表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

バグ修正したら世界線が変わった

作者: HATENA 
掲載日:2026/05/09

金曜の夜、一時四十分。


 オフィスには相沢蓮しか残っていなかった。


 壁際の観葉植物は半分枯れていて、給湯室から持ってきた紙コップのコーヒーは、とっくに冷めている。蛍光灯の白さだけが無駄に元気だった。


 残っているタスクは一つ。


 設定画面で、通知のオンオフが保存されない。


 小さい。不便ではあるが、月曜まで放っておいても死者は出ない。チャットでも「来週でよくないですか」と言われたし、蓮も理屈ではそう思っていた。


 でも、最後に一個だけ残る小さな不具合が、どうにも気持ち悪い。シャツの裏側にタグが折れこんでいるみたいな、不快さがある。


「これだけ直して帰るか」


 呟いて、保存処理を開く。


 原因はすぐ見つかった。フラグが逆に渡っている。


 `!isEnabled`


 見つけた瞬間、蓮は少しだけ笑った。


「お前かよ」


 直して、ビルドして、起動する。設定画面を開き、通知をオフにして保存、再起動。今度はちゃんと残っている。オンに戻して、もう一度再起動。問題ない。


 呆気ないほど普通だった。


 そのとき、背後で拍手がした。


 ぱち、ぱち、と三回。


 乾いた、小さな音だった。


 蓮は振り返った。会議室、コピー機、半分枯れた観葉植物。誰もいない。


「やめろって」


 口に出した瞬間、自分に言っているのだとわかった。疲れている。さっさと帰ったほうがいい。


 PCを落として、終電ひとつ前で帰宅した。


 翌朝、世界は少しだけおかしかった。


 最初は、本当に少しだけだった。駅前のパン屋の看板が青ではなく緑になっている。コンビニのレジ横にあった募金箱が、見覚えのない猫型になっている。スマホの待ち受けが、設定した覚えのない海の写真に変わっている。


「寝ぼけてんのか」


 独り言を言いながら、蓮は顔を洗った。冷蔵庫の麦茶を飲み、もう一度スマホを見る。やはり海だ。しかも妙に趣味がいい。自分が選ばなさそうで、でも嫌いでもない写真だった。


 母からメッセージが来ていた。


『今日はお父さんの誕生日だから、電話してあげて』


 そこで、蓮の頭はやっと完全に起きた。


 父は五年前に死んでいる。


 しばらく、画面を見たまま動けなかった。冗談とか、誤送信とか、そういう話ではない。母がそんなことをする人ではないし、誕生日の日付も合っている。


 蓮はそのまま電話をかけた。


『もしもし、蓮?』


 母の声はいつも通りだった。


「あのさ」


『なに』


「父さんって」


 続きが出てこない。


 電話の向こうで、母が少し笑った。


『朝からどうしたの。去年だってプレゼント送ってくれたでしょう』


 通話が切れてからも、蓮はスマホを握ったままだった。去年。送っていない。送る相手がいなかった。


 会社に行くと、世界はさらに少しずつずれていた。


 総務の島村が眼鏡をかけていない。営業の飯塚が結婚指輪をしている。後輩の三田は昨日まで長かった前髪がやけに短い。オフィスのレイアウトまで変わっていたら気づけたのに、実際はそういう大きな違いではない。みんな、あくまで本人のまま、少しずつだけ違う。


「相沢さん、顔色悪いですよ」


 三田が言った。


「寝不足」


「昨日、通知保存のやつ直しました?」


「直した」


「助かります。あれ地味に嫌で」


 それだけ言って、三田は自分の席に戻る。まるで何も変わっていないみたいな顔だった。


 変わっていないのかもしれない。おかしいのは自分のほうなのかもしれない。


 席について、蓮は昨日のコミットを開く。


 `fix: save toggle state correctly`


 普段なら何も思わない一行が、今日は少し薄気味悪い。正しく保存。何を。どこまで。


 昼休み、社内プロフィールを見ると、趣味の欄が「登山」になっていた。


「は?」


 登山なんかしたことがない。けれどロッカーを開けると、本当にトレッキングシューズが入っていた。しかもそれなりに使い込まれている。


 蓮はロッカーの前でしばらく黙った。


 たぶん、原因は昨日のあれだ。


 もちろん、本気でそう思いたいわけではない。そんな馬鹿げた話を信じたら、自分がかなり危ない。でも、思考の端でずっと同じ形が見えている。逆になっていたフラグ。保存されなかった設定。直した瞬間の拍手。


