『愛妾の館を焼き払った王妃は、夫の死後に王国を守る尼将軍となる』
第1話 愛妾の館が燃えた夜
王妃エレオノーラは、夫の浮気を知ったときよりも、夫が自分を愚かな女だと思っていたことに深く傷ついた。三十年近く王宮で暮らし、二人の王子を産み、戦争のたびに国庫を守り、夫の失敗を何度も取り繕ってきた。それなのに、国王レオポルトは愛妾を王妃の別邸に住まわせ、そこで宴を開いていたのだという。
十一月の夕暮れ、王妃は深紅のベルベットのドレスに黒い毛皮の肩掛けをまとい、暖炉の前で侍女長マルタの報告を聞いていた。窓の外では冷たい雨が降り、庭の薔薇が風に揺れている。
「もう一度、言ってちょうだい」
「陛下は昨夜、東の離宮にお泊まりになりました。お相手はリゼット男爵夫人。三か月前から寵愛を受けている女性です」
「それは知っているわ」
王妃は銀の匙で紅茶をかき混ぜた。砂糖は入れていない。舌に残る渋みが、今の気分によく似合っていた。
「問題は、どこに泊まったかよ」
「東の離宮でございます」
「あそこは私の父が婚礼の祝いに贈ってくれた屋敷ね」
「はい」
「私が亡くなった母と最後のお茶を飲んだ場所でもあるわ」
マルタは唇を結んだ。
「男爵夫人は、離宮の家具を入れ替えたそうです。王妃陛下のお母様の肖像画も、物置へ運ばせたと」
エレオノーラは匙を置いた。小さな金属音が、静かな部屋に響いた。
「そう。では、今夜は忙しくなるわね」
マルタが顔を上げた。
「何をなさるおつもりですか」
「まず、夕食をいただくわ。空腹では腹も立てられないもの」
食卓には、香草を詰めた鴨のロースト、茸のクリーム煮、焼きたての白パンが並んだ。王妃はいつもどおり背筋を伸ばし、鴨肉を薄く切り分けた。肉汁の香りが立ち上り、香ばしい皮が舌の上で砕ける。
向かいに座った長男アルベルトは、母の落ち着きがかえって恐ろしかった。
「母上、父上と何かあったのですか」
「お前の父親が、少々礼儀を忘れただけよ」
「また、あの女性のことですか」
「知っていたの?」
「宮廷では誰もが知っています」
王妃の手が止まった。
「誰もが?」
「はい。父上はリゼット夫人に、東の離宮を与えると約束したそうです」
エレオノーラは静かに息を吐いた。自分だけが知らなかったのではない。自分に知らせないことが、宮廷全体の暗黙の了解になっていたのだ。
「アルベルト。食事を続けなさい」
「母上は?」
「少し、夫婦の話し合いをしてくるわ」
夜九時、王妃は国王の私室を訪れた。レオポルトは葡萄酒を飲みながら、狩猟仲間と談笑していた。王妃が入ると男たちは慌てて立ち上がった。
「エレオノーラ、どうした。こんな時間に」
「東の離宮をリゼット夫人にお与えになるそうですね」
国王は露骨に顔をしかめた。
「誰から聞いた」
「答えてください」
「たかが屋敷一つだろう。お前には王宮がある」
「たかが屋敷?」
「彼女は都に身寄りがない。安心して暮らせる場所が必要なのだ」
「では、私の母の肖像画を物置へ放り込む必要もあったのですか」
国王は目をそらした。
「女同士の些細な争いに、王を巻き込むな」
その一言で、王妃の胸に残っていた最後のためらいが消えた。
「承知しました。女同士の問題として片づけます」
「そうしてくれ。お前は嫉妬深すぎる」
「ええ。昔からそうでしたわね」
王妃は微笑んだ。
「では、陛下。今夜はゆっくりお休みください」
部屋を出た途端、マルタが駆け寄った。
「いかがでしたか」
「離宮へ行くわ」
「今からですか?」
「馬車を用意して。近衛隊長も呼びなさい。それから、離宮の使用人には全員、今夜のうちに退去するよう伝えて」
マルタは息をのんだ。
「まさか、王妃陛下」
「そうよ。あの家を焼くわ」
王妃の声は驚くほど穏やかだった。
東の離宮に着いたのは夜十一時を過ぎたころだった。雨は上がり、雲の切れ間から月が覗いている。白い石造りの館には明かりが灯り、窓からは楽器の音と笑い声が漏れていた。
