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英雄にも、帰り道を

作者: 週休七日
掲載日:2026/09/15

エナの右の靴には、穴が開いていた。


橋の手前で立ち止まるたび、彼女は爪先を持ち上げて、靴の中の水を踵へ逃がしていた。逃がしたところで、次の一歩で戻ってくる。それでもやめなかった。


「右足だけ、先に川を渡ってる」


僕がそう言うと、彼女は濡れた前髪の下から睨んだ。


「面白いと思ってる?」

「少し」

「帰ったら、あんたの右の靴にも穴を開ける」


いつもなら、どうして片方だけなんだと聞き返したと思う。

けれど、そのときは笑えなかった。


橋の上を、避難民の最後の荷車が進んでいた。車輪が石の継ぎ目に噛むたび、荷台の老人たちが揺れる。押している兵士の一人は、もう右腕が上がらなかった。


日が落ちかけていた。


谷底は雨で白く煙っていた。背後の山道では、鎧獣の群れが木々を倒していた。荷馬車ほどの甲殻が、幹を押し分けるたびに見える。枝の折れる音は、さっきよりずっと近かった。


「ルカ。点火器は?」


僕は肩から下げた革鞄を叩いた。


鉄道工房の見習いだった僕が、橋を落とす役を任されたのは、配線の仕組みを知っていたからだ。橋脚に仕掛けた火薬へ線を延ばし、反対側の岸で取っ手を押し込む。線はもう、避難する人々と一緒に対岸へ運んであった。


