乾杯
蝶番を軋ませて、ドアの中に姿を現したのは。
「よっ、チーフ!」
オレが見習いの頃からずっと見守るように来てくださっていた、このバーでも古参の常連さんだった。
カウンターに座るお客様の目が、一瞬期待に輝いた後、落胆の色に沈んでいた。
「いらっしゃいませ。お召し物をお預かり致します。」
そこからは、立て続けにお客様がお越しになった。蝶番が軋む度、一喜一憂する姿が――彼の、今日に賭ける覚悟の大きさを表していた。
そして、小一時間もする頃には、カウンターの半分が埋まっていた。
「ごめん、忙しくなって来ちゃったみたいだね。」
お連れ様は、まだお見えにならない。
手を合わせるお客様に、気を遣わせてしまったことへの申し訳なさを覚える。
「とんでもございません。どうかお気になさらず、ごゆっくりお寛ぎくださいませ。」
まだ大丈夫かも知れないが、念のためにリザーブカードを隣の席に出しておく。
「ありがとう、ごめんね。もうすぐ来る、と思うんだけど。」
「大丈夫ですよ、ご安心ください。次もお任せ、でよろしいでしょうか?」
ゆっくりと飲まれてはいたものの、三杯目が空こうとしている。少し酔って来てしまったかも知れない。
「お願いしてもいいかい? あんまり強くないのにしてね。」
「かしこまりました。では、少しサッパリしたものにしましょうか。」
シンプルなのが良いよな、と、コリンズグラスに氷を組み、パーフェクト・ウォッカを45ml……いや、30mlにしよう。
ソーダとトニックウォーターを半分ずつ。
ライムを搾り、バースプーンを氷とグラスの隙間に挿し込むようにして、静かに持ち上げる。それを、二回。
最後はライムピールで香りを出して。
「ウォッカ・ソニックです。度数は抑えてありますので、ご安心ください。」
「ありがとう。これからが本番なのに、潰れたらどうしよう、ってドキドキしてたよ。」
「ご安心ください、その前にお止めしますから。」
ウォッカ・ソニックがそろそろ空く、というタイミングで、再びドアの蝶番が軋む音がした。
お客様が職場の皆様といらした際にも、何度かお越しになっていた女性だ。
ようやく、待ちわびたお連れ様の来店だった。
リザーブカードをスッと下げ、手のひらでお客様の隣を案内する。
「あ、来た来た。こっちです!」
冬だというのに、向日葵みたいな笑顔を振り撒きながら、女性が小走りに駆け寄ってくる。
「ごめん、お待たせ!もぉ、また請求書の桁間違えてたみたいで大変だったよ!」
「いらっしゃいませ。お召し物をお預かり致します。」
「あっ、チーフ! 今日もよろしくね!ありがとう、こちらお願いします。」
コートをクロークにかけ、おしぼりを手渡す。
「はぁあ、あったかーい……外は雪降りそうだよ。」
「そういえばもうそろそろ初雪降ってもおかしくないですもんね。今日は残業お疲れ様でした!」
心の底から安堵したような表情を浮かべ、彼女を見つめている。
「とりあえず、乾杯しよっか!オレ頼んじゃっていいですか?」
「うん、私分かんないし、お願いね。」
「よし、じゃあチーフ、キールロワイヤルを二つ!」
こぼれるような、人好きのする笑顔を向けて、先程ご案内したばかりの乾杯のためのカクテルをオーダーしてくれた。
良かった、気に入ってくれたみたいだ。
「かしこまりました。」
シャンパングラスを二つ、カシスリキュールをそれぞれに計り入れ、シャンパンで満たす。
「お待たせいたしました。キールロワイヤルでございます。」
お客様のコースターも濡れていたことに気付く。
ウォッカ・ソニックを下げるのに合わせて、そっと真新しいコースターを二つ差し出し、キールロワイヤルを置く。
「ありがとう!えぇ、これ、すごく綺麗!」
「でしょ!カシスとシャンパンのカクテルなんだって!ささ、まずは乾杯しましょう!」
待ちきれないように、グラスを持ち上げて彼女の方へ寄せる。
「「かんぱーい!」」
チン、と甲高い音が響く。
ゆっくりと、形の良い唇に触れたシャンパングラスが傾いていく。喉を通る度に、その目が見開いていく。
「うわぁ、美味しい!」
グラスを置いた後、ひと口、では足りない程度には喉を潤した女性が、感嘆の声を上げる。
「でしょう!シャンパンを飲むことを、フランスだと星を飲む、なんて言うんだって!オシャレですよね!」
おっと、早速有効活用してくれたみたいだな。
「そうなんだ!詳しいんだね!」
「さっきチーフに教えてもらったばっかりだけどね。」
他のお客様のオーダーを作っていたオレは、小さく頷いて笑顔を返す。
「そうなんだ? でも、これ美味しくて良いかも!」
「気に入ってもらえて良かった!」
ホッ、と小さく安堵のため息を吐き出す。
目まぐるしく動く表情は、彼の長所の一つなのだろう。
素直に種明かしをされる姿には微笑ましさすら感じる。
いつも、彼の周りには笑顔が溢れていた。
その中で、お連れの女性といらした時。
彼の、彼女へ向ける視線は、他の方へのそれとは違って、少しだけ熱を持ったものだった。
そして今、彼女を見つめる彼の目は、その時よりも熱を感じる。
時を重ねて、想いが深まったことがありありと見て取れた。
人が誰かを想う瞬間を見るのは、何度でも胸が温かくなる。
――いつかの、もう二度と戻ることの出来ない、自分の恋の残滓をそこに感じた。胸の奥が締め付けられるような痛みを、顔には出さないように抑え込むのには……もう、慣れていた。




