緊張は星に溶けて
そんな風にして、六、七割のボトルを拭き終わった頃だった。
ドアの蝶番の軋む音がする。
ドアベルは用意していない。フロアにいれば蝶番の音で分かるし、バックヤードにいても、換気扇の音が変わってすぐに分かるから。
「いらっしゃいませ。」
上着をお預かりするためにカウンターの外に歩み出ながら声を掛ける。
「お、今日はオレが初客かな?」
確か五、六回ほどいらしていただいたお客様だ。まだ若い。
先輩らしき方に連れられて、ガッチガチに緊張していらしたのが四ヶ月ほど前。
ウチが初めてのバーだったと聞いた。その後も、職場の皆さんと数名のグループで何度かお越しになった。
今日は初めておひとりでの来店だ。遂に本格的なバーデビュー、といったところか。
「はい、さようでございます。今日はおひとり様でよろしいでしょうか?」
固い表情が、緊張を物語る。
「あ~、一応待ち合わせなんだ。向こうは少し残業、って言ってたから……多分、ちょっと遅くなる、と思うんだけど。」
待ち合わせの前に、少し引っ掛けながら予習かな?なんて想像を巡らせる。
表情に出すことはなく、プロとしての笑みを浮かべながら確認する。
「かしこまりました。お連れ様は一名様でよろしいですか?」
「そうなんだ。とりあえず、カウンターでもいいかな?」
「もちろんですよ。では、こちらへ。お召し物はお預かりしますか?」
席へ誘導しながらそのまま上着を預かり、クロークへ。
カウンターの中程に座られたお客様の元へ、温めてあったおしぼりとメニューをそっと出す。
メニューはごく一部、スタンダードが中心だ。あとはウイスキー、それとほんの少しブランデーが載っている程度。
メニューを置かないバーも多い。けれど、初めていらしたお客様や不慣れなお客様もいらっしゃる。価格帯が分かることで安心に繋がるから、とウチは用意してある。
「ありがとう。いやぁ、今日も寒い!」
おしぼりで手を拭いながら、メニューに目を通す。
「寒いですよね~。吐く息が白くなってくると、いよいよ冬なんだなって気がします。」
温かいおしぼりは、バーからの歓迎の証だ。
冷えた指先に温もりが沁み渡るんだよな、と先程までの作業を思い出す。
「いやホントだよ。さて、一杯目は、と。何が良いかなぁ?」
メニューを見ながら、睨めっこでもしているかのようにその表情が目まぐるしく移り変わる。初めて行くバーでは、正直にバーテンダーに相談するのが一番間違いのない方法だったりする。
ただ――自分から聞くというのは中々にハードルが高いことだろう。
ここは、ひとつ助け舟を出すことにするか。
「よろしければオススメでお作りしましょうか?」
暗闇で迷子になった子供が、家の灯りを見つけたように顔を上げて喜びの表情を見せる。
「え、いいの! マスターのオススメ、なんてなんかカッコいいじゃん、それでいこう!」
少しだけ苦笑しながら小さな訂正をする。
「私、マスターではないんですよ。マスターは本日お休みいただいておりまして、私はチーフを務めさせていただいております。」
マスターからこの役職を与えられて、半年が経つ。
少しは、その役職に相応しいバーテンダーになれただろうか。もっとも、二人しか居ない店で、チーフも何もないんだけど。
「おっと、失礼! じゃあ、チーフか~、いやそれでもカッコいいじゃん!」
「ありがとうございます。それでは、私のオススメでよろしいでしょうか?」
「うん、頼むよチーフ!」
満面の笑みを見ながら、まるで人懐っこい仔犬だな、なんていささか失礼な感想を抱きつつ、内心でほくそ笑む。
「かしこまりました。」
カクテルの種類は数え切れないほどある。
その中から"その人の最初の一杯"を選ぶのは、いつだって難しくて、楽しい。
「まずは乾杯、ということですから、軽めに。」
キールロワイヤルならスタンダードだし、きっと素晴らしい日になる今日を彩る一杯目としては、これ以上に相応しいカクテルは無いはずだ。
フルートタイプのシャンパングラスにカシス・リキュールを15ml。
その上から、シャンパンを90ml。
ステアの必要はない。
グラスに順に注ぐ。それだけで、カシス由来の濃い紫がシャンパンの黄金に溶ける。
グラスの底から立ち上がる泡が、祝福の花火のように途切れることなく続いていく。
「キールロワイヤルです。カシス・リキュールをシャンパンで割った、乾杯用として有名なカクテルですね。」
「へぇ、綺麗な色だね!」
お客様の笑みが、このカクテルを選んだことに対して正解を示していた。
「ありがとうございます。」
慣れない、少し震える指先でグラスの脚を持ち上げ、口に含む。
「おお、これは……美味しい! シャンパンなんて飲み慣れてないからさ、大丈夫かな、って思ったけど。これなら飲みやすいね!」
「はい、シャンパンの柔らかな酸味と、カシスの甘さがベストマッチングですよね。
ところで――緊張されているように見受けられますが、大丈夫ですか?」
不意の言葉に、グラスを置こうとした手が揺れて、止まる。
「えっ、そ、そんっな、ことは!」
「申し訳ありません。バーテンダーは、お客様のわずかな緊張にも敏感でして。」
「あっ、ああ、先輩に連れられて、来たことはあったけど……こうして一人で来るのは、初めてで。オレみたいな若い人、こんなカウンターに座って、変じゃないかなって。」
バーの扉は重い。物理的にも、心理的にも。
若い人にとって、一人で入る、ということは相当の緊張と、なけなしの勇気が必要なことはよく分かる。
オレだって、一応は若い人に分類される身だ。
この仕事に就いていなければ、初めてのバーに入る時には、臆してドアを開ける勇気を絞り出す必要があっただろう。
ただ、店に入る緊張、だけが理由でないこともわかっていた。
"密命"を胸に、オレに課せられた使命を果たす必要がある。
だから、今日は一歩踏み込む。
「お待ち合わせの方は、お客様にとって大切な方のようですね。」
もう一口、とグラスに伸びかけた手が跳ねる。
観念したように息を吐き出して。
「はは……さすが、お見通し、ですね。」
指先が戸惑いの色を隠せずに揺れている。
「会社の人、なんですが……ずっと、憧れてて。」
カウンターの上の拳が、不安を誤魔化すように力なく握られる。
「でも、その、二人っきりで来るのは、初めてで。オレも、こういうお店、慣れてないから……何を話したら良いかとか、うまく話せるかな、って、少し不安で。」
言葉にしたことで、余計に緊張が大きくなったのだろう。グラスの脚にかける手の震えが大きくなる。
ここは、オレの使命を果たすチャンスだな。
頬がニヤケそうになるのを抑えながら、秘密を囁くようにお客様の目を見る。
「でしたら、とっておきの秘密をお教えしましょうか。乾杯の時に、是非使っていただきたい、素敵な言葉ですよ。」
彼の瞳に、期待の色が戻る。縋るように身を乗り出して耳を傾ける。
「フランスでは、シャンパンを飲むことを、星を飲む、と言うそうです。グラスの中で無数に弾ける泡を、夜空の星々に喩えたんですね。ロマンチックですよね。」
そっと手を伸ばし、グラスの脚を指で軽く叩く。
グラスの底から、泡が踊り出すように立ち上っていった。彼の緊張を、シャンパンの泡に溶かし込ませるように。
「へぇー、それはなんて言うか……オシャレじゃん! 覚えとこ!」
「そうですね。特別な瞬間に語れると、ちょっとカッコいいかも知れませんね。」
その時、ドアの蝶番が軋む音がする。




