消毒液の匂いと煙草の煙
口開けは、まるで街が店の存在を忘れたかのように静かだった。一人、また一人と蝶番を軋ませ、思い思いの場所に座る。
それでも、開店から二時間程もした頃には、席の半分が埋まっていた。
高いところにある明かり取りの窓を見れば、雨の線が幾重にも重なり、雨足が少しだけ強くなってきた。
グラスを洗い、磨き終えたタイミングでドアの蝶番が軋む。
冬の訪れを予感させるような、冷たい空気が店内に流れ込む。
一瞬だけ、雨の匂いに混じった消毒液の匂いが鼻を刺激した。
コートの肩口を濡らした三人の男性が、ドアの間に身体を滑らせ、店内に足を踏み入れた。
見覚えのあるお客様だった。
年嵩のお客様が、そっと三本の指を立てて人数を知らせる。
近くにある病院の、医師――それも、小児科の。
「いらっしゃいませ。三名様ですね。」
お客様をテーブル席に誘導し、タオルウォーマーからおしぼりを三つ、取り出す。
……どうしたんだろう。
マスターの目が鋭さを増して、今ご案内したばかりのテーブル席を見つめる。
コト、と音がして、テーブル席を見ると、腰掛けた後も言葉を発しないまま――ポケットから煙草とライターを投げるように置いた三人の、項垂れるように伏せられた顔が見える。
彼等には秘密めいた儀式があって。
普段は、煙草は吸わないのだが、時々。そう、本当に時々。
座ると同時に、揃って煙草に火を点けることがあった。
そんな時は決まって、どこか近寄りづらい雰囲気さえ感じさせた。マスターは、その煙草の煙が消えるのを待ってから、オーダーを受けていた。
今日は煙草の日なのか。
カウンターの下に重ねられた灰皿を手に取り、踵を返そうとした時。
マスターの瞳に、淡い諦めの色が浮かんでいるのが見えた。
不安が胸をよぎる。オレは、何かミスをしたのだろうか。
灰皿を届けた時には、三人は既に煙草を咥えていた。
そして、揃ってライターを手にして……小さな音と共に、オレンジ色の火が煙草の先に灯る。
その動きはまるで――このテーブルだけが時の流れが違うかのように、ゆっくりと静かで。
疲れが、動きに滲んでいた。
三条の煙がゆっくりと立ち上り、天井を揺蕩いながら、換気扇へと吸い込まれていく――奥の一番若い医師の顔が、何かを堪えるように歪むのが見えた。
煙草の煙がオレの鼻腔を刺激して、頭の中の映像が一気に逆再生する。
過去の煙草の日も、こんな風に何かを届けるように静かに立ち上る紫煙が、わずかな空調の風に揺らめいていた。
あのマスターが、グラスを拭く手も止め、目を瞑るようにして、ただ静かにその煙が消え――その儀式が終わるまで、待ち続けていた。その時のマスターの、見守るような……どこか悲しげな視線。
そして、その時のお客様の顔は……いつも、今日と同じ。
雷に撃たれたように全てが繋がる――お客様の煙草の意味に、初めて気付く。
息が止まる。周りの音が、遠くなって行く。
マスターの、あの諦観にも似た悲しげな表情。あれは、オレに向けられたものじゃなかった。
マスターが言っていた「もっと見なさい」という言葉の答えは、お客様が言葉にしない想いを――掬い上げるように汲み取ること。
答えは、最初からお客様の中にあったのに……。
オレは今まで、煙の意味を何も見ちゃいなかったんだ。




