突き付けた。なんの抵抗も、言葉さえ、気持ちさえ抵抗させないような、圧倒的な降伏を強いるような体制。

蔑むような冷徹に、哀れなものを見るときの悲しみを含んだような表情の小町と、捉えられて身動きが取れなくなっても未だ怒りに顔を引きつらしている茜。それはまた悪さをしたペットを窘める飼い主と、荒れ狂うペットのようにも見えた。

 よく見ると小町がつかんでいるのは茜の両手小指、他の4本の指が、仲間の一人を失ってしまった五つ頭の生物みたいにただひたすらにそれぞれの頭が逃れようとしている。仲間の一人を捨てていくかのように。茜は必死の形相、食いしばった真っ赤な歯をむき出しにして、敵の顔を見据えたまま、もがき続ける。握りしめる力と引っ張る力とで、茜の小指はギぃギぃと悲鳴を上げる。指がもげるのをいとわない覚悟で一生懸命手を引き離そうとする茜の姿を見て


 やめてくれ!


 俺はそう叫んでいた。

どちらに向かって叫んでいたのかはわからない。必死に小町の手を振りほどき、仇に攻撃をしようとした茜に対してか、そんな茜の手を緩めようとせず、むしろ力を増して茜の指を折らんばかりにした小町に対してか。

 多分そのどちらでもあり、どちらでもない。俺は、俺にとってあまりにも近くにいた二人の人間が争う姿を見たくなかった。俺の目の前からその光景が消えて欲しかった。ただただ遠ざけたかった。何もかも投げ出して、目をつぶって耳を塞いで、ただなにもない、なにも見えないしなにも聞こえない、なにも感じない、暗闇へと落ちて行ってしまいたかった。何にもないところへ行って、何にも考えたくなかった。泣きだして、全部放り投げて、リセットして、その場から逃げ出したかった。

 都合よく暗闇に堕ちていくことはなかった――――――しかし、俺の一言で目の前の惨劇はやんだようだった。小町は俺の叫んだ瞬間手を緩めた。その隙に茜は曲がるはずのない方向に曲がった指を引きぬいた。が、茜はそこで急に力が抜けてしまった。力尽きてしまったのか、そのままバタンと床に倒れこんで、気を失ってしまった。



「なんだ~お兄ちゃん、そんなことなら早く言ってくれればいいのにぃ!茜ったら勘違いしちゃったよ」

 側頭部にこぶしをちょこんとあて、うっかりのポーズ。あどけなく、てへへ、と笑う茜はこれ以上にない普通の少女で、いつも通りの茜の姿だった。

「お姉ちゃん信じられる?こんなかわいい子がおにいちゃんの彼女だなんて!茜はてっきりお兄ちゃんが小町ちゃんを無理やり家に連れ込んだのかと思っちゃったよ!」

 何度見ても驚きだね~、そういって目を輝かせる茜は、いつも以上に子供っぽさを振りまく茜。だが誘拐犯呼ばわりされている俺は全く笑えない。

「ええ、にわかに信じがたいけど、信じるしかないのねぇ。そういうことなのだから」

 姉貴は困ったように、不思議そうにしているが、それでいてどこか楽しんでいるようにも見える。全部わかった上で楽しんでいるというような含み笑いを浮かべて。その視線の先には見慣れない少女の姿がある。

 クーというのはクサンティッペのことで、大阪家のリビングに腰を落ち着ける四人目の人物というのはすなわち小町である。

 姉貴が買ってきたお惣菜を大阪家一同はつつき合っている。俺にとって異様なのはその中に小町の姿が平然とあることだった。まるで、ずっと前からこのリビングで一緒に飯を食ってきたかのようにそこにいる小町と、クサンティッペ=小町という驚きの暴露をなんなく受け入れる大阪家の女たち―――――――――――



俺は姉貴が帰ってくる音で自分がずっと蹲っていたのに気がついた。茜はソファのひとつに横になっていて、隣では茜の枕もと、小町が腰かけていた。葵も俺と同様に今気がついたらしい、放心の態で茜と、突然現れたクラスメイトを眺めていた。おそらくなにがなんだかわかっていないのだろうが、今は驚く余裕さえないみたいだ。

 姉貴が顔をしかめたのは一瞬、すぐにすべてを理解したように俺に優しく微笑みかけた。その優しさの中にあったのは同情?叱責?理解?

 小町は姉貴と目が合うと、ただただ無言で見つめるばかりだった。

姉貴はこくんと頷いて見せ、そうしてから茜のもとに屈みこみ、静かに頭と、包帯の巻かれた両小指をさすってやった。そうしている姿は、俺とは違って、本当に優しく、愛情に満ちた姉の姿だった。

「病院ね?」

 姉貴は最小限の言葉で、茜の処置をどうするべきかを尋ねた。俺ではなく、茜の傍ら、横たわる壊れた人形から目を離さないでいる小町に。

 小町はそれにただ頷くだけだった。両手を膝の上で重ねて、小町らしくない、内股の格好で座って、一言も口をきこうとはしない。姉貴もそれ以上は聞きなかった。

 あなたは誰?とか、なにが起こったの?とか、一切聞かなかった。それはみんな知っているからというよりも、どうでもいいことだと思ったからなのか。

 姉貴は救急車を呼ぶまでもなく、戸棚から無造作に保険証だけ取り出すと、ぐったりとしているというのになおも羽毛のように軽い茜をおぶって、駅近くの整形外科へと駆けて行った。

 玄関のドアの閉まる音は、俺は家にいるっていうのに、一人取り残すように鳴り響いた。



姉貴は返ってくると

「茜は入院」

 それだけ告げてソファのあいている個所、俺の向かいに座った。

 みんなどんな顔をしていたのだろう、暗闇の中、それを確かめるすべはなかったし、仮に部屋が明るくったって、たぶん誰も他の人の表情なんて確かめようとしなかったと思う。

 姉貴が家へ着いた時刻、辺りは真っ暗だった。それだというのに部屋は電気をつけずに常闇の世界。差し込む光は下限の月と街灯だけ、その二つが、小町が開けてからずっとそのままにしてあったカーテン全開の窓から差し込んでいる。

今年一番の暑さなんて言葉がうそのよう。夕方までしっかりと肌で感じていた、梅雨を通り越しての夏の気温も、庭から吹き込む風に当てられては消え失せた。季節なんて当てにならない。また冬へ逆戻りするんじゃないかと思わせる、冷たい風だった。でも、どんなに頬に受ける冷気を感じても、窓を閉めようと足は動かず、ソファの上でじっと体育座りをしていた。

姉貴が茜を背負って出て行ったあと、だんだんと日が沈むのを感じながら、それでもただボーっと、何かを待っていた。部屋中が暗闇に包まれても、わずかに光のさしこむ窓の方を眺めながら、やはり電気をつける気にはなれなかった。

 開け放たれた窓から入り込むのが光だけだったらよかったのに、それ以上にリアルな、人が作り出す音が、これでもかというほどに聞こえてきた。閑静とは程遠い住宅街、幼い子供たちの走りまわる音から小学校五、六年の男子たちが馬鹿騒ぎする声、さらには何人かの部活帰りの女子中学生が他愛もないことに馬鹿笑いしているのまで全部聞こえてくる。ほとんど暗闇の道路は、この時間人の流れで全然寂しい空間ではないのだと初めて知った。自分がその流れのうちの一人だという時にはそんなことに気が付かず、俯いて歩いているだけだというのに。

 たぶん小町は、その大きな耳で俺なんかより多くのことが聞こえていたはずだ。そんなこと、口にはしないけれど―――――――

姉貴の言葉は、こんな寂しい空間で、事情をすべてわかっている三人で話されていたから違和感がなかったんだろう。茜は病院だし、葵はいつの間にかいなかった。だが別に消えてしまったわけではない。「私帰るね」、葵がそういって出て行ったのは覚えているのだが、その時刻をわざわざ確かめなかったというだけだ。

二メートル離れて座っている相手の目がどこを見ているのかさえわからない中、姉貴は静かに話しだした。

「わかっていたわ。三日ぐらい前かしら、優とその子―――」

 姉貴は小町を横目にそう言って、

「ボクは小町と名乗ってる」

 小町は視線を前に向けたまま静かに答える。それはなんだか意地を張った子供のようだった。

「優と小町ちゃんが一緒に歩いているのを見たわ。その日のバイト、他の支店に応援を頼まれて、いつもより早く上がったの。優にも彼女ができたのかなって、喜んだんだから、わたし」

 言葉を切って俺のほうを窺うようにする。さっと顔をそむけた俺は、姉貴がどんな顔をしてそう言っているのか、わからなかったけど、たぶん薄く笑みを浮かべていたんだろうな。

「でも違っていたから残念だった。自然公園に入っていったあなたたちを見て、『やっぱり彼女なんだ、可愛い子じゃない、優にはもったいないぐらいの』なんて思って浮かれて公園の中に入っていって……………

見たものは目を瞑って後ろを向かされる優と、その後ろで見る見るうちに姿を変えていく優の彼女。優が公園を出るときに抱えていたのは一人分の海高の女子制服。傍らを歩くのは一匹の猫、見覚えのあるね」

 クスッと苦笑いを浮かべる。左の頬にだけ外からのわずかな光を浴びる姉貴は少し怖くて、いつもより大人びていた。でも、こちらに向ける顔は、親ではなく、姉のものだった。それは、どこか自分を委ねられる、そんな柔らかさ。

「家の前までくると、クサンティッペは垣根をぴょんっと飛び越えて庭へ、優はただいま、といって玄関へ。何にも知らない茜は優の帰宅をいつもと変わらず、喜んで迎えた」

 俺の心は責め苛まれていた。姉貴ではなく、俺自身に。隣の小町はどんな顔をしてこの話を聞いているのだろう。姉貴の顔を真正面から見る勇気のない俺は、横を向いて小町の表情を確かめる勇気もない。

「それで今日たまたま、葵ちゃんが駅のほうじゃなくて住宅街のほうへ、この家のほうへ来るのを見かけて、多分小町ちゃんのことなんじゃないかと思ったの。正解だったのね。何があったのかは聞かないわ、それが茜のためになることだとは思えないから」

 でもお医者さんになんて良いかわからなくて困ったのよ? そう付け加えて姉貴はまた小町の方を見る。それは言葉通り、ただなんて言ってよいかわからなくて困ったという風、眉は八の字に、困ったように見せつつも、顔には包み込むような笑顔を浮かべている。そんな表情に、小町のことを責める色は一切なかった。

「私は小町ちゃんのことを偶然に見知ったわ。でも――それが偶然であっても必然であっても、私と茜はいつかこのことを知るということは優、あなたにもわかっていたはず。隠そうとするにはことがあまりにも大きいわ。それに優、あなたには茜がお兄ちゃんのことが大好きなんだってこともわかってたはずよね?」

俺は夢中で茜と小町の初対面のエピソードを姉貴に話した。姉貴はもちろんその話を茜から聞いていると思ったが、必死に話すことで少しでも罪が軽くなるんじゃないかと思って、隣で小町が聞いているのも気にせずに、俺は話した。

しかし黙って最後まで聞き終えた姉貴は一言

「知らなかったわ」

 と言っただけだった。言葉は無色透明、それなのに、「でもそれがなんだっていうの?」そういう言葉が続きそうな言い方だった。

「茜は私にもあなたにも心を許しているわ。でもね、それなのに嫌なことやつらいことがあっても決して私たちに打ち明けようとはしない。あの年頃の女の子って、学校で頭にきたことがあったりすると、家族の前で愚痴を言ってそういう面倒を発散させるものなのに……………

でも茜は一切そんなことをしないでしょ?家族の前でする話はいつだって楽しかったこと、嬉しかったこと。それって一見好ましいことに思えるけれど、私は茜をずっと危なっかしいと思って見ていたわ。ドジだからとか、そういうのではないの。ただ、茜を覆う殻が、いつか主人を飲み込んでしまって見えない形で消えちゃうんじゃないかって。

だから、こうして茜が消えてしまう前に爆発しちゃったのは、いいことだったと思う。茜には申し訳ないことだけど。優に責任を押し付ける気なんて、さらさらないわ。

茜は心のやさしい子で、誰とでもうまくやれる子だし、いつでも元気に振る舞っているから一見して悩みなんかないように見られるのかもしれない。でもね、悩みを抱えていない人なんていないのよ。思春期だもの、特にそうだわ。わかるでしょ?」

「ああ…………」俺はやっと一言、言葉を紡ぎ出す。姉貴はそれを『自分に向けて言っている』のがわかったから、答えなくちゃと思って、一つ、力なく返事した。

「私たち家族は誰一人として、茜がなにを思い、なにを考えているのかわからなかったし、わかろうともしてあげなかった。いいえ、茜がどことなくおかしくて、無理をしているというのを知りつつ、茜が言葉にすることだけが茜の全部だなんて自分を納得させて、面倒事を放り出していた。

予期される、心に暗いものをもった茜と向かい合うより、表面上一緒にいて居心地の良い、偽りの茜を、私たちは選んでしまった。それは、私たちが茜にとって家族である以上、私たちの大きな罪だわ。家族にさえ本当のことを打ち明けられない茜が、他に頼るべき人をもっていたはずはないんだもの」

そう言った姉貴はらしくもなく、悲しみをあからさまにした。姉が妹を思って悲しむのは普通のことなのに、どこか胸につっかかるように感じてしまった。

「私や優と違って、茜は両親の愛というものをあまり受けなかったわ。私たちが大きくなると、子供に親代りをさせて、お金だけを置いてよくどこかへ旅に行ってしまった。茜は小さいころから明るい子だったし、私たち兄弟の仲が良かったからあまり心配しなかったのね。だけどそれがさらに茜の殻を厚くしていってしまったわ。

その意味でお母さんたちに責任があるのは確かだけれど、それは私と優だって同じこと。私はどんなに頑張っても母親代わりにはなれなかったのね。でも、茜にとって、お母さんでさえ、完全に心を許せるお母さんではなかった。茜は可哀そうな子よ、本当に」


姉貴は『私たち』という言葉を使った。それが家族全員の平等な責任であるみたいに。でも、こうして茜のことを真剣に話す姉貴といたずらに茜を傷つけてしまった俺の責任は同等のものとは思えなかった。俺は姉貴と一緒にただ悲しみに暮れているだけでいいのか、そう思った。

俺はこのとき、今までになく両親を憎んだ。けど……………そのとき胸の内に湧き上がった感情は、それだけじゃなかった。両親を責めながら、自分は両親の対極に立っているという気がしなかった。自分がどこに立って親父たちを責めているのかが、わからなかった。それで、苦しかった。親父たちのせいに出来れば俺は背負った子供を背中から下ろせるというのに、それは、断じて許されなかった。悪いのは、全部俺だから…………………………

一切俺のことを責めようとしない姉貴の心遣いはつらいだけだった。それと同時に、俺は自分という人間の小ささを感じざるを得なかった。この俺に何ができる?

それは茜を見てやること、それだけだ。それしかできない――――

そう考えるのは悔しかった。でも、それが俺に出来ることなら、やっていくしかない。

そう決意した俺の斜め前で、それまで黙って姉貴の話を聞いていた小町は、まるで不快な体験をしたみたいに、しかめっ面をしていた。



茜が家に帰ってきた日、当人はとても冷静で、まるで何事もなかったかのようだった。

そして――――――――――実際なにごともなかったみたいに、振る舞った。

「骨折れちゃったよー、へへへ」

 なんて言って明るく笑いつつ、それを『折られた』ときの記憶だけはどこかへ置いてきてしまったかのよう。

 元気百倍、天真爛漫な茜は、俺が知っている茜だった。いつも元気で、たまにとぼけて。

でもそれは―――本当の茜じゃない。俺たち家族が知ってる茜だけど、『本当の』茜じゃない。

「あなたがお兄ちゃんの彼女?すっごい可愛い!お兄ちゃんにはもったいないな。ねぇねぇ、どうしてお兄ちゃんなんかと付き合ってるの?お兄ちゃんのどこがいいの?何にもないよお兄ちゃんには。でも…………お兄ちゃんさびしがり屋だから、一緒にいてうれしいと思ってるはずだよ……………どうしようもないお兄ちゃんだけど、よろしくね」

 茜は小町に『初めて』会ったとき、そういった。まくし立てるように、ひたすらに話し続けることが何かを生むのだと勘違いして。

「茜、ボクは優の彼女じゃない。この家の飼い猫のクサンティッペだよ。すぐには呑み込めないと思うけど」

 小町は茜に尋ねられると、一呼吸置いて、ただ言葉をそのまま理解させるように、言葉のどの部分も強調しないでサラッと言った。普通のことを普通に言うかのようで、声の調子はその内容とは不釣り合いだった。

「あれ、えーっと、お兄ちゃんの彼女さん、名前はなんて言うんだっけ?」

「ボクは人間の姿では小町と名乗っている」

「そっかー、小町さん。小町さんはどうして茜の名前知っているの?」

「ボクは茜と一年間ここで暮らしてきた」

「そっか、お兄ちゃんと付き合ってるんだもんね。お兄ちゃんに教えてもらったんでしょ?」

小町の抑揚のない、冷徹な対応にも、茜は調子を変えずに答える。

内容も態度も全くかみ合わない二人が奏でる不協和音は、空気を重くした。

「わかった、それでいい」

 小町は呆れたとか、付き合ってられないといった表情も表わさずにリビングを出て行ってしまった。それは、小町ではなかった。右も左もわからずに人間界へ進出してきた猫の姿では、全くなかった。

 リビングに残された茜は、小町ちゃんは可愛くてお兄ちゃんの彼女、と自分に言い聞かせるように何度も声に出して嬉しそうにしていた。

 自分では決して止まることのない、規則正しく同じ音を出し続けるおもちゃのように。



「ははは、ごめんね、お姉ちゃん、今日は茜が食事当番だったのに」

 茜はそう言って気まずそうに姉の顔を覗き込む。

 あれから数日後、茜が退院してから家族でとる初めての食事。

 それは、入院前と変わらない、いつもの光景。違うのは茜の両の小指に固定されたギブス、それから、俺の前、誰もいないのに見慣れてしまったテーブルとイスに腰掛けた小町だけだった。姉妹のやり取りには目も耳も向けず、黙々と両手に持ったスプーンとフォークを動かしている。取り澄ました顔は小町には逆に不自然、わざと気にしない風を装っているみたいに見えてしまう。

「いいのよ、茜、たまには休まないと、今回みたいに体調を崩してしまってはしょうがないもの。それにこれはいつものお惣菜屋さんで買ってきたのだから手間はかかってないもの。でもいいわね茜、手伝ってほしいことがあったらすぐお姉ちゃんや優にいうのよ」

「うん、わかってるよ、お姉ちゃん!」

 大好物の唐揚げを頬張りながら、茜は満面の笑みを崩さない。まったくもっていつもの茜に戻っている。姉貴もそんな茜のことを、頬杖をついてにこやかに眺める。

茜の笑みは太陽が輝くようで、その笑顔は周りの者を元気にする力をもっている―――――――――――――でも、茜は太陽なんかじゃないんだ。内部まで熱く燃える太陽とは程遠い、中には質量のない、抜け殻のような存在。殻に中身を吸収されてしまった、空の存在。

周りをいくら元気にする力をもってても、そのエネルギーは決して茜自身には供給されない。

「こういうのってたまに食べるとおいしいよね。茜は味が濃くって好き!」

「そうね、でも茜の作るもののほうがおいしいわ、最近は本当に料理の腕が上達しちゃって。毎日夕ご飯のおかずがなんなんだろうな~って楽しみで帰ってくるんだから」

「へへへ、そうかな?」

 違う

「学校だって頑張ってるのに、家のことも頑張ってるなんてすごい、お姉ちゃん尊敬しちゃう!」

「へへ、お姉ちゃんが尊敬かぁ」

 違う

「お姉ちゃんが中学生の時なんて、こんなにしっかりしてなかったもん。いいお嫁さんになるよ~茜は」

「褒めすぎだよ~お姉ちゃん、茜照れちゃうな~、へへ」

 違う!

