帽子
「今日はすみません、工藤さん。せっかくの貴重なお休みなのに、お付き合いいただいちゃって。」
「いや、大丈夫さ。オレも、最近行けてなかったからね。ちょうど良かったよ。」
春になり、暖かい日が増えてきた。
工藤さんにお願いして、今日は着替えを持って行ったところだった。
鍵は、工藤さんが預かってくれている。だから、着替えを持って行く時には、どうしても工藤さんの協力が必要なんだ。
普段は、工藤さんのお母様が自宅の管理もしてくださっている。一度お礼に、とお伺いしたら――盛大に泣かれてしまって、大変だった。
それからは、自宅に行くたびに食事もいただくようになってしまって。嬉しいものの、なんだか気恥ずかしい。
「でも、良かったんですか? 日曜日なんて、中々お休み取れないんじゃ……。」
「まあなぁ、こんな仕事なんてやってると、休みもどうしてもバラバラになっちまうからな。」
「いやその、彼女さん、とか……。」
「……いねえよそんなもん!」
「……すみません。」
「真顔で謝らないでくれる!? 余計悲しくなるよ!」
国立の病院だけあって、敷地が広い。
駐車場までの間は、いつもこんなふうにおしゃべりをしながら二人で歩く。
毎週休みの日には、ここに足を運んでいた。
いつもは一人で来るから、この長い距離を歩いているだけで……色々なことを考えてしまう。
こうやって、話せる人がいる。それだけで、少しは気持ちが楽だった。
「――良かったな。今度の薬は、合ってるみたいだね。」
車のドアを開け、助手席に乗り込もうとしていたオレに、そんな言葉が投げられる。
――否が応にも、ベッドの上の姿を思い浮かべる。
体を起こして、随分と髪が抜け、痩せ細った姿を思い出して……胸が詰まりそうになる。
それでも、確かに効いているという。微かな希望が見えてきた、それだけが今のオレを支えていた。
車のドアを閉め、シートベルトを着けながら返事をする。
「そう、ですね。前の時は……かなりキツかったみたいでしたし。このまま、手術まで行ければ……良いんですが。」
これが三回目の薬。今までのは――ダメだった。
エンジンを掛ける音がして、ハンドルに手が伸びる。お互い、目を合わせることはしない。
「そう、だな。」
ゆっくりと車が動き出して、駐車場の出口を曲がる。
「しっかし、照れくさいんだろうけど。素直に喜べば良いのになぁ! せっかくチーフが、あんなに選んで買ってきてくれた帽子なんだからさぁ!」
工藤さんの、あの頑固ジジイが、という言葉は、ウインドウの外の景色と一緒に置き去りにされていった。
「いや、好みとかもあったのかも知れませんし。それに、一時的なもんですから。薬が終われば、要らなくなるんだし。」
広島の、人気球団のロゴの入ったニット帽。
袋を開けた時、それを広げて。こんなもん着けてたら看護師さんにモテモテになっちまうじゃねぇかよ、と中々受け取ってもらえなかった。
工藤さんが、もう買ってきたんだから気が向いたら被りなよ、と言ってやっと受け取ってもらえた。
まったく……本当に、ワガママなんだから。
マッカランの30年、ファインオークなんて代物を仕入れて、オレに隠していたあの日のことを思い出すと――懐かしくなって、視界が滲みそうになる。
工藤さんには見えないように外を向いて、目元を拭う。
車は正門を出て、街中を走っていた。たくさんの人たちの、普段と変わらない生活がそこにある。
そのことが、羨ましく思えた。
「でも、チーフこそ良いのか? 今日休みなんだろ、店。なのに、わざわざなんで店まで、なんて。別に遠慮しないでも、家まで送るぞ?」
「いえ、暖かくなってきて、バックヤードがちょっと……。休みの日でないと、できないこともありますし。」
店には、大掛かりではないけれど、厨房施設があった。
今ではほとんど使う機会がないとはいえ、以前はフードも出していた。今でも時々求められることもある。
だが、一人で店を回すようになってからは、乾き物以外のフードはやめてしまった。
利益率的にはフードもあった方がいいのは分かっていた。それでも、カウンターを回しながらフードも、というのは、一人では不可能だったから。
とはいえ、グリストラップは定期的に掃除が必要だ。水が汚れれば虫が出るし、臭いもしてくる。
暖かくなってきて、そろそろ掃除の必要性を感じていた。
ただ、掃除をするにはどうしても時間もかかるし、蓋を開けた時に臭いがキツくなる。その臭いがカウンターに出てしまうから、グリストラップは休みの日にしか掃除ができないのだ。
「働き過ぎじゃないか? 無理はしちゃダメだぞ。いくら若いったって、限界はあるんだから。」
「はい、すみません気を使わせてしまって。用が終われば、今日はさっさと家に帰って、早く休みますから。」
会話は、ブツ切れのように、散発的にしか続かない。
高校だろうか。車が大きな校庭のそばを通る。
桜が蕾を膨らませ、春を告げようとしていた。
――そっか、もうそんな季節か。
四戸先輩と、トシ先輩にはお世話になりっぱなしだった。もう、大学では会えなくなるんだな、と思うと……。
お前、すげえ絵を描くんだな!と、初めてオレの絵を見た時の、屈託のない二人の笑顔が浮かんで、胸が締め付けられた。
同時に、受けた恩も返せていないのに、という申し訳なさが胸に広がる。
「卒業式か――顔、出せたら良いんだけどな。」
「ん?何か言ったかい?」
「いえ――もうすぐ、春なんだな、って。」