エレオノーラは馬車を降り、館を見上げた。幼いころ、母に手を引かれて歩いた庭。父が植えた白薔薇。結婚前夜、母が髪を梳いてくれた二階の部屋。そのすべてが、今は見知らぬ女のものになろうとしていた。
「全員、外へ出たのね」
「使用人二十七名、警備兵六名、料理人三名、全員の退去を確認いたしました」
近衛隊長が答えた。
「客人は?」
「宴の客も退去させました。残るのはリゼット男爵夫人だけです」
「では、彼女を呼んで」
しばらくして、リゼットが玄関に現れた。薄桃色の絹のドレスに真珠の首飾りをつけ、金色の髪を華やかに結い上げている。若く美しい顔には、怯えよりも不満が浮かんでいた。
「王妃陛下、夜分に何のご用でしょう」
「ここは私の屋敷です。出ていきなさい」
「陛下からいただいたのです」
「陛下は、ご自分のものではない屋敷を贈ったのよ」
「そんなこと、私には関係ありませんわ」
リゼットは鼻で笑った。
「王妃様は、もうお若くありませんものね。陛下のお気持ちが離れるのも仕方がないのでは?」
マルタが一歩踏み出したが、王妃は手で制した。
「そうね。私はもう若くないわ。けれど、あなたもいつか年を取るのよ」
「私は陛下に愛されています」
「愛されていることと、他人のものを奪ってよいことは別でしょう」
リゼットは顔を赤くした。
「嫉妬なさっているのですね」
「ええ。嫉妬しているわ」
王妃は初めて、その感情を隠さなかった。
「私は夫を愛して結婚したの。あの人がどれほど愚かでも、何度裏切られても、家族として守ってきた。それなのに、私の母の思い出まで奪われた。怒って当然でしょう?」
リゼットは言葉を失った。
「最後に一度だけ言うわ。館から出なさい」
「嫌です。陛下にお話しします!」
「明日の朝、好きなだけお話しなさい」
近衛兵に促され、リゼットは泣き叫びながら馬車へ乗せられた。王妃は彼女の馬車が門を出るまで見届けた。
「肖像画は?」
「運び出しました。王妃陛下のお母様のものも、すべて」
「ありがとう」
エレオノーラは近衛隊長を見た。
「火を放ちなさい。ただし、隣の厩舎と庭木には燃え移らせないこと。人命を最優先に」
「本当に、よろしいのですか」
「私の命令よ。責任は私が取るわ」
松明が館の一階へ運ばれた。乾いた木材に火が移ると、窓の奥で橙色の光が揺れ始めた。やがて炎は天井を這い、白い壁を赤く染めた。熱風が頬に当たり、焦げた木と古い布の匂いが夜気に広がった。
王妃は動かなかった。
母と過ごした思い出の館が燃えている。胸が裂けるほど悲しかった。それでも、あの女の寝室として残されるよりはましだと思った。
「陛下、もうお下がりください」
マルタが震える声で言った。
「少しだけ、見ていさせて」
屋根が崩れる音が響いた。火の粉が夜空へ舞い上がり、まるで赤い星のように散っていった。
「お母様、ごめんなさい」
エレオノーラは小さく呟いた。
「でも、私の大切なものを、誰かの気まぐれで奪わせたくなかったの」
翌朝、国王は王妃の居室へ怒鳴り込んできた。
「エレオノーラ! お前は正気か!」
王妃は淡い青色の朝用ドレスを着て、蜂蜜を塗ったパンを食べていた。食卓には半熟卵と温かい牛乳、焼いた林檎が並んでいる。
「おはようございます、陛下。朝食はいかが?」
「離宮を焼いたそうだな!」
「ええ」
「なぜそんなことをした!」
「私の屋敷だからです」
「リゼットが泣いていたぞ!」
「それはお気の毒に」
国王は拳を握りしめた。
「お前は悪女だ! 嫉妬に狂った恐ろしい女だ!」
エレオノーラはパンを皿に置き、夫を見上げた。
「陛下。私はあなたの愛妾を殺しておりません。使用人も客人も、全員無事です」
「だからといって、家を焼いてよいわけがない!」
「ええ。そのとおりです。私も、自分のしたことが正しいとは申しません」
国王は意外そうに口を閉じた。
「けれど、陛下。あなたも、ご自分のしたことを正しいとはおっしゃらないでください」
