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勝負の行方

余ったレモンをラップで包んで冷蔵庫を開ける。一緒に生クリームを仕舞い、開封した口を閉じることも忘れない。ゴードンも合わせて元あった場所に戻す。


ペティナイフとカッティングボード、ミキシンググラスを並べてシンクに置く。そのまま洗おうと水道の蛇口を捻りながらスポンジに手を伸ばした時。

そこでやっと横山マスターが言っていた二人、という言葉の意味を思い出す。


――勝負のことなど、すっかり忘れていた。


振り向いた先では、坂上さんがタンブラーグラスにジン・フィズを注いでいる姿があった。

焦っているのだろう、手元が震えているように見える。


山村さんはちょうどステアを終え、マティーニをカクテルグラスに注いでいるところだった。

オリーブは……まだ瓶の蓋を開けていなかった。


――大箱だもんな。

バーテンダーがこれだけいれば、違うカクテルを同時に作る、なんて機会はそうそうないだろう。違うカクテルが同時に出たなら、分業する方がよほど効率はいい。

そんなことを洗い物をしながら考える。


山村さんのマティーニが完成する。

横山マスターの前に差し出し、ふぅ、と息を吐き出すのが見えた。

シェーカーはそのままになっていた。


洗い物を終え、使用したボトルを元の場所に戻し、作業台の上をダスターで拭き始めた時だった。


もう一度シェイクの音がした。

坂上さんだった。

手元の震えは目に見えるほどで、シェイクの音に微細なブレが出ている。ストロークの軌道もズレているように見えた。

あれじゃ氷が必要以上に砕けて、加水が進むはずだ。味がボケてしまう。


グラス用のダスターでペティナイフの水分を拭き取る。

ミキシンググラスに手を伸ばし、ダスターを中に入れて磨き始めた時、シェイクの音が止まった。

カクテルグラスを冷凍庫から出し、キャップを開けようとして――手間取っていた。


「あ、あれ、あれっ! 外れ、ない!」


「そこまで、だな。」


横山マスターが終了を告げる。


「坂上。まだ、続けたいか?」


唇を噛んで、下を向くのが見える。握り締めた拳は、小刻みに震えていた。


「……いえ。私の、負けです。」


残酷なようだが、たとえキャップが問題なく開いたとしても。あのアレキサンダーは、とてもじゃないが美味しいとは思えなかっただろう。


「さて、と。これで、実質的に二人の勝負、だな。まあ、飲むまでもないが。」


山村さんが顔を上げ、眉を顰める。

確かにオレの方が早かったかも知れない。でも、味だって重要な審査対象のはず。


「まあ、一応は飲むさ。百瀬。まずはお前のジン・フィズだ。」


「――はい。」


百瀬さんが二つのグラスを手に持ち、交互に口にする。

山村さんの作業台には、ゴードンのボトル。

ただ、スクイーザーの上には、変形したレモンの残骸が見えた。


「あれ? こっちの方が……苦い?」


山村さんが驚愕に目を見開く。


「山村の方だな。同じジン、同じレモン、同じシュガーシロップ。だが、明確な差が出た。山村、何故かわかるか?」


「いや……そんな、だって材料も一緒だし……!」


フン、と笑って、横山マスターはオレを見る。


「チーフは、何故だと思う?」


「……恐らく、ですが。レモンを焦って搾ろうと力を込め過ぎて、アルベド――中果皮の部分までスクイーザーに当ててしまったのでは。」


山村さんが思い至ったようにレモンの残骸に目を向ける。


「正解だ。さぁ、次は木下のアレキサンダー、だな。飲んでみろ。」


「……はい。」


まずは、山村さんのアレキサンダーを口に運ぶ。


「――うん、美味しい!」


グラスを戻し、オレのアレキサンダーを手に取る。


「馬鹿な、なんで……。」


木下さんの目が見開かれ、二つのグラスを行き来する。


「どうした? ちゃんと表現してみろ。それもバーテンダーには必要な技能だぞ。」


狼狽えながら一度だけ山村さんを見て――顔を落とす。


「チーフが作った方が――美味しい、です。山村のアレキサンダーよりも……チーフの方のが、香りがいい、と感じました……。」


「なんだと! 木下さん、それは流石におかし――」


「黙れ山村! お前は、お客様にも同じことを言うのか!」


ぐ、っと山村さんが言葉を詰まらせ、それでも納得いかないというように反論する。


「しかし! このアレキサンダーは、いつも通りに!」


「なら、実際に飲み比べてみればわかるだろ。飲んでみろ。」


そう言われて、山村さんが二つのグラスを手に取る。まずは、自分で作ったアレキサンダーを口に含む。


