表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/43

雪降る夜

マスターからの電話で目が覚めた。

腰が痛い、今日は休むから店を頼む――そんな言葉を残して、切断音が遅れて届いた。


もういい歳だしな……仕方ない。


予定よりも早い出勤になる。

シャワーを浴びてから、枕元のデジタル時計を確認する。

14:07、まだ余裕はある。


家のドアを開けると、雨が降り始めていた。

そのまま閉め、家の中に引き返す。


今着たばかりの服をベッドに投げ、クローゼットからインナーを取り出す。

冷たいインナーが、首元のネックレスに通した指輪の上を滑り落ちていく。その感触に小さく身を震わせてから、もう一度服を着込んだ。


傘を手にしてドアを開けた瞬間。

ふと、靴が濡れるな。

そんな小さな憂鬱が胸の中に影を落とした。


なぜか今でも、その感覚だけは覚えている。


 

店に着いてすぐ、丸めたおしぼりをタオルウォーマーに並べてスイッチを入れる。開店の時間までには、十分にお客様の冷えた手を温めてくれるはずだ。


開店の準備を終え、完璧に整った店内をもう一度見渡す。

重いドアを押し開けて看板を出した。蝶番が、いつもより不安げに軋む。

雨は、みぞれ混じりになっていた。


コンセントに繋がれた看板が照らす街並みは、沈んだ色をしていた。

 

思った通り、来客は目に見えて落ちた。

高い窓の外では、みぞれがいつの間にか雪に変わっていた。

時折開くドアから流れ込む冷気が、鋭くなる。車通りもほとんどない。


雪の日は、すべての音が消える。

雑踏も、喧騒も、人々の焦燥すらも――降りしきる雪に溶けて。街には張り詰めた静寂だけが残されていた。


少しずつ、ゆっくりと空席が埋まっていく。オーダーの声は少ない。

抑えられたBGMと、シェーカーの小気味よい音だけが響く。


少しは営業として形になっただろうか。そんな安堵が胸をかすめた矢先。

せっかく来てくださったというのに、皆足早に席を立っていく。


おしぼりを補充し、グラスを洗う。技術が足りないのだろうか、練習を増やすべきか――答えのない問いが頭の中を巡る。


すべてのグラスを引き上げ、窓を見る。

雪は雨に戻っていた。


少しだけドアを開けて外を覗く。

雪は痕跡を残さず溶けていた。降っていた時間は、二時間にも満たない。


それでも、まばらなネオンが照らす街並みに、人の姿は見えなかった。

先程までの雪が、人の気配まで消してしまった――そんな不穏な想像に、身を震わせた。

 

店内にグラスを磨くキュッ、キュッ、という布の音が響く。心の中で不安が揺蕩ったまま消えてくれない。

気持ちを抑え込み、磨き終わったグラスをホルダーに戻す。


カウンターに一人残っていた最後のお客様が、そろそろ、と申し訳なさそうに席を立つ。

聞こえないように小さな溜息を漏らす。マスターがいればどやされるな。そう思いながら、作り笑顔で会計をした。

 

お預かりしていた上着をお渡しする。

ドアの外に立って、足元にお気を付けて、と声を掛ける。


小さくなっていく後ろ姿を、少しだけ目を細めて見送る。

街の音に耳を澄ませても――タイヤが濡れた路面を切り裂く音が、遠くに聞こえるだけだった。


蝶番を軋ませて、いつもより重く感じるドアを開け、店内に戻る。

ゆっくりと閉まるドアを背に、自分の未熟さに打ちひしがれていた。


いけない、こんなんじゃ。

一人残されたカウンターの中で、気合を入れ直そうと頬を張った瞬間。


蝶番が、低く唸るような音を立てて、軋んだ。

その音が……やけに近い。


流れ込む冷たい空気が、店内の温度を下げる――それは、気温のせいだけではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