怪しいマスター
あっという間に梅雨は終わりを告げ、本格的に夏がやって来た。蒸し暑い日々が、体力を奪う。
その日も、そんなうだるような暑い日だった。
出勤前、シャワーを浴びてさっぱりしたはずなのに。十五分間の通勤時間で、シャツはもう汗ばみ、湿り気を帯びていた。
店に着くなり冷房を入れる。
もちろんタオルウォーマーのスイッチは入れない。
代わりに、冷蔵庫に丸めたおしぼりを敷き詰め、お客様に清涼な気分を味わってもらう。
乾燥を防ぐためのラップも忘れない。
店内が冷えてきたら、いよいよ丸氷だ。
シャツの袖口をまくり、アームバンドで留める。
冬場にはしんどいだけのこの作業も、この時期は少しだけ気分が楽に感じる――最初の二、三個までは、だけど。
シャッ、シャッ、という、ナイフが氷を削る音だけが、BGMのない店内に孤独に響く。
冷たい指先の感覚とは違って、額にはうっすらと汗が滲む。
あと、二つ。
終わりが見えて来たことに安堵して、カウンターの上のタオルで汗を拭う。
その時だった。
バックヤードをノックする音がした。集中を切られた苛立ちと、少しだけ休める安堵が混ざったまま、ドアを開ける。
「はい、どうしました?」
いつもの酒屋の店長が、段ボールを抱えて立っていた。
「すみません、遅くなって。本日の納品です。こちら納品書。」
受け取って目を落とした、その横から。
「おお、いつもありがとうな。」
マスターが現れた。
「おはようございます。」
「おや、マスター。腰はもう大丈夫なのかい?」
「ああ、もうピンピン……。で、例のやつか?」
店長が「おうよ」と笑って頷く。
……例のやつ?
嫌な予感がした。
次の瞬間、マスターが納品書をひったくって、にやりと笑う。
「チーフ。こっちは俺がやる。フロア頼むぞ。」
普段、納品確認は俺の仕事だ。なのに、わざわざ奪う。
「――マスター。何か隠してません?」
マスターの肩が跳ねた。
「な、何も隠してないって! ほんとに!」
店長が苦笑いして目を逸らす。
……ああ、これは黒だ。薄い目で見つめながら問い掛ける。
「マスター? 自首した方が罪は軽くなるって言いますよ?」
「な、何もないったらないわ! オープン準備は終わったのか?!」
こうなったマスターは駄々っ子と一緒だ。
どうせまた、サユリスト仲間の酒屋の店長に、何か押し付けられたんだろう。
マスターは重度の吉永小百合ファンである。
溜め息を吐き出しながら、諦めて丸氷を続けることにする。
「ハァ……せめて可愛い値段のものなら良いんだけど。」
マスターの背中が大きく跳ねて固まる。ギギギ、と音が聞こえるくらいぎこちなくこちらを振り向き、頬をひくつかせながら言い訳を続ける。
「な、な、何を言ってるんだ、お前は! いいから、さっさと仕事に戻れ!」
今に始まったことじゃない。
この間もザ・グレンリヴェットの18年なんて、値付けに困るウイスキーを仕入れていたんだ。
流石にそれ以上のものは仕入れやしないだろう。……そう思いたい。
肩をすくめてカウンターに戻る。
丸氷を手早く終わらせ、トイレの掃除に向かうところで、段ボールを抱えたマスターがカウンターにやって来る。最近は腰が痛いと休むことも多いのに……。
「マスター、無理しないでくださいよ? また腰痛めても知りませんからね!」
「お、おお! 大丈夫だ、こっちはやっとくからトイレ頼むぞ!」
そのまま段ボールを床に下ろし、ストック棚を開けた。
まあ、大丈夫と言うならいいか。動きは明らかに怪しさマックスだけど。
トイレ掃除を終わらせ、フロアの掃除を始めた頃には。
マスターの挙動不審な動きなど、忘れていた。
もっとしっかりチェックするべきだったと後悔したのは――翌々日の棚卸しの時だった。