聞いていて、虫唾が走った。表だけ茜に優しさを、喜びを与えたってそれでは茜は救われない。今までと同じではいけないんだ。茜と真正面から向き合うってのは、今姉貴がしていることじゃない!

今度のことを体調のせいにしてうやむやにして、茜に「これからは頼ってね?相談するようにしてね?」って、そういえば片のつく問題じゃないんだ。

小町のことだって、俺の彼女だなんて思わせといていいわけがない。

 このままではいけない。今日、この場で全部はっきりさせなきゃ、また茜は孤独になってしまう。俺は茜に頼られなくなってしまう。

 決意、そんなもの、言葉では何度も聞いたことがあるのに、最近はそんな感覚、忘れていた。嫌なこと、面倒なこと、煩わしいこと、そういうことに立ち向かっていかなければならない感覚。言いだす前の、わずかな緊張感、ついつい黙りこんで、手汗がじとじとと流れる。でも、それは口にしなければわかってもらえないことだから――――――


「茜、俺が悪かった、この通りいくらでも謝る。小町がクサンティッペだって、一番最初に言えばよかったのに。そうすればお前に不安を与えるようなことにはならなかったのに」

「なに言ってるの、お兄ちゃん?茜は不安どころか、お兄ちゃんに彼女ができたっていうんですっごく安心してるんだよ?お兄ちゃんには一生彼女ができないんじゃないかって心配だったんだから!」

 無邪気に送られた笑い顔の仮面は、俺からの反撃を期待しているかのようだった。でも――

「俺は茜に甘えてた。家事のことだってそうだけど、茜はいつも気丈に振る舞ってくれてたから、俺もそれにつきあってればいいと思ってた」

「どうしたの?お兄ちゃん?茜はいつもお兄ちゃんに甘えてるよ?お兄ちゃんは茜のお兄ちゃんなんだもん!」

 茜は仮面をとらない。俺がいつだって茜に取ってきた態度と同じだ。

「だったらもっと甘えてくれ!相談があったら言ってくれ!嫌なこととか、心配なこととか、そういうの、全部話してくれよ!勉強のこととか、部活のこととか、恋愛のこととか、全部!たぶんどれも頼もしいアドバイスなんか送れないけど、でも、聞いてやることはできるから!」

「…………」

「知りたいんだ、茜のことを、俺だって茜のこと好きだから、力になってやりたいんだよ」

「いいもん、そんなことしてくれなくったって、茜は大丈夫……………」

 そう言う茜の声は弱弱しく、こんなにもこいつが俺の妹なんだって自覚したことはなかった。

「俺だって姉貴だって、父さんだって母さんだって、みんな茜のことが大好きだから、頼ってほしいんだよ。茜が不安に思う時はそばにいてやりたいし、茜が泣いているときは一緒に悲しみを分かち合ってやりたいんだ。嘘をついたり、隠しごとをしていたことは謝る。これからはそんなこと、絶対にしない。俺たちは『家族』なんだから!」

     ……………………

     ……………………

「ありがとう、お兄ちゃん。お姉ちゃんも小町さんも。やっぱり駄目だね、茜は。まだまだこども!こうやってみんなに迷惑かけて。葵ちゃんも怖がらせちゃった。

嫌われちゃったかな?……………………

変だもん、茜、急にあんなになっちゃって。普通じゃないんだよ、茜は。もし茜がこんな子だってわかったら、お友達はみんなどっかに行っちゃう。だから、こうしているのが一番なんだよ。こうやって元気でいれば、お兄ちゃんだってお姉ちゃんだって、お友達だってみんな笑ってくれるもん。茜はみんなそうやって笑ってくれたら嬉しいもん。茜が泣くなんておかしいでしょ?

ほら、いつもみたいに、こうやって…………わらって…………あれ、おかしいな………なんで茜泣いてるのかな…………?茜はべつに泣きたくなんか……ないんだよ?…………悲しくなんかないんだよ?」

本当に、徐々に徐々に崩れていった。声はだんだんと震え、言葉にならなくなる。流れるのを認めたくない涙は、手で拭き取ろうとしないために、アーモンドの瞳に収まりきらない分が頬を伝って、どこまでも流れ落ちる。茜は涙が流れるのを何とかこらえようとする。けれど、目からはボロボロと大粒の涙が流れだすのが止まらない。堪え切れなくなって声をあげて泣きじゃくり始めた。

「いいのよ、茜、泣きたいときは好きなだけ泣いて。それはとっても自然なこと。泣くのってとってもすっきりすることだから」

そう言って茜のそばまできて肩を抱いてやる姉貴の目も潤んでいて、瞼を閉じると同時に、透明な玉が転がり落ちていた。

 普段涙なんて流すことのない二人がこうして抱き合い泣いている姿は、紛れもない、心を分かち合った姉妹の姿だった。



 あの日以来変わったことといえば、朝食が四人分となり、そのメニューも洋食から和食へと様変わりしたことだった――――――というより、洋食→魚と様変わりしたことだった。

 無論その原因は飼い猫という地位でありながら、イスに腰掛けて俺よりも若干大きめの鯵の開きを、口をペコちゃんにして突いているおさかな小町にあるわけなのだが……

少しだけ、ほんの僅かにだが、悔しいと感じてしまうのはこの何年かで急速に身についてしまった貧乏性のせいだろうか。

だがまあ食われる鯵の方も、目の前の猫耳娘に食われた方があるいは幸せなのかもしれない。

「猫は魚が好きである」 そんな言葉をなんとなくではなく、しっかりと認識したのは、小町が人間の姿で居座るようになった日、つまりあの事件の次の日のことである。

鼻をクンクンさせながら、

「いいねぇ~、やっぱりこの香ばしい薫りだねぇ~」

 四人分の朝食を作るべく早起きした茜が魚を焼きだすと、匂いにつられておさかな小町が起き抜けとは思えない、爛々とした目の輝きを携えてフラフラとやってきたのである。茜のお下がりである薄いピンクのパジャマの上下をきつそうにして(特に胸のあたりが………)、髪なんかボサボサのまま、まずリビングへ降りてきて、匂いと、今日の魚を確かめるのだ。

小町いわく、それが一日で一番の楽しみだとか。朝一番にその日一日の楽しみがあるというのが小町らしい。

 キッチンの茜に一言「おはよう」とあいさつしたかと思うと、当り前のようにリビングの自分の席に座り、「まだかな~まだかな~」と言って頭としっぽをリズムよく振り振りさせているのである。あれだけかわいかったクサンティッペのうねうねは、いまは目障りでしか……ない。

 要するにこいつが毎朝早起きしているのは、茜の手伝いをするためでも、健康のためのジョギングをするためでもない、哀れにもこれから食われる運命にある魚たちの焼かれる匂いを嗅ぐためなのである。副産物として居間のソファで寝る俺の睡眠を邪魔するという役目も果たしているのだが。

 というわけで毎朝、もちろん今日も『さかな』を喰っているわけである。

もちろん魚は嫌いではない、嫌いではないのだが、欧化された俺の体はバターを塗りたくった一枚のトーストを求めるのだ。そんな俺が茜に朝食の献立について打診したのは当然のことと言える。

「たまには朝食をパンにしてくれないか?」

 茜はこちらを見て口は半開き、何かを考えているみたい。不自然な間があった後

「わかった」

 と、笑顔で返してきた。茜が何かを考えているときってのはたいてい何かを企んでいるんだ。いくら笑顔で返事をされたってすんなりと胸をおろせやしない。

そう思っていたら、案の定、次の日に朝食の席に着く俺の前に用意されていたのは、

フランスパンとイワシ。

それ以来、俺は朝の献立に文句を言わず、今日も純和食な朝食をとっている。

 隣の小町は幸せそうだし、それを見る茜も満足そうだからよしとしよう、そうやって自分を慰め、ヒトは大人になるんだから――――大人といえば、茜は大人になったみたいだった。

大阪茜(14) 大阪小町(17?)というわけで、小町の方が年上なのである、とんでもない年齢詐称なのだが……………

しかし茜は自分がお姉さんにでもなった気分でなにかとうっかり小町の世話をやいている。姉貴に料理のコツなんかを聞いたり、家事に精を出すようになった。兄としては心強い限りだ。

 しかしそのおかげで閑古鳥が鳴いていた近所の魚屋にはいくら稼がせてやったかわからない、なにせ大阪家の人々は「鈴木魚店」には毎日欠かさずに通っているんだから。そして毎日の朝食もこんなありさま。小町の奴、あれだけ人間の食べ物をいろいろ試しておいて、結局行きつくところはお魚さんだったというわけだ。


朝食を食べ終えて小町と共に家を出る。これもあの日以来変わったことの一つだ。

しかし、いいことなど、まるでないのである。小町が並んで歩くことで冷たい視線の集中豪雨を喰らい続け、会話に耳を傾けられるのだ。

 しかしそれにしても

「顔色が悪いな」

「うぅ~、朝はどうしてもつらい。夜寝られなくって疲れが取れないんだよ」

さっきまであれだけ幸せそうに鯵の開きを頬張っていたやつのどこに疲れがたまっているんだか知りたいもんだ。

「毎日居間のソファーで寝ている俺に向かってよく言うな。俺はお前に自分のベッドから追いやられた身だぞ。ベッドはさぞ心地いいだろうな」

「うぅ~、ボクを責めないでよ。あれは茜がどうしてもって言ったからだよぉ。ボクは優が一緒に寝たって全然気にしないって何度も言ってるのに!今までだってそうしてきたんだから!」

 通学路を歩きながら大声でこんなことを言う奴の口にはガムテープを張ってやっても誰も文句はいわんだろう。いったい今のを何人の海高生に聞かれたことか。

「そういうのなんて言うんだっけなぁー」

 モヤモヤ小町はう~んといって口をとがらせて、目線は斜め左上空へ。

「わかった!!」

「なんだ?」

「夜這い!」

「ちげーよ!」

 もういいからおまえは日本語に自信がないときはなにも言うな………

「しかしどうして眠れないんだ?不眠症なんて起こすほどの神経の持ち主でもないだろう」

「むっ、まったく優は一言余計なんだから。ボクは夜行性なんだから夜に寝られなくて当り前なの!」

 差し詰め深夜のくだらん番組でも見ていたんだろう。

 大声でまくし立てながらも目はとろ~んと、通学路は歩きながら眠ってしまうんじゃないかって心配させるほどなのに、欠席はおろか、遅刻さえ一度もしていないというのだからすごい。本当に、食べ物ってやつは…………

「つい先日までうちの飼い猫は夜でもぐーすかと鼾をかいて寝ていたと思ったがな」

「あーっ!ひっどーいっ!優ったらそんなこと言うんだ!心外だな!」

 ぐっと立ち止まり、しっぽを振りまわすような仕草。今まで垂れ下がっていた耳もぴくんと上を向く。こちらを真正面から見据え、いつの間にか生えている八重歯が口元に覗く。

「なんだ、元気そうじゃねえか、その体力、授業まで取っておけ」

「そうやって揚げ足ばっかとってるから優には彼女ができないんだよ!」

「ふん、余計な御世話だ」

 八重歯小町の襲撃にはさらりと身をかわすのが一番である。

「それに女の子に対して鼾だなんて!優にはデリカシーってものがないんだから!それに人間みたいな下賤な生き物と違って、神聖な猫は鼾なんてかかないよ!」

 猫にデリカシーも糞もあるかってんだ。

「学校なんてみんな嫌々ながらも頑張って行くものなんだ。お前もさっさと歩け」

 うむ、これで飼い主としての威厳も保てるというものだ。一人で頷いていた矢先、

「うるさい!童貞!」

 放たれたのは心に突き刺さる八重歯、ではなく刃。さらに第二襲、小町の手に握られたカバンが振り上げられる。俺はさらりと身を………

 バッチーン

 かわせなかった。

「いってぇぇぇぇえ!!!」

 顔面も痛いが、心は崩壊寸前。禁句だろ、それは………………………こんど口げんかの境界と言うものをきっちりと教えてやらねばなるまい。

まったく、よくもこんな女がデリカシーなんて言葉を口にしたもんだ………

項垂れている俺をよそに、小町はスタスタと前を歩いて行ってしまった。

それはそれは元気よく、眠さなどかけらも見せないで。



 大阪小町という女の辞書にも、一応恥や外聞といった文字はあったらしい。

 転校以来、小町の昼食といえばコンビニで買った菓子パン二個というのが定番だった。小町s‘eyeによれば、最も怪しまれないのがそれだという。しかし最寄りのコンビニの菓子パンの種類が尽きたのか、詰まる所さかなという結論に達したのか、どちらかは知らないが、今日の昼食は菓子パンではないという。それで、いつも一緒にご飯を食べている女子グループと一緒に食べるのを、今日は避けたいのだそうだ。

 四時限目の終わりにそんな話を聞かされ、俺が「だからなんだ?」と聞き返したところ、

「今日は一緒にお昼食べよ?」

 と誘われたのだ。貝殻みたいに白くて細い爪の綺麗に切りそろえられた、合計十本の指を突き合わせて、それを顎に当てる「お願い!」のポーズ。どんな仕草をさせても決まってるこいつは得意のウインクも忘れない。片目を瞑ることによって大きなピュアピュアな瞳が強調され、授業中に後ろを向いているんだということも忘れてついつい少女に見入ってしまいそうになる。

 たぶんこんな顔してお願いされたら男はみんなまいってしまうんだろうな。

だが俺は騙されないっっっ!!!と意気込んだところで別に俺に誘いを断る理由もない。

まさか生きたネズミを捕まえるのを手伝ってくれとも言うまい。

さっきまで寝ていたというのに、いつの間にやら起きだして、会話の一部始終を聞いていたらしい隣の拓も、親指をグイっと一つ持ち上げ、白くもなんともない歯をこちらに向けてくる。

「女の子と机を並べて午餐を共にする、これ男のロマンなり」

もてない男には切実なロマンを常々口にする拓は、大抵俺と一緒に飯を食っている。

大親友にこれだけ期待させておいてまさか断るというわけにもいくまい。

「ああ、構わないよ」

こんなわけで俺は後ろの猫耳と一緒に昼食をとるはめになったのである。


「こ、こここここ、こまちちゃんは、おおおおひる、そそそ、それだけ?」

 顔は天狗みたいに真っ赤っか。女子への免疫のメーターはマイナスを振りきっている。

「うん、やっぱり変かな?」

 俯いてしゅんと肩をすくめ、同時に耳まで垂れ下げる姿は、おあずけを喰らった猫のようで、母性本能だか飼い主本能だかがくすぐられるわけだが、ダイヤモンドの輝きを帯びた涙目で上目づかいを向けられる拓の方は男の本能以外は感じてないみたいで、天狗の赤は郵便ポストの赤へと変化していく。

「いやいや、ぜんっぜん、そんなことない!!変じゃない!!俺それ大っ好き!!こ、こ、こまちちゃんは、そそそ、それ……………す、すきなの?」

 水を向けようと、拓は必死に声を出す。

 「こまち」だか「こここまち」だか「こここここここまち」だか、もはやわからない。

「うん!だ~いすき!!そっか~、鹿島君も好きなんだ~!だったらいっこあげちゃう!」

 そう言って伸ばされる箸、ではなく手は、鹿児島拓の口元ににじり寄っていく。

 世に言う、「あ~んっ(はあと)」ってやつ。それは、昼飯を女の子と一緒にすることさえ夢である少年には夢のまた夢、妄想のまた妄想。

 小町の吐息はやけつくいき、視線から放たれるはブレイク、二つの波状攻撃を同時に受け、拓はもはや行動不能。

 悩まし小町が前かがみ姿勢で腕を伸ばし、すでに箸なんか落してしまった鹿児島拓人形の口に『それ』をいれる。

 その瞬間、

「うおぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!」

 ガタン!―――――――ゴチン!

 倒れたのだ。イスと、人形が。ほとんど同時に。正確には人形化した拓とそのイスが、真後ろに、ステーンと。で、戦闘不能。

 毒が盛られていたわけではなく、「あ~んっ」なんてものに耐えられるほどの容量が、これまでサッカー一筋で生きてきた少年には、なかった……………

 もうすぐ六月だというのに五月晴れ全開、桜満開の全米を驚愕させかねない笑顔(人呼んで小町特製破壊光線)を顔先五十センチでもろに受け、拓はムンクの叫びと共に息絶え、脳震盪を起こした。

 こうして「笑顔の大阪小町に近づくな」の格言がまたひとつ生まれたわけである。

「もし今のがわざとだったとしたら、俺は小説やドラマで見る魔性の女なんかよりよっぽど恐ろしいと思うぞ」

「ん?にゃにが?どうひちゃったの、鹿島君?」

 鹿児島だ、かごしま。

口いっぱいに『あるもの』を頬張っている小町の姿は、猫と言うよりハムスターかウサギのよう。他の誰がやったって不細工面にしかならないそんな膨れ顔さえ頬張り小町の手にかかれば男をとろかす甘い罠となってしまう。

なるほど、あの唯我独尊の大阪小町をして大勢の友達の前で食べるのを憚らしたのはこれだったか。

にぼし。

何を食ったって本人が喜色満面・歓天喜地なのだから、構いやしないのだが、目の前で「お得用」なんて書かれたにぼしの袋を抱えてポリポリとやられると、こっちの食う気が失せてくるってもんだ………………しかもなんて幸せそうな顔をして食べやがる。まるで酒以外に生きる楽しみがないどっかの親父が晩酌するみたいに、うっれしそうに食べているんだから。

「うまいのか、それ?」

「あげない!優は馬鹿にした!」

「いらん」

 両手で袋を抱えるようにして俺からにぼしを引き離そうとするやつから取ったりしねーよ、にぼし。

 しかし横で伸びているこの男、誰も助けようとしないんだから気の毒な話だ。

 たぶん男どもは不意に自分たちが小町の半径50㎝に入ってしまってあの強烈な笑顔をくらわされたら自分もああなってしまうと恐れているのだろう。さらには

「ふっ、鹿児島の奴、抜け駆けなんかしようとするからだぜ!」

「へへっ、いいざまだ!」

 口々に悪態をつかれている。死人に口なし―――――

「しっかしよく飽きずに食ってるよ。強靭なあごでも鍛える訓練か?確かに現代人は固いものを食べないから顎が……………………」

「あまいな~優は。たい焼きみたいにあまいよ。グルメなボクがにぼしだけで満足するはずないでしょ?」

 喋りながらもまたパクっと一匹のカタクチイワシが一匹の猫の餌食になる。

 グルメかどうかなど知ったことではないが、野菜も食えよ、肉食獣。

 わけのわからんいろんなものがつっ込まれていそうなカバン(おそらく魚臭い)からゴソゴソと不穏な音とともり取り出されたのは

   するめ。

 茜、買ってやらんでもいいんだぞ、こんなもん。

 ここ数日、小町の学校内でのステータスが徐々に変わり始めていた。

 転校初日はかわいさ10

 三日目になるとかわいさ9・変さ1

 そして現在、かわいさ7・変さ3

 俺は頭の中でこっそりと「変さ」の値がバブル時の株のようにまだまだ伸び続けるんではないかと勝手に予想している。

「おまえなぁ、いつものメンバーと一緒に食わないからって、ここはあくまで教室内なんだからな、全部見られてるんだぞ、おまえの挙動は」

「変かな?」

「意味もなく人を気絶させているあたり、相当に変だ」

「もういいや、変でも。おいしいから」

 前言撤回、やはりこいつには恥も外聞もへったくれもない。

 さっきの「うん、やっぱり変かな?」から始まって瀕死に追い込まれた拓に謝れ。

にぼしの袋を空にしてしまわないまま、今度はするめの袋を切れ目から勢いよく破く。

 ああ、学園のアイドルが何たる醜態。もう家でも学校でもお構いなしに、変な子まっしぐら。

「う~ん!この臭いと味、たまんないねぇ~」 

 酒のつまみを手にしたおっさんみたいな口調なのに、年頃の少女、それも世界三大美女にも劣らぬ美貌を備えた少女が、イカを手にして言うとあまりにも危険!破廉恥!エロ!

