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バージン・メアリは店を潰す

その後は穏やかな時間が進んだ。


Kからのお客様は実業家らしく、お名前を伺った常連さんが驚いていた。

この辺では有名な方らしい。大学でこの街に来たオレには、ピンと来なかった。

いけない、もっと勉強しないとダメだな。


「そういえば、Kって……店、閉めるらしいじゃないか。突然でみんな驚いてたよ?」


思い出したように常連さんが呟く。


その話は、先週大きな驚きを持って近隣の店を駆け巡ったものだった。


「ああ、そのことか。そのようだね。まあ、原因はこの子なんだけどね。」


え。それは初耳……。


「え、チーフが?」


「そうなんだ。この間彼がKに来てね。私はそこにいたんだよ。」


「Kのマスター、って、前ここで修行していた子だろ?」


「はい、私もそのように伺っておりまして、遅ればせながらご挨拶にお邪魔したのですが……。」


Kのマスターは、この店で修行して独立された方。つまりは兄弟子に当たる。


「それで、あそこのマスターも最初は喜んでいたんだけどね。ほら、今度カクテルコンペがあるって話。知ってるだろ?」


お邪魔した時、Kのマスターも自信満々にこのカクテルならきっと上位入賞できるはずなんだ、と語っていた。


「彼が、ここのマスターからチーフを任された、というのが気に入らなかったんだろうね。まあ、対抗心を燃やしたんだ。それで、カクテル勝負を挑んだのさ。」


「へぇ、カクテル勝負! なんだよチーフ、そんな面白いことしてたのかよ!」


仲間外れにされたとでも思ったのか、常連さんが拗ねたような顔をオレに向ける。

いや、その日は本来ご挨拶のつもりで、純粋に客のつもりで行ったんだけど……成り行きで、というか。


「いえ、一杯作ってみろ、と言われただけなんですが。」


そもそもが、あの時はそこにいらしたお客様にそれぞれが作ったカクテルをお出ししただけだ。


「審査員に選ばれたのは、Kに良くいらしていた若いお嬢さんでね。Kのマスターはコンペに出すオリジナルカクテルを出したんだ。――あそこの常連は、間違いなく一度は飲んだことのあるカクテルさ。」


それはオレも飲ませてもらった。確かに美味しい、美しいカクテルだった。コンセプト、完成度、味わい、デコレーション――いずれも非常に素晴らしいものだったと思う。


だけど。


「そこの彼は何を出したと思う?」


とびきりのなぞなぞを出すように、楽しそうな笑みを浮かべて、もったいつける。


「うぅん……チーフの代名詞といえば、ギムレット……いや、オリジナルカクテルに対抗して、チーフのオリジナルカクテルかな?」


いや、違う。

そんなカクテルは、あの時"絶対に出せなかった"。


「胡椒を少しだけ混ぜてハーフムーンにした、バージン・メアリさ。」


「えっ……それって、ノンアルコールのカクテルじゃ?」


「はい。拝見したところ、あのお客様は既にかなりのお酒を召されていました。これ以上のお酒は命の危険すらあり得る――プロとして、絶対にお酒を出すことはできないと判断しました。」


カウンターの中に立つからには、いついかなる時でもプロとして振る舞わなければならない。これも、マスターの教えだ。


何より……くだらない見栄なんかで、誰かの命を危険に晒させてたまるか。よりによって、オレの見ている前でなんて。


「お嬢さんは、オリジナルカクテルは少し口を付けただけだった。彼のバージン・メアリを美味しそうに飲み干した後、帰って行ったよ。」


トマト・ジュースはミネラルが豊富で酔いの進行を抑えてくれる。

それに、バージン・メアリといえば塩だけ、が普通だけど、胡椒の刺激が酔い覚ましの効果を促進してくれたら、という期待もあった。

狙い通りに効いてくれたようで、安堵したのをよく覚えている。


「その後にも一度お邪魔したんだが。あの翌日お嬢さんから電話があったらしくてね。あのバーテンダーのお店が知りたい、と。そして、もうKには行かない、あのバージン・メアリがなかったら、確実に潰されていたと言ってね。」


潰される、とは強烈なセリフだが、そう思うのも仕方ないかも知れない。

 

