グラスに込めた願い
マスターは、それだけを告げて、後はもう何も言わなかった。
再びシェーカーを取り出し、氷を組む。
スーズを45ml。フレッシュなライムを搾り15ml。
メジャーカップに計り、シェーカーに落とす。
左肩の前で構える。
このカクテルは、強く振るべきじゃない。意識をシェーカーの中に向け、先程よりは少しだけ柔らかな、小気味良い音がもう一度カウンターに響く。
"黄色いカンパリ"――そう呼ばれるリキュールの持つ、ハーブ由来の苦味と仄かな甘味。それをライムの鋭い酸味で引き締める。
二つの液体が混ざり合っていくのを指先で感じる。
ゆっくりと速度を落とし、シェーカーの残響が消える前にキャップを外す。
少しだけスリムなカクテルグラスに注ぐ。最後の一滴が滴り落ちるのを見届け、シェーカーを回して――そのグラスを手に、テーブルに戻る。
「では……献杯。」
グラスを小さく掲げ、合わせることはしない。
瞼を閉じ、黙祷を捧げる。顔を上げ、目を開けた時に映ったのは――スーズ由来の美しい、包み込むような力強さを感じる黄色。
その黄色が、ダウンライトの光を透かしてテーブルの上に小さな光を落とす。グラスの表面に浮くわずかなフレークが、プリズムのように反射していた。
「献杯――その、カクテルは?」
片手でギムレットを持ち上げたお客様が、見慣れない色のカクテルグラスを見つめるように顔を上げる。
余計なことを、と言われるかも知れない。
でも……このカクテルには、オレの想いが込もっている。その想いには、なんの偽りもない。
このカクテルは。
「スーズ・ギムレットと申します。スーズの原料のゲンチアナは、リンドウの近縁種。リンドウの花言葉は……」
小さく息を飲む。
一瞬だけ迷って、それでも言葉を続ける。
「『あなたの悲しみに寄り添う』――少しでも、皆さんの悲しみに寄り添うことができたなら……そう思って。」
グラスを持つ手がわずかに震えた。
奥の、若いお客様が小さく頭を振る。その背中に手を回しながら、年嵩のお客様が言葉を紡ぐ。
「寄り添う、か……。」
少しだけ、目を細めて、オレの持つグラスを見る。
「分かってはいるんだよ……本当はね。全部抱えちゃいけないんだって。それでもやっぱり……ご家族の泣き顔を見ると、やり切れなくてなぁ。」
声が、かすかに上擦る。その唇を悔しそうな形に歪めて、押し込めていた悲しみが、声に乗って漏れる。
「私には……その悲しみに、言葉を返せる術がありません。」
唇を噛む。それでも、伝えたい思いは消えなかった。
「ですが。このスーズ・ギムレットには、もう一つの意味があるんです。」
「もう一つの意味?」
それは、祈りにも似て。
「はい。花言葉のように、カクテルにも言葉があるんです。
そして、このスーズ・ギムレットのカクテル言葉は――」
バーテンダーとしてこうありたい、という願いと一緒に、このカクテルに込めた、それは希望――お客様に届けたかった、メッセージ。
瞬間、喉が詰まる。息を吸って、一息に――
「"悲しみを乗り越えて"」
奥の……あの、顔を歪ませていた、若い医師。
堪え切れなくなったのか口元を抑えて、それでも漏れる嗚咽は……きっと、体験したことのある者にしか分からない、孤独と――絶望。
「キミのような若い人に背中を押されるとは、な。」
嗚咽を漏らして隣の席に座るお客様を、慰めるように抱き寄せながら、自嘲するように呟く。
肩を揺らし、嗚咽を止められないでいるそのお客様を見つめながら、オレはいつかのマスターの言葉を思い出す。
『悲しむべき時は、ちゃんと悲しめ――悲しい時は、泣け。余計なことを考えずに、相手のことを思え。』
そうだ。泣いて、泣いて、吐き出した方が楽になれる。
「差し出がましい真似を失礼いたしました。」
オレが頭を下げると同時に、スピーカーから流れるBGMが、嗚咽を包み隠すように少しだけそのボリュームを上げた。
マスターの仕業だ。
お客様がオレの向こうのマスターに片手を挙げ、マスターもそれに片手を挙げて返すのが見えた。
「いや、いいんだ。ありがとう、その気持ちが嬉しいよ――コイツを飲んだら、オレにもそのスーズ・ギムレットをもらえるかな?」
「かしこまりました。では、頃合いを見てお作りいたします。」
小さく頭を下げ、
「今宵は、私からの送り火として、こちらも添えさせていただけますか?」
そう言って、カウンターの棚に置かれていた――本来はパーティーの時にだけ出すキャンドルを、一つ。
テーブルの上に、そっと差し出す。
その日から、彼等が煙草を吸う日には、キャンドルとスーズ・ギムレット。
今でもまだ、彼等の煙草の匂いを覚えている。