荷車が渡り終わるまで、あと少し。

それだけの時間が、足りなかった。


エナは僕の鞄を見て、頷いた。

それから剣を抜いた。


守護剣の刃が、雨の中で淡く光った。


「何してる」


彼女は答えず、橋の入口にある岩門の下へ歩いた。そこで片膝をつき、石畳の継ぎ目に剣を差し込む。


刃から広がった光が、道の両側の崖へ届いた。


薄い、青い壁だった。向こうの木々が透けて見える。頼りなく見えるその壁が、鎧獣の突進を受け止められることを、僕は知っていた。


剣が、丈夫な土台につながっている間だけは。


「もう全員、橋に乗った。エナも来いよ」

「渡り終わってない」


最後の荷車が、また止まっていた。

兵士が肩で車輪を押している。その脇を、女の人に背負われた子供の裸足が揺れた。


「少し止めて、すぐ追いかければいい」

「壁を消したら、追いつかれる」

「でも」


言いかけた僕を、最初の衝撃が黙らせた。


木々の間から飛び出した鎧獣が、光の壁にぶつかった。石畳が鳴り、剣の根元から細かな砂が噴いた。エナの肩が、ほんの少し沈む。


その向こうで、次の甲殻が揺れていた。


「私が赤を上げたら、橋を落として」


エナは腰の信号銃に触れた。


僕は彼女の足元を見た。岩門は橋の最初の石組みと一体になっている。支えの橋脚を崩せば、門の床も落ちる。火薬を仕掛ける前に、図面で確かめたことだった。


「嫌だ」


自分でも驚くほど、子供みたいな声が出た。


エナは困った顔をした。叱るでもなく、勇ましく笑うでもなく。本当に困った顔で、僕と、橋と、荷車を順番に見た。


「私だって嫌だよ」


雨が、頬を伝っていた。


「靴の中、冷たいし。朝からまともに食べてないし。こんなところで一人にされるの、嫌に決まってる」


彼女は左手で剣を押さえ、右手を外套の中へ入れた。


出てきたのは、紙に包まれたパンだった。出発前、二人で買った最後の一つだ。休めるところまで行ったら半分ずつにしようと、エナが持っていた。


それを僕の胸に押しつけた。


「持ってて」

「自分で持ってこいよ」

「今、両手がいるの」


二度目の衝撃が来た。

彼女は咄嗟に剣を握り直した。僕の胸元に残された紙包みが、ゆっくり滑り落ちそうになった。


受け取ってしまった。


受け取らなければ、まだ何か言えた気がする。


エナは僕を見た。唇が一度、言葉を探すように動いた。


「私はここで英雄になる」


小さな声だった。


壁の向こうにいる獣にも、橋を渡る人たちにも、きっと聞こえなかった。僕にだけ渡されたその言葉を、どうすればいいのかわからなかった。


「だから、先に行って」


僕は首を振った。

彼女は初めて、怒った。


「行ってよ。あの子たちまで、ここに残す気?」


橋の上で、子供が泣いていた。

僕は一歩、後ろへ下がった。


エナはもう、こちらを見なかった。


雨に濡れた背中は細かった。外套の縫い目が肩のところでほつれていて、帰ったら直してやろうと、場違いなことを思った。


橋を走った。

途中で何度も振り返った。

青い光は、そのたびにそこにあった。


対岸で線をつなぎ、点火器を地面に置いた。荷車が軋みながら坂を上る。押していた兵士が最後に橋を離れ、その数歩後ろで、石畳に長い亀裂が走った。


岩門の上で、赤い信号弾が咲いた。


僕は点火器の取っ手を握った。


誰かが僕の名前を呼んでいた。早くしろと言っていた。僕は首を横に振りながら、両手で取っ手を押した。


橋が落ちた。


石の砕ける音が谷を満たした。

青い光は、土煙の中に消えた。


外套の内側にしまっていた紙包みを取り出すと、パンは潰れていた。

僕はそれを、両手で持ったまま立っていた。


*


エナの葬式では、晴れた。


谷へ下りる道は崩れ、彼女を捜しに出た人たちも戻ってきた。棺の代わりに置かれた小さな台には、エナの名前と、部隊の徽章が載せてあった。


祭壇の肖像画の中で、彼女は穏やかに笑っていた。

僕はそれを見て、顔を伏せた。


参列者は、彼女は笑って残ったのだと言った。

勇敢な少女だった。最後まで一歩も退かなかった。若い命を、誇らしく捧げた。


誰もが、僕の知らないエナの話をしていた。


彼女は笑っていなかった。

帰りたがっていた。

右足が冷たいと、文句を言っていた。


僕は式が終わるまで、顔を上げなかった。


葬式から十九日後、その英雄が工房の戸を叩いた。


僕は最初、幽霊だと思った。


戸口に立っていた彼女は痩せていて、知らない男物の上着を着ていた。左脚には木の添え木があり、脇に松葉杖を挟んでいる。大きすぎる靴の隙間から、右の足首が覗いていた。


「……靴下」


エナは言った。


「一足、余ってない?」


僕は戸を閉めた。

すぐに開けた。

エナは同じところに立っていた。


「ちょっと。今、閉めたよね」


抱きついたら、痛いと怒られた。

それでも離せずにいたら、彼女も怒るのをやめた。


濡れた土と、薬草の匂いがした。


橋が落ちたとき、彼女は崩れた石組みと一緒に岸側の斜面へ投げ出されたのだという。雑木に何度も引っ掛かり、左脚をひどく傷めながら川まで滑り落ちた。


下流で助けを呼ぶ声を聞いた炭焼きの人が、岸近くの枝につかまっていた彼女を見つけた。熱が下がってからもすぐには動けず、ようやく炭を運ぶ荷車に乗せてもらえたのだという。