オレ自身も、あの場でコンペに出すカクテルを自信満々に振って……お客様を見ようとしない兄弟子の姿を、哀しく思ったのは事実だった。


お客様を酔い潰して前後不覚にしてしまうなど、バーテンダーとしては絶対にやってはならない。


『オレたちの取り扱う酒は、薬にも、死を招く毒にもなる』――マスターからは口を酸っぱくして言われていたことだった。

その言葉を忘れてしまったのだろうか、と憤りを覚えたのだ。


彼の顔を潰すことになっても、あの場で指摘することもできた。それを止めたのは、兄弟子への遠慮もあったが……心のどこかには、呆れもあったことは否定できない。

だから、その夜切り出そうかどうか迷っていた相談を、胸の内に留めたのだった。


「その時、あのマスターもさすがに随分と落ち込んだ様子でね。もう一度修行のやり直しだ、って店を畳む決心をしたらしい。私は彼からキミの店を聞いてここまでやって来た、というわけさ。あれだけ自分の店を誇りに思っていた男に、店を畳む決心をさせた男の酒を飲んでみたい、と思ってね。」


「そんなことが……じゃあ、Kが潰れるのって、チーフのせい?」


「いやいや、チーフ、そこの彼のせいでは決してないよ。Kのマスターは、一度小さな大会で入賞したことがあってね。それで自信を付けたのだろうけれど、たまに押し付けるように酒を出すことがあったからね。」


お客様が助け舟を出してくださった。少しだけホッとため息が漏れる。


「そうですね……確かに、その傾向は感じました。バーテンダーなら、そういう時期もあることは承知しています。」


目の動きだけで常連さんを見る。


「実際、お恥ずかしながら私もございました。マスター……ああ、ここのマスターにはいつもお客様に向き合え、と言われていました。私は、その教えを思い出すことで、原点に立ち戻れました。今回も、その教えに従っただけです。」


お客様に、バーテンダーの想い――カウンターに座っている時は、お客様が背負った何かを下ろして、心から安らいで欲しい。

そんな想いを、お客様にお伝えするためだけにバーテンダーの技術はある。

マスターの言葉は、そのことに気付かせてくれたんだ。


「それが答えさ。Kのマスターは、天狗になって一番大切なことを忘れてしまった。だからそれに気付いて、やり直す決心をしたんだろう。

まあ、あそこの常連としては、いい迷惑だがね。」


「それは……なんと申し上げればいいのか。ご迷惑をおかけして、申し訳ありません。」


思わず頭を下げる。

どんな理由を述べたとしても、このお客様の行きつけのバーがなくなる原因がオレにあるのだとすれば……。

オレには、謝るしかできない。


「いや、いいんだよ。その代わりに、こんなに良い店、良いバーテンダーに出会えたんだ。それだけでもお釣りが来るくらいさ。」


「そうだぜ、チーフ。そんなに落ち込むこたぁないさ。お前は謝らなくていい。お前は何も間違っちゃいねぇよ。」


常連さんがニカっと歯を見せて笑って、言葉を続ける。


「Kのマスターだって、そのことを理解したからこそ、やり直しを決めたんだろ? お前が非難されるいわれなんてどこにもないって!」


「……お気遣いありがとうございます。」


「折角だから、Kのマスターと、そしてキミという素晴らしいバーテンダーを育てたという、ここのマスターにもご挨拶したかったんだが……。」


すみません、マスターは――心の中だけで留めて、もう一度頭を下げる。


「申し訳ございません。マスターは本日お休みをいただいておりまして。私の方から申し伝えておきます。」


「そうしてくれるかな?いや、うん。本当に良いお店に出会えたよ。そのことは、Kのマスターに感謝だな。」


「ありがとうございます。過分な評価とは存じますが。これからもよろしくお願いいたします。」


「なに、良ければもしキミが独立する時には声を掛けてくれよ。是非力にならせて欲しい。」


嬉しいお申し出ではあるんだけど……どうかわそうか、と考えていたら、横から口が挟まれる。


「あー、お客さん。そうは言っても、チーフ、まだ大学生だよ? ほら、あそこの美大の。今も信じられないけど。」


おい。

さすがに常連さんでもそれは聞き捨てならないよ?


「嘘、だろ!? てっきりベテランの、三十代とかかと思って! あ、いや、ごめん!」


お客様も追い討ちかけないでください……。


「そんなに老けてますかね、私。……結構気にしてるんですが。」


「いや、うん、老けてるというか、ほら、落ち着き方がだね? とても二十代そこそこには見えない、というか、うん。」


慌ててお客様が取り繕うが……それはトドメである。


「ごめんなさい……まだ十九なんです……今二年生です……。」


「「………………ごめん。」」


チクショウ。

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