「何だと?」
「妻の父が贈った屋敷を、妻に黙って愛妾へ与える。亡き義母の肖像画を物置へ追いやる。それが王のなさることですか」
国王は答えなかった。
「私は嫉妬深い女です。怒れば恐ろしいこともします。けれど、王妃として守るべきものを、これまで一度も忘れたことはありません」
エレオノーラは立ち上がった。
「あなたが私を悪女と呼ぶなら、そう呼びなさい。ただし、今後は私のものを勝手に他人へ与えないでください」
国王はしばらく王妃を睨んでいたが、やがて何も言わずに出ていった。
その日から宮廷では、王妃エレオノーラの恐ろしさが語り草になった。愛妾の館を焼き払った嫉妬深い王妃。国王すら震え上がらせた悪女。噂は王都の酒場から地方の市場まで広がった。
しかし、王妃自身はその噂を訂正しなかった。
数日後、長男アルベルトが母の部屋を訪ねた。
「母上、本当に後悔していないのですか」
エレオノーラは窓辺で刺繍をしていた。白い布に小さな薔薇を縫いながら、少し考えた。
「後悔しているわ」
「では、なぜ」
「火をつける以外の方法もあったでしょうね。裁判に訴えることも、父の家に抗議してもらうこともできた」
「それなら」
「でも、あの夜の私は、そんな立派な女ではいられなかったのよ」
アルベルトは母の隣に座った。
「母上は、父上をまだ愛しているのですか」
王妃は針を止めた。
「愛しているから怒ったのかもしれないわね。どうでもよい人なら、あんなに傷つかなかったでしょう」
息子は黙って母の手を握った。
「私は、母上を悪女だとは思いません」
「ありがとう。でも、私がしたことまで正しいと思わなくていいのよ」
エレオノーラは息子の手を握り返した。
「お前が王になったら、怒りに任せて人の家を焼いてはいけません。母の失敗を、よく覚えておきなさい」
「はい」
「それから、妻を迎えたら、その人の尊厳を守りなさい。愛が薄れる日が来ても、礼儀まで捨ててはいけないわ」
窓の外では、晩秋の風が枯れ葉を運んでいた。
王妃は再び針を動かした。白い布の上に、赤い薔薇が少しずつ形を現していく。
愛妾の館を焼いた夜、エレオノーラは悪女になった。
けれど、王妃としての彼女の人生は、まだ終わっていなかった。やがて夫が世を去り、息子たちをめぐる争いが始まったとき、人々は知ることになる。
あの夜、一軒の館を焼いた女が、今度は王国そのものを守るために立ち上がるのだということを。
◇◇◇
第2話 父と母が娘のために建てた家
エレオノーラは、夫の愛がほかの女に移ったことよりも、自分の父と母の愛情まで奪われたことが悲しかった。国王レオポルトが愛妾リゼットに与えようとした東の離宮は、王家の財産ではない。彼女が十七歳で嫁ぐとき、父が娘のために建て、母が家具を一つずつ選んでくれた家だった。
その家を焼き払ってから五日が過ぎても、エレオノーラの胸には灰の匂いが残っていた。
王宮の朝食室には、焼きたての白パンと温めた牛乳の甘い香りが漂っていた。窓辺の薔薇はすっかり花を落とし、十一月の冷たい雨が石畳を濡らしている。エレオノーラは深緑色のウールのドレスを着て、亡き母の形見である真珠の耳飾りをつけていた。
「王妃陛下、少しはお召し上がりください」
侍女長マルタが心配そうに声をかけた。皿には半熟卵と香草入りのソーセージ、蜂蜜を添えた焼き林檎が並んでいる。
「食べているわ」
「パンを一口しか召し上がっておりません」
「そうだったかしら」
エレオノーラは小さく笑ったが、手元のパンを見つめたまま動かなかった。
「マルタ。父があの家を建ててくれた日のことを覚えている?」
「もちろんでございます。私はまだ若い侍女でした」
「父はね、あの家の窓を大きくするよう、大工に何度も頼んだのよ」
「王妃陛下が、明るい部屋がお好きだからですね」
「ええ。母は庭に白薔薇を植えたがったわ。私が子どものころ、白い花を摘んでは髪に飾っていたから」
マルタは黙って頷いた。
