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見習い

その夜は、静かに雨が降る音で始まった。


オレのいたバーは大きな総合病院の近くにあって、目の前の道路をサイレンを鳴らした救急車が忙しなく行き交うこともあった。内科に有名な名医がいて、診察は二ヶ月待ちと言われていた。


その病院の人たちがこの店に来ることも珍しくない。

医師も、看護師も、技師も。誰だって――黙って座りたい夜くらいある。

病院の関係者がいらっしゃる時は、どこか独特な匂いがして。匂いが濃い夜ほど、店は静かになる気がした。


そして、この夜。

その匂いが店の静けさに滲んで、溶け出して……オレは初めてバーテンダーの出す一杯の、本当の意味と向き合うことになった。




濡れた路面が、車が通り過ぎる度に飛沫を上げる。

跳ねた雨水を避けるように、傘を揺らしながら行き交う人が交差し、雨のカーテンの向こうへ消えて行く。雑踏の音を雨音が包み込み、街の輪郭をそっと溶かしていく。


重い扉の内側まではそんな雨音さえも届かず――店内のBGMが、そこだけが別世界かのように、穏やかに響く。



この店に入って、四ヶ月。

バーテンダーとしては駆け出しも良いところ。仕事の漏れがあることも多くて、その度にマスターには怒られている。


オレの手がグラスの脚を持ち、それを店内の照明に透かす。曇り一つないか。氷を入れたときに、最高の音を立てるか。


すべては、今夜訪れるであろうお客様のために。


開店前のチェック。ボトルの向き、シェーカーの配置、カウンターの拭き残し。最後に店内をもう一度だけ見渡して、カウンターの奥で椅子に腰掛けたマスターを見て返事を待つ。


ほんの数秒のはずが、時間がゆっくりと流れているように感じる――OK、と言ってくれ……!


小さく店内を一瞥したマスターが、静かに、満足気に頷く。


ホッとしながらドアを開けて看板を出す。腕の筋肉が看板の重みに悲鳴を上げる。同じように重い真っ黒なドアは、開け閉めの度に蝶番をギギギ、と鳴らす。

この蝶番が軋む音こそが、このバーの歴史の生き証人。


ドアを押し開けながら看板を所定の場所に移動して、コンセントを繋ぐ。たったそれだけで、雨に濡れる街並みが柔らかな光に照らされていく。

その灯りは、暗闇の中で迷い疲れた魂だけが見つけられる灯台のように見えた。



看板を出した後のこの光景も、ようやく見慣れて来た。


先月、やっとお客様にカクテルを出すことを許されたばかり。


シェイクの時、シェーカーの中の氷が移動する、規則正しいリズムが腕に返ってくる。小気味の良い音が耳に心地よい。


ステアはまだまだ練習中だ。バースプーンがぶつかって氷が鳴るたび、マスターの拳骨が飛んでくる。


――そうやって、技術を学んで、レシピを勉強して。

お客様にうまい、と言われた瞬間の喜びは、何物にも代え難い。カウンターに立っていても良いのだと、許された気持ちに胸が満たされる。



看板の灯りに背を向け、店の中に戻る。

カウンターの上に手を乗せ、心の中だけで今日もよろしくな、と呟く。


さあ、今日も開店だ。今夜はこのカウンターの上で、どんな物語が紡がれるんだろうか。




そんな、浮かれた思いは――白い消毒の匂いに、泡のように溶けて、消えた。

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