話し終えると、彼女は僕の渡したスープを両手で持ったまま、黙った。椀の中には、まだ半分以上残っていた。


「剣、手放しちゃった」

「うん」


「門の床が割れたとき、抜けたの。ずっと持ってたんだけど、水の中で、重くて」


エナは右手を椀から離した。爪の欠けた指先を見つめ、それからまた、温かい陶器に指を戻した。


「片手じゃ、枝を掴みきれなくて。剣を捨てて、両手でしがみついた。声が出なくなっても、誰か来るまで離さないって」


僕は何か言おうとして、喉につかえた。


「みんなが言うみたいに、怖くなかったわけじゃないんだよ」


エナが笑った。


「駅前に絵があった。私、すごく綺麗に描いてもらってた。実物が帰ってきちゃって、困るよね」


「困らない」


大きな声が出た。

エナの肩が跳ねた。


僕は椅子を引き寄せた。彼女の前に座り、何度か息を吸った。


言いたいことが多すぎた。

謝りたかった。怒りたかった。あの日から毎晩、雨も降っていないのに橋の上にいる夢を見ていたと、話したかった。


けれど、ようやく出てきたのは、一つだけだった。


「生きてて、よかった」


エナは椀を見つめた。

しばらくして、ぽたりと、スープの表面が揺れた。


「……うん」


それきり、彼女は何も言わなかった。

僕も何も言わず、冷めたスープを温め直した。


*


冬の間、エナは工房で帳簿をつけた。


左脚はゆっくり治ったが、杖なしで歩くと、夕方には膝が腫れた。階段を下りるときに手を出すと、何も言わないうちから睨まれる。それでも最後の二段になると、黙って僕の袖を掴むことがあった。


夜中、壁の向こうで寝台が軋み、短く息を呑む声がすることもあった。


僕はしばらく耳を澄ませてから、声をかけた。

眠れないなら、釜の火を見張ってくれないか。


そう頼むと、たいてい彼女は出てきた。二人で椅子を寄せ、火の前で湯を飲んだ。話す夜も、話さない夜もあった。


ある晩、エナが作業台の図面を覗き込んだ。


「何これ。棺桶?」

「剣の台座」

「私を入れる大きさだけど」

「入るのは剣。お前は上に乗る」


彼女は図面を回した。裏に何か書いてあると思ったらしい。

端まで眺めてから、鉛筆の線を指でなぞった。


「……車輪がある」

「うん」


守護剣の壁は、受け止めた衝撃を剣の根元へ逃がす。だから守り手は頑丈な地面に剣を突き立て、そこで敵を受け止める。抜けば壁は消えてしまう。


僕は橋の修理も、機関車の修理も習っていた。

どちらも、重いものを支えるために鉄を組む仕事だった。


「丈夫な土台なら、動いてもいいんじゃないかと思って」


エナは図面を見たまま、黙っていた。

やがて、椅子を引き寄せた。


「荷車じゃ無理だよ。前に訓練でやった。壁を張るところまではよかったけど、ぶつかられたら荷車ごと跳ねた」

「何人乗ってた?」

「三人。三人とも落ちた」


僕は図面の下から、もう一枚引き出した。


鉱石運搬用の大型機関車。

太い車軸。重い車体。山の勾配を上るための、大きな動輪。


エナは二枚を並べて見比べた。


「……あんた、馬鹿なの?」

「工房長にも言われた」

「何て返した?」

「計算の間違いを教えてくださいって」


彼女は少しだけ笑った。

そして、机の鉛筆を取った。


「ここの支え、増やして。横から当たったら、ねじれる」


それが始まりだった。


兵器庫から古い守護剣を借り、廃材で台座を組んだ。工房の試験線へ機関車を出し、吊り下げた丸太を光の壁にぶつけた。


最初の試験では、台座が曲がった。

二度目は、エナが壁を横へ傾けた途端、片側の車輪が浮いた。僕は力任せに前へ出ようとして、運転を教えてくれていた先輩に手を叩き落とされた。


その日の夕方、工房長に二人まとめて怒鳴られた。


翌朝には、その工房長が自分で支えを溶接していた。


僕は先輩について運転を覚え直した。エナは丸太の動きを見ながら、壁を傾ける角度を少しずつ変えた。壁を平らに張るだけでなく、先を尖らせて左右へ押し分ける形も試した。台座に刻んだ目盛りが増え、僕の帳面には、失敗したときの音や揺れまで書き込まれた。


運転席からエナの姿が見えるよう、前部の足場の位置も調整した。そこに彼女の腰を支える革帯をつけた。留め具は自分の手で外せる位置に置き、運転室までの通路には、手すりを増やした。