「――やっぱり、いつも通りの出来です。これが臭いなんて、やっぱり木下さんがおかしいとしか――」


「御託はいいから、チーフのを飲んでみろ。それから、もう一度自分のを飲め。そうすれば、答えがわかるはずだ。」


さすがは横山マスターだ。臭い、と言われた理由がわかっているようだった。

山村さんはそのまま、オレのグラスを口に含む。


「……? 美味しい、けど何かが……。」


そう言って、もう一度自分のグラスを唇に寄せて――


「……! ナツメグ、か!」


「そうだ。お前はナツメグを入れた。 チーフは入れなかった。その違い、だな。」


「ですが……何故! ナツメグを入れるのが、スタンダードなはずじゃ!」


横山マスターがオレの方を向いて、顎をしゃくる。


「ナツメグは……本来は入れません。」


横山マスター以外の口から、驚く声が漏れる。


「少なくとも古いアレキサンダーのレシピには見当たりません。今ではナツメグを振る形が一般的ですが、私はブランデーの香りを活かしたいので使いません。」


知ってたか? いや、そんなの、知らない。そんな声が、横山マスターの後ろから聞こえる。


「だ、そうだ。そういえば、木下がアレキサンダーを頼んだ時、チーフはブランデーベースでいいか聞いていたな?あれも説明してやれ。」


「はい――アレキサンダーのレシピが文献で確認できるのは、1910年代のものが最古とされています。そこではジンベースでした。ただ、1930年刊行のサヴォイ・カクテルブックではブランデー、ジン両方のアレキサンダーが掲載されており、その後はどちらの系統も時代や地域によって主流が分かれています。日本ではブランデーベースが主流ですが、念のため確認しておきたい、と思いました。」


横山マスターが満足そうに頷きながら、目の前のマティーニに手を伸ばす。


「これで三対二、だな。山村が一矢報いるか、チーフが完勝するか、見ものだな?」


その唇は、マスターが碌でもないことを思い付いた時のように笑っていた。


そのまま、山村さんのグラスを手にして、唇を寄せる。

香りを嗅ぎ、口にして――


「ふぅむ。ウチの、スタンダードなマティーニ……ゴードンが三分の二、ノイリーが三分の一、か。良いバランスだな。」


その言葉に、山村さんの顔が綻ぶ。


「さて、チーフのは、と……。」


いよいよ、オレのマティーニだ。どんな評価が下されるんだろうか。


すぅ、と音が聞こえるほどに香りを吸い込み――横山マスターの目が見開かれる。

一言も口にすることなくグラスに口付け、グラスを傾ける。

そのまま、喉仏が上下するのが見えた。


「………………。」


グラスの脚を摘んだまま、横山マスターは微動だにしない。


店内の空気が凍る。

どうした? なんだ?

ざわめきが広がる。


唾を飲み込む。間違えたか――そう思った瞬間だった。


「何故……分かった。」


横山マスターの呟きのような疑問が漏れる。その言葉の意味するものは……。


「……今井清さん、彼の言葉を見つけました。

『十年、研鑽を積めばおいしいカクテルは作れる。

しかしその先は自分自身を磨くことが重要だ』――」


客席からは見えない、バーテンダーだけが見えるその位置。

バーテンダーが考え、悩み、苦しんで答えを求めた時にだけ見える……そんな場所に貼り出された、その言葉。


「継続の重要性、そしてその先の、自分を磨き続けろ、という生涯にわたる努力を求める言葉。今井さんらしいお言葉だと思います。横山マスターにとっての今井さんが、どんな存在だったのか――それを考えたら、ゴードンを冷蔵庫に入れているはずだ、と。」


今井清さん。

日本のバーテンダー史に名を刻む、レジェンドの一人。

先年、惜しまれつつもお亡くなりになってしまったが、間違いなく日本を代表するお一人だ。Mr.マティーニと呼ばれ、冷蔵したゴードンを用いてマティーニの温度と香りの管理をしていたことでも知られる方だ。


「それで、今井マティーニのアレンジ、か……。」


「はい。」


何の話だ? 今井マティーニってなんだ?

そんな呟きが聞こえてくる。


「山村。お前の完敗だ。お前は、ただうまいだけのマティーニを出した。コイツは――オレを見た。」


「……はい。異論はありません。私の、負けです。」


ふん、と荒い鼻息を吐き出して、横山マスターが百瀬さんを見る。


「百瀬。まだ不満そうだな?」


百瀬さんは信じられないものを見たと言わんばかりの顔で、呆然としているようだった。

そこに、木下さんが声を掛ける。


「なぁ、百瀬。オレの目から見てもな。始まる前から、チーフの勝ちだったぞ。」

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