フィディックの水割り
「ああ、ここだな。もしかして、今開けたところですか?」
初めて見る方だ。
年齢は三十代後半……いや、四十代に差し掛かったところだろうか。ネクタイを少しだけ緩め、サマースーツを脇に抱えた男性だった。
「ちょうど今開けたところですよ。どうぞご遠慮なく。」
笑顔を返す。
重いドアを引き開け、蝶番の軋む音と共に冷房に冷やされた空気に戻る。陽が傾き始めたとはいえ、外の暑さは尋常じゃない。
オレと共に店に入ったお客様の表情が、目に見えて安らぐのが伝わって来た。
手に持っていた上着を預かり、クロークのハンガーに通して番号札を控える。
冷蔵庫を開け、おしぼりを取り出して、メニューと共に隅の席に腰掛けたお客様の前に立つ。
隅の席。
――観察する目だ。
背中に緊張が走るが、顔に出すことはしない。
おしぼりを広げながらいらっしゃいませ、と声を掛けてお客様を労う。
「いよいよ夏、という感じですね。お暑い中、本日はご来店いただきありがとうございます。ごゆっくりお寛ぎくださいませ。」
ありがとう、とおしぼりを受け取りながらも、差し出したメニューには目もくれることはなく――
おしぼりを受け取る指を確認する。
右手の中指と薬指のタコ。 少しだけ曲がった小指。
間違いない。
興味深そうにバックバーに並ぶ酒を眺めながら、その目が一点で止まる。
「フィディックは何があるのかな?」
グレンフィディック――スコッチ・ウイスキーの中でも、スペイサイドの人気ウイスキーだ。アイラと並ぶスコッチの聖地。
ゲール語で鹿の谷を意味するグレンフィディックは、史上初のシングルモルトを冠したウイスキーとしても知られている。
「フィディックですと、スタンダードに12年、15年、18年がご用意ございます。」
フィディックはアードベッグやボウモアのように、数々の種類がある訳ではない。その姿勢が、自分達の味を信じる、と言っているようで誇らしく思えた。
「そうか……まあ、それくらいが普通だよね。じゃあ、12年を水割りで。」
「かしこまりました。シングルになさいますか?ダブルになさいますか?」
「いや……任せるよ。」
座る席。
置いてある銘柄を確認する時の、視線。
指のタコと、少し曲がった小指。
最もスタンダードなものを選んでの水割り――それもお任せ。
冷えた空間のはずなのに、背中に汗が走るのを感じる。
「――かしこまりました。」
とてつもない嫌な予感が走る。
まさか。
ふぅ。
小さく息を吐き出して、思考を切り替える。
水割りは最も言い訳の効かない、カクテルの基本――バーテンダーの思想がすべて出る、と言っても過言ではない。
度数は40度。
ウイスキーの中では少しだけ度数が低めだ。
頭の中でフィディックの香りと味わいを広げる。オーク樽の生む草原のような爽やかさ。洋梨、林檎のフルーティーさ。そして、バタースコッチを思わせる甘み。
頭の中でパズルのピースが嵌まるのを感じる。
考えをまとめると同時に、8オンスタンブラーグラスを手に取る。
角氷をグラスに組み、それだけでステア。
指先に伝わる温度だけでグラスが十分に冷えたことを確認し、バースプーンで氷を押さえながらリンスで生まれた水を捨てる。
グレンフィディック12年をバックバーから取り出し、メジャーカップを左手に45ml。表面張力の限界まで量りグラスに注ぐ。
氷が小さくピキ、ピキ……と音を立てて鳴くのが聴こえる。
琥珀がグラスに落ち、液面を波立たせた。
左手の人差し指と中指を前後させるように動かし、メジャーカップを裏返す。
30mlの計量部分、半分よりも下のラインに、見えない線を引きもう一度。
ボトルから注がれる琥珀を計る――8ml。その8mlをもう一度グラスに落とす。
バースプーンをゆっくりと氷とグラスの隙間に落とし、ゆっくりと回転を始める。
1、2、3……。
再び指先で温度を計る。
氷と常温のウイスキーが馴染むのを待ち、いつもより少しだけ多い回転を数える。
氷の邪魔をしないように、優しくバースプーンを引き上げる。
水割り用のミネラルウォーターを手に、もう一度メジャーカップを手にして、70ml。
そして――最後のステアを始める。
今度は水とウイスキー、比重が違うからこそ縦への回転も意識する。琥珀色の液体が持つ香りを、華開かせることをイメージしながら。
集中するオレの鼻に、フワリ、とほどけたような香りが漂う。
そのまま慣性を終わらせ、0.5秒――香りの奥行きを確かめるように、息を吸い込む。
――うん、イメージ通りだ。
バースプーンを引き上げ、お客様の元へ。
コースターを差し出し、その上に静かに……たった今誕生した、この一杯を重ねる。
「グレンフィディックの水割りでございます。」
「ありがとう。……ふぅむ、素晴らしい香りだ。」
やはり、間違いなくこのお客様は飲み慣れていらっしゃる。
今も片鼻ずつ香りを嗅ぎ入れ、その後に両鼻で香りを嗅いでいる。あの香りの嗅ぎ方は、かなり飲み慣れた方の仕草だ。
気に入ってくれるといいな、と思いながら最後の仕上げに入る。
ノージンググラスを取り出し、水割り用の水を注ぐ。
常温のそれは、決してそのグラスを曇らせることはないまま、少しだけグラスの向こう側を歪ませながら波打っていた。
「それと、こちらは加水にお使いくださいませ。」
コースターの横に、そのノージンググラスを控えめに差し出す。
「……これは、どういうことだい?」




