バグ修正したら世界線が変わった
金曜の夜、一時四十分。
オフィスには相沢蓮しか残っていなかった。
壁際の観葉植物は半分枯れていて、給湯室から持ってきた紙コップのコーヒーは、とっくに冷めている。蛍光灯の白さだけが無駄に元気だった。
残っているタスクは一つ。
設定画面で、通知のオンオフが保存されない。
小さい。不便ではあるが、月曜まで放っておいても死者は出ない。チャットでも「来週でよくないですか」と言われたし、蓮も理屈ではそう思っていた。
でも、最後に一個だけ残る小さな不具合が、どうにも気持ち悪い。シャツの裏側にタグが折れこんでいるみたいな、不快さがある。
「これだけ直して帰るか」
呟いて、保存処理を開く。
原因はすぐ見つかった。フラグが逆に渡っている。
`!isEnabled`
見つけた瞬間、蓮は少しだけ笑った。
「お前かよ」
直して、ビルドして、起動する。設定画面を開き、通知をオフにして保存、再起動。今度はちゃんと残っている。オンに戻して、もう一度再起動。問題ない。
呆気ないほど普通だった。
そのとき、背後で拍手がした。
ぱち、ぱち、と三回。
乾いた、小さな音だった。
蓮は振り返った。会議室、コピー機、半分枯れた観葉植物。誰もいない。
「やめろって」
口に出した瞬間、自分に言っているのだとわかった。疲れている。さっさと帰ったほうがいい。
PCを落として、終電ひとつ前で帰宅した。
翌朝、世界は少しだけおかしかった。
最初は、本当に少しだけだった。駅前のパン屋の看板が青ではなく緑になっている。コンビニのレジ横にあった募金箱が、見覚えのない猫型になっている。スマホの待ち受けが、設定した覚えのない海の写真に変わっている。
「寝ぼけてんのか」
独り言を言いながら、蓮は顔を洗った。冷蔵庫の麦茶を飲み、もう一度スマホを見る。やはり海だ。しかも妙に趣味がいい。自分が選ばなさそうで、でも嫌いでもない写真だった。
母からメッセージが来ていた。
『今日はお父さんの誕生日だから、電話してあげて』
そこで、蓮の頭はやっと完全に起きた。
父は五年前に死んでいる。
しばらく、画面を見たまま動けなかった。冗談とか、誤送信とか、そういう話ではない。母がそんなことをする人ではないし、誕生日の日付も合っている。
蓮はそのまま電話をかけた。
『もしもし、蓮?』
母の声はいつも通りだった。
「あのさ」
『なに』
「父さんって」
続きが出てこない。
電話の向こうで、母が少し笑った。
『朝からどうしたの。去年だってプレゼント送ってくれたでしょう』
通話が切れてからも、蓮はスマホを握ったままだった。去年。送っていない。送る相手がいなかった。
会社に行くと、世界はさらに少しずつずれていた。
総務の島村が眼鏡をかけていない。営業の飯塚が結婚指輪をしている。後輩の三田は昨日まで長かった前髪がやけに短い。オフィスのレイアウトまで変わっていたら気づけたのに、実際はそういう大きな違いではない。みんな、あくまで本人のまま、少しずつだけ違う。
「相沢さん、顔色悪いですよ」
三田が言った。
「寝不足」
「昨日、通知保存のやつ直しました?」
「直した」
「助かります。あれ地味に嫌で」
それだけ言って、三田は自分の席に戻る。まるで何も変わっていないみたいな顔だった。
変わっていないのかもしれない。おかしいのは自分のほうなのかもしれない。
席について、蓮は昨日のコミットを開く。
`fix: save toggle state correctly`
普段なら何も思わない一行が、今日は少し薄気味悪い。正しく保存。何を。どこまで。
昼休み、社内プロフィールを見ると、趣味の欄が「登山」になっていた。
「は?」
