"外回り"の客
店が開いた後は、まずまずの滑り出しだった。
凍えるように身を震わせながら、それぞれのお客様が、思い思いの椅子に腰掛ける。温められたおしぼりで指先をほぐす、それだけで安堵の笑みがこぼれる。
埋まっていく空席に、小さな手応えを感じる。
開店から一時間。この時間にしては、中々いい感じだ。
お客様の歓談の声に、グラスの氷の音が混じる。
店内を一瞥して、グラスに残る酒を確認する。この分なら――五分はオーダー出なさそうだな。
一人で店を回すのも慣れてきて、合間を見ては洗い物を回す。
業務用の洗剤は、指示通りに薄めると洗浄力が落ちる。一人で店を回すなら、サッとひと撫でするだけで汚れが落ちるくらいでないといけない。
だから原液のまま、ずっと使っていた。その分、グラスを洗うのも随分と早くなった。
今では、一脚を洗うのに五秒と掛からない。
代償は、この指の痛み。
手袋も試してみたけど、ゴム手袋の張り付く感じが、かえって時間のロスになったからやめた。今は、ハンドクリームだけでなんとか誤魔化している。
仕事中は――痛みから目を逸らすのにも慣れた。
一度皮膚科で診てもらったら、今すぐ仕事を休まないと、と言われてしまった。分かりました、と嘘をついて、それきり行っていない。
診察券は帰りに捨てた。
洗い終えたグラスを、専用のダスターで拭き上げていく。布の擦れる感触が、荒れた指先を責める。顔には、出さない。
拭き上げられたグラスを、ホルダーに並べる。
チン、とグラスが触れ合う音が、カウンターの中に小さく響く。
その瞬間。
蝶番が控え目に軋んで、来客を知らせる。
反射的にタオルウォーマーの蓋を開けながら、ドアの方を向く。
「いらっしゃいませ。」
モスグリーンの、厚手のコート。首元までチャックを閉め、顔を埋めるようにして店に入って来たのは――
工藤さんだった。
目が合う。二人の間で、一度だけ視線が絡み合って、すぐにほぐれる。
人好きのする笑顔を浮かべて、空いている席を探していた。
その目が、撫でるように店内を見渡す。その瞬間だけ、暖房の風が弱くなったように空気が重い。
「工藤さん、こっち、奥の方空いてますよ。」
近くの席に座っていた常連の安永様が何かを言いかけて、そのまま口を閉じた。
――しまった、いつもの癖が出た。
小さく咳払いを入れて、すぐに仕事の笑顔に戻る。
「工藤"様"、ご無沙汰しております。お寒い中、ようこそいらっしゃいました。」
「……! あ、ああ、チーフ。すみません、ご無沙汰しちゃって。」
素知らぬ顔をして、いつも通りの接客。
安永様も、聞き間違いと思ってくれたのだろう、深く突っ込まれることはなかった。
「とんでもございません。今日も"外回り"、だったんですか?」
「ああ、今日は外の仕事は少しだよ。ほとんどが中での書類仕事さ。いやあ、慣れない仕事は、肩が凝って仕方ないね。」
合わせてくれたことに、感謝の思いがこぼれそうになるのを抑え込む。笑顔は、このカウンターに立っている限り、もう崩れることはない。
「そうだったんですね。お疲れ様でした。何にしましょうか、ウッドフォード・リザーブもありますが。」
工藤さんの目が、バックバーに並ぶお気に入りのバーボンの、その特徴的なボトルを探すように一度だけ揺れて、すぐに逸れた。
「うーん、それも良いんだけどな……なんか、あったまるのない? ほら、こうカッとなるっていうかさ。」
工藤さんはお酒に強いわけではない。
だからなのか、たまに度数の強いものに手を出そうとすることがある。気持ちはわからないでもないが――この店で、潰れてもらうわけにはいかない。
「そうですね、ちょうど良いのがありますよ?」
「ホント? よし、じゃあそれ頼むよ!」
期待に顔を綻ばせ、素直にご注文くださる。
彼の"仕事"がなんなのか知っている立場からすると、大丈夫なのかと心配になってしまうほどだった。




