開店準備
バーテンダー。
華やかな印象を持つ人も多い職業かも知れない。
だけど、実際には地味な反復練習と、絶え間ない勉強による専門知識。そして、プロとしての接客技術が求められる。
お客様が求めるすべて――最高の一杯、最高のもてなし。バーという特別な舞台では、時に飛び切りの秘密も求められる。
出勤してすぐに始めるのは、おしぼりを広げてから丸めてタオルウォーマーに入れる作業だ。
「あー、コレだめだな、雑巾にでもするか」
広げて見れば、左下に茶色い汚れが染み付いたままだ。
こんなふうに、汚れが残っていることもままあるのだ。
おしぼりのセットが終われば、次は仕入れたフルーツのチェックだ。
フルーツはガーニッシュ……つまり、カクテルのデコレーションやフルーツ盛りなど、出番も多い。特に柑橘類は、搾ってジュースとしても用いるため、カクテルの味を引き立たせる名脇役となる。
「このレモンは……皮がちょっと傷んでるな。スクイーズ用に回すか。」
スクイーズ、搾る時に皮の傷んだレモンは気を付けないと。搾りすぎると、傷みから苦味が出てしまう。
今日カクテルで使うであろう数を予想して、カウンターの下に移動する。
その他のフルーツ盛り用の分は、バックヤードの業務用冷蔵庫にしまう。
この後はいよいよ丸氷だ。
これがキツい。
氷が溶けてしまうから、終わるまでは暖房を入れられない。
冷蔵庫の中のように冷たい空気の中、ブロック氷をまずは大まかにカットする。
使い込み、買った時よりも幾分か小さくなったペティナイフは、手に馴染む。その相棒を右手に、氷の角を落としながらゆっくり形を整えていく。
十二面体になった氷を手に持ち、林檎の皮を剥くように丸く削っていく。
静かなカウンターの中で、シャッ、シャッ、と氷を削る音だけが孤独に響く。
それは、氷という素材を基にして、彫像を削り出す芸術家のよう。
この作業は素手だ。手を温めたいが、氷が溶けてしまうから。
指先の感覚が少しずつ奪われていく。店内の空気まで、やけに静かに感じられる。
やっと一つの丸氷が完成した頃には、指先が赤くなり、刺すような痛みが襲う。今日はあと八個――気が遠くなりそうだ。
必要な数の丸氷を作り、冷凍庫に仕舞い終えた時には、もう指先の感覚がない。
慌ててシンクにお湯を張り、指先を温める。先程まで氷に触れていたからか、やけに熱く感じる。
指先に熱が戻っていくのを感じながら、今日のカウンターで起こる物語に思いを巡らせる。
バーは、毎日が少しずつ違う。
暖房のスイッチを入れ、バックヤードで制服に着替える。暖房が届ける空気が、張り詰めたカウンターを解きほぐすように暖めていく。
すべての仕込みが終わり、カウンターを磨くように拭き上げていく。
この時間は結構好きだ。
バーテンダーになって、二回目の冬を迎えようとしているけど、この作業の時は初心に帰れる気がする。
今日もよろしくな、と想いを込めながら、スツールの脚を雑巾にしたおしぼりで磨いていく。
そのまま続けて店のドア、フロアの床、トイレ掃除を終える。
そこまで終えたら、しっかりと手を洗ってカウンター内のセットだ。シェーカーの位置を整え、メジャーカップとバースプーンを入れるグラスの水を新しく入れ替える。
いよいよ開店だ。
看板を外に出し、コンセントを繋ぐ。
日の落ちてきた薄暗い街を、柔らかな灯りが照らしていく。
重いドアを再度開けて、ゆっくりと閉まるドアを振り返ることもなく、カウンターの中に戻りBGMのスイッチを入れる。
今日の口開けは何時になるかな。そんなことを思いながら、バックバーに並ぶボトルを磨く。
ボトルの蓋を一本一本開けて、注ぎ口を綺麗に拭う。
特にリキュール類は、注ぎ口に糖分が固まり、開け閉めが悪くなる。何より味の劣化にも繋がる。
バーにとっては、絶対に欠かしてはならない業務の一つだ。
こうすることで、どのボトルがどこにあるか、を覚えることも出来る。
味見も忘れない。バースプーンにほんの少しだけ注ぎ、手の甲に落として舐める。
別に酒が飲みたくてやっているわけじゃない。
この作業は、取り扱うすべての酒の味を知り、相性を見極めるための大切な作業の一つだ。
味のイメージをお客様に説明できるよう、絶対に必要な経験でもある。
一本の電話が鳴り響く。
電話に出る。短い対応の後、またボトルを磨く作業に戻る。
バーには、ちょっとした"秘密"も多い。
今日は良い日になりそうだ。




