マルガリータの流す涙
「ありがとう。今日はすまなかったね。つい、飲み過ぎたみたいだ。次はもっと、ゆっくり味わわせてくれるかい?」
雨音が路面を優しく叩いていた。
呼んだタクシーのハザードランプが、雨の中で弱々しく瞬く。
オレは、このお客様の悲しみに――喪失の痛みに、少しでも寄り添うことができただろうか。
「とんでもございません。またのお越しをお待ちしております。」
お客様を見送るオレの背後で、古くなってきた蝶番の軋む音が、小さく響いた。
その音は、未だ癒えぬお客様の、心の叫びのように聴こえる。
店内のBGMを隠すように――ドアがゆっくりと閉じていく。
「……なぁ、ひとつだけ、聞いてもいいかい?」
言葉を探すように、顔を上げる後ろ姿が映る。
コートのポケットの中で、拳が揺れていた。
次の言葉を待って、届けられたのは――。
「キミも、もしかして――」
突然の問いに、息が止まる。
表情が歪みそうになるのが分かる。
どうして。
「そう、ですね……。」
ふぅ、と息を吐き出す。白い吐息に変えて、肺の中の空気を――全部。
「手痛い失恋をした、ということです。」
吸い込む空気の冷たさが胸を刺す。
オレは――いつものように笑えているだろうか。今は自信が……ない。
「ああ、だから、失恋した、という時に……思い出させてしまったかな。」
震えながら、シャツの下に隠した指輪に伸びそうな手を、もう片方の手で抑え込む。
「いえ……。」
自然と、言葉が詰まりかける。
ダメだ、ちゃんとこのお客様を……見送るんだ。
「――もう、昔の話ですから。」
背を向けるお客様の表情は見えない。
いつもより、その背中は小さく――だけど優しく見えた。
「まだ雨は止みそうにないな。今日はもう閉店なんだろ?マスターも休みなんだ。
今夜は……キミがカウンターに受け止めてもらうといいさ。」
そのまま、言葉だけをその場に残してタクシーに乗り込む。
「また来るよ。ありがとう、そして――すまなかった。」
背中が滲みそうになる。
声が震え出すのを、もう少しだけ、と必死に抑える。この一言を、ちゃんと伝えるんだ。
オレは――バーテンダーなのだから。
「こちらこそ、ありがとうございました。お気をつけて。」
タクシーのドアがバタン、と音を立てて閉まる。
走り去るタクシーに頭を下げて、見送りを終える。
周りの店も、もう全て閉まったようだった。
ネオンの一つも点いていない。
確かに、今日はもう閉店だな。
誰もいないカウンターを思い出して、看板のコンセントを抜く。
そこだけ照らされていた灯りが、ふっ、と掻き消える。
夜の闇が、塗り潰されるように広がっていく。
オレの吐く息の白さだけが、暗闇の中に取り残されていた。
星のない空に、白が溶けていくのを見上げる。
久しぶりに、マルガリータを飲もう。
忘れることのない思い出と、同じだけの悲しみを、カウンターに置いていくように。
――雨はまだ、降り続いていた。




