秘密を抱えて
バックヤードの中は、まだアルカリ性の刺激臭が漂っていた。とはいえ、気道を焼くほどではない。
カウンターへ進み、熱湯を流していく。白い泡が、水流に飲まれて消えていく。
バックヤードのシンクも、蛇口を捻ったと同時に泡が飲み込まれていった。
グリストラップの穴が、白い泡に覆われていく。立ち込める湯気で、それすら良く見えない。
排水管の中に吸い込まれていく白い泡が、かろうじて見えた。
――終わったな。
バックヤードとカウンターの蛇口を止め、給湯器の湯温を四十六度に戻す。ステンレスのバスケットを穴に戻して、ゴム手袋をもう一度嵌めて蓋をする。
これで、またしばらくは大丈夫だろう。
少し疲れたな。
ゴム手袋を外し、長エプロンと一緒にシンクに投げる。あとでちゃんと洗わないと。
だけど、今はその気力がなかった。気が付けば、音楽もとっくに止まっていた。
漫画とか、ドラマとかで見たバーテンダーだと。
どんなに暇だろうがなんだろうが、店は続くし、こんな重労働は描かれない。
悩みを抱えた客に、それっぽいカクテルを出して、悩みをパパッと解決して――そんな、ヒーローみたいに描かれるのに。
実際のバーテンダーとは全然違うな、とふと思ってしまった。
物語と、現実は違う。頭では分かっているつもりだった。
それでも、心のどこかで、無責任な美談を作り上げて良い気になっている物語が――羨ましくすらあった。
バーテンダーを知らない人が、バーを理想化して描く物語。
現実は、そんな安くない。 そんなに簡単じゃない。
酒は、何も解決してくれやしない。
いつだって、何かを乗り越え、解決していくのは人間だ。
酒にできることなんて、その何かを一時的に忘れさせるか、せいぜいが迷いに対して背中を押すくらいのものだ。
今、オレが抱えている悩みは――酒でどうにかなるようなものじゃない。
辛かった。 苦しかった。
誰かに相談したかったし、助けて欲しいと思っていた。
それを出来ずにいたのは……多分、意地もあるんだと思う。
知っているのは、五人だけ。
そして、そのうちの二人……トシ先輩と四戸さんは、卒業と同時にこの街を去っていく。
一人は、店に来ることはない。ご自分の店が忙しいから。
残る二人も、店ではそのことには触れないようにしてくれている。
オレが、それを望んだから。
それでも。
工藤さんは、ご近所なんだし、オレにも恩義があるから、と手を貸してくれている。もう一人も、ほとんど毎日のように顔を出して、オレが無理していないか気にしてくれている。
もしかしたら、助けて、と声を掛ければ、手を貸してくれるかもしれない。
だから、オレが秘密にすることを選んで、一人で抱えているだけだ。結局は、自業自得なんだろう。
……ダメだな、弱気になってどうする。自分で決めたことなんだ。やり切らないとな。
このまま、手術まで行ければ、きっと良くなる。
そうすれば、きっともう一度、カウンターに戻って来てくれる。
きっと、もうすぐ、なんだ。
頑張らないと。
顔を上げ、ゴム手袋と長エプロンを洗おう。
その時、ふと――今日、店に送ってもらう時に見た、桜。その膨らみ始めた蕾を思い出した。
もう少しすれば、満開の桜が、人々の目を喜ばせてくれることだろう。
桜といえば、素晴らしいカクテルがあったな。
一度試しに作って、飲んでみようかな。




