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澱とアルカリ性の顆粒

工藤さんにお礼を言ってから、バックヤードの鍵を捻る。

グリストラップは定期的に清掃はしているが、いつも気が進まない。とはいえ、絶対に放置できるような仕事ではなかった。

お客様に快適にお過ごしいただくための、欠かせない作業だ。


「やる、か。」


覚悟を決める。


暖房は付けない。どうせ汗だくになるから。


静まり返った店内に、換気扇の唸り声だけが、低く響いている。普段は弱にしている換気扇も、この時ばかりはフル稼働だ。


ゴム製の長エプロンを身に着け、使い捨ての長いゴム手袋を肘まで覆う。厚手の、指先の感覚が鈍くなるゴワゴワとした触感が指先を覆う。

ふぅ、と息をひとつ吐き出して、マスクを付ける。気休めでしかなくても、まぁ、気分ってところだ。


「……よし。」


足元にある重い鉄板の蓋を睨む。

手を掛けて、指先に力を込めて引き上げる。コンクリートを削る、嫌な音が静寂を切り裂き、辺りに鼻を突く酸っぱい発酵臭が漂う。


「うっ、クソっ、くせぇ……。」


重い鉄板を横に置き、ステンレスのバスケットを引き上げる。銀色のステンレスの網目は、黒いヌメリとなってまとわりつき、耐え難い異臭を放っていた。


シンクの網目をすり抜けた微小な果肉やミントの葉――取りきれなかったそうした小さな、色鮮やかなカクテルの残滓。それは、糖分を含んで数日で微生物の餌となり、悪臭の原因となる。


「やっべえ、やっぱりしばらくサボってたからな……ちょっと時間かかりそうだな、こりゃ。」


気分転換に音楽でもかけるか。カウンターに足を運び、BGMのスイッチを入れる。

しゃがみ込んで、目当てのCDを探し出す。

ルパン三世のジャズバージョンのアルバム。工藤さんが、先日これ良かったよ、とプレゼントしてくれたCDだった。


恥ずかしながら、ルパン三世の音楽を、大野雄二さんが手掛けていたことをその時初めて知った。

レギュラーのカルテットの方々はもちろん、ゲストで参加しているミュージシャンも、日本のジャズ界を担う素晴らしい方ばかりだという。


セットすると同時に、流れていた有線から切り替わって、CDが回り始める小さな音がした。

プレイヤーの表示が切り替わると同時に、ウッドベースの奏でる、良く知ったはずのメロディが、全く知らない顔でスピーカーから流れ出す。

いつもよりボリュームを上げて、バックヤードに届くように調整して作業に戻る。


コンロ台の下にあるバケツを取り出して、ブラシの柄を握る。

ステンレスのバスケットを片手に押さえながら、ヌメリを擦る。辺りに飛び散らないように、とグリストラップの上にしゃがみ込んではいても、どうしても黒い染みがあたりに飛散してしまう。