 みろ、クラス中の男たちが赤面して大事な部分を押さえつけているではないか。

「ああん、もっといっぱい欲しいなぁ」

 にぼしに比べればだいぶ小ぶりな袋を見つめて名残惜しげにそういう声も、男たちを暴発させるには威力十分。次第にクラスからは男たちの影が消え、逆に男子トイレには人だかり。

 小町のステータスかわいさ6・変さ3・エロさ1へと、順調に移行中。

ついでに自己紹介以来のベジタリアン小町の刻印もみるみる剥がれていく。

「そういえば今日の夕食当番はお前だからな。前に代わってやったんだから」

「え~、やだ~」

 面倒事は駄々をこねれておけばどっかに飛んでっちゃうとか思ってるこいつはどうにかならんのかね。

「大阪さん家の人々はおまえみたいに魚介類だけ口に放り込んでるというわけにはいかんのだ。おまえだって今はたまごみたいな肌を保ってはいるが、油断してると荒れるぞ、ニキビなんかできて慌てるんだ」

「いいよ、そんなことどうでも」

 あっけらかーんとして、まるで地球の裏側で誰かがくしゃみをしたよと聞かされたみたいな反応。

その瞬間、わずかに教室内の女子たちの眉がつりあがるのを確かに見た。小町の一言は一見今までと変わらぬ、おしゃれには無頓着な女の子ののんきな一言。しかし、美に生きる女子にはかわいいでは済まされぬ一言。

だがピクリと動いた眉も一瞬でつり下がる。女子たちはみな同じ反応をしたことが互いにわかっていながら、それを口はおろか表情にさえ出さないで、やりすごす。

そんなことには気がつかない小町は、頬杖ついて頭をリズム良く揺らしていた。

口からするめの先をぶら下げて。



薄汚れた三階の窓から空を見上げれば、見渡す限り青一色。広がる空平線には、飛行機雲一つない。そんな空は一億五千万キロの彼方から放たれる太陽エネルギーを、包み隠さず日本のとある学校の教室へと浴びせかける。それは植物に花を開かせ、鳥たちに歌を歌わせる。

そんなことを考えていると、世の中は天下泰平になったみたいな気がして、ついふわふわした気持ちになってしまう。

照りだされる日光は、教室の空気をやんわりさせ、どんな催眠術よりも眠気を誘う。

そんな午後の授業中、腹いっぱいになったクラスメイト達が夢に落ちて教室中が静まり返る中、真後ろの席から後ろから、小鳥のさえずり………ではなく、

   ポリポリ……………ポリポリ…………ポリポリ

 という音が聞こえてきた。

退屈に教科書をだらだらと読み上げている、催眠術の片棒を担ぐ教師の耳にもその音は届いているはずなのだが、すでに学校のアイドルとなっている存在に注意するなんてのはクラスの半分を敵に回すと知っているその教師は知らん顔をして授業を続けている。

もっとも、後ろで小鳥が囀るわけがないのだ。そんなもん、教室に放し飼いにされてる猫に軽々と捕獲されているだろうから。

 午後の授業の、いつもの一風景。違うのは、にぼし。

 食い足りなかったんだろうな、にぼし。

 おかげで授業中はお菓子をつまんでいいという間違った認識を小町が持ってしまったのは言うまでもない…………………

 だが小町が好き勝手やるのだろうということはとうの昔からわかっていたことだ。転校の挨拶からあれだけ好き勝手したんだから。

 小町には好き勝手やらしておいたって俺は構いやしないし、こいつのために変な気苦労するのもごめんだ。そう思って小町の好きにさせて置いていたんだが、これはさすがにまずいだろう、この授業だから平気なのかもしれないが、他の教師だったらブチ切れるかもしれない。そうなっては保護者の責任だ。そう思って注意をしようと決意したその時、ポリポリという音が止んだ。そうか、やっと食べるのをやめたか。

やっと静かになった。これで俺もひと眠り………そう思っていたのだが、今度は後ろからまた別の音が聞こえてきて眠れない。

 グー グー グー

 規則的に発せられるその音を確かめるべく後ろを振り返る。

 なんてことはない、またいつもの調子で眠っているのである、安らかに、鼾をかいて。白河夜船にのったつもりでいるのか、まあよく寝るもんだ。

今朝こいつはなんて言っていたっけかな。

 しっかし、ホントウに、なにしに学校へ来ているんだ?

まったく、人の気も知らんで、俺しか見えてないと思っているのか知らんが、垂れているぞ、よだれ。



 今年の五月は晴天に恵まれて、本当に気持ちがいい。誰が言ったか五月病、俺にとってはこの天気もさることながら、突然現れた隣を歩くお騒がせ娘のせいで鬱になる暇もなかった。

 六月を迎えた今、日もだいぶ長くなってきて、学校帰りにこうしてどこか寄り道をしても、まだまだ昼のように明るい。夏至を控えた太陽は、この町にも心地の良い暖かさを与えてくれている。

 隣のこいつも基本的には猫なんだな、あったかいと機嫌がいいようだ。逆に雨が降ると家の中でくたーっと伸びている始末。決して家から出ず、なんら生産的な活動をしようとはしなくなってしまう。

 今日あたりはあまりご機嫌になって気合を入れられても、こちらとしては困ってしまう理由があるわけだが――――――

「さ~て、どうしよっかなぁ~」

 ルンルンルンと歌う鼻歌は例によって「おさ○な天国」 まあこいつの考える夕飯だ、野菜炒めが出るなんてことはハナッから期待してはいないのだが。とりあえず口にしてからまだ半日と立っていない鯵でさえなければ許してやろう。

というわけで、今日の夕食の全権は、頭がおさ○かな天国の食欲小町に委ねられているのだ。

ただし、小町の脳内の天国は猫にとっての天国で、さかなにとっての天国では、決してない。

あんな踊りつきの愉快なメロディーに乗せて、いったいどんな殺戮が繰り広げられているのか、考えるのも恐ろしい。

小町が、あの小町が、今日は自分の食事当番兼買い物当番であることをしぶしぶ認めた、それはいい。しかし小町に家事の分担はきっちり守らせることは重要でも、素直に言うと―――そんな役目任せたくはなかった。

 小町はさっきまで面倒くさそうにしていたのに、何を思い立ったか、急に意気込みも高らかに商店街へと歩き出した。何事も初挑戦、本来が猫なわけで、好奇心は常に旺盛、一見面倒くさいことでもおもしろそうだと目をつけるとやはり進んで挑戦してみたくなるのである。その探究心やら向上心やら挑戦心やらはわけてほしいぐらいだ。

もちろん自分がこんな性格だからそういった自分にはない部分を欲するというのも事実である。しかし目下のところは、小町からそんな厄介なものを奪ってしまいたいというところにある。


「なんで付いてくるのさ」

 手提げカバンを無理やり背負ったような小町はぶつくさと文句を言い始める。さっきから同じことをもう三度と言っているのだが、遠ざけようとするとますます一緒じゃなきゃ不安な気がしてくるものだ―――――特にこいつの場合は――――――

「『どうして付き合ってくれるの?』が正しいだろ」

「ボクを監視するつもりなんだ」

「はじめてのおつかいのくせに生意気な。買い物の仕方も知らんくせに」

「馬鹿にしないでよ。魚屋さんから目ぼしいものをかっぱらうのは得意中の得意だったんだから」

 得意そうに言うこいつをどこまで信用していいやら。いろいろと人間界の事情に詳しいと思えば、基本的なことに全く無知だったりする。

「わざわざ『かっぱらう』なんて言葉を使うあたり、盗みと買い物を差を知っているからなんだな」

「ご明察の通り、達見だよ。ということでボクは買い物ができるんだよ、任せておいて」

「しかしかっぱらうだなんてことを冗談でも口にする奴に買い物なんか任せられるか」

「そんな、冗談じゃないよ。ボク、金目鯛だって取ってきたことがあるんだから」

 いつものように胸を反らして得意そうにしているこいつからは「えっへん」なんていう吹き出しマークでも飛び出してきそうだ。

「なおさら任せられるか。だいたいどんなものを買ってくるかしれたもんじゃない」

「大丈夫だよ、茜にレシートを見せるから」

「茜はお前の買い物なら盲目的になんでも許してしまいそうだから怖いんだ!」

「信用ないなー」

 両手の手の甲を腰に当て前かがみ、新緑を愛でる日光に照らされる小町の黒髪はきらきら輝き、反射する光の線が見えるよう。ぶすっと膨れた顔さえ悔しいが可愛くて、ついついそんなことはないんだって否定したくなってしまう。いや――実際信用はしていないんだが………

「まあ極力口を出さないようにするさ。根本的な誤りを犯さない限りはな」

「なにさ、根本的な誤りって」

「自分の好きなものだけ買い込むってことさ」

「?」

「魚屋に行って、こっからここまで、全部頂戴、とか言うつもりだったんだろ」

「ど、どうしてさ?そんなこと考えてないよ!」

 小町が慌ててそんな言い訳をする前に、ギクッていう言葉が口から洩れたのを間違いなく聞いたぞ、俺は!片目がわずかに吊り上って、漫画みたいに少し肩が浮き上がる。

ネコでも不意を突かれた時は『ギクッ』なんだなとしみじみと思うと同時に、やっぱりな、なんて思ってしまう。悪い予感が当ったからってなんにも嬉しくはないが、小町の企みを未然に防ぐことができたのは大きいだろう。買い物に不慣れな小町の手には、家計を切り詰めて切りつめて絞り出された五千円が握られているのである。

「まったく、ろくなことを考えないんだから、油断も隙もありゃしない。どうせ一週間分も魚の切り身でも買って、否が応でも毎晩魚を食ってやろうって魂胆だったんだろ。魚なんて毎朝食って、飽き足らずに昼はにぼしをぱくついてるっていうのにまだ足りないか?」

「足りない、日本人がお米を好きなのと同じだよ!」

 そういう目はやけに熱心、反戦を訴えるどこかの政治家みたいな真剣さでこぶしを握る。

「一緒にするな。毎食魚じゃ俺だって飽きるんだ」

「贅沢は敵だよ!」

「おまえの我が侭のほうがよっぽど大阪家の敵だ」

 うー、むー、いろいろとそんな声を出しつつも言い返せない小町は、歯を噛みしめて苦虫を噛みつぶしたような、悔しそうな表情でこちらを見る。

「でもさー、どうしてボクの完璧な計画がわかったのさ?」

 さすがに言い訳は効かないと判断したか、溜息一つ、素直に罪を認めて不思議そうに聞いてくる。悪戯を実行直前で先生に見つかってしぶしぶ言うことを聞いている悪ガキみたいだ。

「不思議そうな顔をして聞くのは涎を拭いてからにしろ」

「へっ?」

 小町の奴、まさかそれだけ涎を垂らしておいて自分じゃそれに気がつかないのか。まったくのんきな奴だ。それに涎なんか垂らしていなくたってあれだけ俺を避けようとすれば何かを企んでいるのは見え見えだ。

「ハンカチ貸して、ハンカチ」

 立ち止まると、平気な顔して手を差し出してくる。

「今から涎を拭こうって奴にハンカチなんて貸せるか。それにおまえは今朝姉貴にハンカチをもたされていただろう?」

 そうだったそうだったと、あるかぎりのポケットをひっくり返してやっとハンカチを取り出すが、

「おまえなぁ、ハンカチぐらい畳んでしまったらどうだ?クシャクシャじゃないか」

「でもこれは手をふくだけだって。人間って面白いね、そんなの服で拭いちゃえばいいのに」

 たぶんこいつは今朝、言葉の意味もよくわからないでデリカシーって言葉使ったんだろうな。間違いなく姉貴のお古なんかではなく、小町専用に用意された猫柄ピンクのハンカチで口を拭く。そして例によってハンカチを丸めてスカートのポケットにしまう。ポケットは丸い形に膨らんで、なんともみっともない。

「お前も女の子なんだからな、そういうのには気を遣えよ」

「ボクはいいんだよ。そんなの気にしないもん」

「俺が気にするんだ、いいから貸してみろ」

 そういって小町からハンカチを奪う。

 無抵抗な女子高生のスカートのポケットに手をつっ込んでいる男の姿は、警察が見ていたら捕まったかもしれないし、警察なんかいなくったって、商店街を行き来する人たちからは不振に見られていたのかもしれないが、本人たちが互いに気にしていないのだからいいのだ。

 小町は「そんなことしなくてもいいのにな~」なんて言ってつまらなそうに足で空を蹴る。しっぽも右に左にゆらゆら揺れて、暇を持て余すよう。

 しわの寄ってしまったハンカチを丁寧に畳んでやると小町に渡してやった。

 ふーんといって無表情で渡されたハンカチを眺める。

「どうだ?こんなもんでもきちんと畳んであると気持ちいいもんだろ?」

「そうだね、優が気にするんならボクもこれから気を付けるよ。でもやっぱりボクはどうでもいいやって思っちゃうな」

「はは、まあそれだって別に構わないんだけどな」

「それじゃあ好きにしよ」

 二人して笑いながら、落ちかけた太陽を背中で受け、五月の温かな風を感じながらにぎやかな商店街を歩いて行った。



やってきたのは近くのスーパーマーケット。八百屋、肉屋、魚屋が立ち並ぶ商店街をぬけたあたりに何年か前にオープンし、商店街に店を構える人々は自分の店の売れ行きが下がってしまうことを懸念した。しかしさほど大きなスーパーではなかったからか、野菜は八百屋、肉は肉屋で買ったほうが値段が安く、品も良いんだということがわかって、便利さが売りのスーパーができた後も、専門店は売り上げにあまり影響を受けず、商店街の賑わいは今でも健在だ。

最近ではこういった店の立ち並ぶ商店街が消えつつあるが、そんな中で地域ぐるみで町を盛り上げているこの商店街は、この町の良いところの一つだ。昔ながらの商店街とはこのことを言うんだろうな、なんて爺くさくも、しみじみしてしまう。逆にいえば、綺麗な海と人の温かさくらいしかこの町が誇るべき部分なんてないというのも当たっているのだが。

店に入るなり買い物かごをひとつ手に持ったかと思うと、すぐに買い物カートなんていう便利なものを見つけて、すぐにそれに取り換えた。カートの上と下にそれぞれかごを置くと、意気揚々と歩きだした。

「いいか、今日の晩飯に必要なものだけを買うんだぞ、今お前の手に握られた蝦蟇口には、食費や光熱費以外に費やす金はこれっぽっちも入っていないんだからな」

 かごを二つも用意して準備万端、買う気満々といった表情を浮かべる小町に注意を促す。このかごに入る限りいくらでも買っていいなんて考えているんじゃないだろうな。

だいたい口元が猫みたいに波を作っているところからして心配なのだ。目をきらきらと輝かし、いつのまにやらまた涎が垂れている。それをそっと拭いてやる。だらしなく垂れた分泌液をきれいにしてやりながらいまさらに気がついたのは、小町の肌のもつ魅惑。それはまだだれも足を踏み入れていない、朝起きると庭に積もっていた雪のよう、自然だけが生み出せる純白は、雪の一粒一粒があまりにきめ細かく滑らかで、撫でればスッと指が滑る。顎のラインはまるでダイヤで削り出したかのようにシャープなのに、ほっぺたは押してみるとプニプニとした弾力がある……プニプニ……プニプニ……

「ボクのほっぺで遊ばないでくれるかな?」

 ついつい突いていた。

「悪い、肉球みたいで気持ちよくって」

 小町が横を向くと、モチたいなやわらかいほっぺたが、人差し指にさらに深くささる。引っ込んだほっぺの分つきだされた唇はタコちゅー、思わずぷっと吹き出してしまい、拭いたはずの小町の顔に、唾が飛ぶ。

「あーっ、汚いなー、ほんっとに優にはデリカシーってものがないんだから!」

 ほっぺを紅潮させてめでたくも紅白餅が完成、唇を尖らしてまたもやタコちゅー。

 猫だかタコだかはわからないが、どちらにしたって小町は小町、美少女は美少女なわけで、どんな顔をしたってかわいさははじけ飛んでいるのにはかわりがない。

「わるいわるい、自分で拭いてくれ」

 己の唾は己のハンカチで。小町に自分のハンカチを手渡してやる。

「まったくも~っ!」

買い物だと意気込んでいた小町は、しょっぱなに気分を害され不機嫌そう、とりあえずこいつを見失って、いつの間にか会計を済ましていた、なんていう悲惨な結果にならないよう、最善を尽くそう。

「そんな疑うような目しなくったって、大阪家の極貧事情はわかってるよ」

 訳知り顔で『極貧』とか言うこいつの顔はなぜだかイラっとくる。自分の中で自虐ネタにするのは毎日なのに、飼い猫に極貧呼ばわりされるのは気に食わないのだ。

「晩飯のメニューを決めたうえで、それに必要なものだけを買うんだぞ。とりあえずよさそうなものを買って、後からメニューを考えようなんていう買い方では絶対に不必要なものまで買ってしまうんだからな」

「うるさいなー、わかってるよ、もう何を買うか決めてあるんだから」

 だったらどうして二つもかごが必要なのかを聞きたいものだな!

