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スタートライン

次第に雨は激しさを増していく。

外の地面を叩く雨音はひっきりなしだというのに、蝶番は鳴る素振りすらない。

マスターもまだ来ない。


つまりは――


「暇だなぁ……。」


バックバーのボトルは五分前に磨き終わった。


電話も一本鳴っただけ。

お願いしている、マスターの知人の会計事務所。代替わりの挨拶に、という話だったため、別の日程でアポを取り直すよう伝えて通話を終えた。


その他には予約はおろか、営業電話すらかかって来ない。


口開けには、まだ時間がかかるかも知れないな。

ステアの練習でもしようか、それとも最近取り組んでいるオリジナルカクテルの調整でもしようか。


オリジナルカクテル、と言うと大袈裟に聞こえるけれど、現場では即興やスタンダードのツイスト――アレンジは日常だ。


それぞれの酒の特徴と相性を掴み、魅力を引き出す。カクテルの面白さは結局そこにある。

スタンダードも、ツイストも、オリジナルも、やっていることは同じ延長線上だ。


ただし、飲むのは生身のお客様だ。好みも、強さも、体調も、その日の気分も。

同じお客様であっても、同じ夜は二度とない。


技術を磨き、レシピを覚え、経験で裏打ちする。全部、目の前のお客様に合わせて出すための"足場"だ。

その足場の上で観察して、今夜の一杯を決める。

それが、バーテンダーの本当の仕事。スタートラインだ。


とは言え――


「今週ずっとこんな感じだし……今月の給料、大丈夫かな?」


バーテンダーはボランティアじゃない、仕事だ。

生活できないなら、スタートラインに立つ以前に、エントリーすら出来やしない。


この店に入ってもうすぐ一年。

給料日前とはいえ、ここまで暇が続いたことは今までなかった。一時的な、季節的なもんだよとマスターは笑っていたけど。


そこに来てのこの夕立だ。

高いところにある明かり取りの、細い窓の向こう側の雨は幾重にも太い線を見せていた。


チクショウ、とっとと降り止めよ!

八つ当たりだとわかっていても、雨を恨めしく思ってしまう。


罪のない窓を睨み付けてから、意味のないことをしたな、と息をひとつ吐き出す。

何をしようかと悩んで、結局ステアの練習をすることにした。


空のミキシンググラスを取り出して、バースプーンを親指と人差し指で挟む。

中指、薬指――螺旋に合わせて交互に動かしていく。

バースプーンが回り始め、徐々に速度を上げるたび、擦過音が高くなっていく。


ステアの回数を数えることはない。

螺旋を描く指の動きに、意識のすべてが吸い込まれていく。


カウンターに流れる、ミキシンググラスの内側を撫でる滑らかな擦過音。

それ以外のすべての音が――穏やかなBGMも、雨音さえもがオレの意識から消え去っていく。


無心。

指先が、冷たいガラスの感覚と一体化する。


「――すごい集中力だね。」


鼓膜を揺らす声に、世界が急激に色を取り戻した。

指の動きが乱れ、ミキシンググラスにバースプーンがぶつかる。


カシャ


不格好な音が、BGMを切り裂くように響いた。


「うおっ、あっ、すみません失礼しました! いらっしゃいませ。」


慌てて頭を下げ、顔を上げる。

いつの間に、そこに座っていたのか。


「ごめんごめん、邪魔したね。すごいね、いつもそんな練習してるんだ。」


目の前に座った男は肩をすくめて笑い、濡れたジャケットを脱いだ。

鋭い眼光を、柔らかな微笑みで包み隠したその男性は――


バースプーンから指を離して、冷蔵庫から冷えたおしぼりを取り出す。

封を開け、手に広げながら差し出す。


「いやぁ、申し訳ありません。つい夢中になってしまって。」


月に一、二回、思い出したように訪れるこの店の常連。

――刑事だった。

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