夏の温度
梅雨が明けた。
ビルの谷間からは入道雲が顔を覗かせ、蝉が一夏の恋を叫ぶ。伸びた昼の暑さが、出勤前のオレの肌を焼く。太陽の熱をアスファルトが反射して、歩く気力を奪う。
「あっ……ちぃ……。」
店までの十五分という距離が、果てしなく遠く感じる。汗ばむシャツが、背中に貼り付いて気持ち悪い。
昨日冷蔵庫に入れたままのおしぼりの冷たさを思い出して、早くも恋しい。
足早に店へと急ぎながら、今日のカクテルメイクに想いを馳せる。
冷房だけで瞬間的にお客様の不快感が消えるわけではない。夏の暑さに疲れ果てた身体に、喉元を通り過ぎる時の冷涼な飲み物の爽快感は――堪らない。
もちろん、身体が冷えた後であればいつもと同じで問題はない。だが、最初の一杯は普段よりも一、二度は温度を下げて出したい。
ワンシェイク、ワンステア――その微調整が、今日このカウンターに座って良かった、と思ってもらえるかどうかを左右するだろう。
見極めが肝心だな、と気持ちを引き締める。
バックヤードの鍵を開け、扉を開ける。
真夏の太陽に熱せられた建材が閉じ込めた熱が、扉の中から襲い掛かって来たように感じる。
汗を拭うよりも先に、冷房のスイッチを入れる。
「いやぁ、本当生き返る……エアコンって本当にありがたいわ。考えた人は天才だ。ノーベル賞あげてくれ!」
一人、文明の利器に感謝しながら、冷蔵庫に残されていた昨日のおしぼりを取り出す。
貼り付いたシャツを持ち上げ、中に入れて汗を拭う。
その手が、胸元の指輪に触れた――あの日も、こんな暑い日だったな、と指先で押さえるように握り締める。
十を数える前に指を離す。
濡れたシャツが、冷房の冷たい空気に晒されて体温を奪う前に、立ち上がり開店準備を始める。半年以上も一人で店を回すようになれば、身体が勝手に動いてくれるようになっていた。
袖をまくり、動き始めた後は、手が止まることもない。
定刻よりも少しだけ早く、開店準備を終えた。
季節柄、フラッペやフローズン系のカクテルも出るだろうと、クラッシュアイスのストックまで終えてもまだ余裕があった。
冷蔵庫に詰めたおしぼりに触れ、お客様を迎え入れる準備が整ったことを確認する。
――よし、もう開けるか。
いつものルーティンで、小さなビアグラスに一杯だけ水道の水を注ぐ。水道管に入っていた分はまだ温い。一杯目を捨てて、十分に冷たくなった水を一息に飲み干し、口元を拭った。
グラスをシンクに置き去りにして看板を出す。
フロア側の内鍵を捻り、蝶番を軋ませながら重いドアを開ける。
今日は何度、この蝶番がお客様を迎えてくれるのだろう。そんな期待を持ちながら、重い看板のキャスターを持ち上げてドアの外に出る。
冷房に冷やされた店内と、幾分か日の落ち始めた外の空気に、見えない壁を感じる。押し除けるように看板を定位置に設置し、コンセントを繋ぐ。
バチ、バチッと小さな音を立てながら、看板に灯りが宿る。そろそろ中の蛍光灯も買っておかないとな。
そんな風に思いながら、行き交う人たちを見るともなしに街の風景を眺めていた時だった。
たった今灯した看板を見つけたのだろう、道の向こうから呼び掛ける声が聞こえてきた。




