雪降る夜
マスターからの電話で目が覚めた。
腰が痛い、今日は休むから店を頼む――そんな言葉を残して、切断音が遅れて届いた。
もういい歳だしな……仕方ない。
予定よりも早い出勤になる。
シャワーを浴びてから、枕元のデジタル時計を確認する。
14:07、まだ余裕はある。
家のドアを開けると、雨が降り始めていた。
そのまま閉め、家の中に引き返す。
今着たばかりの服をベッドに投げ、クローゼットからインナーを取り出す。
冷たいインナーが、首元のネックレスに通した指輪の上を滑り落ちていく。その感触に小さく身を震わせてから、もう一度服を着込んだ。
傘を手にしてドアを開けた瞬間。
ふと、靴が濡れるな。
そんな小さな憂鬱が胸の中に影を落とした。
なぜか今でも、その感覚だけは覚えている。
店に着いてすぐ、丸めたおしぼりをタオルウォーマーに並べてスイッチを入れる。開店の時間までには、十分にお客様の冷えた手を温めてくれるはずだ。
開店の準備を終え、完璧に整った店内をもう一度見渡す。
重いドアを押し開けて看板を出した。蝶番が、いつもより不安げに軋む。
雨は、みぞれ混じりになっていた。
コンセントに繋がれた看板が照らす街並みは、沈んだ色をしていた。
思った通り、来客は目に見えて落ちた。
高い窓の外では、みぞれがいつの間にか雪に変わっていた。
時折開くドアから流れ込む冷気が、鋭くなる。車通りもほとんどない。
雪の日は、すべての音が消える。
雑踏も、喧騒も、人々の焦燥すらも――降りしきる雪に溶けて。街には張り詰めた静寂だけが残されていた。
少しずつ、ゆっくりと空席が埋まっていく。オーダーの声は少ない。
抑えられたBGMと、シェーカーの小気味よい音だけが響く。
少しは営業として形になっただろうか。そんな安堵が胸をかすめた矢先。
せっかく来てくださったというのに、皆足早に席を立っていく。
おしぼりを補充し、グラスを洗う。技術が足りないのだろうか、練習を増やすべきか――答えのない問いが頭の中を巡る。
すべてのグラスを引き上げ、窓を見る。
雪は雨に戻っていた。
少しだけドアを開けて外を覗く。
雪は痕跡を残さず溶けていた。降っていた時間は、二時間にも満たない。
それでも、まばらなネオンが照らす街並みに、人の姿は見えなかった。
先程までの雪が、人の気配まで消してしまった――そんな不穏な想像に、身を震わせた。
店内にグラスを磨くキュッ、キュッ、という布の音が響く。心の中で不安が揺蕩ったまま消えてくれない。
気持ちを抑え込み、磨き終わったグラスをホルダーに戻す。
カウンターに一人残っていた最後のお客様が、そろそろ、と申し訳なさそうに席を立つ。
聞こえないように小さな溜息を漏らす。マスターがいればどやされるな。そう思いながら、作り笑顔で会計をした。
お預かりしていた上着をお渡しする。
ドアの外に立って、足元にお気を付けて、と声を掛ける。
小さくなっていく後ろ姿を、少しだけ目を細めて見送る。
街の音に耳を澄ませても――タイヤが濡れた路面を切り裂く音が、遠くに聞こえるだけだった。
蝶番を軋ませて、いつもより重く感じるドアを開け、店内に戻る。
ゆっくりと閉まるドアを背に、自分の未熟さに打ちひしがれていた。
いけない、こんなんじゃ。
一人残されたカウンターの中で、気合を入れ直そうと頬を張った瞬間。
蝶番が、低く唸るような音を立てて、軋んだ。
その音が……やけに近い。
流れ込む冷たい空気が、店内の温度を下げる――それは、気温のせいだけではなかった。




