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雪の夜の後悔

いつもなら程よく酔いが回って来る頃合いだった。


少しだけ、呂律の回らなくなって来た口が、二、三度。言い淀むように開いては閉じる。

そして、遂に――耐え切れなくなったように。呟きのような問いが、こぼれ落ちた。


「なぁ……死にたい、と思ったことはあるかい?」


グラスの中の氷が、カラン……と静かに音を立てた。

外の雨が窓を打つ音も、少し強くなった気がした。

 

空気が、重い。

最初と違う緊張がカウンター越しに横たわる。その緊張に蓋をして、何でもないかのように答える。


「ありましたよ、昔は。今はバーテンダーとして一人前になることに必死で、そんなことを考えることはないですが。」


氷の底に、わずかに残された液体を混ぜ合わせるようにグラスを弄びながら、問いは続く。


「どんな時だい……死にたい、と思うのは。」


「昔、サッカーやってたんですよね、私。ただ、酷い怪我をしまして。もうサッカーはできないって言われた時は死にたい、って思いましたね。

あとは――失恋した時、とかでしょうか。」


フゥ……と随分と酒臭くなった溜息を一息、何かを噛み締めるように吐き出して。


「そうか……アイツは、なんで死んだんだろうなぁ……。」


もしかして――疑問を抱く前に、お客様の告白はもう止まらない。


「わからないんだよ……。なんで死を選んだのか。彼女ともうまくいっていたらしいし、仕事も頑張っていたんだ。」


顔が俯き、グラスを持つ手だけがカウンターに残される。


「前の日なんか、みんなで飲んでたんだぜ、オレも一緒に。全然、死のうとしてるなんてなかったんだよ。少なくとも、全然そんなのおくびにも出しやしねえ……。」


声が、震える。


「だから、本当によ。誰も、なんで死んだのか……わからないんだ。」


上を向いて、ダウンライトの柔らかな光を見つめている。細められた目の奥の苦しみが、手に取るように伝わってきた。

 

このお客様は……悔やんでいるんだ。


気付けなかったことに。止められなかったことに。


「いつだって、残される側は唐突です……残される側の都合なんて、残す側からしたら関係なくて。」


自分の吐いた言葉に、胸がざわつく。


「もしかしたら、残される人がどんな思いを抱えるかなんて、考えもしないままだったのかも知れない。そもそもが、そこに、理由なんてないのかも知れない。」


こんなことを言う資格が、オレにあるのかはわからない――それでも、これしか言えなかった。


「結局は、本人しかわからないことなのかも知れません。」


痛む胸に目を背けて、お客様を見つめる。

オレの視線と、お客様の、少し苛立ったような視線が絡み合う。


「なんだよ、そりゃ……訳が分かんねえよ。そんな、訳もわからねえまま、アイツは死を選んだのか?」


次の言葉は……考えるより先に、漏れた。


 

「理由があれば……納得されるのでしょうか。」



その言葉が届いた瞬間、お客様の手が凍りついたように、止まった。


「……!!」


――しまった、言い過ぎた。

何かを考えるように、あるいは誤魔化すように、眉を顰めるお客様を見ると、自分の未熟さが嫌になる。


「失礼いたしました。」


絞り出すように声を出し、深く頭を下げる。カウンターの下で、自分の指先が微かに震えているのが見えた。


「お詫びに、今日の最後の一杯は私からサービスさせてくださいませ。」


そう言い切ったまま、背を向けてロックグラスを取り出す。

丸氷を入れ、液体を注ぐ前にバースプーンで回してグラスを冷やす。バースプーンで氷を押さえ、グラスを傾けて溶けた水を捨てる。


グレンリヴェット10年を45ml、ドランブイを25ml。

氷に滑らせるように注ぎ、もう一度バースプーンを挿し入れる。


静かにバースプーンが円運動を始める。音を立てることなく、丸氷がグラスの中で回転していく。


琥珀色の二つの液体が混ざり合い、新しい味わいへと生まれ変わる。


円を描かせる指を止め、丸氷の慣性に終わりを告げる。

抜かれたバースプーンから滴り落ちる雫は、優しい色をしていた。

 

そっとグラスを持ち上げ、空いたグラスと音を立てないように交換する。

 