俺の不安なんて全く感じ取っていないんだろうな、鼻歌を響かせながら、どんどん店の左奥へと進んでいく。ちなみに小町が鼻歌を歌いながらなにかをして、良い結果になった経験なんて一度もない。


 案の定、カートの中身を見ると、中にはウニ、カツオ、コロダイ、ホンマグロ。

「買いません」

 ひょいっと四匹の魚をかごから取り上げる。

「あーっ、なにすんだよー優!」

 全く、よくもこう器用に旬の魚(そして高い)を見つけ出すもんだ。今このスーパーに並ぶ中では最も値の張る四つをかごから取り上げて、売り場へ戻す。それをみていた店員にはだいぶ残念そうな、というより「嫌な」顔をされたが、こちとら生活がかかっているのだから仕方がない

「スーパーマーケットの存在さえ知らなかったお前が、スーパーマーケットに並ぶ数多の魚の中から見事に旬の高級魚だけを選び出すその知識には感服するばかりだよ」

「ボクはどれが旬かなんて知らないよ。姿は何となくわかっても、魚の名前なんか気にしたことがないから、こうして切り身にされた状態だと、見ただけじゃ判断できないんだ」

「だとしたら活きのいい魚を器用にホイホイと選び出す方法を聞きたいものだ」

「こ・こ・だ・よ」

 小町は可愛らしい小さな鼻の頭をツンツンと叩いて、妙に得意げ。

「俺にはそんな特殊能力は備わっていないんだが」

「だめだめ~、人間の鼻なんかじゃ」

 片目を瞑ったウインク、チッチッチ、といって指を振る小町得意のポーズは魅力的ではあるが、見慣れてしまえば憎たらしいだけだ。

「猫の鼻が人間に比べてよほどいいのは俺も知っているし、人間の姿になっても依然としてアクセントを効かせ過ぎているその耳の感度も認めよう。しかしその鼻を見る限り、チャーミングだとは思うが、機能的に俺の鼻と何かが違うとは思えないんだが」

「ふふん、嗅覚の機能なんて、魚のおいしさを嗅ぎ分けるのには些細なことだよ」

「しかしお前は見ただけではわからないといったな。目がだめなら耳か?人の独り言を鋭敏に察知する悪趣味な聴覚があったからって、死んだ魚の声まで聞こえるとは思えないな」

「五感なんて重要じゃないよ。特にボクたちにとってはね。ここでいうボクたちというのは人間を除く生物全体のことだよ。人間は理性なんてものを発達させてしまったあまりに、五感はおろか、種の生存に最も重要な第六感の強さを著しく低下させてしまったよ。人間はよく『動物的な勘』って言葉を使うけど、それだって人間が自分から手放したもので、本来は備わっていたものなんだよ」

 大量のうまそうなプリプリとした魚がどっさりおかれるスーパーの片隅、小町はいつの間にか立ち止まり、自分も足を止めざるを得ない。

「とすると、第六感ってのをもつ人間も存在するわけだな?」

「もちろんだよ、そんなこと。ないほうが異常なんだから。もちろん人間によって強さは違っているけど、もっていない人間なんていないはずだよ。優だってもちろん持ってる、それも普通の人より感度も精度も抜きんでて優れたものをね」

 顔はどっさりと並べられた魚の山に向けられているのに、その目はそれを見てはいなかった。

「俺がどんなにその第六感とやらに秀でていても、その恩恵を受けたことがなければ意味がないってもんだ。人間界ではそんなものより論理力に秀でていたほうがよっぽど優秀だとあがめられるしな。仮に第六感とやらが役に立つんだったらどうか使い方を教えてほしいものだな」

 第六感でマークシートの答えがわかるのならそれ以上のことはない、是非教えてくれ。

「第六感なんて生活の上で便利だって感じられるものじゃないよ」

「そんなもんなのか?第六感に優れていれば博打で大儲けできるとか、好きなことし放題だと思うんだが」

「そうか、優は自分が第六感に優れているって自覚がないんだね、でもそれはそれでいいことなのかもしれないよ。だってそれは優が平和な人生を送っているってことだもん」

 こういった小町は言葉の通りに言ったんだと思う。何の含みも無しに。でも、それは俺の心に巣くっていた闇をえぐり出すようだった。

 俺の人生は、平和な、つまらない人生だと、正面から言われたみたいだった。

「真に危機的状況に迫られた時、第六感は本当に働くんだよ。そんな状況に直面しないで済んでいるのはいいことなんだよ、絶対に。生きるという目的のために生きているボクたちには、危険は不要。スリルを味わったり、嫌な思いをしてまで何かを目指すことなんかない」

 小町は俺の心を見透かしたようにそう言った。それは、言葉では優しい。しかし自分というフィルターを通してその言葉を噛みしめると、それを素直に受け取れなかった。

俺は話を逸らしたくて、苦し紛れの文言をはく。

「茜がああなってしまうことを、第六感を使って気付くことはできなったのか?」

「優が気付くことができなかったのかということをボクに聞くの?それは無責任なんじゃないかな?」

「ああ、本当にそうだ」

「ごめんね、優、でも別にボクだってなにか特別な感覚が働いたわけじゃないんだ。あれだけ大声で喚かれたらいやだって何か変なのはわかるでしょ?」

「ああ、あのときは驚いた、強いんだな、小町って」

 このとき『強い』なんて言葉を使った自分を少々ガキの様だと感じた。

「ははっ、人間よりはいくらかね。でも人間と同じ知能をもった、人間と同じ体格の猫に、優は素手で勝てる気しないでしょ?猫パンチって馬鹿にするように言うけど、あのスピードのパンチ繰り出せるのはボクサーぐらいのものだよ」

 小町は平然と答えた、笑いなんて浮かべて。素手で、という言葉を聞いた俺の頭の中に浮かんだのは、あの時小町の指の先から延びていた、刃渡り十センチくらいの刃物に見間違えるほどの立派な爪。

「まあ虎みたいなもんだもんな。あんな物騒な爪を自由に出し入れできたとは、俺も気をつけないとな。まったく、家の女は恐ろしいのばっかりだ」

「はは、恐ろしいって、乙姫と茜に失礼だよ」

 小町は姉貴と茜の名前は挙げたが、自分の名前は言わなかった。やっぱり少し笑って。

でも、小町にとってその言葉は本題に入る前のくだらない小言に過ぎないみたいだった。俺が答える前に小町は話し始めた。

「優は責めなかったね、ボクのことを。感謝するだけで、妹の指を捻じ曲げた張本人を責めなかった。どうして?痛かったと思うよ、茜は」

 そんなこと、もちろんわかってた。病院から帰ってきた茜の両小指は包帯でぐるぐる巻きに固定され、曲がっているのかどうかもわからないくらい太くなっていた。その手は痛々しくて、笑った顔を絶対に崩さない茜の姿はもっと痛ましかった。でも……………

「あの茜を止められたのは、小町、お前だけだったから。俺は無力で、なにもできなかった」

     ――――――――――――

「優、それは違うよ。茜がああなってしまった責任が誰にあるかなんてことは、ボクが茜の動きを止めるためにやってしまったことへの行為への責任の追及とは無関係だよ。どうあったって、妹が傷つけられたら、兄は無考えに加害者に食ってかかるものだし、そうあるべきだと思うよ。仮にそれが、優の良く知る相手だったとしても。ボクには、そんなんじゃ本当の解決にはならないって言って乙姫のやり方に批判したのと同じことを、優がしているように感じるよ」

「すまん、俺は馬鹿だから、おまえの言っていることがどういうことだかわからない」

 なんとなくはわかっていたのに、無知を装うことで、少しでも罪を軽くしたいと思って、わからないふりをした。

「優も乙姫も、自分で責任を全部背負うことで、それ以上の、これからしていかなくてはいけないことに目をつぶっているように、ボクには思えたよ」

「俺は違う!俺はこれから茜と真剣に向き合っていきたいって考えているし、茜の力になるために茜の話を残らず聞いてやりたいと思っている」

「じゃあボクのことはどうなの?」

 急に店内が静まり返る。絶え間なく店内に流れていたスーパーのテーマソングも、人々がカートを手押ししてガラガラとなる音も、店員たちが客とすれ違う度に「いらっしゃいませ~」と笑顔で言う声も、全部、止まってしまった。

その空間には一人の少女がいるだけ、その少女が、気がつけばこちらを見つめている。その目はとても澄んだ瞳とはいえない、いつもと変わらず真黒で光を放っているというのに、なにか不純物の混ざった様に濁っていた。憂色の深い表情から目をそらせなかった。今自分が立っている空間には同じようにたくさんの人が立っているというのに、そこにはたしかに目の前の少女しかいない。

「それに優自身はどうなの?優は本当に自分自身にきちんと向き合っているの?

もし優がボクに対して真剣に向き合ってくれているんだったら、ボクに遠慮なんかしないでほしい。思ったことを口にしてほしい。優がボクに嘘をつくことは、優が自分自身に嘘をつくことだよ」

小町は俺から目を逸らさないで諭すようにそう言った。けどそれは「戒める」なんて言葉は全然似合わない、もっと不確かさを含んだ、大阪小町という少女の心が紡いだ言葉だった。

それはいつもの、その場にいるだけで周りには満開の花を咲かせてしまう小町ではなかった。だからって真剣な、何かを背負っている決意の表情でもなかった。ただ一人の少女が、一人の少年に問いかける姿。少し気まずさと緊張が混じる、それでも普通の少女と少年が向かい合って立っている、ごく普通の光景。けど、それは俺が小町の中に初めて見た色。

ピンクと黒しかないと思っていた少女がふいに見せた、淡い白と青の混合色。でもその色は全然不自然じゃなくて、むしろその色こそが、本来この少女を包み込むカラーなんだと思った。

「もう帰ろうか、優、ごめんね、ボクにはまだ食事と買い物の当番は無理だったんだって、茜と乙姫に話しておくよ。だから、帰りにいつもの惣菜屋でお弁当でも買おう。それで全部、厄介事が収まるんだから」

 小町は微笑を浮かべながら、中は空っぽの買い物カートを、店に入った時と同じ元気さをもってガラガラと音を立てて押していってしまった。

 浮かべる表情は柔らかく、発する声も小さいながら辺りに澄み渡る鈴の音のよう、それなのに小町の言葉にはどこか丸みを帯びない、刺さるような感じがあった。

店内ではタイムセールが始まって、ところどころでざわめきが起こる。でも、その場所には間違いなく小町一人しかいないで、聞こえる音は品物が一つも入っていないカートの、カラカラという浮くような音だけ。そこには鼻歌も口笛もない。

小町が遠ざかっていって、はっとここがスーパーの中なのだと気付く。

 カートを押して歩く音は、はやりの音楽が流れ、子供達も騒いでいる、静かとはいえない店内に、むなしく鳴り響いた。

 こうやって小町の背中が遠ざかって行くのを見送ることしかできない自分自身を、俺は恥ずかしく思った。去っていく後ろ姿は一人の非力な少女の姿にしか見えないというのに、俺の脚は依然規則正しく並べられた店内のタイルに張り付いていた。

地面を引きずらないようにと持ち上げられたしっぽは左右に振れ、ぴんと上に伸びた耳は、なんだか不自然に力が入っているように見えた。それは小町の心の内を表しているみたいで、どうしてか、ものすごく人間的だった。

人の体にくっついた、あまりにも特徴的なねこみみとしっぽ。

でもそれは人間と猫とを分ける象徴としては非常に瑣末な役割しか果たしていなかった。



 惣菜屋にはサラリーマンやOL、主婦の姿が数多く見られた。住宅街に入る手前という好位置に建てられているこの店はいつでも人が多く出入りしている。多分平日のこの時間帯はこういった店にとって書き入れ時なんだろう。俺と小町は無言で一種類ずつ、四つの弁当を選んで、早々に店を出た。

 一つの袋に四つ重ねて置かれた弁当。その一番上には小町が自分で選んだ鮭弁が置かれている。小町は自分で袋を持つといってきかなかった。軽くはないその袋を、左右に傾けないように大事に運ぶ。

 小町は歩きながらちらっちらっと頻りに鮭弁を見やる。そうして鮭弁がちゃんと袋の中に収まっているを確認すると、安心したようにして顔を上げる。

 スーパーで買おうとしていた魚たちと比べれば、弁当の中央を陣取っている鮭はおそらく十分の一以下の値段、しかしそれを小町は大事そうにしている。鮭だっておいしい、俺なんか庶民の味覚だからこ洒落たそこらへんの魚なんかより鮭はよっぽどおいしいと思う。たぶん小町だって同じで、魚ならなんだって満足なんだ。でも、食べたかった魚を買えずに、それでもどことなく満足そうに鮭弁を覗いてる小町の姿は、家が貧しくておもちゃを買ってもらえない子供が、家に転がっているものを見つけておもちゃ代わりに遊んで楽しげに笑っているというような、空しい匂いがあった。

俺は小町を横目に小石を蹴りながら百メートルほど歩いていたが、小町に気をとられていたらいつの間にかその小石を見失ってしまった。そんな俺をちらっと横目で見た小町は、すぐにまた顔を背けてしまう。お互いを見ながら、だからって別に声をかけることもせずに、俺たちはただだんだんと夕闇に染まりゆく道を黙って歩いた。

スーパーで魚を買ってやっていれば、あるいは今頃二人して笑いながらこの道を歩けていたのかもしれない。

いや、きっとそうだ。でも、それでは俺と小町は、どこまで歩いて行ったって正解にはたどり着けない。

まっすぐ一本に伸びた道に、長く伸びた影は懐かしく、同時に神秘的でもあった。そんなの、普段から目に映る光景なのに、しっかり見たことはなかった。映る影には小町の耳もしっぽもはっきりと映っていた。俺以外の人間に、小町はどう映っているんだろう。そんなことを考えたのは、ここ何週間かで初めてのことだった。



 

「じゃあ違うんだな!ホンッッッとうになにもないんだな?」

 八嶋哲憲がびっくりしたような顔をズイズイっと近づけながらそう言う。だからってびっくりしているのではない。生まれついたその顔はいつだってびっくりしたようなのだ。

「だから、何度もそう言ってるだろ。あいつの悪い冗談なんだ」

「確かに不思議ではあった。だが俺にしてもみんなにしても、『あれ』をまったくの虚言だとは思わなかった。何かしら信じさせてしまうような感があったのは間違いない」

 面長で色白、細く伸びた目、広い額にのっかる髪はくるくると天然パーマ。長身ですらっとした体形のこいつは赤田川龍介。しかしこんななりに名前だから、国語教師はみんなして芥川と呼ぶ始末である。

 だって『あれ』は本当のことだから、そんなこと言えるわけもなく

「みんなあいつの毒牙に騙されてるんだ」

 なるべく誰にも聞かれないような小さな声で二人に顔を近づけて話す。

 はたから見たらなんとも不思議な取り合わせだっただろう。だが拓を含めた四人は一年の時に同じクラスだった四人なのだからそう不思議なこともない。

 俺の言葉に、今度は八嶋も首をかしげるように考え、二人して黙ってしまう。

 俺としては今のでことは解決したように思ったのだが。俺と小町の間には何もない。転校してきて早々の『あれ』は全部間違いだったと、納得してくれると思ったのだが……………

 だんまりの理由を俺がわからないのを見てとると、仕方ないといって呆れたようにアカが口を開いた。

「なあ大阪、よく聞け。大阪さんに謎が多いのは確かだ。だがそれ以上に不思議なのはお前だ」

 小町のことを大阪さんと呼ぶのはいかにもアカらしい。その言葉を聞いて、八嶋も横でうんうんと頷いている。そして俺にはさっぱりわからない。

「なにが不思議かってお前のその態度だ。この学校には、たとえ本気で思っていなくとも大阪さんを悪く言うような人は一人もいない。女子だってそうなんだ。男に関しては言うまでもない、綺麗な花を見て嫌な感じがする人間はいないからな。それが異性ともなれば当然だ。ところがお前はどうだ?大阪さんを否定するようなことしか言わない。たぶんそんな態度は、不思議であると同時に、見ていてあまり気持ちのいいものじゃない」

 アカは人の目を見て話さない。いいづらいことでも、そうでないときでも、きまってそうやって話すから、アカの考えていることは、わからない。

「まあ大阪は大阪だよ、俺たちにはわからないこともあるさ。それよりも、俺がこうして大阪やアカと話すようになったのは、紛れもなく小町ちゃんのおかげだよ。それは絶対だ!」

 八嶋は照れくさそうに笑う。俺も一緒になって八嶋の照れ隠しに付き合って笑ってやる。

 八嶋やアカだけではない、クラスのみんなと、小町という話題を通して随分としゃべるようになった。小町爆誕直後こそクラスで没血を食らう羽目となったが、今では以前よりもクラスと打ち解けられている。それはこの何週間かで劇的に変わったこと。

 小町は依然女子の話しの輪の中心であり、今だってクラス中の女子からやれ陸上だの、やれバスケだの、やれ水泳だのと部活の誘いを受けている。誘われるのは運動部ばかり、たぶん、それが正解だ。小町に芸術的な才があるとは到底思えないから。

 とにかく、大阪コンビとして一つに括られていた輪は解消され、どちらも大阪小町と大阪優という二人の人間になっていた。一人はクラスの女子の中心へ、一人は地味な男子グループの一人へ。互いに別々に、クラスに溶け込んでいた。そこには男と女という明確な線引があって、いつのまにか小町はあちらへいた。俺がこっちで居場所を固めている間に、小町もあちらで居場所を作っていた。

 いつからか、学校では小町と、あまり話さなくなっていた。



ザァー ザァー ザァ―


雨が道路を叩く音のほかには、自分たちがたてるぴちゃぴちゃという足音しか聞こえない、静かな帰り道。朝からずっと降りやまなかった雨は、この時間になってその強さを増し、道路に避けられない水たまりをいくつも作っていた。上半身とバッグはなんとか雨にぬれないように気を付けたが、吹きさらす風と水たまりのせいで、足元とズボンはところどころ色を変えるという始末だった。

隣を歩く小町は、しっぽを出来るだけ体のほうに引き寄せ、雨に濡れまいとしている。やわらかい毛は湿気を吸収しやすいのだろうか、耳はぺたんと力なく垂れ下がっている。あるいはこの憂鬱な雨の音を聞きたくないのかもしれない。それには全くの同感だ。

雨にぬれることをひたすら嫌がる小町は、完全防備を決め込んだか、その小さな足には長靴をはいていた。まったく、どこだかの童話でそんなものを履いた猫がいたな。おそらく姉貴か茜のお古なんだろうが、高校生が長靴とはな。

 いずれにしても、今日のように風の強い日に尻から生えたあの異様なうねうねしているものを雨から守るには、小町のお気に入りのいかにも小さい女の子がもちたがるような、ピンク一色に猫のキャラクターのプリントの入った傘では小さすぎるのだ。

「ひゃあっ!」

 学校を出てから何度目かわからない、素っ頓狂な声をあげて、小町は飛びあがらんばかりの勢い。

「雨の一滴ぐらいで騒ぐな、俺の靴下なんてひどいもんだ」

「ボクしっぽは弱点なんだよ、水が一滴かかるだけだって耐えられないんだから!」

 むぅ~、といってしっぽをさらに体に引き寄せる。

「弱点か、いいことを聞いた」

   ………………………

「えっち」

「なんでだよ」


   ザァ― ザァ― ザァ― 


「つまんなそうだね、優」

 退屈さを隠しきれないのか、覗き込むように聞いてくる

「ああ、この雨じゃ誰だってそうだろ?」

「でもレディと二人で歩いてるっていうのにそんな顔してるなんて、失礼しちゃうな」

 小町は少し大股になって、歩くスピードを速める。

「どこにレディがいるって」

 あたりをきょろきょろと見回す。

「こ・こ・だ・よ・こ・こ!」

 ムカッと声に出してむっとする。目一杯自分のことを指さして、唇をかみしめる。

「本当のレディは自分のことをレディだとは言わん」

「素直じゃないんだから、優は」

 怒りとあきれ、どっちつかずの表情を浮かべてそう言う。どちらも本気の表情ではないみたいだった。

   

ザァ― ザァ― ザァ―


「どうして降るんだろうね?雨って」

 傘を少しずらして、雨がどこから降ってくるのかを確かめるみたいに、天を見上げる。

「そんなに嫌なら合羽でも着こんでくれば良かっただろう」

 小町の顔に、雨がぽつりと落ちて、すぐにまた傘で頭を覆うようにする。水泳部だけは無理だろうな、こいつ。

「河童?それは頭にお皿を載せて大きな葉っぱを傘代わりにしろってこと?変じゃない?」

「それは、まあ激しく変だな………」

 想像するとかなり笑えるが、それは必死に堪えた。笑ったら、「冗談にきまってるじゃん」という反撃が待っているような気がしたからだ。

「へんな優。そんなことより、こんな日にはさ、ゲーセン行こうよ、ゲーセン!」

 雨の憂鬱なんか吹き飛ばすように、桜前線が接近するみたいな満面の笑みの小町が急に傘をもつ手で俺の腕にしがみつこうとした。で、小町の傘は見事に俺の顔面へ。俺の傘から飛び散る水滴は小町の傘がしっかりとガードだ。

「おい!かかってるんだよ、水!少しは考えろ!」

 傘を押しのけつつこの常識知らずを叱りつけるが、

「げーせん!げーせん!げーせん!げーせん!」

 まとわりついて腕を揺らしてくる。そうすると奴の自慢の巨大マシュマロも密着するわけで、

「だー!!わかったわかった!行ってやるから離れろ!」

「わーいわーい!―――ひゃんっ」

 なんてことはない、小町が喜んだ拍子にしっぽがぴょこんと跳ねて水がかかっただけだ。

「どじめ。いいか、ゲーセンっていったって、家にはそんな財政的余裕はないんだからこれが限界だ」

 しっぽをさすっている小町に五百円玉を握らしてやる。金色の硬貨を受け取った小町は嬉しさに顔を崩すと

「ありがと!大事に使うよ!」

 雨なんか容易くはじく爽快さで言ってのけた。

 少し歩いて広めの十字路に差し掛かると、いつもとは違って左へと曲がり、小町が少し前を歩く中、駅周辺の繁華街へと向かって歩いた。



「いやぁ~、ストレス解消、解消!」

 そう言ってハンマーを背中に担いで満面の笑み。小町が挑戦したのは昔懐かし、モグラ叩き。今じゃモグラ叩きなんて置いていないゲーセンもあるが、一昔前の雰囲気の漂うこの店にはばっちりと設置されている。

 この町で生まれこの町で育った男たちは、「他のゲーセンなんかくそ喰らえ!」を合言葉に、ここで日夜バトルを繰り広げている。この店は新しい機種も取り入れるが、売りは昔ながらのゲームが今でも残っていることだ。だからここのゲーセンで育った子どもたちは、大人となった今でも懐かしさにここへきてしまう。この町らしい、温かみのある、古き良き時代のゲームセンターだ。

モグラ叩きの機械は店ができてからずっと置いてあるもので、これまで数多の猛者たちが挑戦してきた、年季の入った台だ。そのため、いま小町が言ったように、ストレス解消のためにやるだけで、スコアの更新なんて夢のまた夢―――――――のはずだったのだが………………

「ランキング入り!」

 今日三度目の文字が画面に浮かび上がった。

「おいおい、何度目だ?やるたびにスコアが上がって行くぜ」

「これはマジもんだ、なんなんだこの娘、このままじゃOTOHIMEの記録さえ抜いちまうぜ」

「まさか!あれは絶対に敗れねぇ、あの記録は全国ランキングで通用するレベルの記録だ!」

後ろのギャラリーは口々に好きなことを言っている。

 小町は初挑戦でいきなりランク入りを果たし、ここ一年ほど聞かれなかったランキング入りを知らせる「パンパカパーン」という音が店内にけたたましくなったかと思うと、そこらで退屈そうに格ゲーをやっていた大人たちがざわざわと集まってきた。

そして二回目、小町がさらにスコアを伸ばすと、この颯爽と現れたゲーセン破りの登場は店の端から端まで伝えられ、小町が三回目に挑戦しようとする頃には店にいた客の全員がモグラ叩きの前に集まるギャラリーと化していた。

全員が興奮に満ち、突如として現れた可憐な少女のハンマーさばきに見入っている。あるものはこぶしを上げて「やっちまえ!」と叫び、またあるものは腕を組んで冷静に戦況を見守り、またあるものは「これほどのものが、わしの生きている間に見れるとは……」と涙を流している。いったい何歳だ爺さん!

