ジン・フィズの試練
「まずは駆け付け三杯、ではないけどね。ジン・フィズ、をいただけるかな?」
ジン・フィズ。
スタンダード中のスタンダード――同時に、バーテンダーにとって必要とされる技術がすべて詰まっている、とさえ言われる難しいカクテルだ。
心の中が、一段冷静になるのを感じる。鋭い視線に、試されている、というのがわかった。
「かしこまりました。」
タンブラーグラスに氷を入れ、ステアして冷やす。
水を切り、グラスの外側の水滴を拭いてカウンターに置く。
シェーカーのストレーナーを開け、氷を組む。
ゴードンのドライ・ジンを45ml。
レモンを搾り、15ml。
最後にシュガーシロップを1tsp。
ストレーナーを被せ、キャップを嵌める。
作業台に二回、底を打ち付けるようにして空気を逃す。
左肩の前でシェーカーを構える。
カクテルメイクの前の、独特の空気がカウンターを満たす。
世界が、オレ一人だけになったように研ぎ澄まされて行く。
カシャン、とシェークが始まる。
2ストロークでテンポに乗り、小気味良いリズムに乗せて氷の音が響く。
指先に伝わる温度で、シェーカーの中の液体が混ざり合うタイミングを計る。
小さく結露を始める直前でストロークをスローダウンさせ、動きを止め腕を下ろす。
キャップを外し、軽く回しながらタンブラーグラスに注ぐ。
最後の一滴が落ちるのを見て、下を向いていたシェーカーを未練を断ち切るように回す。
カシャン。
液体の抜けたシェーカーの中で、氷が動く音が大きく響いて――僅かな残響を残して、消える。
役目を終えたシェーカーを横に置き、ソーダの蓋を開けてグラスに満たす。
バースプーンを差し込み、下から氷を持ち上げるように、二回。
カットレモンをグラスの縁に挿して、コースターの上に置く。
「ジン・フィズでございます。」
張り詰めたような緊張から、ようやく解放されたカウンター。しかし今度は、また違った緊張がカウンター越しに生まれる。
お客様が、神聖なものを見つめるような面持ちのまま、グラスを手にした。ゆっくりと唇に触れ、傾けられていく。
喉仏が二回、音を立てて上下した。
どんな評価なのだろう。あの日、あの店にいらしたのなら、これはただのジン・フィズ以上の意味があるはずだ。
「ふむ……特別な材料を使うこともなく、至ってスタンダードな、普通のジン・フィズだね。」
グラスをコースターに重ねるように静かに置く。
「だが……酸味、甘味、そしてジンのコシ。すべてがしっかりと生きている。口の中で弾ける炭酸がそれを洗い流して、次のひと口をまた新しい気持ちで迎えさせてくれる。なるほど――」
「ありがとうございます。」
頭を下げるオレを見ながら、もう一度グラスを持ち上げて問いを投げ掛ける。
「どうして、至って普通のジン・フィズを? Kの客、と分かっていたのなら、少しくらいは対抗心を出すだろう?」
「対抗心、ですか……すみません、全く考えもしませんでした。」
「「えっ!?」」
なんで常連さんまで驚いてるんですかね?
聞き耳立ててたな?
「正直に申し上げますと、お客様がKに限らず、バーに慣れたお客様であるということは分かりました。アレンジするべきか迷ったことは事実です。
ですが、」
お客様の手元のグラスを見ながら言葉を続ける。
「私が、お客様に出すのはこのカクテルが初めてでしたから。お客様のお好みも、お酒の強さも。何も分かりません。」
お客様の目を見て、オレの答えを告げる。
「だからこそ、アレンジするのではなく、最もスタンダードなジン・フィズにするべきだと思いました。このジン・フィズを基準にして、お客様のお好みを教えていただきたい、と。」
同じカクテルを作るにしても、使う酒――ジンならゴードンなのか、ビーフィーターなのか、タンカレーなのか。
お客様のお好みや酒の強さ。それだけじゃない、体調、メンタル、そして飲むペースに合わせて提供する酒を調整する。
それが、プロのバーテンダーだ。
「私の、好み……か。」
グラスを片手に、お客様がしみじみと呟く。
「はい。お客様それぞれにお好みがあります。それを知り、それに合わせてアレンジをしていくことこそ、バーテンダーには最も必要な技術だと思っています。」
カウンターに横たわる静かな緊張が、温度を一つ下げたように感じる。
常連さんのグラスの中の氷が、カラン、と音を立てる。
「……そうか。お客様を向いて、お客様に合わせる。それが、キミのバーテンダー像、か。」
「はい。とはいっても、全部マスターからの受け売りなんですがね。」
オレの理想のバーテンダー像は、間違いなくマスターの顔をしている――今、この場にはいないマスターの顔を思い浮かべて、胸が詰まる。
常連さんが、下を向いているのが見えた。
「よく分かったよ。このジン・フィズは、確かに今日の最初の一杯に相応しい。」
そう語ったお客様は、その後は考えるように押し黙ってしまった。