 オンとオフが、ひっくり返った。


 元の世界と、今の世界みたいに。


「……意味わかんないだろ」


 笑いかけて、笑えなかった。


 その夜、蓮は誰もいなくなったオフィスにまた残った。昨日と同じ蛍光灯、同じ観葉植物、同じ冷えた空気。昨日と同じPCを起動して、同じファイルを開く。


 保存処理の一行が、そこで待っていた。


 `user.pref.enabled = isEnabled;`


 これを戻せばどうなるのか。


 わからない。元の世界に戻るのかもしれないし、もっと変な場所に飛ぶのかもしれない。そもそも本当にこれが原因なのかも怪しい。


 怪しいくせに、蓮はその一行から目を離せなかった。


 スマホには、昼に届いていた母のメッセージが残っている。


『お父さん、あんたが電話くれないって拗ねてるよ』


 その文面は、妙に具体的だった。いかにも父がやりそうな拗ね方で、だからこそ嫌だった。嫌で、たまらなく欲しかった。


 父は、蓮が大学に入ったころから、あまり長く話す人ではなくなっていた。仲が悪いわけではない。ただ、何となく間が悪かった。実家に帰っても、同じ部屋にいて、野球中継を見て、それで終わる夜が増えた。死ぬ前の数年も、そんな感じだった。


 最後の電話で何を話したか、蓮は思い出せない。


 そのことだけ、ずっと少し引っかかっていた。


「どうすんだよ」


 誰も答えない。


 昨日の自分なら、たぶん迷わず戻していた。異常は直すものだ。想定外は潰すものだ。そのために残業して、そのために休日の通知を嫌々見る。


 でも今は、その異常の中にだけ残っているものがある。


 蓮はしばらく座ったまま、モニターを見ていた。カーソルは点滅している。右手を伸ばせば、一行くらいすぐに戻せる。


 けれど結局、何も触らなかった。


 代わりにPCを閉じて、スマホを手に取る。父の番号を押す。コール音が一回だけ鳴って、すぐに繋がった。


『おう、蓮か』


 聞いた瞬間、胸の奥のどこかが、乱暴に書き換わった気がした。


「誕生日、おめでとう」


 声が少し震えた。


 父は少し笑ったみたいだった。


『なんだ急に。母さんに言われたか』


「まあ」


『お前、そういうの昔から素直じゃないよな』


「父さんに言われたくないけど」


 言ってから、蓮は少し息を吐いた。こんなふうに返したことが前にもあった気がした。なかった気もした。どちらでもよかった。


『今度、帰ってこいよ』


「そのうち」


『そのうちじゃわからん』


「じゃあ、近いうち」


『曖昧だな』


 通話の向こうで父が笑う。


 その笑い方を聞きながら、蓮はふと思った。たぶん自分は、元の世界に戻りたいわけじゃない。ただ、戻さなければならないと思っているだけだった。バグなら修正すべきで、ズレたものは正すべきで、そうしないと気持ちが悪いから。


 でも、気持ち悪さより先に手放せないものがあるなら、それはもう少し厄介だ。


 通話を切ってから、蓮は暗いモニターに映る自分の顔を見た。


 月曜になれば、たぶんまた小さいバグを直す。レビューを返す。仕様の穴を埋める。正しく動く状態を作る。それはそれで続く。


 けれど今夜だけは、一つだけ直さないものを残して帰る。


 観葉植物の横を通り過ぎたとき、また背後で小さな拍手がした気がした。


 今度は振り返らなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