女王の平手打ち
初めて作った女王は、チェリーの赤を底に沈めたまま、静かに佇んでいた。
「でき、た……。」
マスターはまだ小さく笑っている。
――そんなに変かよ。
いや、今は自分の舌で確かめるしかない。
グラスを持ち上げ、鼻に寄せる。焦がした樽香の甘さの奥に、ベルモットのハーブが潜んでいる。
一枚、二枚、と薄い層みたいに重なって、鼻腔をくすぐる。
口を付ける。唇に触れる冷たさが、気持ちいい。
期待を抱えたまま、恐る恐る液体を流し込んだその瞬間だった。
ワイルド・ターキー8年が持つアルコール度数、50.5%。その刺激が、容赦なく口の中を刺すように暴れ出す。
ガツン、と重い甘さが口の中で巡り、追いかけるようにハーブのスパイスとカラメルの甘さが襲ってくる。
口の中で、目まぐるしく顔が変わる。
つまりは――
「ウヘェッ! ゲホ、ゲホッ! 何だ、これっ! 全然、バラッバラ!」
マスターが声を上げて笑い、オレの背中を叩いた。
「やっぱりな。お前ならターキー選ぶと思ってたぜ。」
小さなビアグラスを棚から掴み、水道水を汲んで一気に飲み干す。
チキショウ、最初っから分かってたってことかよ!
「ターキーも、チンザノのスイートもクセが強いのさ。ぶつかりゃ、こうなる。酒と酒の相性、ってやつだな。」
カウンターに置かれた女王を、顎で示す。
「女王は気難しいんだぜ? 機嫌がいいフリをして、平気で平手を打ってくる。いい女と一緒さ――って、まだお前にゃ早いか。」
酒と酒の、相性。
頭の中では分かっていたつもりだった。レシピは、その前提の上にあるんだって。
でもこれは――銘柄ひとつで、ここまで顔が変わる。その事実を、真正面から叩きつけられた気がした。
「すげえ……これが、カクテルの女王、か。いつかオレも、このカクテルを完璧にマリアージュさせることができるのかな……。」
「ん〜、どうだろうなぁ?」
マスターは鼻で笑って、グラスを軽く揺らした。
「"完璧"って言葉が、一番危ねえ。酒はな、同じ銘柄でも別物になる。」
「……別物?」
マスターは肩をすくめる。
「酒ってのは人が作って、人が飲む。だから変わる。時代でも、その年でも、その日でもな。おまけに、飲み手の好みも、気分も――それこそ女心と秋の空、ってな。同じ客でも、昨日と今日じゃ別物だ。」
「変わって、いく……。」
「そういうこった。」
マスターは、さっきより少しだけ鋭い目で、女王を見た。
「ウイスキーだけじゃねえ。スピリッツやリキュールも同じだ。
度数が変わる。ブレンドが変わる。原酒が変わる。樽が変わる。仕上げの加水ひとつで、角も、甘みも、立ち上がりも――全部ズレる。
色も、香りも、味までもが、平気で変わりやがる。」
オレの喉が、ヒュッと鳴った。
「……じゃあ、レシピブックの"正解"も……」
「崩れる。音立ててな。だからバーテンダーは、レシピじゃなくて今夜の酒を見る。同じ名前でも、同じ味だと思うな。」
積み上げてきた付箋の地層が、崩れていく。
できたと思った次の瞬間に、同じ一杯が作れなくなる――そんな世界。
どれほどの研鑽が意味をなくすのか……想像するだけでゾッとした。
「完成なんて、どこにもねえ。完璧だ、と思ったその時が、スタートラインなのさ。だからオレ達バーテンダーは、酒に向き合わなきゃならねえんだよ。」
息が詰まる。
「それは……苦しく、ないんですか?」
マスターは鼻の頭を掻きながら、何でもないことかのように応える。
「ああん? だから面白いんじゃねえか。いつだって最高傑作は次の一杯、ってな。」
そう言って、鋭さを増した瞳でオレの作った女王を掲げて、ニカッと笑う。
「満足するのは――死ぬ時だけ、で充分だろ?」
バーテンダー。
その頂の高さを、この時初めて垣間見た気がした。