「母は家具職人を三人も呼んで、食卓の高さを確かめたの。私が小柄だから、椅子に座ったとき足が浮かないようにって」
思い出すと、胸の奥がきゅっと痛んだ。
「そんな家だったのよ」
「存じております」
「それを、あの人は、たかが屋敷一つと言ったの」
エレオノーラの声が震えた。
「私には王宮があるから、あの家くらい愛妾に与えてもよいのだそうよ」
マルタは唇を噛んだ。
「陛下は、あの離宮の由来をご存じだったはずです」
「知っていたわ。婚礼の日、父があの家の鍵を渡したとき、隣にいたもの」
そのとき、扉の向こうで侍従の声がした。
「国王陛下がお見えです」
エレオノーラは目を閉じた。
「お通しして」
レオポルトは濃紺の上着に金の飾り紐をつけ、いかにも不機嫌そうな顔で入ってきた。
「エレオノーラ。まだ機嫌を直さないのか」
王妃は夫を見上げた。
「機嫌?」
「リゼットは今も泣いている。あの娘は都に身寄りがないのだ。お前には王宮があるだろう。あの家くらい、譲ってやってもよかったではないか」
エレオノーラはしばらく夫の顔を見つめた。
「陛下。お座りください」
「私は忙しい」
「五分で結構です」
国王は舌打ちしながら椅子に腰を下ろした。マルタが新しい紅茶を運んでくる。エレオノーラは侍女長に目で合図し、二人きりになった。
「陛下は、あの家を誰が建てたか覚えていらっしゃいますか」
「お前の父親だろう」
「なぜ建てたかは?」
「嫁ぐ娘への祝いだ。それがどうした」
「父は、私が王宮で寂しい思いをしたとき、帰れる場所が必要だと言ったのです」
レオポルトは眉をひそめた。
「王妃が実家に帰るなど、聞いたことがない」
「父もそう思っていたのでしょう。だから王都に家を建てたのです。王宮から馬車で一時間もかからない場所に」
エレオノーラは真珠の耳飾りに触れた。
「母は、私が好きな料理を作れるように台所を広くしました。冬でも寒くないよう、寝室には大きな暖炉を作らせました。庭には私が好きな白薔薇を植えてくれました」
「そんな昔のことを持ち出して、どうする」
「昔のことではありません。私にとっては、今も大切なことです」
王妃は静かに立ち上がった。
「あなたには、私の両親の愛情まで愛妾に与える権利がおありなのですか」
レオポルトは口を開きかけ、そのまま黙った。
「あなたがリゼットを愛することは、私には止められません。あなたの心は、あなたのものですから」
「ならば」
「けれど、私の父が建てた家は、あなたのものではありません」
エレオノーラは夫から目をそらさなかった。
「私の母が選んだ家具も、私のために植えた薔薇も、母が最後に座った椅子も、あなたが女の歓心を買うための贈り物ではないのです」
「私は、そこまで考えていなかった」
「ええ。そうでしょうね」
王妃は悲しそうに笑った。
「考えていなかったからこそ、許せないのです」
レオポルトは困惑した顔をした。
「お前には、ほかにも宝石や領地があるではないか」
「宝石をいくつ持っていても、母は一人しかおりません」
その言葉に、国王はようやく目を伏せた。
「母は亡くなる前、あの家で私とお茶を飲みました。もう病が進んでいて、階段を上るのも大変だったのに、どうしても庭の薔薇を見たいと言ったのです」
エレオノーラの目に涙が浮かんだ。
「私は母に、また来年も一緒に見ようと言いました。でも、母はその冬に亡くなりました」
「エレオノーラ」
「あなたの愛妾は、母の肖像画を物置にしまわせたそうですね」
「それは、私が命じたわけではない」
「命じなかったから、あなたには責任がないのですか」
国王は何も言えなかった。
「私はあの家を焼きました。人を傷つける前に全員を退去させましたが、それでも私がしたことは間違いです。父と母が残してくれたものを、自分の手で壊したのですから」
エレオノーラは涙を拭った。
「けれど、あなたがあの家を愛妾のものにすると言ったとき、私は父と母を二度失ったような気持ちになったのです」