初めて試験線の端まで壁を保てたのは、朝から雪の降った日だった。


運転席から前を見ると、光に触れた雪が左右へ流れていた。丸太を受け流しても車輪は浮かず、線路の継ぎ目を踏む音が、一定の間隔で足元に響いた。


「……動いてる」


伝声管から、エナの声がした。


「機関車だからな」

「壁が、だよ」


前の足場で、彼女が振り返った。

頷くと、エナはもう一度前を向いた。しばらくして、伝声管から小さく笑う声が聞こえた。


僕は手を離さないよう気をつけながら、窓の外を見た。

試験を始めた場所に、僕たちの足跡だけが残っていた。


運転室へ戻ってきたエナは、雪で濡れた髪を袖で拭った。赤くなった耳の下に、溶け残りが一つついていた。


「帰り方も、ちゃんと考えてある?」


僕は逆転機を指した。


「こいつは、後ろ向きにも走れる」


エナはそこへ手を伸ばした。

確かめるように、冷たい取っ手を握った。


*


春になって、鎧獣が西の山を越えた。


工房に届いた報せでは、橋を落とされて進めなくなった群れが、冬の間に山を大きく迂回していた。採掘町から街へ続く道が潰れ、住民と守備隊が鉱山駅に取り残されたという。


線路は生きていた。

けれど、谷間の軌道上に獣が入り込み、迎えに出た通常の機関車は引き返してきた。


僕は工房で、その車体を見た。

前面の鋼板は裂かれ、運転席の窓には、内側から押し当てたらしい血のついた布が残っていた。


駅から届く電信は、次第に短くなった。


弾薬不足。

防柵損壊。

次の襲撃には耐えられず。


僕たちの機関車に、六両の客車がつながれた。


先輩が運転室に乗り込み、工房の仲間と救護の兵士たちが客車へ分かれた。帰りは逆向きに走るため、一番後ろの車両にも、見張りとブレーキを扱う係を置いた。


出発前、工房長は台座のボルトを一本ずつ叩き、最後に僕の頭も叩いた。


「蒸気圧を見ろ。勇ましい気分で計器を忘れるな」


それから、エナに向き直った。


彼女は杖を僕に渡し、手すりにつかまって前部の足場へ上がっていた。煤のついていない新しい靴が、段差のところで一度止まる。工房長は黙って待ち、彼女が両足で立ってから口を開いた。