「こいつは……ラスティ・ネイル?」


「はい。ラスティ・ネイルです。お好きでしたよね?」


グラスを持ち上げて、一口。

琥珀色の液体が、グラスの中で静かに波打つ。


「ああ。この後味の甘さがね、好きなんだよ。」


「このラスティ・ネイルのカクテル言葉をご存知ですか?」


「カクテル、言葉?」


「はい。あまり知られていませんが、カクテルにも意味があるそうです。」


もう一度、コースターに重ねられた琥珀に目を落とす。


「このラスティ・ネイルのカクテル言葉は――"苦痛を和らげる"、だそうです。」


答え合わせのように、お客様が言葉を繰り返す。


「苦痛を……和らげる……。」


手の中にある、グラスの中に揺蕩う琥珀を見つめて、少し固まって考えている。


「私から見たら、今のお客様は、答えのない苦痛に囚われているように見えてしまうのです。」


口にした瞬間。自分の声が、硬く響くのが分かる。


「もしかしたら、その方は、誰にも言えない悩みを抱えていたのかも知れない。それとも、希死念慮に囚われて、衝動的に選んでしまったのかも知れない。」


喉の奥が、チリチリと渇く。


「でもそれは、本人以外には分からないことなのです。」


「分からないこと、か……。」


「はい。分からないこと、答えのないことに縋っても。そこに意味はないのだと――そう、思います。」


小さく、息を吸う。

アンダーシャツの下、ネックレスに通した指輪が、胸元で動いたような気がした。


「残された側としては、答えを探したくなる、理由が欲しくなる気持ちもわかります。」


カウンターの下に隠した拳が、硬く握り締められるのがわかる。


「ですが。」


ふ、と拳の力を抜いて、ほどく。


「意味のないことに、出口はないんだと思います。それよりも、出来ること、なすべきことをする方が。よっぽど、意味があるんじゃないかと。」

 

「出来ること……なすべきこと……そんなものが、ある、のか……。」


「あります。」


息を一つ、深く吸う。


「忘れないことです。今は悲しみ、何もできなかったことを後悔して。その後悔を抱えて、生きる。」


何度も、言い聞かせてきた言葉。


「残された側にできるのは、するべきなのは――そのくらいです。」

 

後悔を捨て去ることなんて、簡単に出来るはずがない。

悲しみだって、すぐに消えてくれやしない。


だけど、時間が解決してくれる、なんてチープな言葉で誤魔化したくはなかった。何より……時間は、何もしてくれやしない。

そのことは、オレがよく知っていた。

 

「そう、か……。」


アルコールの匂いを含んだ息を深く吐いて。

絞り出すような声で。


「後悔して、生きる、か……そうだな、あぁ、そうだ……もう、死んだんだ。」


言葉は、途切れ途切れで。


「オレたちをこんなに苦しめて、悲しませて。アイツは、死んだんだよな。」


声が。


「恋人なんて、ひでえ有様さ……、あの、バカヤロウ……あんな可愛い子を、置いて、逝きやがって。ずっと、泣いてんだぜ?なんて言葉をかけたら良いか、分かんなかったよ。」


詰まる。


「オレだって、悲しいはずなのにさ。アイツが、何か抱えていたなら、言ってくれりゃあ良かったのによ……そしたら、できることが、何かあったのかも知れない。違う道を選ばせてあげられたかも知んねぇ。


でも、」


煽るように、震える手で持ち上げたその中身を、ひと息に飲み干して。叩きつけるようにコースターの上に、グラスを置く。

そのグラスを握る手を、もう片方の手で抱き締めるように。


下を向いて、カウンターの上に一つ、二つと……雫が落ちる。


「もう、アイツは死んじまった。アイツには、もう何もしてやれないんだよな。もう、灰になって、終わっちまったんだ。


そう――もう、終わったんだ。」


そっと新しいおしぼりをお客様の前に置いて。


これから告げる言葉は、もしかしたら残酷に聞こえるかも知れない。

それでも、どうしても伝えたかった。


「残酷ですが……終わったことに囚われるよりも。」


自分の声が、どこか遠くに聞こえていた。

それでも、今このカウンターに立っているのだから、と、必死で言葉を繋ぐ。


「残された側に、理由なんてない。そう、自分に言い聞かせて。後悔を抱えてでも、生きていくしか……ない。」


そっとカウンターの上に手を乗せ、このカウンターの向こう側に座った日のことを思い出して、拳を握る。


「後悔に負けそうな時には、このカウンターが受け止めてくれます。お客様の苦しみを、悲しみを。黙って受け止めるために――」


冷たいはずのカウンターが、温かく感じた。




「バーのカウンターは、分厚いんですから。」




カウンターの上に、雫が作る染みが広がっていく。


「ありがとう……ありがとう、すまない、今日は、今日だけは……っ!」


カウンターの上に置かれた、もう一つの拳が震えていた。

掌が、顔を覆う。


嗚咽が、BGMを塗り潰してカウンターの上に響く。


「構いません。マスターも、今日はお休みですから。」



今日が雪の日で良かったと――この時、初めて思えた。

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