レオポルトは椅子から立ち上がった。
「私は、そこまでお前を傷つけたとは思わなかった」
「それが一番悲しいのです」
王妃は小さく息を吐いた。
「あなたは私が何を大切にしているのか、二十七年も一緒に暮らして、何も知らなかったのですね」
国王は何か言おうとしたが、言葉が見つからなかった。
長い沈黙のあと、レオポルトは低い声で尋ねた。
「私に、どうしてほしい」
「何も」
「何も?」
「もう、何も望んでおりません」
エレオノーラは夫に背を向け、窓辺へ歩いた。
「あなたの愛情を取り戻そうとは思いません。謝罪を強いるつもりもありません。ただ、これからは私のものを、私に黙って誰かに与えないでください」
国王が退出すると、マルタがそっと部屋に入ってきた。
「王妃陛下」
「聞こえていたの?」
「申し訳ございません」
「いいのよ」
エレオノーラは椅子に腰を下ろした。張り詰めていた気持ちが緩み、涙が頬を伝った。
「マルタ。私は愚かな女ね」
「そんなことはございません」
「父と母の家を、自分で焼いてしまったのよ」
マルタは王妃の隣に膝をついた。
「陛下。私も、あの家が大好きでした」
「ええ」
「奥様が選ばれた青い花柄の食器も、旦那様が庭に置かれた白い石の椅子も、よく覚えております」
エレオノーラは声を上げて泣いた。マルタは何も言わず、その背中をさすり続けた。
昼過ぎ、長男アルベルトが母を訪ねてきた。銀糸の刺繍を施した灰色の上着を着て、手には小さな木箱を抱えていた。
「母上。これを」
「何かしら」
箱の中には、煤で黒くなった真鍮の鍵が入っていた。
「焼け跡から見つかったそうです。東の離宮の、正面玄関の鍵です」
エレオノーラは震える指で鍵を取り上げた。
「まあ」
「母上が嫁がれた日に、祖父上からいただいたものだと聞きました」
「そうよ。父が自分で磨いて、私の手に載せてくれたの」
鍵には小さな薔薇の模様が刻まれていた。煤に汚れていても、その模様は残っていた。
「母上。私は、父上のような夫にはなりたくありません」
エレオノーラは息子を見つめた。
「アルベルト」
「いつか妻を迎えたら、その人が何を大切にしているのか、ちゃんと知りたいと思います」
王妃は息子の手を握った。
「そうしてちょうだい。人はね、自分が大切にしているものを、大切に扱ってもらえるだけで幸せになれるのよ」
「はい」
「そして、相手のものを勝手に誰かへ与えてはいけません。たとえお前が王になっても、それは変わらないわ」
アルベルトは深く頷いた。
その日の夕食には、王妃の好物である鶏肉と根菜の煮込みが用意された。柔らかく煮えた人参と玉ねぎの甘みが、温かなスープに溶け込んでいる。エレオノーラは久しぶりに一皿を食べきり、食後には蜂蜜入りの紅茶を飲んだ。
「マルタ。明日、父のところへ手紙を出すわ」
「どのようなお手紙を?」
「家を焼いてしまったことを、正直に伝えるの」
「お父上は、さぞお怒りになるでしょうね」
「ええ。きっと叱られるわ」
エレオノーラは小さく笑った。
「でも、父には知っていてほしいの。あの家がどれほど大切だったか、私は一度も忘れたことがなかったって」
窓の外では、冷たい風が庭の枯れ葉を舞い上げていた。
エレオノーラは煤のついた鍵を胸に抱いた。
家は失われた。母の選んだ家具も、父が植えた薔薇も、もう戻らない。それでも、父と母が娘を愛した事実だけは、誰にも奪えなかった。
「お父様、お母様。ごめんなさい」
王妃は目を閉じた。
「私、あなたたちが建ててくれた家を守れなかった。でも、あなたたちが私を大切にしてくれたことは、これからも忘れないわ」
涙が一粒、真鍮の鍵に落ちた。
王妃エレオノーラが愛妾の館を焼いた話は、やがて国中に広まっていく。人々は彼女を嫉妬深い悪女と呼び、恐ろしい王妃だと噂した。
けれど、その炎の向こうに、父と母を恋しがって泣いた一人の娘がいたことを、知る者はほとんどいなかった。




