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パウダー・スノー

工藤さんのグラスも、半分ほどが飲み干された頃だった。


そろそろ、とお会計を済ませた安永様をお見送りに、ドアの外まで出ると……やけに寒い。風の強さに身を震わせながら空を見上げると、白いものが細かく舞っていた。


雪だった。


――一瞬だけ、"あの夜"のマゼンタ・カラーを思い出しそうになる。

頭を振り、安永様に向き直る。


「いやぁ、日中から寒いと思っていたら、ついに降り出しましたね。お風邪など召されませんよう、気を付けてお帰りくださいませ。」


空を見上げていた安永様の後ろ姿が、少しだけ何かを思い出したように固まって、下を向く。

吐き出された息が、白く染まって風に消えていく。


やがて、振り返った時に浮かんでいたのは……寂しそうな、笑顔だった。


「……おう、ありがとさん。チーフも、無理だけはすんなよ。んじゃ、また明日!」


安永様は、本当に毎日のようにお越しになってくださる。無理にそんな、とお伝えした時には、そんくらいは稼いでんだから気にすんな、と笑われてしまった。


それ以来、その話題に触れたことはない。

笑いながらも、目が語っていたから――オレにまで、気を使うな、と。


「本日もありがとうございました。また、お待ちしております。」


風の音に負けないように、喉を振り絞って声を掛ける。

安永様の背中が、角を曲がって見えなくなってから。何も言わずにいてくれた、彼の優しさを噛み締めて、ドアに手をかける。

――ありがとう、安永様。


言葉には出さないまま、それだけを胸に蝶番を軋ませる。


「お待たせして申し訳ありません、ただいま戻りました。」


お待たせしてしまった他のお客様へ、笑みを浮かべながら告げてカウンターに戻る。

風に吹きさらされた肩が冷えていたが、それを顔に出すことはない。ただ、荒れた指先が小さく震えるのだけは、止めることができずにいた。


カウンターの上のグラスを確認する。まだすぐにオーダーは入りそうにない。


安永様の座っていた席からグラスを下げ、シンクに置く。残されていたおしぼりでサッと拭き上げて、シンクの下の回収ボックスに投げ入れる。

ダスターを持ってカウンターの外から回り、もう一度丁寧に拭いていく。水滴一つ、残すことはない。


最後にスツールを定位置に戻し、カウンターの中に戻る。


かかった時間は、一分にも満たない。もう、すっかり慣れてしまった。


「――すごいな、動きに無駄がないね。」


工藤さんの声が、洗い物をしようとしたオレの手を止める。


「いえ、このくらい普通ですよ。」


「外、降り出したんだね。」


工藤さんの視線の先、シャツの腕のところ。小さく濡れた跡が、二つ――さすが、めざといな。


「そうですね、少し吹っ掛けてきた感じです。積もるまでではありませんでしたが。」


「そっか。そうだ、一昨日。行ってきたよ。」


抑えた声が鼓膜を震わせて、オレの肩を固まらせた。


「随分と、心配しているようだった。キミが、ちゃんと大学に通えているのか。キミが、ちゃんと食べているのか――キミの話ばかりだったよ。」


何処に、とは聞かない。誰が、とも聞かない。

全部、わかっていたから。


「今は落ち着いているみたいだ。まあ、キミも知っている通りだけどね。」


唾を飲み込む。笑顔が崩れそうになるのを、唇を噛んで堪える。


「ありがとう……ございます。すみません、工藤様もお忙しいのに。」


「気にするなよ。近所のよしみだって。善良な市民に貢献するのも、公務員の勤め、ってね。」


気を使ったのだろう。周りに聞こえないように、声を落とす。


「とにかく。無理だけはするなよ。チーフ。母さんも心配してたぜ。また、飯食いに来いよ。」


そのまま、グラスに残っていたホット・ウイスキー・トディを飲み干す。


「……はい。ありがとう、ございます。」


「……すまん。湿っぽくなっちまったな。」


唇の端を持ち上げて、目を逸らすように顔を背ける。つられて高い位置に置かれた明かり取りの窓を見れば、この位置からでも風に飛ばされる雪がハッキリと見えた。