登山なんかしたことがない。けれどロッカーを開けると、本当にトレッキングシューズが入っていた。しかもそれなりに使い込まれている。
蓮はロッカーの前でしばらく黙った。
たぶん、原因は昨日のあれだ。
もちろん、本気でそう思いたいわけではない。そんな馬鹿げた話を信じたら、自分がかなり危ない。でも、思考の端でずっと同じ形が見えている。逆になっていたフラグ。保存されなかった設定。直した瞬間の拍手。
オンとオフが、ひっくり返った。
元の世界と、今の世界みたいに。
「……意味わかんないだろ」
笑いかけて、笑えなかった。
その夜、蓮は誰もいなくなったオフィスにまた残った。昨日と同じ蛍光灯、同じ観葉植物、同じ冷えた空気。昨日と同じPCを起動して、同じファイルを開く。
保存処理の一行が、そこで待っていた。
`user.pref.enabled = isEnabled;`
これを戻せばどうなるのか。
わからない。元の世界に戻るのかもしれないし、もっと変な場所に飛ぶのかもしれない。そもそも本当にこれが原因なのかも怪しい。
怪しいくせに、蓮はその一行から目を離せなかった。
スマホには、昼に届いていた母のメッセージが残っている。
『お父さん、あんたが電話くれないって拗ねてるよ』
その文面は、妙に具体的だった。いかにも父がやりそうな拗ね方で、だからこそ嫌だった。嫌で、たまらなく欲しかった。
父は、蓮が大学に入ったころから、あまり長く話す人ではなくなっていた。仲が悪いわけではない。ただ、何となく間が悪かった。実家に帰っても、同じ部屋にいて、野球中継を見て、それで終わる夜が増えた。死ぬ前の数年も、そんな感じだった。
最後の電話で何を話したか、蓮は思い出せない。
そのことだけ、ずっと少し引っかかっていた。
「どうすんだよ」
誰も答えない。
昨日の自分なら、たぶん迷わず戻していた。異常は直すものだ。想定外は潰すものだ。そのために残業して、そのために休日の通知を嫌々見る。
でも今は、その異常の中にだけ残っているものがある。
蓮はしばらく座ったまま、モニターを見ていた。カーソルは点滅している。右手を伸ばせば、一行くらいすぐに戻せる。
けれど結局、何も触らなかった。
代わりにPCを閉じて、スマホを手に取る。父の番号を押す。コール音が一回だけ鳴って、すぐに繋がった。
『おう、蓮か』
聞いた瞬間、胸の奥のどこかが、乱暴に書き換わった気がした。
「誕生日、おめでとう」
声が少し震えた。
父は少し笑ったみたいだった。
『なんだ急に。母さんに言われたか』
「まあ」
『お前、そういうの昔から素直じゃないよな』
「父さんに言われたくないけど」
言ってから、蓮は少し息を吐いた。こんなふうに返したことが前にもあった気がした。なかった気もした。どちらでもよかった。
『今度、帰ってこいよ』
「そのうち」
『そのうちじゃわからん』
「じゃあ、近いうち」
『曖昧だな』
通話の向こうで父が笑う。
その笑い方を聞きながら、蓮はふと思った。たぶん自分は、元の世界に戻りたいわけじゃない。ただ、戻さなければならないと思っているだけだった。バグなら修正すべきで、ズレたものは正すべきで、そうしないと気持ちが悪いから。
でも、気持ち悪さより先に手放せないものがあるなら、それはもう少し厄介だ。
通話を切ってから、蓮は暗いモニターに映る自分の顔を見た。
月曜になれば、たぶんまた小さいバグを直す。レビューを返す。仕様の穴を埋める。正しく動く状態を作る。それはそれで続く。
けれど今夜だけは、一つだけ直さないものを残して帰る。
観葉植物の横を通り過ぎたとき、また背後で小さな拍手がした気がした。
今度は振り返らなかった。




