レシピブックの地層
あのギムレットの夜から一カ月。
少しは作れるようになってきたという自信が、一日ごとに大きくなって――すべてが順調だと思っていた。
そんな頃だった。
「お客様がいない時なら、高い酒使わねぇんなら技術研究費で落としてやるよ。ま、一日二杯までな。」
マスターはそう言って、実際にある程度カクテルを作らせてくれた。
その日は、雨が降っていたこともあって、なかなか蝶番は鳴らないままだった。
控えめなBGMに冷蔵庫の低い唸り声が混じる。ドアの向こうで雨に濡れた路面を通り抜ける、タイヤの音だけが遠い。
そんな、夜だった。
バックバーのボトルは、キャップの中まで磨き終わっていた。毎日磨いていたせいで、ラベルが剥げかけているボトルもある。
指紋一つ残さずに前を向くボトル達が、少しだけ誇らしく見えた。
――口開けはもう少し先かも知れないな。
「おう、今日もやるか?」
「はい、お願いします!」
そう返して、バックヤードからレシピブックを引っ張り出す。
それは、テイスティングの感想の付箋だらけの、あちこちがデコボコと不格好な――マスターからもらった時に比べると、随分分厚くなった一冊だった。
同じカクテルでも、スピリッツやリキュールの銘柄を変え、幾度となく作ったカクテルもあって。
始まりの"あの日"に飲んだギムレットなんかは、二十枚以上の付箋が、元の記述を覆い隠すほどだった。
「まるで地層だな、お前の付箋は。」
マスターがそう言って笑う。
けれど、確かにこれはオレの努力の地層なんだな、と思うと、それすらも嬉しかった。
そんなレシピブックも、まだ後半はまっさらなページが目立つ。
今日は新しいカクテルに挑戦してみたい。そう思って、パラパラと捲っていた時、ふと手が止まる。
マンハッタン。
ウイスキーをベースにした、クラシカルなカクテル。
その誕生は、チャーチルの母が考案したとも、ガンマンの気付け薬とも――いくつもの由来があって。
その由来の多さが、歴史の深さを物語っていた。
「カクテルの、女王、か……。」
まだ実際に飲んだことはない。
ガーニッシュも、マラスキーノ・チェリーがカクテルピンに刺さっただけの、極めてシンプルなもの。
飲んで、みたい。
今のオレなら出来るはずだ。
よし……今日はこれに挑戦してみよう。
「マスター。今日マンハッタンやってみたいんですが、いいですか?」
「お、いいところに目を付けたな。やってみな。」
そう答えるマスターの目は、何かを企むように笑っていた。
マスターは歳の割に、子供っぽいところを見せることがある。絶対今も、碌なことを考えてない気がした。
そして――この時オレはまだ、女王の気高さを知らずにいた。




