仲間
心臓をギュッ、と鷲掴みにされる。
今度は、オレの顔から表情が消える。
「バイトが、忙しくて。ホラ、画材も、高いですし……。」
「……馬鹿。無理、し過ぎなんだよ。」
やっぱり……この人は、苦手だ。
「お前、授業にもほとんど顔出してないだろ。絵はどうするんだよ。せっかく才能あるのに、もったいねぇだろ。」
「絵は……でも、今は、まだ。」
大学一年の夏に縁があってこの店のマスターと出会って、そこからバイトとして雇ってもらって。
見習いを卒業し、カウンターに立つようになり、チーフに任命されたのは去年の春だ。
チーフに任命されてから一年もしないうちに、オレはほとんど一人でこの店を切り盛りすることになって。
今となっては、サークルはおろか、正直大学の単位も怪しい。
店を守る、というのはそのくらい重いってことを、身を持って実感させられているってのが本音だ。
一度持ち上げられたグラスが、しかし唇に触れることはなく、そのままトン、とコースターに置かれる。
「トシから、聞いたよ。」
心臓の鼓動が、
ひとつ飛ばして、聞こえてきた。
トシ先輩。
オレがこうなった時に、相談させてもらった、サッカーサークルの部長だ。
「なんで、お前がそこまで背負うんだ? そこまでの義理は、ないんじゃないのか。」
分かってる。きっと、四戸さんが正しい。
「お前の、昔話も聞いたよな?」
サークルの先輩たちは、オレに何があったのか、全部知ってる。
全部、話したんだ。その上で、全部知っても受け止めて――受け入れてくれた。
サッカーで繋がる、仲間。
かけがえのない、もう手にすることはできないと思っていた。
大切な場所だと思っていた。
もう、自らが手放して、戻ることはできないけれど。
「いっつもさ……笑ってても。絵を描いていても。寂しそうな、自分を殺しそうな、そんな眼をしてたお前がさ。話を聞いた時に、分かった気がしたよ。」
グラスに掛けられた手を外して、拳を握るのが映る。
「お前は、自分が――許せないんだろ。」
何も言葉を返すことができない。
なんで、この人は……全部、見透かすんだろう。
だから、苦手だ。
「それでも、サッカーしてる時だけは、心の底から本気で楽しそうにしてさ。昔のこととか、全部忘れてさ。夢中になって、ボールを追って。本当にサッカー、好きなんだなって思ったよ。十五分……リミットを超えたら、名残惜しそうに、しやがってさ。」
サッカーは今でも、好きだよ。
もっと走りたい。ボールを追いたい。
何も考えず、脚を振り抜きたい。
その気持ちには、嘘はない。
「マッチアップした時とか、トシが手ェ抜いてるっつってキレてたよな? お前、トシはアンダー代表だったんだから、敵うはずないだろってのにさ。」
あれは後から冷静になって恥ずかしかったのを覚えてる。
「オレたちはさ。お前の話も聞いた上でさ――その上で、ちっとはお前の居場所になれたのかって思ってたんだぜ?怪我をして、物足りなくて。全部は埋めらんないんだろうな、ってことも。」
一気に喋った後、ふぅ、と息を吐く。
「そんなお前がさ。このバイト始めて、少しずつ表情が柔らかくなってきたのを見てさ。この仕事に、救われてんだなって、思ったよ。」
ああ。
そうだ。そうだよ。
全部、四戸さんの言う通りだ。
オレは、この仕事を始めてから。
"あのこと"があった日から、ようやく。
生きていても良いんだな、って、思えるようになったんだ。
「オレはさ……お前みたいな、キツい体験とか、そういうのしたことないからさ。なんてぇか、うまく伝えられないけどさ。」
やめてくれ。
バーテンダーは、カウンターの中では――
笑ってなきゃいけないんだ。
「もっと、オレたちを頼れよ。仲間だろ、オレたち。」
喉の奥が熱くなり、視界が滲む。
ダメだ。
泣くな。
笑え。
プロだろ、オレ。
必死に自分に言い聞かせる。
「すみ……ませ、ん。でも、オレは――マスターに助けてもらった、その百分の一も、返せてないんす……今は、オレがこの店を守らないと、マスターの、帰る場所が……なくなっちまう。」
声が、小さく震えて響くのは止められなかった。
上手く喋ることができない。
言葉が、途切れ途切れになる。
クソっ、BGM、大きくしておけば良かった!
「お前の、判断はさ……きっと、間違ってなんかは、いないよ。」
グラスから手を離すのが見えた。
滲みそうになる視界を、必死で唾を飲み込んで堪える。
「でもさ。お前の人生まで、犠牲にしても、マスターは喜ばないんじゃないか?」
胸が苦しくなる。
薄々、そうなのかも知れないと思ってはいた。
それでも、言葉にして突き付けられると……やっぱり、キツい。
「この店は……。マスターの全て、なんです。マスターがもう一度、立つ場所を……せめて、守りたくて。」
「それで……いい、さ。大学、せめて授業は顔出せよ。あと、これ。返しとくからな。」
退部届だ。
こうなってすぐ、トシ先輩に渡していたものだ。
「この仕事を辞めろ、だとか。お前の決めたことを、どうこう言いたくて来たんじゃないんだ。
たださ。」
四戸さんの細い目が、オレをまっすぐに射抜く。
少しだけ、目尻に光るものが見えた気がした。
「お前が、マスターの帰る場所を守るんなら。
お前が帰る場所は、オレ達が守ってやるから。
たまにはサークル、顔出せよ。」
息の仕方を、忘れる。
「――ありがとう……ござい、ます……ッ。」
ダメだ、泣くな。
そうやって、自分に言い聞かせてるのに。
一度溢れ出した涙が、頬を濡らすのを止めることが出来そうにない。
「馬鹿、泣くなよ。お前の作った酒、旨いよ。頑張ってんだな、悪かったよ。もっと早くに、来るべきだったな。
ごめんな。」
立ち上がった四戸さんが、オレの肩を優しく叩く。
謝らないでください、四戸先輩。
全部オレが、オレの考えで、決めたことなんだ。
すみません、マスター。
今日は、今日だけは。
マスターの教えを、破ってしまいました。
口元を押さえて、その場で俯く。
小さな雫が一つ、二つと床を濡らして――
カウンターの中に、BGMでは消せない嗚咽が響く。
カウンターに置かれたコースターの上に残されたグラスには、希望という言葉を持つカクテルが、半分取り残されたまま。
グラスに付いた水滴が、スッ……と音もなく落ちていった。
同じカウンターの隅。
ダウンライトに照らされた請求書の封筒が、置き去りにされている。
国立がんセンター。
宛名は、今はここにいない、マスターの名前になっている。