「お前もだ。根性で鉄の強度は増えん」

「知ってます」

「帰ったら、試験記録を出せ」


エナは革帯を締めながら、笑った。


「現場でも書くの?」

「覚えて帰れ」


機関車が動き出した。


車輪が継ぎ目を踏むたび、前の足場でエナの肩が揺れた。彼女は一瞬だけ手すりを握り、それから守護剣の柄へ持ち替えた。


剣を、鉄の台座に差し込む。

青い光が、機関車の鼻先に開いた。


あの日と同じ色だった。


僕は息を止めた。

けれど今度は、光が遠ざかっていかなかった。

僕の足元の鉄と一緒に、線路の先へ進んでいた。


山へ入ると、線路は岩壁と沢に挟まれた細い道になった。曲がり角の向こうで、黒い甲殻が持ち上がった。


最初の衝突で、運転席の窓が震えた。


光の面が斜めに傾く。甲殻がその上を滑り、線路脇へ落ちていった。動輪が空転しかけ、僕は砂を撒く弁を開いた。足元で車輪が噛み直し、機関車が再び前へ出る。


一頭。

二頭。


谷の狭い道を塞いでいた黒い群れが、蒸気の向こうへ押し分けられていった。


鉱山駅へ着いたとき、待合室の屋根は半分落ちていた。


岩壁に沿ったホームに、人がひしめいていた。駅の奥には、鉱石を積む高い作業台がある。その前の線路に鎧獣が集まり、兵士たちが上から槍を突き出していた。


エナが前方へ壁を広げると、柵に迫っていた獣の何頭かがこちらへ向き直った。青い光に甲殻を擦りつける音が、運転室まで響いた。


客車の扉が開いた。


子供を抱えた人が駆け寄り、兵士に腕を引かれて乗り込む。その後から、毛布を引きずる老人たちが続いた。怪我人を載せた戸板が、何枚も人の手を渡っていった。


僕は圧力計と前方を交互に見た。釜の口が開くたび、背中に熱が当たった。先輩が黙って石炭を足していた。


やがて、最後の老人が運び込まれた。


「住民、収容完了!」


ホームを走ってきた仲間が叫んだ。


「守備隊は?」

「積み場です。階段を塞がれています!」


逆転機にかけていた手を止めた。


積み場へ続く階段には、割れた木材と獣の脚が重なっていた。兵士たちが守っていた柵は途中で折れ、残った部分も外へ傾き始めている。


隊長らしい人が、こちらへ腕を振った。


「出せ! 住民を連れていけ!」


すぐ隣で、若い兵士が柵を押し戻した。大きすぎる帽子が目にかかり、彼は顔を振ってそれをどけようとしていた。


窓から身を乗り出すと、積み場の縁が炭水車の側板と近い高さにあるのがわかった。そこまで列車を進めれば、手が届く。


機関車二台分ほどの距離だった。

その間に、大きな鎧獣が三頭いた。


伝声管が鳴った。


「もう少し前。積み場の真下まで入って」


エナもそちらを見ていた。


「その先、行き止まりだぞ」

「知ってる。帰りは後ろ」


僕は窓を閉め、先輩を見た。先輩は頷いて、釜の口を閉じた。

客車へ合図を送り、積み場から人を受け取れるよう、仲間を炭水車の縁へ呼んだ。


「早く行け! こっちはもう――」


隊長の声が、柵の折れる音で途切れた。


伝声管から、息を吸う音が聞こえた。

少し間があった。


「ルカ」

「聞こえてる」

「帰りも、頼んだからね」


僕は逆転機の取っ手に一度触れた。

それから、加減弁を握り直した。


「ああ」


前の足場で、エナが顔を上げた。

光が狭まり、左右から折れて、機関車の鼻先に鋭い楔の形ができた。冬の試験線で、何度も練習してきた形だった。


彼女は積み場の兵士たちへ向けて、声を張った。


「私はここで英雄になる」


蒸気の音を越えて、その声が届いた。


エナが運転席を振り返る。


「ルカ、行こう!」


あの日、点火器を押した手で、僕は加減弁を引き開けた。


蒸気が唸った。

巨大な動輪が、鉄の軌道を蹴った。


最初の一頭が、光の楔に正面から噛みついた。牙が青い火花を散らし、運転席の工具箱が床へ落ちた。


光の先端がわずかに傾く。

窓の向こうで獣の頭が横へ流れ、その甲殻が隣の一頭にぶつかった。


開いた隙間へ、機関車が突っ込んだ。


黒い脚が車体を掻いた。窓の外を爪が走り、耳元で鉄の裂ける音がした。

僕は前を見たまま、汽笛の綱を引いた。


谷いっぱいに、長い音が鳴った。


積み場まで、あと少し。


最後の一頭が、斜めから光に乗りかかった。


視界が傾いた。

足元の片側が沈み、反対側から、レールを掴み損ねる甲高い音がした。


二度目の試験で聞いた音だった。


「エナ、車輪が浮く!」

「戻す。一度、押さないで!」


僕は加減弁を戻した。


目の前で獣の脚が振り上がった。押し切りたい衝動をこらえ、握っている取っ手から指を離さずに待った。


