騒然
始まる前から――その言葉に、坂上さんも山村さんも、木下さんに詰め寄る。
「なっ……木下さん! それ、どういうことですか!」
「そうですよ! さすがにそりゃないんじゃないですか!?」
木下さんは深く溜め息をついて、突然横山マスターに向かって頭を下げた。
「申し訳ありません。私の指導不足でした。」
「そうだな、まあそれを言うなら私も同罪だ。お前一人の責任にするつもりはない。改めて一から教育のし直しだな。」
横山マスターだけが笑っていた。
山村さんは意味がわからないとでも言うように、さらに詰め寄る。
「し……指導不足って! どういうことですか!」
少しだけ呆れた顔で、木下さんが答える。
「じゃあ聞くけどな、山村。坂上。オレたち三人がオーダー出した時。お前ら、返事したか?」
――そういえば、返事してたの、オレだけだったな。
「チーフは返事どころか、アレキサンダーにはブランデーベースかどうか聞いてたし、『酒とバラの日々』を引き合いに洒落まで飛ばして見せた。マスターには代行の心配までしてたぞ? チーフはそのカウンターに立った瞬間から、バーテンダーとして接客してたんだ。それにな。」
カウンターの作業台を指差す。
「もう、全部終わってるぞチーフは。今オーダーが出ても、すぐに作り始めることができる。」
そう。
オレの作業台は、立った時と同じように整然としていた。
常にこの状態にしておかないと、次のオーダーに対応できない――もう、完全に癖になっている。
お二人の作業台は、まだ奮闘の後がそのままに残されていた。
「チーフは作り終えたと同時にシェーカーをシンクに置いていた。だから作業台のスペースも確保できたし、洗い物もスムーズに始められた。ペティナイフも、レモンの酸で錆びるなんてことはないなぁ。」
「そういうこったな。忘れたか? パーティーを想定して三杯の同時オーダー、という設定だったはずだ。お前ら、お客様からオーダーいただいて、無視してカクテル作り始めんのか? 三杯作り終わったら、次のオーダーはもう出ないのか?」
横山マスターのその言葉に、もう誰も言葉を発することができなくなっていた。
その空気にいたたまれなくなって、焦ってフォローを入れる。
「いえ、私は常に一人で回してましたから、このくらいはいつもですし。一杯ずつ、落ち着いて対応されれば、とてもじゃないですが私など」
「それが普通じゃねえんだよ、チーフ。お前んところはテーブル席入れて……二十席だったか? 今、大体いつもどんくらい入るんだ?」
来店客数のことか? 最近はおしぼりも最低二袋は使うから……。
「そうですね……一日、大体少なくとも三十から四十名は入られますかね?」
「分かるかお前ら。営業時間は八時間。その間、常に十人以上の客を一人で捌き続けてるんだよ。それがこの仕事の違いだ。年齢なんざ関係ねぇ、仕事は結果が全てだ。」
百瀬さんが下を向く。木下さんが横山マスターに続く。
「本当にマスターの言う通りです。次の仕事まで見越して、チーフは動いていた。二人は、目の前の勝負にだけ囚われていた。その上で、勝負でも完全に勝った。この結果を見て、まだチーフの腕に疑問を持つ者がいたなら、手を挙げなさい。」
誰も、手を挙げようとはしなかった。下を向き、何事か考え込んでいる。
「相崎さんも認めたという、彼の腕……私も、まさかここまで、とは思ってませんでしたが……。」
「なんだ木下。お前もまだまだだな?」
今度は、木下さんが驚く番だった。
「このくらい、チーフなら当たり前だろ? オレもチーフの酒を飲むのは初めてだったがな、飲むどころか、カウンターに立つ前から分かるだろうが。」
「えっ……いや、さすがにそれは……。」
「木下。手を見せてみろ。」
よく分からない表情のまま、木下さんが掌を前に出す。
その手は――指先が細かいヒビに覆われ、中指と薬指にはすっかり硬くなった、大きなタコができ……小指は、少し曲がっていた。
「チーフ。お前もだ。」
「えっ、私、ですか……?」
「ああ。お前の、手を見せろ。」
言われるがまま、掌を広げて前に出す。
皆が、大きく息を吸うのが見える。
オレの手は――。
「これを見て、コイツの努力を見抜けないヤツはな。まだまだ努力が足りねえ証拠だ。オレが、同門の若いの、って情だけで手を貸そうとしてると思ったか?」
横山マスターがオレの手を取り、その手を愛おしそうに撫でながら……悲しそうに、目を細める。
「大きくヒビ割れ……タコもこんなに大きく、硬くなって……小指も、こんな……ッ。」
顔を伏せ、手に力が入る。
「これが……バーテンダーの、手だ。この手を見て、力を貸さない、なんて言うヤツぁ……この店にはいらん。
分かったかッ!!」
「「「「「はいっ!!」」」」」
声を詰まらせるようにして、全員が返事をする。
バーテンダーの、手……。
それは、横山マスターが同情などではなく、オレを一人のバーテンダーとして認めてくれた、ということ。
オレの胸に、熱いものが込み上げる。
皆さんを満足げに見渡した後、横山マスターが口を開く。
「よし。決めたぞ、木下。明日からパーティーまで、全員一人ずつ交代でチーフの店にヘルプに行け。学ぶことだらけだぞ、これは! そっから当日ヘルプに行きたいやつを決めろ。」
思わず喉から声が漏れる。
「えっ!?」
「パーティーまでにはスムーズに動けるようにならなきゃならんから、それまでは全員でローテーションにするけどな。パーティーの後も、新人を行かせてくれると助かる。」
いや…さすがにそれは……。
頭の中で人件費、と言う言葉がグルグルと回る。今、店にそんな余裕は、ない……!
「心配すんな、コイツらの研修だ。こっちから頭下げてでも勉強させて欲しいくらいだよ。だから人件費はこっちで出す。どうだ、木下。いいアイデアじゃないか?」
「そうですね! 私も、今から楽しみですよ! 山村、坂上! 二人も、どうだ?チーフの仕事、間近でもっと見せて欲しくないか?」
「「はい! ぜひ、お願いします!」」
……あれ、オレの返事を待たずに話進んでない!?
「そんな……そこまでしてもらう訳には、」
「何言ってんだよ! そもそも、研修生なんて無給が当たり前なんだぞ、バーテンダーなんて! それを給料まで出してやるってんだ。コイツらにとっても勉強になる! ウチも新人の育成が進む! メリットだらけなんだよ。」
そう言って、笑いながらオレの肩に手を置く。
「どっちにしても、もう決めたからな。頼んだぜ、チーフ!」
「えぇー!」
「あ、そうだ。」
そう言って、またあの悪戯を思い付いたような笑いを浮かべて、百瀬さんを振り返る。
「あとな。百瀬、お前大きな勘違いしてるぞ。」
勘違い? なんだ……?
ものすごく嫌な予感がするぞ。
「お前、確か今年二十七だったよな。チーフ、お前今いくつだっけ?」
……嫌な予感が止まらないんだけど。
「二十一、ですが。」
「そういうことだ。コイツ、まだ大学生だからな。お前らより全然若いから。」
「「「「「嘘だろおぉっ!!!」」」」」
木下さんまでもが、顎が外れるんじゃないかってほどに驚いていた。
なんでだよっ! 味方だと思っていたのに!
Bar Yは、その夜一番の騒然とした雰囲気に包まれていった。