 それにしても、この二年間日の目を浴びなかったモグラ叩きの台も、これだけ注目の的となって、さぞ喜んでいるだろう。

 小町は四回目のプレイに入ろうと、コインを投入した。

「おお、四回目行くぞ!」

「抜くぜ、あの記録を!」

「再来だ、女神の再来だぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!!!!!!」

「世紀の一瞬を目の当たりにするんだ、俺は!」

「死ねる、死ねるぜ俺はぁ!!」

 いくら俺が小町の保護者だからって、そんなんで死なれても責任取れんぞ。

 もちろん俺も素直に驚いていて、小町が記録を塗り替える瞬間を見たいのだが、あんまり目立たれてはさすがに恥ずかしい…………………

「おい、さすがのお前も四回連続は疲れるだろ、少し休憩したらどうだ」

 そう小町に声をかけたとたん、後ろから

「おい、クソガキ、止めんじゃねぇ、引っ込んでろ!」

「どけどけ、KOMACHIのプレイが見えねえだろーが!」

「彼氏かぁ?なんだ冴えねえ男だなあ」

「その子の彼氏ってんじゃあ、どうせ尻に敷かれてんだろ!」

 はっはっはっはっは、なんて笑い声と半畳が飛び交う。

 頼むからさっさと終わらしてくれ、小町……………

「よーしっ、いってくるよ、優。このOTOHIMEって奴の記録、破ってくる」

 小町はローマ字が読めないらしい。「おーてぃーおーえいちあいえむいー」と発音する。そういや、二年前も同じような状況だったな。しかしこれだけの数の人間を湧かせる二人の雄姿がどちらも女だとはな、しかも二人とも身内だ…………


 3…………2…………1…………Ready…………GO!!!!!!


 開始と同時に現れた三匹のモグラ、それを一秒足らずで片付けると、すでに目は別の方向、常に先へ先への読みと一瞬の判断力と行動、また一匹、また一匹と次々潰されていくモグラたち。叩かれるごとに「きゅう」と音を上げるモグラの声は小町の叩く速さについていけない。

連続撃退数が30,40と連なっていき、ゲームの開始時から未だパーフェクト。先ほどまであれだけばか騒ぎをしていた聴衆は、今や少女の華麗な舞いを、固唾を呑んで見守るばかり。人間の速さでは絶対に無理だと言われ、あのOTOHIMEにさえ攻略させなかった一挙十匹出現も、人外の運動能力と反射神経と動体視力とでなんなく攻め落とした。そしてこの店内では未だかつて誰も見たことのないステージへと進んだことを、ゲーム画面が教えた。

 

プシューッ


モグラの動きがいきなり止まったかと思うと、表に出ていたモグラがおずおずと身を隠すように中へ入った。

小町はあれあれっといってモグラの出てくる穴を目を丸くしてきょろきょろと見回す。

故障か、はたまた全クリか、しかし全クリにしては地味な終わり方だ。と、その瞬間、いぶかしむギャラリーの前に現れたのは


     巨大モグラだった


 極悪そうな眼をしていたが、何年来とたまったほこりのせいで、どうも迫力に欠けていた。でっかいサングラスに太めの葉巻、一昔前のギャングのようないでたちで、でっかい太鼓っ腹を目立たせる。

 そしてそのなかにスイカでも入っているんじゃないかと疑いたくなるような腹にはなにやら字が書いてある。

 「120㎏のパンチを打ち込め!」

 万事休すだとだれもが思った。おそらくこのゲームを作った人は最終ステージまでたどり着けるのは相当の運動能力を持った男だけだろうと思ったのだろう。

 確か前に俺がパンチングマシーンで力を測ったとき、100キロほどだった。もちろん俺は力が強いわけじゃないから、120キロぐらい出す人間はざらにいるんだろうが、なんといったって小町は女だ。並はずれた運動神経をもっていたって、体格はカバーできない。

 小町はなんどもハンマーを使って必死にモグラの腹へ一発を叩きこむが、モグラは倒れず、意地の悪い笑みを浮かべたまま。ギャラリー全員があきらめかけた瞬間

「へへへ、ボク本気になっちゃったよ~」

 そう言った小町の目は、俺の位置からでしか見えなかったが、間違いなく光っていた。ピカーンって擬態語が聞こえてきそうな猫の目の輝きを放ち、手からハンマーを放り投げる。そして、一気に後ろ向きに走り始めた。真後ろで小町のモグラたたきを眺めていたギャラリーは慌てて道を空ける。

そして、目一杯の助走をつけて全力疾走、トップスピードに乗ったかと思うと、いきなり

跳んだ。

地面と全くの水平に十メートルも飛んだだろうか、紛れもない猫の跳躍。助走で得た勢いをすべてこぶしに込め、

一殴入魂

の掛け声とともに、捻った体を戻しながらのトルネード右ストレートをモグラの親玉の腹にねじ込むねじ込む。こぶし一つが全てめり込んだかと思うと、ゆっくりとボスが後ろにバタンと倒れた。小町はシュタッと綺麗な片脚着地。

それと同時に先ほどのような

プシューッという音。

ついにクリア、だれもが思って初めて聞くゲームクリアの音声を今か今かと待ち望む――――――――――――が、それがなかなか聞こえてこない。

よーく見てみると全てのランプが消え、モグラたたきの台は意気消沈としている。

あれ? 嫌な予感がそこにいる全員の頭をよぎる…………………

「あ、あれかな?全クリするとそこで機能を停止する、みたいな」

「な、なるほど、これはこれで粋なエンディングだ」

「ああ、完全に意表を突かれた。私たち全員がだまされたぞ、さすが神ゲーと謳われるだけのことはある。最後にこんな幕切れをもってくるとは、驚きの一言に尽きるな」

 いやいや、気付いているだろみんな、別に作り手の意図とかじゃなくて、フツーに壊れたんだって…………信じたくないけどな。多分最後のプシューッっていう音、演出じゃなくて、ただ単に機械が悲鳴を上げただけだぞ。

 小町よ、何でお前は『やってやった』みたいな顔をしてんだ。最後の打ち込みなんて、素が出てたぞ。ゲームをクリアするためってより、獲物をとらえてやるって目をしてたもんな――――まったく弁償させられたらたまったもんじゃないぞ………………………

 全身から大満足といった空気をあたりに振りまいてこっちに勝利のVサインを向けているお前には知ったこっちゃないんだろうけどな――――――――――


しっかしひどいもんだ、可哀そうに、このタヌキ、じゃなくてモグラ、よく見れば案外可愛い顔をしてるんじゃないか。

腹に一撃をくらって、ふわふわのおなかはこぶしの形にくりぬかれている。

 反射神経と動体視力はバドミントンのエースに女子ソフトボールの大打者、疾風のごとき加速と跳躍は短距離ランナーに、バスケットコートを駆け巡るポイントゲッター。火の玉を宿す掌はバレーの強烈アタッカー。

 好きな部活やっていいぞ、小町。ただ、ボクシングだけは、絶対にやめておけ………



「また来いよ~、娘っ子」

「最後の一発は効いたぜ!」

「あんたはモグラたたきの申し子だ!」


 そんな声援に見送られながら、俺と小町は店を後にした。たった一時間で観客から異常な人気を集めてしまった小町は、ご満悦だった。

 この前もゲーセンには来たのだが、その時はUFOキャッチャーで金を浪費しただけで、繊細な動きが不得意な(ガサツな)小町はその本領を発揮できなかった。

 それが「モグラたたきの申し子」とは…………………嬉しくないだろ、その称号……………

 送られる声援のすべてに手を振って答えてやっている小町がなにを考えているのかはわからないが、満足そうではある。

 しかし俺は弁償して欲しそーな目をしながら、他の客の手前それを言い出せずにいた店員Aと、金輪際入店お断りと目で言っている店員Bの顔をしっかりと見たぞ。

「お前はもう、あそこには連れて行けねえな」

「えーっ、どうして、優!」

 心の中で思っただけだったのに、強く思うとついついと声に出てしまうらしい。

 猫の頭を一回り大きくしたぐらいしかない小さな顔を90度回転させて、こちらをカッと見据える。

「行くんなら一人で行け、俺は付き合わんからな」

「なんでさぁ」

 小町は口を尖らして不満をあらわにする。

「お前みたいな怪物連れて行けるか。恥ずかしいったらありゃしない」

「そんなぁ、ボク人気者だったじゃん!」

 今度は目を丸くして本気で驚きと不思議を訴える。

「ゲーセンの機械を破壊して人気者になったところでしょうがないだろうが。それになぁ、こんなとこ頻繁に通っていたらいくら金があったって足りんのだ」

「大丈夫だよ、みんなお菓子くれたもん。きっと収支はプラスだよ」

「ダメなもんはだめなんだ」

 理由などいらない、この言葉は魔法の言葉、これまで日本中の親という親が子共に何度この言葉を遣ったか。しかし子供みたいにお菓子をもらって喜んでいたって、こんなありきたりな言葉で納得させることができるほど小町の扱いは楽じゃない。

 小町は急に不敵な笑みを浮かべると、傲岸不遜、俺を見下げるようにして

「はは~ん、そうかぁ、優はボクがみんなの人気者になっちゃったんで妬いてるんだぁ。かわいいとこあるねえ」

「そんなことは断じてないから安心しろ」

「そこは素直になってもいいんじゃないかな!安心しろだなんて失礼しちゃうよ!」

 腕を組んで頬を膨らませる。そんな仕草をする小町はかわいい、普通の女の子。

「なんとでも言え」

「優と一緒がいい」

 ぼそっと言うので、一瞬耳を疑ってしまった。

「その言葉はありがたく受け取っておくよ」

 まったく、ちょっとこっちをどきっとさせる言葉を言っておけば良いと思ってるんだからな。あんまり甘い顔ばかりしていると付け上がるだけなんだ。まったく人間様をなめやがって。


 ん、小町がいない、と思ったら後ろで俯いて佇んでいる。雨は止んでいて、バッグと傘を片手ずつに持っている。いつの間にか雨は上がっていて、辺りは夕焼けの赤に染まっていた。

 逆光に立つ小町の長靴と傘はおそろいのピンクをどちらも黒く染めていた。


「……………と……う…だよ」

「えっ、なんだって?」

「ほんとうだよ、ボクは優と一緒がいい、ボクは優と一緒にいなくちゃいけない。優はボクと一緒じゃダメかな?」

「ダメってどういうことだ?小町が一緒だっていいよ。今までだって一緒だったんだから」

「ボクは今日も一日、優と一緒で楽しかったよ。優は元気なかったけど、ボクと一緒にゲーセンで遊んだら、元気になってくれたような気がするよ?」

 なにかいつもの小町とは違うみたい、ゲーセンに入る前の小町に戻ってしまったよう。話し方が妙に落ち着いて、いかにも話を聞かせるような話し方。いつもの小町なら話しながらも耳やらしっぽやら、体のどこかしらが落ち着きなく動いているのに、今は言葉を紡ぐその小さな口以外は動かない。声帯を震わして音を出すという行為それ自体に集中している風。

「ああ、お前といると飽きないよ、ホント、呆れるぐらいにな」

「うん、ボクは優を楽しくさせられる。優には煩わしい人間関係なんていらないくらいに」

 小町は俺の返答なんて全く気にしていないようだ、まるで用意された言葉を読むみたいに次の言葉を続ける。

「だから、優はつまらない人間関係なんて捨てちゃって構わないんだよ」

 それはまるで弱いものに救いを与えるかのような物言い。慈悲深き女神のような口ぶり。小町と目が合う、眉は八の字に曲がり、目は弱いものを見ているよう。

「なにが言いたい」

 声は間違いなく動揺していて、たぶん小町もそれを察知した。

「人間なんてつまらないものでしょ?優だって他の人とのなれ合いなんて面倒なことだと思うでしょ?前にボクにそう言ったもんね」

 それは、俺が前に小町に告げた独り言。高校1年のおり、友達のできないことに悩んで、クサンティッペに打ち明けた。姉貴でもなく、茜でもなく、拓でもない。相手は、猫のクサンティッペ。話したって決して言葉を返さない、一匹の猫。

「人間なんてつまらないだなんて言うもんじゃない」

「優はもう一人だっていいんじゃないの?ボクは優にたくさん刺激を与えたし、優をたくさん楽しませてきたよ、ね?それに優と一緒にいることはボクにも楽しいことだよ?」

「何が言いたいんだ」

 俺にそんなことを納得させるために、互いに本当には楽しんでなんていなかったゲーセンに行こうなんて言い出したのか?

あの、二人してどこかぎこちなく笑っていた、作られた刺激を与える空間に。そこではなんだって忘れられる。あの光と音で。ただ、なにも考えずにいられる空間――――――――――


「人間なんてつまらないばかりか、信用できないもの。ボクが自分勝手に思うんじゃない、人間同士だって同じことでしょ?人間同士の関係なんて、すぐに壊れてしまう、どうでもいいもの」

「小町、早く帰ろう、今日のお前は少し変だから。ゲーセンではしゃぎ過ぎたんだよ、疲れているんだ」

 そう言って小町の右手をとった瞬間

「離して!触られたくない!……ん…なんかに」

 信じられないくらいの強さと速さで、手を引きもどし、俺の手から逃れようとする。それは意識して行われたものではない、反射的にされた拒絶。

「なぁおい、どうしちゃったんだよ小町、ちょっと触ったからって怒ることは……………」

「家族だって優にはいらない存在だよ………」

 小町は斜めを向いて、俺の顔を見ないように、そう言った。でも小町がなにを思ってそんなことを言うかなんて考えず、ただその言葉に対して、今までとは違った頭の回路を使って答えていた。

「そこまで言うのか?お前が人間に対してどんな考えを持ったって俺は構わない、でも俺の周りの人たちを指して中傷するのを俺は許さないぞ」

「それって茜のことだよね?茜が優にとっての『大切な』もの?」

「どうしてそんなこと聞くんだよ!当たり前だろ!家族なんだから」

 声を張り上げていた。周りには、誰もいなかったけど、たぶん、そんなことは関係なかった。

「でも、そんな茜のことを、優はわかってあげられなかった、ううん、わかってあげようとしなかった」

「茜がああなってしまって気がついたよ、いろんなことに、本当にいろんなことに。ちゃんと真正面からぶつかっていけばわかり会えるんだってことも」

「わかりあえる?人間同士が?無理だよそんなの、頭をこねくり回して考えたって、人間は互いにわかりあえることなんかない。人間は互いに傷つけあうことしかできない種族だから。それけでなく、他の種族の命を、意味もなく奪うようなね」

「わかりあえるさ!」

 小町の目は、いつか幽霊公園で見た、怒りとも悲しみとも取れない不思議な目をしていた。その目は一転の曇りも濁りも、霞みさえなく透き通っていて、それは一般論を語るような、無機的な表情だった。

「そう、じゃあ優はどうして茜がああなってしまったと思う?」

 一瞬の間をおいて小町が試すように聞いてきた。

「それは、俺が茜にきちんと向き合ってなかったからだ」

 小町は俺の答えを鼻で笑うと、続けた。

「そんなの答えになってないよ、そんな曖昧なセリフでよく『わかりあう』なんて言ったものだね。優になんてわかんないよ。茜はねぇ、優のこと大好きなんだよ?」

「わかってる、俺に彼女ができたんだと思って嫉妬した茜に、なんだか申し訳ないと思う一方で、少し嬉しい気持ちもあった」

 それは俺の正直な気持ちだった。だから茜のことを大切にしてやりたいと思ったんだ。

 しかし小町は俺の心からの言葉さえ嘲笑った。

「やっぱりわかってないよ、優は。茜は別に優に彼女ができたことに嫉妬して、怒ったわけじゃないんだ。優が自分に隠しごとをしてたってことがつらかったんだよ。それで茜は自分には似合わない涙を流して部屋を出て行ってしまった。でも優はそれでわかってくれたと思った。いつか優の口から話してくれるんじゃないのかって、ずっと待っていた。それなのに、優は茜に何も話してあげなかった。

優は茜のほうから何も言わないから、茜が部屋を出て言って以来、もう気にしてないだなんて信じ込んだのかな?

だから嘘を隠し通して、自分の口からではなく、他の人からばれるまで、結局口を閉じたままにしたのかな?