「雪が、強くなってきたな。そうだ、この雪にピッタリなカクテル、なんてあるかな?」


思いついたように、次の一杯を求められる。


「雪にピッタリ、ですか……ありますよ。お出ししましょうか?」


「お、頼むよ!」


「かしこまりました。少しお待ちくださいね。」


そう言いながら、すり鉢を取り出す。

上白糖をすり鉢で細かく挽き、パウダー・シュガーへと変え、小皿に移す。

カットライムを、カクテルグラスの縁、外側にだけ丁寧に滑らせて濡らす。

グラスの中に触れぬよう、慎重にパウダー・シュガーをまぶしてスノー・スタイルに仕上げる。

そのまま、グラスを冷凍庫に入れる。


シェーカーのボディに、氷を組んでいく。

ウォッカは……フィンランディアを40ml。

コアントローを20ml。

最後にライムを搾り、2tsp。

シェーカーに注ぎ、ストレーナーを被せ、キャップを嵌める。

左肩の前に構えて、息を吸い込む。


店内に流れていたジャズの、スモーキーなサックスが小さくなってゆく。

世界が点に収束していくような感覚に身を任せて、ストロークを始める。


手首のスナップを意識して、軽やかに、空気を纏わせるように。

カウンターの中に響くシェーカーの音が、視線を集めて店内の空気を支配する。

氷が動いて腕に心地よいリズムを返し、指先の体温がシェーカーに吸われていくのを感じる。


そして、スローダウン。キャップを外し、冷凍庫からグラスを取り出す。

目の前に置いたグラスに、シェーカーの中身を注ぐ。

ダウンライトの柔らかな光に当てられながら、煌めきを残してグラスの中に液体が満ちていく。

最後の一滴が落ち、シェーカーを持ち上げる。液体の抜けたシェーカーの中で、氷が動いて高い音を響かせる。


ミントチェリーの瓶を開け、バースプーンで一粒を掬い、液面に滑り落とす。

チャプン、と小さな音を立てて、揺蕩うように揺れながらグラスの底へ沈んでゆく。


誰かの、息を吐き出す音が聞こえた気がした。


そのまま、ホット・ウイスキー・トディのグラスと入れ替えるようにしてコースターに置く。


「お待たせいたしました。雪国です。」


「ありがとう……いやぁ、本当に手際がいいね。」


「ありがとうございます。いやでも、私なんてまだまだですよ。」


「そんなはずない、と思うけどなぁ。まあいいや、いただくか。」


そう言いながら、グラスを持ち上げ、唇を付ける。そのまま傾けられ、口の中に液体が流れて――喉仏が上下した。


「これ……美味しいよ、チーフ! すごいな、なんて言うのか……柔らかくて、フワッとしてる感じだ!」


笑みを返しながら、もう一度コーヒーサーバーに水を注ぎ入れる。


「あれ、オーダー入ったの?」


「あ、いえ。少しお待ちくださいね。」


そのままコーヒーサーバーを手に、バックヤードに向かい、レンジで再び一分半。チン、という音に重なるように、すぐさまコーヒーサーバーを取り出して、カウンターに戻る。


耐熱グラスを取り出しホルダーにセットして、レモンを絞って45ml。

砂糖を3tsp、その上からお湯を注いで、ステアする。

スライスレモンを沈めて、そのまま雪国の隣に差し出す。


「こちら、ホット・レモネードです。」


「え……オレ、頼んで、ないよ……ね?」


「いえ、雪国はちょっと強いカクテルなので。チェイサー代わりに、温まっていただけたらな、と。味がぶつからないように、少し薄めにはしてありますよ。」


首をガックリと落として、見るからに落ち込んでいる。


「やっぱり、オレのこと、酒が弱いって思ってるでしょ……。チーフ。」


「そんなことは……多分ない、ですよ。きっと。」


「そこは嘘でもいいからないって言い切れよ!」


なんだかんだと言いながら、雪国とホット・レモネードを交互に飲んでペースをコントロールした工藤さんは、この夜も無事に帰宅された。



その夜が終わった後も、本格的に降り出した雪は、街を白く染め上げながら。

まだ、止みそうになかった。

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