青い楔が正面へ向き直り、それから、片側へ浅く開いた。


窓いっぱいにあった甲殻が、少しずつ横へ滑った。車体の傾きが戻り、両足の下に、レールを踏む固い振動が伝わった。


「今!」


砂を撒く弁を開いた。

加減弁を引いた。


動輪が一度、空を掻いた。

次の瞬間、足元が前へ跳び出した。


光の縁を越えて、黒い巨体が線路脇へ落ちた。岩にぶつかる音が、蒸気の噴き出す音に重なった。


視界が開けた。


先輩が積み場の位置を叫んだ。僕は制動をかけ、炭水車の側板が作業台の縁に並ぶところで列車を止めた。


エナの壁が広がった。

青い光が兵士たちの前へ届き、壊れかけた防柵を覆った。


「乗って!」


エナが叫んだ。


「迎えに来たんだから、乗ってよ!」


最初に動いたのは、帽子の大きな兵士だった。

隣の負傷兵を担ぎ、積み場から炭水車の縁へ渡した。工房の仲間が腕を掴み、引きずり込む。


一人。

また一人。


運転室の窓から手を伸ばすと、兵士の靴の裏に触れた。僕はそれを押し上げた。泥が袖につき、すぐ目の前で、煤まみれの手が次の腕を掴んだ。


隊長が最後まで積み場に残った。


「あなたも!」


エナの声が飛んだ。


隊長は何か叫び返しかけた。

けれど、列車の上で部下が手を伸ばしているのを見て、口を閉じた。


剣を捨てた。

手すりを掴んだ。

二人の兵士が、その人の重い体を引き上げた。


「全員!」


今度の声には、続きがあった。


「守備隊、全員乗った!」


戻る方向の見張りから、発車の合図が届いた。

僕は逆転機を倒し、ブレーキを緩めた。ゆっくりと加減弁を開く。


車輪が、来た道を戻り始めた。

さっきまで先頭だったエナの足場が、そのまま最後尾になった。


獣が追ってきた。

青い壁にぶつかり、滑り、転がった。


エナは振り向かなかった。壁の角度を変え、列車の速度に合わせて、追ってくる甲殻を線路の外へ逸らし続けた。


岩壁が流れていく。

壊れた駅が遠ざかっていく。


その場所に、小さな背中は残らなかった。


*


谷を抜け、最後の獣が見えなくなってから、エナは壁を消した。


「手が、離れない」


伝声管から声がした。


僕は先輩に運転を代わってもらい、手すりを伝って、エナのいる足場へ向かった。


エナは剣の柄を握ったまま、台座にもたれていた。膝を少し曲げ、左脚にはなるべく体重をかけないようにしている。


僕が手を添えると、握り込まれていた指が一本ずつ緩んだ。

彼女は長く息を吐き、ぎこちない手つきで革帯の留め具を外した。


肩を貸して運転室へ戻ったところで、エナは壁際の腰掛けにへたり込んだ。


「膝、痛い」

「うん」

「腕も」

「うん」


彼女は煤のついた掌を眺め、それから僕を睨んだ。


「英雄って、もうちょっと楽にならないの?」


僕は笑った。

笑ったら止まらなくなって、途中から、うまく息ができなくなった。


エナは呆れた顔をしていたが、僕の袖を掴んだ手は、ずっと離れなかった。


しばらくして、帽子の大きな兵士が、運転室の入口へ紙包みを持ってきた。避難したパン屋の人が、二人にとくれたらしい。


少し潰れていたけれど、まだ甘い匂いがした。


エナはそれを受け取り、膝の上で二つに割った。

大きさを見比べてから、小さいほうを僕に渡した。


「僕の、小さくない?」

「私、朝からまともに食べてないし」

「あの日も言ってた」


彼女は僕を見た。

それから、手元のパンをもう一度ちぎって、僕の分に載せた。


窓の外に、街の鐘楼が見えた。

到着を知らせる汽笛に応えて、鐘が鳴り始めた。


エナは音のするほうへ顔を向けた。パンを持っていない手で、乱れた髪を直そうとしたが、煤を余計につけただけだった。


僕がそれを指摘すると、彼女は僕の頬にも煤を擦りつけた。

運転席で、先輩が笑った。


エナも笑った。

今度は、僕の知っている顔だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


昔遊んでいた『シャドウバース』に登場するメイシアのセリフ、

「私がここで英雄になる」が、ふと頭に浮かんだことが、

この物語を書くきっかけでした。


同じ言葉が、一度目は切なく、二度目は胸が躍るように響く。

そんな物語を書いてみたいと思い、形にしました。


エナとルカの帰り道を、少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

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