面倒なことは遠ざけたいもんね?面倒な人間関係なんて。

別に優がボクのことを彼女として紹介していても、茜は全然怒らなかったんだよ、優が全て話してくれていれば」

「でも、茜の調子が変になってしまった時、茜は俺ではなくお前に跳びかかった」

「跳びかかれなかったんだよ、お兄ちゃんのこと、大好きなんだもん、茜は。だから、お兄ちゃんが自分に隠しごとを作ってしまう原因はボクにあるんだと思って、ボクを攻撃した。

 優は自分の立場だったらって考えたことある?妹が毎日自分に内緒で男を部屋に上げこんでて、しかも大阪っていう姓を名乗らせているんだよ?まるで自分の身内であるかのように」

「………………………」

「それでもボクは茜のことがわかっただなんて傲慢なことは言わないよ、人間は理性で論理的な説明がつけばそれでなにもかもわかった様な気でいる。人の心さえも。でもボクらは違う。人間みたいに理性なんてくだらないものには頼らないよ。そんなものなくたって、ボクらは肌をすりよせるだけで互いの気持ちを感じることができるから。人間にはそんな真似、絶対にできっこないけどね」

「……………わかった様な口を聞くんだな。たかだかここ数週間しか一緒にいなかったおまえが随分と色々なことを知っているもんだ」

 意地悪く皮肉めいた口調になっているのを感じながら、俺は言葉を止めることができなかった。

「ボクだってそんなものわかりたくない。でもこんな体だから、理性なんてものを備えているからわかっちゃうんだよ。もっとも、これは理性がどうという問題じゃない。優個人の問題」

「俺の?」

「そう、でも気にしちゃダメ。人間なんて互いにわかり合っているつもりでも、そんなのは幻想なんだから。だから捨てちゃおうよ、『そんなもの』。ボクがいるんだから、ボクはこの1年間、ずっと優の隣にいつでも寄り添っていたよ?」

「1年間そばにいた?そんな短い時間がなんだってんだ!それも猫としてだろ?俺のことが、おまえなんかに理解できるわけがない!」

 俺は恥も外聞も気にしないで、みっともないだなんて全然思わないで、ただその無責任な言葉を、目の前の少女にぶつけていた。

「できるよ、優のそばで、偽りの関係を作り続ける優を見てきたもん。家でも学校でもバイト先でも、優はつらそうだった、ボクはずっと見てきたから」

「偽りの関係ってなんだよ?―――わかった様な口を聞くんじゃねえ!お前は人間になったつもりでいるんだろうな!人間になれてうれしいか?しかしな、人間の姿になったぐらいで人間になれただなんて思うなよ。人間の気持ちなんてわかりやしねえんだ!」

「ボクは人間になんかなりたくない!人間になれてうれしいかなんて聞くな!人間の気持ちなんてわかりたくもない!」

「だったら黙ってろよ、お前なんて所詮は猫なんだろ!言いたい放題言いやがって、たかが猫にそんなことを言われる筋合いはないんだよ」

 言った瞬間、いや、言いながら、それが言ってはいけないことだと、大切なものを失わせる一言だとわかっていた。でも、あふれる感情を抑えきれなくて、なにか言い返してやりたくて、言い返すことで自分が傷つかなくて済むんじゃないかと思って、俺は目の前の少女に向かって、その言葉を吐いた――――――――――――――――


 ほんの一瞬の沈黙。でもそれは俺に過ちを気付かせるのには十分な時間だった。


「『所詮は猫』か――――――、優でもそんなことを言うんだね、意外だったよ。ボクはそんなこと言われたって全然構わないけど、優が猫をそんな風に見ているというのはよくわかった。優でさえそうなんだ、人間にとって、猫はどこまでいっても、対等な存在だとは見ることができないんだね――――――やっぱり猫と人間が真の意味で共存するのは無理ってことかな」


 それまで淡々と話していた小町は、そこで急に声に力を失った。顔を少し崩して、震える口元だけで小さく笑った。なにもかも『わかった』みたいに。顔にはあきらめの表情が浮かんでいた。失望ではない、ただもうなにもかも投げ出してしまおうという表情。小さな、弱弱しい笑みだった。

 小町の笑った顔が一瞬歪んだのをみてとったそのとき、小町は俺に背を向けて、バッグも傘も投げ出して、走って行ってしまった。

 

―――――――――――俺はそれが「大切なもの」を失う瞬間なのだと頭ではわかっていながら、走って追いかけることも、呼び止めることもせず、ただ遠ざかる小町の姿を茫然と眺めているだけだった。

 小町の最後の一言は、俺に問いかける最後の願いみたいだった。それがわかっていながら、小町がその答えを待っているのを知りながら、しかし俺は小町が遠ざかって見えなくなるのを待っていた。

 そして、誰もいなくなった路上で、

「ごめん」

 一言口にした。そうすれば誰かが許してくれると思ったみたいに。俺のことをずっと見てくれている誰かが。そんな人どこにもいないのに、自分は他の誰かを、自分自身さえもちゃんとみようと思わなかったのに。

 最後の叫びは、誰にも届かないまま、路上に響き渡ることもなく、ただ、そっと垂らした一滴の絵の具が、降り続いた雨に溶けて流されていくみたいに、静かに消えていった。







「あっ、お兄ちゃん!また小町ちゃんとどっか寄ってたの?ホント仲いいんだねぇ、嫉妬しちゃう!まったく、何度遅くなるときは連絡してって言ったらわかるのかなぁ?でもいいや、ごはんに間に合って。せっかく作るんだから、できたてを食べてほしいもんね!せっかく今日はごちそう用意したんだからさ!よし、あとはお姉ちゃんが帰ってくるのを待つだけだ!」

茜はマシンガンのように一息で俺にいいたいことを言ったが、その表情はなんだか嬉しそうだった。手にしたおたまを俺の顔に突きつけ、一方の手は腰に。茜の小さな体に掛けられたおニューのエプロンにはヒマワリが躍っていて、夏の到来を待ちわびるかのようだった。

 『嫉妬』という言葉は、口に出すことで軽い冗談になってしまっていた。

「それで小町ちゃんは?一緒じゃないの?なんでお兄ちゃんが小町ちゃんの傘とカバンをもってるの?」

 当然なにも知らない茜は、当り前の疑問を、当り前に口にした。

「さあ、なんだろうな、猫の世界に用事でもあるんじゃないか」

 俺は嘘をついた。茜に隠し事はしないって誓ったのに。頭の中は冷静に、淡々と嘘をついた。今、茜に対して嘘を付いているって意識しながら。罪悪感は全くなかった。そんな誓い、今となってはどうでもいいものとしか思われなかった。  

早くひとりになりたいという思いが先行して、俺は茜の方をろくに見もせず、黙ってニ階への階段を上り始めた。

「なんだ、小町ちゃん、なにもこんな日にあっち行っちゃわなくたっていいのにさ。でもしょうがないか、小町ちゃんにも都合があるんだもんね」

 「こんな日」という言葉が引っ掛かってふと足を止める。

「今日って誰かの誕生日だったか?」

「ううん、違うよ」

「じゃあなんでだ?」

「今日はさ、クーがうちに来てから一年なんだよ?クーのお誕生日ってわからないからさ、茜たちにとってはクーがうちに来た日がクーのお誕生日かなって思ったの。へんかな?」

 純真そうにそんなことを言う茜は子供すぎるぐらいに子供じみていた。いつも見ているそんな茜は、自分には遠すぎる、違い過ぎる存在だった。ただ言葉だけがあまりに迫ってきて、胸を刺されるようで、痛かった。

「へんじゃないよ、祝ってやれ、きっと喜ぶぞ」

「なんでお兄ちゃん人ごとみたいなのさぁ!クーはお兄ちゃんと一番仲良かったじゃない。それにクー………ううん、小町ちゃんだって、きっとお兄ちゃんのことが一番好きなんだよ…………?」

 そう言った茜の声は弱弱しかったが、言ったことは正しいと信じているみたいだった。

「そんなことねぇよ………お前の方が小町のことわかってるし、小町のこと考えてやってるよ」

「うん、茜は小町ちゃんのこと大好きだし、小町ちゃんのこと喜ばせてあげたい。

 お兄ちゃんは、小町ちゃんがいつここに来たか覚えてる?」

「日にちは覚えてない―――」

「茜は覚えてる。小町ちゃんが来たのがいつだったか」

 覚えてないんだよ、そんなことさえ、小町のことなんて、なんにも知らないし、考えもしなかったから。

「茜は本当に好きなんだな、小町のことが。小町も茜のことが大好きなはずさ」

「お兄ちゃんはどうなの?今日ってさ、小町ちゃんがきてちょうど一カ月になるんだよ?お姉ちゃんも覚えてた……………お兄ちゃんは………覚えてなかった?」

 俺は、覚えてるどころか、そんなこと考えもしなかった…………

「ごめんな、気付かなかったよ」

「茜に謝らないでよ。茜はさ、小町ちゃんを初めて来た日のことよく覚えてるよ」

 あんだけのことがあれば、普通は忘れないだろうな。


だって、お兄ちゃんに、初めて彼女ができた日だと思ったんだもん。


 茜は柄にもなくはにかんだように顔を赤らめ、俺から顔を逸らして、独り言のように呟いた。視線をいろいろに移しながら、それでもやっぱり俺のところに視線は落ち着いて、なのに話している茜の姿は自分のことのように嬉しそうだった。

「茜はね、おにいちゃんっていつもさびしそうに見えて、特に高校に入ってからは、いっつも一人でいるみたいって思ってた。

休みの日でも家で一人でいて。茜は嬉しかったよ、いつもおにいちゃんと話せたから。おにいちゃんは優しいから、茜が話しかければいつも一緒に話してくれた。でも、その顔はいつでも淋しそうで、茜と話してる時も楽しそうじゃなかった。そんなの茜はいやだった、茜はおにいちゃんに楽しくしていて欲しかった。

 だから、小町ちゃんが来てからおにいちゃんが毎日楽しそうにしてて、茜はすっごく嬉しかったんだ。お兄ちゃんは小町ちゃんのことを全然話してくれなくてさびしかったけど、彼女さんのおかげでお兄ちゃんが元気になったっていうのはわかって、なんだか嬉しくなっちゃった。小町ちゃんと一緒にいるときのお兄ちゃんって、すっごく楽しそうだよ?からかわれて、怒って、いつもどなってるけど、そうしてるときのお兄ちゃんの目、すごい輝いてるもん。『やれやれ』って言って茜に小町ちゃんのこと相談するときだって、なんか楽しそうだったもん。

わかるんだ、今こうしているおにいちゃんが、一番なんだって。最初は小町ちゃんにちょっとやきもちだったけど、お兄ちゃんには小町ちゃんが必要な人なんだってわかったから。お兄ちゃんをそんなに喜ばせられる人なんだから、絶対悪い人じゃないって思ったんだ。やっぱ恋人ってすごいんだなって思ったよ。あこがれちゃったもん。茜は小町ちゃんのこと大好きだよ。

お兄ちゃんだってそうなんでしょ? きっと…………小町ちゃんだって同じだよ…………?」

 俺には茜がどうしてそんなに嬉しそうなのかわからなかった。仮に兄に彼女ができたとしても、それが妹の喜ぶことなのか、不思議に思った。

 でも、俺は胸を針に弱く触れられたような、優しく触れられているのに、どこか胸をチクリと刺す痛みを感じた。

 茜が思っていることをこうしてうち明けてくれたことを、俺は素直に喜べなかった。茜が俺のことをこんなにもみてくれていて、こんなにも考えてくれていたんだって知って、幸せに感じた一方で、同時に自分のことを思うと、茜に申し訳なく、自分が情けなかった。

 恥ずかしがりながら、自分の気持ちを語ってくれた茜は、俺に真正面を向けていた。

 あの日、俺と小町をみて、あれだけ憤ったにもかかわらず、小町の正体を知る前から、顔もはっきりとはみていない小町をいい人なんだと信じ込んで、その日が俺に彼女ができた日なんだって信じ込んで、喜んでくれた。カレンダーにチェックでも入れてくれたのかもしれない。

 なにも伝えなかった俺と、なにも知らないでただ信じた茜、茜はいつの間にか大きくなって、俺なんかよりも、よっぽど大きく成長していたんだって実感した。それと同時に突き付けられたのは自分という人間の小ささ。

「小町は、もう帰ってこないかもしれない」

「な、なにそれ?どういうこと?」

「小町と喧嘩しちゃって、それで…………」

「理由なんか聞いてないよ!どうしてそんなことを平気で言えるのかって言ってるんだよ!どうしてもう帰ってこないなんて言うの!それって二度と会えないってことでしょ!」

「ごめん、俺のせいで…………………」

「違うって言ってるでしょっっ!!!!どうして茜に謝るのさ!お兄ちゃんがどうなのってかって、さっきから聞いてるのに。お兄ちゃんは茜にばっかり聞いて、自分がどう思ってるか全然考えようとしてない」

 茜の正論は痛いほど胸に響いた。それだけに、俺はそれから耳を遠ざけたかった。

「俺が悪いんだ、言っちゃいけないことを言ったんだ」

「またそうやって!どっちが悪いかなんて関係ないよ!このまま小町ちゃんが戻ってこなかったら、お兄ちゃん絶対に後悔するよ。茜には、小町ちゃんがお兄ちゃんにとってどんな存在なのかわからないけど、たぶん、とっても悲しいことだと思うから………」

 茜は――泣いていた。涙をポロポロとこぼしていた。それが何に対して、誰に対しての涙なのかはわからなかった。そんなことを考えてる余裕なんて、なかった。

もう走り出していたから。

 自分が階段を二段飛ばしで下りていることも知らないで、自転車に乗ったほうが速いのに、そんなこと考えられないで、玄関のドアを力任せにあけると、ただ走っていた。住宅街を全力疾走している少年をジロジロとみている視線にも気付かないで、瞼から離れないあの後ろ姿を追い求めて走っていた。

 茜が言ったことの意味を考えるまでもなく、本能で動き出していた。

 いや、本能って言葉は正しくないんだろうな。それは紛れもなく心の動きだった。本能なんて不確かな言葉を使ったのは、俺が湧き上がる感情に気付かなかったから。今じゃはっきり分かるその感情に。

 思えば小町がやってきて、世界の色が変わったみたいだった。今じゃ小町がいなかった頃、世界がどんな色をしていたのかが思い出せない。それはあまりにも印象の薄いもので、大事な、ささやかな幸せにあふれていたけれど、白が混ざった様なあやふやな色は、やっぱりこの世界を覆う金色にはかなわなくて。

 そうだった、ささやかな幸せってものの大切さを教えてくれたのも、自分にとっての大事なことを真剣に考えさせてくれたのも、この眩しい世界だった。こんなに眩しかったのに、俺は本当に馬鹿だから、大切すぎるものがそばにいることが当たり前だなんて思って。本当に失ってしまってからでは遅いのに、それに気がつかないだなんて。

『本当に大切なものが何かなんて、気がつかなくて』

       馬鹿だ

   …………………………

 違う、馬鹿なんじゃない、気がつかなかったんじゃない、俺は逃げてたんだ。気付くのを避けていた。

 人の心に深く入り込んでいくのを、自分の心に人を深く入り込ませるのを。自分のそういうところさえ、自分で気づいていて、それでも気がつかないふりをしていたんだ。

 いつだって近くの人と距離を置くようにして、遠ざけて、だから生まれる関係は小町が言うような薄っぺらい関係。小町は気がついていた。遠ざけているのは俺自身だったんだって。

 自分は人とのなれ合いなんか望んじゃいない、真に固い絆で結ばれた人間関係しか信じないって。いや、本当はそれだって信じていなかったんだ、でも、それに頼りたい自分がいたから、そんなもののあることを信じて、あこがれた。

 けど、憧れただけだった。言葉の上では――――言葉になどしなくたって自分の心に嘘をついて、自分を信じさせた気持ちの上で――――は厚い人間関係を求めていた。薄っぺらなものを下らないと思っていた。けど、実際は傷つくことを恐れるばかりで、深い人間関係を築こうとしなかった。逆にそれよりももっと大きな壁を自分一人閉じ込めて、高く積み上げていた。

互いに心から理解し合うには、楽しい経験からだけじゃ到達できないのに、それを恐れて、自分から壁を作って遠ざけていた。誰も入り込めないように。

なれ合いの関係しか生まれないわけだ、心を開いていなかったのは俺自身だったんだから。自分の弱みを人に明かそうとしないで、人が抱える負の部分に目を向けようとしないで。

俺が作ろうとしていた人との関係は、薄っぺらにも満たない、面という形状さえしていない、点と点が結ぶ、細い糸のようなものだったんだ。

そして、自分から遠ざけた人間関係を補うように、クサンティッペをかわいがった。

結局、そういうことだったんだ。それが俺が猫を溺愛する理由だったんだ………

俺は正真の臆病者だ。どんなことからも逃げる。どんなものとも闘ったことがない。だから、苦しさも、悲しさも、痛さも、つらさも、なにも感じたことがなかった。

それは……………………死んでいるのと変わらない。

闘ったことがないから、ひどい目にあったことがないから、ため込んだつらさを、一気に背負おうとしている。

突き放すような態度をとっているのに、本当はそばにいて欲しかった。

邪魔だ邪魔だと思っていると、いつの間にか大切な存在になっていて、それに気がつかないまま、別れることになってしまう。

俺は自分の臆病さで、いま「大切な人」を失いかけている。

ははは、大切な『人』なんて言ったらまた怒られちゃうかな?

走ることと自分を笑うこと、それ以外に、俺にはなにもできることなんてなかった。



距離にしてどれくらいあったのだろう、家から、俺に背を向けて小町が走って行ってしまった場所まで。距離なんかどうでもよかったが、いくら体に鞭打ったとはいえ、自分がこんなに走れるとは思わなかった。体育の時のグラウンド三周でさえ、フルマラソンのように感じてしまうのだから。もちろんフルマラソンなんて走ったことはないのだが。

しかし、何より驚きは、体がこれだけの悲鳴を上げているというのに、頭は冷静だということだった。なにも考えずに家を飛び出してきたって言うのに、走りながらいろいろなことを考えているうちに頭の整理がついて、今じゃ自分でも信じられないくらいの落ち着きようだ。たぶん、自分は何をすべきかがわかったからなんだと思う。見つけてしまえばなんてこともない。

小町が俺に背を向けて走って行ってしまった場所。いるはずがないのはわかっていたが、やはりそこに小町の姿はなかった。

それを確認しても、やはり落ち着いている。

これから向かう先にあるのは永遠の別れかもしれないというのに。

「そうだ、なんか買ってってやろう、腹をすかしているかもしれない」


 

ゲーセンがあるのは繁華街の中でも目立たない裏通りで、そこに向かおうと思わなければ見つけることさえできないような場所にあった。特にこの時間になってあたりが暗くなると、ゲーセンのネオンサインは良く目立つのだが、いかんせんそもそも暗い通りに入る人がいなくなってしまう。そんな中をちかちかと光るライトは不気味なだけとも思える。

 小町が走って行ったのはゲーセンのさらに奥だ。あの時間だったから気にも留めなかったけれど、奥へ行けば暗闇はさらに深くなっている。どれだけ暗くったって町の中だ。心配はないと思うのだが、暗闇はそれだけで人の心を惑わせる。

しかしそれにしても、これだけ暗くても街灯がしっかり整備されてないあたり、もはや誰もここを通る人がいないからって見放されているんだろうな。

 たまにある小さな怪しい店の明かりがなければ何も見えないほどだ。

 歩いた距離はたいしてなかったんだろうが、暗くて細い、先のよく見えない道をおっかなびっくり歩いていると、だいぶ長く感じられた。

 下ばかり向いて歩いていたせいか、道の右手にコンビニがあるのに気がつかなかった。

 それはどこにでもある普通のコンビニ。ただある場所が不自然なだけで。こんなところにあるが、外から見る限りでは意外と中は広そうだ。こんなところに店を構えて、しかも無駄に広いスペースなどとって、採算がとれるのか?企業側の明らかなミスとしか思えない。だいたい俺はこの町に住んで十六年になるが、こんなところにコンビニがあるなんて知らなかった。

 だが小町に何か買ってやるにはちょうどいい。

 そう思って自動ドアの前に立ったところで目に入ったのはバイト募集の案内。

 まったく、誰が好き好んでこんなところでバイトするかってんだ。

確かに人はあんまり来ないで、随分と楽なバイトではあろうが、やりがいはなさそうだ。それに時給だって駅近くに集まってるコンビニの平均以下じゃないか。

これじゃあ人は集まらないだろう。こんなところでバイトするのはよっぽどの物好きか、騙されているか、馬鹿なんだろう。

しかしまあ今は折よくコンビニのあったことに感謝しておこう。それに明るい店内はいい一休みになる。あんな道を歩いていては気がめいってきてしまうから。

そう思って店内に入ると、意外や意外、客はたくさんいた。レジの前には列ができていて、店の繁盛ぶりを表していた。俺はねぎトロのおにぎりを一つ持ってレジに並ぶ。あとはホットメニューのたい焼きの一つでも買ってやればいいだろう。家では茜が小町の好物を作って待っているんだろうし。好物といっても、小町の奴なら焼き魚さえ与えておけば、なんだってうまそうに食べるんだが。

そうこうしているうちに列は減ってきて、俺の番がやってくる。

「いらっしゃいませ」

 ん?どこかで聞いたことのある声だ。だが聞き違いだろう、よくあることさ。

「あ、あとたい焼きをひとつ」

「かしこまりました」

 やっぱりどこかで、そう思って顔をあげてみると、

「ニ点でお会計二百二十五円になります」

 ニコッと営業用スマイル、首を少し傾ける仕草はお手の物。


 大阪乙姫がそこに立っていた。

 

