処女航海
煩わしい花粉症が終わりを告げ、ゴールデンウイークの喧騒も笑って振り返れるようになった頃。
いよいよ、天気予報と睨めっこをする日々がやって来た。
オーセンティック・バーと言っても、水商売であることには違いない。
天候ひとつで客足は大きく変わる。
梅雨入りがいつなのか。
今年の雨はどれくらい降るのか。
売上の見込みを予測するための指針で、仕入れにも直結する。
マスターは最近、休むことも増えてきた。
よほど腰の具合が良くないらしい。
カウンターの奥で、椅子に腰掛けたまま疲れた顔をしていることが増えた。
その分、オレがしっかりしないといけない。
今では仕入れについてもオレが考えることがほとんどだ。
相談はする。けれど、マスターが首を横に振ることはなかった。
その日も、マスターから遅れて来ると連絡があった。
テレビの気象情報が、夕立の可能性を告げている。
雨が営業時間に掛からなければ良いのだけど――窓の外で起き上がろうとしている雲をひと睨みして、出勤の準備を始めた。
店のバックヤードには仕入れた酒が置かれていた。
発注書と納品書を照らし合わせ、納品物を確認してカウンターへ運ぶ。
箱を床に置き、エアコンのスイッチに手を伸ばす。
暑さはまだ本格的じゃない。けれど日中は、うっすら汗ばむ日もある。エアコンは、まだ除湿でいい。
箱から取り出したボトルを、ストック棚に仕舞う。
古いボトルを前に出すことも忘れない。
今日新しく仕入れた一本だけ、バックバーに並べて置く。
バックヤードに戻り、ドアの前に納品されたおしぼりを抱える。
今日は一袋。これが一日の来店数の目安だ。
そのまま、おしぼりを丸めてタオルウォーマーに並べていく。
スイッチは入れない。
何本かは冷蔵庫へ。冷たいおしぼりが好きなお客様のためだ。
一つずつ仕事をこなして、開店準備を終えたのは開店時間の十分前だった。
良かった、間に合ったな。
クリーニングから戻ってきたシャツに袖を通す。ノリの効いた固さが素肌に気持ちいい。
無香料の整髪料を掌に伸ばし、鏡に向かって髪を整える。流行りの無造作ヘアは、この店のカラーに合わない。
額を出したいつもの形にして、ネクタイを締める。角度を調整して、最後は鏡の中の笑顔を確かめる。
蛇口を捻って、水道水をビアグラスに注ぐ。一息に飲み干して、口元を拭う。
店内を見渡して、問題がないことを確認する。
よし、もう開けてしまうか。
グラスをシンクの中に置き去りにして、BGMのスイッチを入れた。
いつもの有線が、ハービー・ハンコックのピアノを響かせる。
『処女航海』――開店にはちょうどいい曲だな。
ドアの内鍵を捻る。
看板に手を掛け、力を込める。
滑りの悪くなったキャスターが床を傷付けないよう、慎重に。
腕の筋肉が微かに悲鳴を上げ、鉄の塊がゆっくりと動いていく。扉までの距離が遠く感じる。
蝶番をゆっくりと軋ませ、外の世界へ。
押し開けた途端、湿った「雨の匂い」が鼻腔を突いた。
夕立ほど激しくはないが、細い雨がアスファルトを黒く染め始めている。
陽が落ち、分厚い雲に覆われた街並みが、音もなく濡れていく。
これは……口開けは少し遅くなるかもしれないな。
小さな溜息が、湿った空気の中に溶けていく。
どうやら今日の航海は荒れそうだ。
コンセントに繋いだ看板の灯りが、心細く見えた。




