吉野の桜
私服のまま、カウンターに立つ。
休みの日、グリストラップの掃除をした時はいつもこうだ。
営業の日は、いつもそのまま残って、朝になるまで練習を繰り返している。毎日五時間以上。
一人で店を回すようになってから、一日たりとも欠かしたことはない。
実際に練習のために作るカクテルは、一日二杯まで。あとはひたすらに、空のミキシンググラスを使ったステアと、余った氷でシェイク。
それと、座学として、レシピブックや酒の銘柄図鑑を読み込む。
バーテンダーは、この反復の積み重ねがすべてだ。
その反復による技術の向上と知識の集積。その上で、お客様を観察して、アジャストさせていく。
それがスタートライン。
オレには、味覚のセンスがない。閃くような、独創的なオリジナルカクテルは、オレには作れない。
だから毎日のように、ボトルを磨き、香りを嗅ぎ、味を知り……既存のカクテルのツイストやアレンジで幅を広げる。
そうすることで、お客様に合わせて対応してきた。
技術だって並以下もいいところのスタートだった。ステアも、シェイクも。
だから、人よりも練習した。そうしなければ、お客様に満足いただける一杯は作れない。
それで、やっとなんとか人並みになった程度だ。
だから、Kで兄弟子が作ったオリジナルカクテルを見た時。……完全に、負けた、と思った。
オレには、こんな素晴らしいカクテルは作れない、と。
――同時に、こんなに素晴らしい技術があるのに、どうしてこの人はお客様を見ないんだろう、と思ってしまった。
多分、オレにないものを持っている兄弟子の姿に。オレは、嫉妬していたんだと思う。それが、オレの限界だ。
そんなちっぽけなオレでも……この店を守ることができる。
それは、今のオレにとって、唯一の誇りだった。その誇りを守るためにも、オレは技術を磨き続けなければならない。
だから、常に新しいカクテルが発表されるたび、試し続けていた。
カクテル、というのは、スタンダードなクラシカルカクテルだけではない。ニューウェーブだとか、トロピカルだとか、常に新しいカクテルができていく。
コンペティションで入賞したカクテルが、時を経て評価を受けることもある。
これから作るカクテルは、日本が誇る名バーテンダー、毛利隆雄さんが考案されたカクテル。
1983年の、ANBAカクテルコンペティション関東大会で2位に入賞された、堂々たる作品だ。
毛利さんは、毛利マティーニと呼ばれる、ブードルス・ジンを用いたマティーニでも有名な方。
今井清さん、上田和男さんと並ぶ、バーのレジェンド。
マティーニの王の一人だ。
カクテルグラスを冷凍庫に入れる。
桜の花の塩漬けを、小皿に移し水割り用の水を注いで塩抜きする。
シェーカーに氷を組み、ウォッカを選ぶ。どれが合うだろうか。
エリストフ――いや、林檎のフレーバーが邪魔だ。
ズブロッカ……バイソングラスの青臭さが出てしまう。
パーフェクト・ウォッカ、に決めかけた時。
ストリチナヤに手を伸ばす。なめらかで、繊細なアロマ。
これを軸にしよう。
ストリチナヤを50ml量り、シェーカーへ注ぐ。
キルシュワッサー、そしてヘルメス・グリーンティー・リキュールをそれぞれ1tsp、加える。
シェーカーを組み上げて、左肩の前で構える。
息をひとつ吸い込んで――振る。
フレーバーを活かすために、シェイクの時に手首をスナップさせる。
雑念が消えていくのがわかる。
バーテンダーの道を選んだのはオレだ。
一人で抱えることを選んだのもオレだ。
なら、最後までやってみせろ。
一振りごとに、そんな決意が新たになっていく。
そして、指先がシェーカーの温度を知らせて――ストロークを終わらせる。
冷凍庫から取り出したカクテルグラスは、白く曇り始めていた。
そこに、塩抜きした桜の花びらを沈める。
ゆっくりと、その上からシェーカーの中身を、細い糸のように垂らすと、桜がグラスの中で花開いていった。薄い新緑を思わせるような鮮やかなグリーンの中に、淡い桜が満開になる。
最後の一滴が液面に落ち、シェーカーを持ち上げ、氷が動く音を耳にする。
――できた。
カクテル名、吉野。
これで良かったのだろうか。
選んだウォッカは、グリーンティーリキュールは正解だったのだろうか。
恐れと、畏れを胸にグラスの脚を摘む。
指先に重みを感じながら、口元に寄せると、キルシュワッサーの生むさくらんぼの香りが鼻腔をくすぐる。
唇をつけ、口に含めば――
最初に感じたのは、わずかな塩味の中に、風に揺れる桜の花びら。
そして、ストリチナヤというプレミアムウォッカの、繊細でクリアな味わいがフワリと吹き抜ける。
最後に、幽玄な茶のわずかな苦味と爽やかな後味が、口の中に新緑の芽吹きを感じさせて消えていく。
――すごい。
これが。レジェンドの作品。
毛利さんは、オレの憧れの人だ。
一杯のカクテルのために、何度も何度も試行錯誤を重ねて、完璧を目指した人。
決して酒が強くない、むしろ飲めないと言われていたのに、ここまでの味を組み立てる。
すごいなぁ、こんなカクテルを、いつか作ってみたい……。
気が付いた時には、オレは笑っていた。
才能の差に?
違う。
経験の差に?
違う。
自分の未熟さに、だ。
才能? 経験?
それがどうした。
酒が飲めない、ということにも絶望せず、こんなに素晴らしい作品を作り上げた人がいるじゃないか。
何を弱気になっているんだ。オレは――まだまだできる。
頬を張る。
よし、練習しよう。弱音を吐く暇はないんだ。
その夜、オレが店を出たのは――日付が変わってからだった。