 何事もないみたいに、平然と一人の客に対応した。

 俺は驚いたが「なにをしている」とも聞けまい。紛れもなくバイトをしているのだから。それに後ろには客が詰まっているみたいだし。

 思い出した。確かに姉貴はコンビニでバイトをしていたんだってことを。

 姉貴は素早い手つきでたい焼きをひとつ袋に詰めると、

「袋はご一緒でよろしいですか?」

 とスマイルで尋ねる。見慣れた笑顔とは少し違って不思議な感じだ――――――

「あ、はい」

 どうも調子が狂う。なにも無理して新しいスマイルなんか会得しなくたって、いつもので十分なのに。

 しかしこんな場所にあるコンビニになぜこんなに客がいるのかは明らかになったわけだ。

 弟が言うのもどうかと思うが、多分姉貴目当てだ。

まったく、姉貴はコンビニのバイト一つさせても何かが違うな。

「二百二十五円ちょうどお預かりします。ありがとうございました」

 そつなくこなす姉貴をさすがだなと思いながら店を出ようとするが、

「頑張って」

 そう聞こえて振り返ったのだが、そこにいたのは次の客に対応する姉貴の姿だった。

 

バレバレか……ねぎトロとたい焼きだもんな。あいつの好物そのまんまだ。姉貴は今日茜が家で御馳走作ってるのを知ってんだろうし、あるいは小町が走って行くのをみたかもしれない。

店を出る時、店長風の男と目があった。その目は俺を姉貴目当ての客の一人だと思ってるみたいで、相当に不快を感じて、激しく否定してやりたかったが、この店長がまた一人姉貴のおかげで客が来てくれると思いこんだんならそれはそれでいいか。

しかし、この店にこれだけの貢献をしているんだから、賃上げの交渉ぐらいしているんだろうな、姉貴は。

俺を見て微笑みかける食えないオヤジの顔を見ると、ついついそんなことを思ってしまう。



「へえ、こんなところに繋がっていたのか」

 意外というかやっぱりというか……………………

怪しく暗い細道をやっと抜けたかと思うと、出てきた通りは少し広くなったがまだ暗い道で、繁華街からはもうずいぶん離れてしまったように感じた。暗くなっているから見たことのない道のように感じてしまうだけかもしれないが、この道も俺にとっては初めてのようだった。

子供のころ、他の子供と違って自分の町を探索することに冒険を感じたりしなかったから、子供のよくやる探検ごっこなんてしなかった。どうして自分はそういったことにロマンを感じなかったのだろう。どうしてかはわからないが、そのせいか自分の町の地理にも詳しくなかったのは事実だ。夜に出歩くなんてよけいにとんでもない話だった。

横道に入らずにずっとまっすぐ道なりに進んでたどり着いたのは幽霊公園の裏口だった。表だっていつでも薄暗くて、表も裏もあったもんじゃないんだが、一応そう書いてあるのでそう呼んでおいてやろう。

しかし夜の幽霊公園とは、シャレにならない。罰当たりなことをいうかも知れないが何週間か前に猫が一匹死んでいるわけだし。あれ以来行っていないからわからないが、小町が作ってやった墓もあるのだろう。

 そう考えている俺の頭ではなぜかこの薄気味悪い公園の中に入ることが前提となっている。どういった脳の働きだ?怖いもの見たさってやつか、恐くて夜眠れなくなるんじゃないかって思いながらホラー映画を見ちゃう、あれ。まったく脳にもいらん機能が付いたものだ。わざわざ晒すことでもないが、俺は怖がりなんだから。こんなところ、昼だって来たかない。

 そうぼやきつつ幽霊公園に入って行く俺は度胸があるんだかないんだか。

そんなものは、もちろんない。今だってほら、風でカサカサと木が音をたてるだけですこぶる怖いんだから。思い出したくもないものが勝手に脳に浮かび上がる。ずっと忘れていた子供の頃のトラウマやら何やらがふっと浮かぶ。そんなもの思い出さなくていいのに、主人の意向なんて全く無視して心霊写真のスライドショーを脳がおっぱじめる。

要するに、自滅型の恐がりという厄介極まりない体質なのである。

 なんだか風は冷たくて、空は闇に包まれて雲の様子はわからないが、もしかしたらまた雨が降ってくるのかもしれない。そうしたら大変だ、水分を含んだたい焼きなんてたぶん人が食べたって猫が食べたっておいしくないだろうからな。

ガサガサ ガサガサ

中央の大木が風に揺られる音は、周りが静かなだけにかなり大きく聞こえる。もう出よう、こんなところ、俺の脳みそはなにを思って主人をこんな所へ連れてきたんだろうな。まったく、嫌な思いをしただけだ。

 なるべく明るい道に出たくて表口から出ようと思って歩きだした瞬間

ガサガサ ガサガサ

 さっきと同じような、木の葉が揺れ動くような音がした。しかしそれは目線の上からではなく、もっと下の、公園を囲むようにして植えられた低い木の茂る中から聞こえてきた。それは何かが動く気配。あまり大きくない何かが、そこで確実に動いている。しかしそれはどうやら幽霊ではなさそうだ。それは小さいながらも疑いなく実態があった。

 ガサガサ ガサガサ

俺が茂みの方へ近づくとまた同じ音が鳴り、それは姿を現した。

 あの時の猫、ふとそんな考えが頭に浮かんだ。そうだとしたら本当に幽霊だ。でも、不思議なことに、怖さは全くなかった。それによく見てみると柄は似ていたが、大きさは随分と違っていた。あの猫のまだまだ半分ぐらいの大きさだった。

 にゃうん

 あまりにも力ない声は、たぶん人気のない静寂の公園でさえ、隅々までは届いていないだろう。風の音にもかき消されてしまいそうなほど小さな、蚊の鳴くような声。

 助けを求めて泣いているのか、俺を恐れて泣いているのか。それがどっちなのかはわからなかったが、この子猫の抱く不安の感情はひしひしと伝わってきた。それと同時に、この子猫があの猫の子供なんだということもわかった。

「なにしてるんだ、お前は、こんなところで」

 にゃうん

「世の中には悪い奴がいっぱいいるから」

 ――――――――――本当に、心のない人間がいっぱいいる。平気で動物を傷つけるような、悪い奴がいっぱい――――――

 でも、同じなんだよな、俺だって。俺は小町を傷つけた。小町は、猫は決して泣かないって言った。鳴くだけだって。人間には決してわからない、猫の叫びだって。その言葉通り、小町は涙を流さなかった。悲しみの涙、怒りの涙、そのどちらも、俺は見たことがない。

でもそれは、悲しみとは全く関係のないこと。涙なんてそう、形だけだから。俺には去り際の小町の顔も、今目の前で必死に鳴いている子猫の姿も、同じように弱弱しく見えた。

 俺は小町を傷つけた、軽はずみな言葉で。それはついつい出てしまった言葉、でも、取り返しのつかない言葉。たぶん、心の片隅でそう思っている部分があったから、あんなことを言ってしまったんだ。

 俺は、猫を一身に愛していたわけではない。ただ、孤独を和らげたくて、認めたくなくて、自分は人より猫が好きだなんて思いこませて、クサンティッペと一緒にいることで、孤独に言い訳をしていた。それは、小町が最も嫌う、猫と人間の在り方。

 猫が好きだなんて言って、本音はあれだったんだ。小町に対して吐き捨てたあの言葉。

 でも、それを認めるのは、つらいことだった。だって、それを認めてしまったら、この子猫の母を殺した誰かと同じだから。俺はあんな非道な行いをしない。でも、元にあるのはその誰かも、俺も同じものではないか。猫と人間の位置づけを無意識にきっちり行っている。それ自体が、具体的行動に移さなくたって、猫全体を傷つけることになっている。

 いつも明るい、あるいは明るく振る舞っていると言ったほうが正しいのかもしれない、小町。

それに今目の前で今にも倒れそうな声で、何かを求めて必死に鳴いている子猫。両者は全然違うんだろうか?

 小町と初めて会ったあの日、あの綺麗な、しかしどこか切ない夕日に照らされて話す小町の言葉が身にしみてわかった。

猫の社会に歪みをもたらしたのは人間。人間は、世界を、壊し過ぎた。

 みんな、命は平等だっていう。聞きなれた言葉。人はその言葉を絶対原則として暮らしている。

「『人』の命は平等」

傲慢な話だ。人の命は平等だなんて。もちろん、どこを強調するかの問題で、言葉のあやなのかもしれないけど、でも俺は、その言葉に揚げ足をとってやりたくなる。

生物の命は平等だ。きれいごとじゃなく、今はっきりわかる。命、それはなにかのはずみで簡単に失われてしまう、尊いもの。そう考えたら、人間も動物もない、命は、平等だ。

自分の種を大事にするのは当然だと思う、でも、だからって人間さえよければいいってことにはならない、それを今、改めて実感する。猫と人間を区別するのは小町だって同じだ。なにも人がほかの生物を動物と区別して呼ぶのはおかしくないと思う。でも、地球における人間の存在なんて、それにとどまる。それ以上には、決してならない――――――

あれだけ人間を嫌う小町は、人と猫との越え難い境界を引いて、それでいて自分はあんなにもあいまいな姿で、いったいどんな気持ちで人間の姿をしたこの一カ月を過ごしてきたのだろう?

憎い気持ちを押し殺していたのかな、俺にはそんな風を全く見せないで―――――弱さなんか全く見せないで、見せてくれないで―――――――俺が見ようとしないで。

いったい小町は、俺のことをどんなふうに見ていたのか?どう思っていたのか?

そんなことを、初めて考える。

俺に見せてくれた表情は、全て偽りだったのか?

そんなことはないってわかる。小町が見せてくれた、喜びや怒りや悲しみや楽しさ、それはすべてそのときの実際の感情で、わざわざそんな風に振る舞って自分を隠してなんかいなかったと思う。

でも、どんな感情を俺に抱いてくれたって、小町の根底にあるのは人間嫌い。そう思うと、小町が俺にくれたものが、全部嘘になってしまう気がして悲しかった。それにそれは、俺だけでなく、小町にとっても悲しいことのような気がした。

にゃうん

なんだ、まだいたのかお前………………………ここを離れたくないんだろうな、こんな気味の悪い場所でも、母親がここにいるってことがわかっているから。どんなにさびしくたって、ここを離れようとしないんだ。

にゃうん

「なんだ、なんかねだってるのか、おまえ」

 俺の右手にぶら下がるのはコンビニの袋。触れるたい焼きもほとんど熱を失っていた。

 たい焼きの冷たさが手に触れたとたん、小町がものすごく遠くの存在に感じられた。もう永遠に会えないのではないかという不安が駆け巡った。もう会えないかもしれないなんてこと、小町が去って行った時からわかっていたことなのに、今更になって実感し始めた。

「はは、やっぱり馬鹿だったんだな、俺って、愛想を尽かされるわけだ。もともと飼い主とペットっていう関係だけだったんだ。たぶん小町は、猫の姿だって人間の姿だって、どちらでも一人で生きていける。小町は、強いから」

 つい自分のことを笑ってしまう、そんなことしたってどうにもならないのに、小町は返ってこないのに、情けなくこんなところに突っ立っている自分を責めてやりたくて、つい笑ってしまった。

「そうか、これももう必要ないかもしれないな。お前にやるよ」

 そんな独り言を言って袋からコンビニで買った二つの品をとりだす。

「たい焼きは食わねえよな、あいつじゃあるまいし。それにしても、あいつ最後までたい焼きが本物の魚だって信じていたみたいだったからな、笑っちまうな」

 そう言いながらおにぎりの袋を開けて、どうしてあげるのかがいいのかはわからないが、海苔をはがしてやる。

「いいのかな、猫に米あげちゃって。具も猫にとっては塩分高そうだよな。まあいいか」

 うまそうに食ってやがるもんな、こんなもんでも、おいしそうに食ってるんだから、随分腹が減ってたんだろうな、かわいそうに。

 これで罪滅ぼしぐらいにはなるのかな?そう考えている自分が嫌で嫌でたまらない…………


「まあ良くない、人間の食べ物なんて猫の体には合わないよ」

 突然背後から声が聞こえた。諭すような声ではあるが、それは無色透明な音。

「そういうもんか、やっぱり。それにしちゃ人間の食いもんをよく食う猫もいたもんだ」

 俺は妙に落ち着いた声で答えていた。たぶん安心感を感じていたんだ。

「うん、あげちゃだめだよ」

 あてこすりはさらっと無視された。それはやはり、この一ヶ月間、ずっとそばで聞いていた声だった。俺はまだ後ろを振り返らない。後ろに確かにその存在を感じていたから、それだけで十分だった。時間にして1時間もなかったかもしれない、そんな短い時間だったのに、すごく久しぶりだった。失った1時間と、取り戻したこの時間を確かめるみたいに、後ろを向かず、その声だけを感じていた。振り返るのは、少し惜しかった。

「米がいけないのか?」

 口から出たのは、他愛もない、重さのない質問。

「ネギ、ネギがいけないんだよ。基本的に、人の食べ物は猫にあげちゃダメ」

 問いが発せられそれに答える、ごく普通のやりとり。でも、互いにどこかぎこちなさがある。

「じゃあこのたい焼きも猫にはいらんものだな、食っちまおう」

「大丈夫だよ、ボクは人間の体だもん」

 そのとぼけた返答は毎日帰り道で聞いていた声。何度となく交わされた他愛のないやりとり。

「だれがお前のために買ったなんて言った」

「違うの?」

「俺はたい焼きが好きなんだ」

「ボクの方が好きだよ。優がたい焼き好きだなんて聞いたことない」

「言わなかっただけで、俺の方がたい焼きは好きだ」

「ボクの方が好きだよ」

「俺」 「ボク」 「俺」 「ボク」

   …………………………

   …………………………

   …………………………

「やるよこんなもん、ばかばかしい、付き合ってられるか」

「わーい」

 水掛け論とも言えないただの意地の張り会いを制し、俺が袋ごと投げたたい焼きを両手で丁寧にキャッチすると、中身を取り出して大事そうに食べ始めた。まるで一粒の飴玉を母親に握らされて満足する子供のようだった。

「もう冷めちゃって、ふにゃふにゃしてるし、おいしくないだろ?皮なんかべちゃべちゃで」

 両手で持って、食べるのがもったいないみたいにし、大事そうに食べている。その顔は、暗がりの中でもはっきりと笑顔だとわかった。

「おいしい、すごく」

 そう言う小町の顔は、見慣れた橙の笑みだ。

「食い意地の張った奴だ、そんなに好きか、たい焼き」

「うん、好きだよ。それにさ、これは……………優がさ………ボクのために買ってきてくれたものだから…………やっぱりボクが食べなくちゃ」

 そう言って、小町は今までたい焼きに向けていた目線を俺へと向ける。少しだけ躊躇したような目で、でも、それもすぐに失われて。

 その目は去り際の時とは違った、なんの迷いもないといった目だった。

「まさかまた会うとはな」

「そのつもりじゃなかったの?」

「後味悪いからな」

「素直じゃないなぁ」

 眉を八の字にしてそういう小町は、あきれたといった風に腕を体の前に組んで溜息をついて見せる。口にはたい焼きをくわえて。頭からガブリとされたそれは、しっぽだけ小町の口から見えていて、なんとも生々しい。

「それにしたってこんなところで会わなくったっていいだろうに」

 そうしている小町に見られているのがなんとなく恥ずかしくなって、ついつい誤魔化しの言葉が口をつく。

「はは、確かに、感動の再会にしては少し背中がゾクっとする場所だね」

 そういって小町は苦笑いを浮かべる。それにつられて俺も苦笑い。二人して笑って、そのあとに来たのは静寂。俺も小町もそれを感じていたんだと思う。

丁寧に、意識して静けさを感じようとしていた。ふと空を見上げ、公園を見渡すと、街灯が増えたわけでもないのに、かすかにさっきよりも明るいように感じた。目を凝らしたって遠くの方なんか見えやしないのだけれど、暗闇の中にも道が見えるような、光がそこにあるのを隠せない、そんな闇だった。


「優はどうしてここへ来たの?」

 正直に言うのも味気なく、小町が俺のどんな答えに期待しているのかわからず、仮にわかったところで素直に答えたくないと思って

「お前はどうなんだ?」

 男としてはあまりにも情けない「聞き返し」で小町の問いから逃げる。

「ボクは、ここにいれば優が迎えに来てくれると思ったから」

 そういうセリフが自分の口からぱっと出てこないのが恨めしい限りだ。

「嬉しいこと言ってくれるな。可愛いとこもあるじゃないか」

 気のきいたセリフなんか思いつかなくて、小町の言葉に合わせるようにそれとなく気取ってみる。小町相手になにを気をもむようなことがあるんだか。

「そういうのは口に出しちゃあ駄目だよ。さりげなく雰囲気でさ」

「生憎と俺はそんな気を放出させることができるほど器用じゃないんでね」

「はは、そうだね、それで、優はどうしてここへ来たの?」

 顔にはかすかに期待の色を浮かべ(ているように、俺には見えた……………)、落ち着きなくつま先で地面に何か描いている。

「君に会えると思ったからさ」

「本当は?」

「たまたまだよ、感動のかけらもないだろ?」

 本当に、こんなんだからモテないんだと実感するにはあまりある愚鈍さだ。だが小町はそんな答えを期待していたみたい、あきれながらも微笑みに表情を崩して

「そっちの方が十倍嬉しいよ。頭を使って、ここじゃないかって思って見つけてもらうよりも、無意識の力で探してもらう方が感動的。ボクらはいつもその方法で大切な相手と巡り会うから」

 『大切な相手』 それは少しくすぐったかったけど、小町があまりにも自然にその言葉を使っていて、あけっぴろげた純粋な気持ちが伝わってきた。

「ただの偶然に心動かす何かがあるとは思えんが」

「ただの偶然にしたって、優をここへといざなう何かがあったはずなんだ。それはもしかしたらボクじゃなくてこの子だったのかもしれないけどね」

 小町はさびしそうに笑った。でも、ここでそれをとやかく言ったってしょうがないから

「世の中には偶然なんかない、あるのは必然だけだ、っていうあれか」

 俺は使い古された言葉で小町に議論を吹っ掛けてみた。しかしその答えは

「そうなのかもしれないね……………でも、ボクはそれを信じたくない。だって、それを信じたら、この世の嫌なことも理不尽なことも、みんな受け入れなくちゃいけなくなるから………」

 沈黙が続いた。この沈黙は気まずかった。それと同時に、また小町と言い争いになってしまうのではないかという思いで、恐さもあった。

むしろそっちの方が強かったのかもしれない。

 先に口を開いたのは小町だった。小町も俺と同じ気持ちで、気を遣って話しかけてくれたんだと思う。

「あの子の声、優には聞こえた?」

「ニャーって言ってたよ」

「うん、聞こえなくても当然だよ、優は人間だもん」

 小町の『人間』という言葉には、このときばかりはとげがなかった。

「でもよかったよ、優は優だったから。やっぱり優しい」

「褒められてんだか、ギャグを言われているんだかわからんな」

 俺はちょっと気恥ずかしくて、話を逸らそうとしたが、小町はそんな戯言を無視して続けた。

「普通さ、偶然見つけた猫が自分の方を向いて鳴いても、無視するか、せいぜい可愛いっていって頭を撫でてやるぐらいだよ。でも優はその子猫にもっていた食べ物をあげた。それは、小さいようで、すごく大きな違い」

 小町は自分の言葉を大切に、丁寧に俺に伝えようとしているようだった。

「まあなんだ、因縁みたいなものがあったからな、こいつとは」

「そんなもの、猫の気持ちがわかることとは無関係だよ」

「待て待て、俺には猫の気持ちなんてわからんぞ、鳴いてたのだって、どんな気持ちで鳴いていたのかわからなかった」

「ううん、違うよ。普通の人は猫の鳴き声に何らかの意味を汲み取ろうとさえ思わないもん。それに、優は猫の気持ちがわからないなんていうけど、優がおなかをすかせたこの子に食べ物をあげたのは事実だよ」