擦られた臭いが、一層キツくなって、マスクを貫通して鼻を刺激する。

込み上げる吐き気を抑え込むように、息を止める。


バスケットとの格闘は、二十分ほどで片が付いた。

暖かくなってきたとはいえ、まだまだ暖房が恋しいこの季節。それでも、既にうっすらと額に汗が噴き出している。


厨房のシンクにバスケットを置いて、洗い流す。一段落――とはいかない、これからが本番だ。


ゴミ袋を三重にして、まとめて裏返す。

バケツの中から、柄杓を取り出してグリストラップの穴に向かう。フードが出ないから、脂はほとんどない。だから、スカムが浮いて出るようなことはない。


――代わりに、黒く澱んだ液面には、薄汚れた泡がいくつも浮いていた。


柄杓を底に沈めて、掬う。

重い手応えに、腕の筋肉が悲鳴を上げる。沈殿したヘドロは、黒く変色していた。


この澱が、悪臭の素。

カクテルの成れの果て、糖分や果実の残り滓。グリストラップに堆積した、汚泥そのものだ。


それを丁寧に丁寧に、一杯ずつ掬い上げて、裏返したゴミ袋の上に乗せる。

落とした汚水がグリストラップの液面に跳ねて、エプロンを汚す。ヘドロの奥底から込み上げる、ドブのような臭いが吐き気を強くさせ、えづきそうになる。

それでも――手を止めることはしない。


どんなカクテルを出したとしても、足元のこの澱を放置すれば、その腐敗はいつか必ずカウンターまで這い上がってくる。

目に見えない場所だからといって、見なかったことになどできないのだ。


コンクリートの内壁までを、こそげ落とすようにして掬っても、柄杓の重さが変わらなくなってきた頃には、悪臭に鼻が麻痺していた。

腕は痺れ出し、汗でシャツが張り付く。


ようやく、終わりが見えてきたな。ふぅ、と大きく息を吐き出す。


間違っても漏れることがないように、ゴミ袋を縛り上げる。ゴム手袋の上から水を掛け、跳ねた汚泥を洗い流し、柄杓の汚れも落としていく。


グリストラップに水が流れ込み、黒く澱んだ水が透明になっていく。

壁も、奥底も少しずつその姿を見せる。


もう一度ブラシを握り、這いつくばるようにして穴の内壁から擦り上げていく。

水面に手を突っ込み、冷たい水の底まで。削り落とされるように、ブラシが触れた部分から黒い濁りを広げて、透明になったはずの水が再び濁っていった。


一通り綺麗になったところで、給湯器の温度を上げ、七十度に調整をする。

シンクの蛇口を捻り、お湯を流す。サウナのような湯気が立ち込め、排水管の中を温めながらグリストラップに流れ込んで、再び汚水を流し去っていく。


でも、これで終わりじゃない。

蛇口を閉め、コンロ台の下から白いポリ容器を三本、取り出す。


――この店の、静脈をすべて綺麗にしてやる。


二本をその場に置き、一本を手にカウンターのシンクへ戻る。一度お湯を出し、排水管に充分な水分を行き渡らせる。


排水口のゴムカバーを外して、排水トラップを持ち上げる。それだけで、排水管の臭いがシンクの中に充満していく。


ポリ容器を開封し、排水口に中身を投入する。

こぼれ落ちた、雪のように白い顆粒が排水管の中へと消えていく。容器の中身すべてを流し込み、白い煙のような粉末を吸い込まないように顔を背ける。


同時に、排水口の奥から、コポ、と音がした。それを皮切りに、音が立て続けに鳴り、大きくなっていく。

排水口から、白く膨れた泡が溢れ出した。


よし、効いてるな。


そのことを確認して、バックヤードのシンク、そしてグリストラップの穴にも同じことを繰り返す。


これで、あとは薬剤が浸透するのを待つだけだ。

ボコッ、ボコボコッ、という不気味な音を聞きながら、ひと息――その拍子に、アルカリ性の強力な化学反応の臭いが鼻を刺激し、気道を焼く。


「ゴホッ! ゲホ、ゲホッ! あー、ダメだ少し外に出るか!」


バックヤードから這い出るようにしてドアの外に逃げ出す。もう、汚れるような作業はない。

ゴム手袋と長エプロンを外し、マスクを取って新鮮な空気を味わうように胸に吸い込んだ。


陽が傾き始め、街が夜を迎えるための準備をしている匂いがした。

どこかの家庭でカレーでも作ってるのだろう、スパイスの香りが漂っている。


さすがに、この作業まで一人、はキツいなぁ……。

本当は誰か雇えたら、もっと楽になるんだろうけど。でも、会計事務所からはそんな余裕はない、と言われている。


どれだけ頑張っても、毎月利益はほとんど残っていないらしい。

一度詳しく話を聞いてみたけれど、プロフィット&ロスが、だの、損益分岐点が、だの。よく意味のわからない言葉を並べられて、さっぱりわからなかった。


結局は、会計事務所の言うがままだった。

マスターの昔からの付き合いの事務所、ということでお願いしてるんだけど。

そういえばマスターが入院する少し前に、代替わりするって言って連絡あったんだよな。――あの頃から、なんだかキツくなっていった気がする。


まあ、いいや。

どうせ、一人でやっていくしかないんだ。


気が付いた時には、夕闇が空を染め上げていた。

薬剤を流し切るため、お湯を出さないと。今日の作業を終わらせるために、もう一度バックヤードのドアを開けた。

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