「だが、猫の言葉を理解しておにぎりをやったわけじゃない」

「猫は言葉なんて話さないよ。だから、いくら優だって猫が伝えようとしていることを、人間のもつ言語としてとらえることはできない。互いに相手の伝達媒体に関する知識をもたないんだから。でも、人間が動物の気持ちを分かるって、そんなに単純なものじゃない。それは、誰でもできるようで、ほとんどの人ができない方法」

「なんだなんだ、やけに難しい話をするじゃないか」

 小町が真剣だっていうことはよくわかっていた。ずっと俺の目を見て話していたから。俺が目を逸らしてもずっと。ただ、小町の真剣さになんだかバツが悪くなって、ちょっとおちゃらけて答えてやりたくなった。でも小町は相変わらず真剣で、

「難しくないよ、全然。簡単なこと――――――優しさだよ」

 俺には大きすぎる言葉をなんの気迷いもなくかけてくる。なんだか少し照れてしまうが、小町が俺にそんな反応を求めていないなんてことはわかっている。

「なんだ、結局ダジャレじゃねえか」

「そんなんじゃないよ。ただ、あえて言うなら…………」

「言うなら?」

「優っていう名前は、優にピッタリだよ」

 そんな言葉を、臆面もなく、俺の目を見て堂々と言ってのける。

「そんなこと、誰かに言われたのは初めてだ」

「人間は、優の優しさに気がつかない。愚かだから」

「俺のことをそう言ってくれるのはありがたいが、あんまり人間をいじめないでやってくれ」

    …………………………

 小町は黙った。その気持ちは俺だって一緒だった。この話で、1時間ほど前、随分昔のことのように感じてしまうが、俺たちは喧嘩した。互いにあんなこと繰り返したくなかった。互いにこの話題に触れないで、さっさとくだらない、当たり障りのない世間話をしながら家へ帰って、姉貴や茜と一緒にうまい飯を食えば、どんなにか楽だろう。どんなにか幸せだろう。

 でもそれは許されない気がした。俺が、自分自身に許したくなかった。それは小町から、そしてなにより自分自身から逃げることだったから。

 それは大切なものを失うことになってしまうから。

「ボクは人間が嫌い。でも、優のことは嫌いじゃない」

 俺はそんなことを確かめたいんじゃない…………

「ああ、まあなんというかな、その…………小町が俺のことをそう思ってくれるのは嬉しい。でも、人間のこと、もう少し理解しようとしてくれたっていいんじゃないか?」

 小町みたいに相手の目をじっと見つめて話すなんてこと、俺には出来なくて、どうしてもしまりがないひびきになってしまう。

「ボクは理解しているつもりだよ。人間は汚くて醜い、互いを意味もなく傷つけあう、他の種に残酷な、卑劣漢。優に面と向かって言うのも変だけど、ボクは人間が嫌いだよ」

「俺は猫のこと、好きだ。人間も好きだが、猫も好きだ」

「優は特別だよ」

 それは温かみのない、氷柱のような鋭さと冷たさ。まるで俺が責められているかのような。

「そんなことはない、人間っていったって、いろんな奴がいる。俺なんかより、本気で動物を愛してくれる人間だって、たぶんいっぱいいるよ。動物になつかれるってだけで飼育の仕事まかされてばっかだったから、自分が動物に好かれやすいの、嫌だって思ったことだってあったんだ。俺は無条件に人間を愛せないし、同じように動物のことを無条件で愛せない。でも、それでいいと思う。それが、ありのままの姿だと思うから。小町がイメージするような悪い人間がいることは事実だ。そういう人間のこと、小町が嫌いなように、俺も嫌う。でも、だからって人間全部がそうだなんて決して考えない。一緒にいたいって思える人もいる。お前だってホントはわかっているんじゃないか?クラスのみんな、悪い奴ばかりじゃないってこと。それに茜や姉貴のことも」

「……………………………それは……猫の方が……人間に歩み寄れってこと?」

「別に人間を代表して言うんじゃない。俺が、お前に向かって言うんだ。そのほうが、きっと楽しいと思うから」

「それは、猫と人間の共存に繋がるかな?」

「ああ、きっと。人間も猫も、互いに歩み寄わなければ、互いに理解することなんて絶対できないと思う」

 いつの間にか風はやんでいて、二人の沈黙は、そのまま空間の沈黙だった。深い闇に無音の公園、それは、相手の心を探る、第六感を開くための舞台を用意したみたいだった。

「優の言葉が正しいよ、わかっていたんだけどね、そんなこと。やっぱりボクらには優が必要だよ。猫の気持ちをわかってくれる優が」

「だから、わからんて」

「じゃ、じゃあさ………………試しにさ……今ボクが思っていること………当ててみて?」

俺はその場で卒倒しそうになった。その時の小町があまりにも可愛くて。いや、可愛いなんて言葉じゃ足りな過ぎる。間違いなく、小町の名前のモデルとなった「なんとかこまちさん」なんかとは比べ物にならないくらいの清艶さだ。

いつの間にか近づいていた小町はもじもじと照れた感じで顔を赤らめ、上目遣いにこちらを覗き込む。あたり一辺、暗闇に包まれていたのに、小町の目は文字通り「クリソベル・キャッツアイ」の宝石のように輝いていた。俺の中も外も何もかもが全部その目にがっちりと捉えられている気がした。宝石言葉は「心変わり・美・恋愛」さらには「ロマンティックなシグナル」

その言葉はあまりにもハマりすぎていた。その目の色は、たぶん小町が夜にしか見せない、特別な色だったんだと思う。

「心変わり」

自分のことを「ボク」なんて呼んで、おしゃれなんかにもほとんど気を遣わない小町は、美少女であることばかりか、少女であることさえ忘れさせる。それがいま、自分の体重さえ支えきれないように、フラフラとこちらに近づいてくる。闇の中にあって光るのは唇。少し開いて、桃色吐息が漏れる。

「美」

あまりにも近くにいたから、小町をそんな風に見たことがなかったけれど、今小町を目の前にした俺は、息がつまりそう。どこぞの大帝国の皇帝だって、こんなのに迫られたら平気で自分の国なんて滅ぼしてしまいかねない。間違いなく歴史上の「なんとかクサンティッペさん」なんかよりも凄艶な悪女になれたことだろう。

「恋愛」

れんあい!

もう頭の中は真っ白で、小町の顔を見れば見るほど、小町と視線が合うほど、冷静さなんてものはどこかへ吹っ飛び、頭では何にも考えられなくなってしまう。目はうるうるとして、さっきの子猫なんかよりもよっぽど助けてやりたくなるようだ。白い足に白い足。スカートのすそが、いつもよりも上にあるように感じるのは目の錯覚か………………

しかし黙ってばかりもいられない。こうしている間にも端麗さの中にどこか憂愁をたたえたような小町が、じりじりと迫ってくるのだから。

白くて細い指が、肩にかかる。その指の一つが首筋に当たる。ガラス細工のような透明さをもった指なのに、触れる指はほんのりと温かい。小町はじりじりと寄ってきて―――

「ま、待ってくれ、こ、小町、その、む、胸が、あたりそうで!」

 倒れかかってくるように、肩から近づいてくる。目の前には小町の健康すぎる二つの真っ白なプリン。

「ねぇ、早く答えて?優が思ったように言えばいいんだよ?きっと、それが正解だから」

 この世のものとは思えない美貌に加え、艶麗な美しさをも携えて、小町はもう、俺の知っている小町じゃない!

 さあさあなんと答えたもんか。

こんな薫り立つような女性美をたたえた小町は初めてだ。なんか心臓がバックンバックンと音を立てているのが自分で聞こえるぞ。背中はびっしょり。いったい今の俺はどんな面を下げているんだろうな、飼い猫を前に体中の血液やら神経やらをフル稼働させて!

小町がさらに顔を近づけてきて、俺との距離が目と鼻の先になる。クサンティッペとさえ突破したことのない距離に、小町の顔が急接近。小さな口からこぼれる息は俺の首筋に熱をもたらす。もう猫耳やしっぽなんて見えない距離、目の前にあるのはただただ子猫と見紛うはかなげな少女。

「お願い………ボクを………たすけて」

 もうどういうことかワカラナイ。こっちが助けてほしい!自らの意思で思考回路を停止させることができたらまあなんと簡単でしょう?随分前から思考回路なんてもんは働くなっているような気もするんだが!

 小町の足が、俺を何とか気力で支えている二本の足に絡みつこうとする。

 もうムリ!!!!!!!

「あー、た、たたた例えば!お、俺に………だ、抱きしめて、ほほほ、欲しいとか?」

 すまん、今の俺に言えるのはこれだけなんだ!意気地無しの俺を許してくれ!

     …………………

     …………………

     …………………

「へ?なに言ってんの優?」

「へ?」

 聞きなおしてるよ、おれ。

「ボクおなかすいちゃったって思ったんだけど、早く家に帰ろうよ?」

 へ?はらがへった?

いや、腹減ったのはいいんだが、さっきの答えは………………………?

「優が来たとたん、助かった~と思ったよ。このまま死んじゃうのかと思った!腹がへっては狩りもできぬってね」

 いや、たい焼き…………………………

「そうか………今のおまえの気持ちってのは………腹が減ったっていう…………そういうことなんだな」

 なんだかわからないが、こめかみのあたりがピキピキと音を立てているのが音で感じられる。もちろん俺の頭にある奴だ。両方とも血がたまってるのが触らずとも感じられる。

 本能が、こいつに怒っていいぞといっているのが分かる。

「あのなぁ、お前ってやつは!」

 俺は蛇の形相で小町にどなりつける。

「わぁっ、なんで怒ってんのさぁ、優」

 しっぽの毛は逆立ち、少し太くなって垂直にピンと張る。怒りのボルテージが上がったせいか、小町の驚きさえわざとらしく見える。

「ということは、お前にはなぜ俺が怒っているのかがわからないと―――」

「うん、わかんないや」

 小町の表情はまだ言葉を知らない赤ん坊が母親の話しかける言葉を聞いているような無垢さであった。

「じゃああれがわざとではないと――――――?お前、前に言ってたな、同じことをするんでも、頭で考えてすることよりも、無意識ですることの方が、より真実に近いって」

「そうだよ、ボクはそっちの方が真実だと思う。優がここまで来てくれたのは、優がここに来ようと思ってきたんじゃない。ただ無意識のうちに来ていた。そのほうが、ボクは嬉しいから」

「ということは、それがからかいだったり、悪い冗談の場合、わざとやるより、無意識にやっていたほうが、罪状は重いってことだな?」

「うーん、そうなのかな?まあより真実に近いってことだからね。でも無意識に人のことをからかうだなんて、よっぽど常日頃からその人を貶めてやろうって思っている奴に違いないね、うんうん、悪い奴だ」

 こいつは正義の味方にでもなったつもりなのか、自分で自分の罪を重くしていることにも気がつかず、いつもの胸を張る得意のポーズ。

「大馬鹿野郎!」

「ひゃあ、なんだよー優、大声だして、繊細な女の子に対して乱暴だよ!」

 大口開けて「シャーッ」とでも叫びそうな勢いだ。

「誰が繊細だ!お前の神経がどれだけ図太いんだか確かめてやりたいぐらいだ!どうせ超合金かなんかでできてるんだろ!」

「女の子に太いだなんて!やっぱり全然デリカシーないんだから!おなか空かして弱ってる乙女に対して優しくできないの!」

 俺から一歩飛びのき両のこぶしを握って―――――――――――いつもの光景……………

「弱ってるからってあんな風に迫られたら誰だって勘違いするんだよ!」

「あーっ、優たらエッチなこと考えてたんだー!ボクはおなか空かして今にも倒れそうだっていうのに。サイテー!スケベ!エッチ!送り狼!」

「なんとでも言え」

 今更さっき体中を駆け巡った一〇〇〇〇〇ボルトの電流は否定しやしないさ。

「あわよくばボクのことを襲おうなんて………………………」

「考えねえよ」

 まったく、こいつとのこんなやり取りもいい加減嫌気がさしてきた。そうやってニヒルな男を気取っていたのも束の間、

「きゃー!痴漢!ここに痴漢がいますよー!」

「なっ!」 

 町中に響き渡るような声でそういうと、小町は俺に背を向けて全力疾走で走り出した。それは一時間前と同じ光景。でも、小町の行き先は違っていた。小町の走って行く方向からわかった。いや、それよりも、楽しそうに左右にふりふりと揺れているしっぽ、それからくるくると回転しているその特徴的な耳から、小町の行く先は我が家なんだということは、迷いようもないことだった。我が家――――俺の帰る場所であり、小町の帰る、唯一の場所。

 

しかしそんなにしみじみとしてもいられない。夕食どきの町内に響き渡った小町のよく通る声は、そこらの家屋から「なんだ、なんだ」といった興味の目を、俺の方へと向けさした。

ピィー!!

 という笛の音が遠くから聞こえ、そういえばこの近くに交番があったんだってことに気付く。警察の世話になったらシャレになんないぞ!

 猫はいいな、犬のおまわりさんに世話になるって言ったって、道案内してもらうだけなんだから。しかしこちとら家・学校に続き社会的評価さえ地に落ちることになるんだ。笑えねーよ。


 俺は急いで小町が走って行ったのと同じ道を全力疾走。

俺の、そして小町のいるべき場所へと、ただひたすらに走って行った。

「やれやれ」そう口にした俺の表情は、たぶんはたから見たら、嬉しそうな苦笑いに見えたんだろうな。








エピローグ


土曜の昼下がり、テーブルをはさんでおかれた二つのソファに、小町と二人して寝そべっていた。休日といえば小町は本来の姿に戻って床にペターっとなってるのに、なんの気まぐれか、今日は人間の姿のままだった。相変わらず気力なさそうにぐったりしているのは変わらないが。

長引く梅雨の中、外は久しぶりの晴天に恵まれた。

時刻は午後三時、小町と二人並んで仲よく食べたカップ麺がいい具合に腹で消化され眠気を誘う。沈むにはまだまだ時間がかかりそうな太陽はこれまた眩し過ぎない柔らかな日光をリビングに注ぎ、部屋中がどこかふわふわとして、まるで雲の上にいるような感覚を演出している。

小町はといえば、太陽の子の名に恥じぬ姿でそれはそれは気持ち良さそうである。トロンと半目になって、なにがしかの恍惚に浸っているようだ。

「眠いね―」

 当然のことだが眠そうに言うのはぐうたら小町。まるで母の胸で安らかに眠るよう、なんの憂いもなく、心地よさそうに寝そべっている。しかしなんともひどい格好だ、片脚をひょいと上にあげて、足をおっ広げている。

「お前は今日も昼まで寝ていただろ」

「猫は寝るのが仕事だから」

 用意していたみたいに言う。いくら寝てても文句は言われないと思っているらしい。

「仮にも人間を装って平気なツラして登校しているお前の本分は学業のはずだ」

「平気じゃないよ、あの時間に起きてあんな長い道を歩かなきゃならないなんて、夜行性のボクには試練だよ」

 突っ込みどころはそこじゃねえだろ。まったく、「猫」じゃなくて「寝子」のほうがよっぽどしっくりくる。だれだ、こんなぐうたらな生き物を表す漢字の部首を獣偏にしたのは。


「茜はどこ行ったの?」

 暇に耐えかねたか、さして興味もなさそうに話題を振ってきた。

「友達とどっか遊びに行ったみたいだぞ」

 答えるこちらの声も退屈極まりないというように聞こえているんだろうな、だがこいつ相手にそんな気を遣う必要もないだろう。

「乙姫はどうしたの?」

「バイトだって言ってたな」

「優は何してんの?」

「ゴロゴロしてる」

 ゴロゴロしてるからありのままに答えたのだが、

「バイトは?」

「今日は休み」

「ひまじん」

「お前に言われたかないよ、ひまねこ」

 

こんななんの生産性もない言葉のキャッチボールで暇な一日をいたずらに費やしていたのだが、ふとずっと気になっていたが聞く機会のなかった一つの疑問が浮かび上がって小町に尋ねる。それはたわいのない質問で、さっきと同じ調子で会話が進むと思っていたのだが。


「小町よ、一つ聞いていいか?」

「なにさ、改まっちゃって」

 小町はそれまで天井へ向けていた顔をこちらへよこした。

「どうしてお前は俺の前に小町として現れたんだ」

 そう聞いた瞬間、確かにぴくっと動いた。顔は無表情を装っていたが、しっぽまでは反応を隠せなかった。

「なんだ、そんなことか、どうってことはないよ。優が望んだから、それだけ」

 小町は眠さからではなく、優しさから瞼を閉じて、静かにそう言った。

「俺はクサンティッペちゃんにただそこにいてくれること以外を望んだことなんてなかったぞ!ましてこんな面倒な女を呼んで来るなんざ望むものか」

「あーっ!優ったらまたいじわるするんだ!どうしてそんなこと言うの………?ボクなんていなくていいみたいに………」

 小町が涙目になるのを見て言い過ぎたと少しばかり反省した。

「冗談だっ!冗談!しかし、望むも何も、おまえが人に変身(?)できるなんて知る由もないんだから望むなんてできるわけがないじゃないか」

 それは甚だしくまっとうな意見のはずなのだが、

「ううん」 小町は軽く否定すると続けた。

「ボクは優の『猫の手も借りたい』の一言でこの姿が取れるようになった。それが優がボクを必要とした証」

 絶句……した……。たしかにある朝皿をキュッキュと磨きながらそう言った記憶はあるが、まさかそのたった一言が俺の人生をこうもおかしなことにすることになるとは。

「信じがたいな……」

「でも本当のこと。信じるか信じないかは優の自由」

 小町はあっけらかんとそう言ってのけた。

 そしてそれ以上の議論は打ち切りとなった。

 

また沈黙があった。

が、今ふと新たな疑問が湧いた。それは小町に出会った時から何となく持ち続けていた違和感。俺が一番不思議に思っていたこと。それを今この時、無性に確かめたくなった。この質問は聞いてもいい気がした。


「なあ、小町、お前ってさぁ」

「なにー」

 耳もしっぽもふにゃっとして力は抜けている。

「どうして語尾に「にゃ」って付けないんだ?」

「へ?」

 小町は上半身だけソファから起き上がった。どうでもいいことなのに、あまりにも意外な質問だったため、びっくりしたみたいだった。

「いや、ほら、フィクションに出てくるしゃべる猫の語尾って、 「~にゃ」 ってなるだろ?どうしてそうならないんだ?」

「ひ・み・つ」

 小町は艶のある柔らかな唇に人差し指を当てると、ウインクしながらいかにももったいぶったようにそう言った。

「わからないだけだろ」

「うん、わかんない」

 あっさりと言ってのけると、こてんとまたソファに横になってしまった。今度はこちらに顔を向けて。

そうすると薄暗い部屋はまた沈黙に包まれた。しかし、その沈黙はなんだか奇妙な安心感を与える沈黙だった。こうして意味もなく寝っ転がって、なにもしないでいるこの時間。この時間が永遠に続けば良い、とてもそんな風には思えなかったが、今はなんとなく、こうしている時間を誰にも妨げられたくないと感じた。

子供の走りまわる音がどこからか聞こえてくる、なんだか中途半端とも呼べる、「平和」のイメージがぴったりと当てはまる時間。こんな時間が一番嫌いだったはず。余計なことを考えてしまって、勝手に憂鬱になって。俺が求めるものとは正反対な、本当にまったりとした緩やかな時間。でも、それが今はこんなにも心地いい。

 隣の小町をチラッと見やる。目を閉じて、どうやら眠ってしまったみたいだ。

   …………………

小町のことはわかんないことだらけだ。だいたい初登場からして意味わからなかったんだからな。だがまあ、よしとしよう。別に語尾がどうだって、なんで首に鈴をつけていないのかだってくだらないことだ。小町がどうして現れたのかだって、どうでもいいことだ。この際小町とクサンティッペが同一の存在なのかなんてこともわきに追いやってしまったっていい。 

そんなのは、俺にとって本当にどうでもいいことだ。


 小町とこうして過ごしている今この時が、俺にはこれ以上ないくらいに『大切なもの』なんだから。


                                    おわり


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