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馴染みのお客様が、ドアの中に滑り込む。

その重さに蝶番を軋ませながら、ドアが閉じられていく。


そのお客様は、週に一度、時には三度。気さくな冗談で店の空気をほどく、間違いなく常連だ。

そしてオレにとっては――マスターから「最初の一杯」を許された、忘れようのないお客様。


カウンターの外に歩み寄り、いらっしゃいませ、と声をかける。

少しだけ肩を濡らしたコートを受け取った。


普段はお洒落なネクタイを自慢するくらい、スーツにはこだわる人だった。

体型維持にも気を遣っている、と笑っていた姿が浮かぶ。


その日の装いは、黒。 黒いスーツに、黒いネクタイ。

いつもの整然が、弔いの色に置き換わっていた。 

お通夜か、葬儀か……こちらから伺うわけにもいかない。

 

ガランとしたカウンターの端に腰掛けたお客様へ、温かいおしぼりを広げる。


「今日は本当に寒い一日でしたね。お疲れ様でした。」


こういう時は、出来るだけ普段通りに接した方がいい。

手元を見る。


小さく震える手は、寒さだけが理由ではない。

彷徨う視線は、見送ってきた誰かへ向けられて――瞳の下には、涙の跡は窺えない。

ただ疲労と動揺と……言葉にならない苛立ちのようなものが、表情に沈んでいた。

 

かける言葉のないまま、沈黙だけが流れる。

今、オレにできることは、ただ待つことだけだ。


「すまないね。」


おしぼりで手を拭いながら、震えを押し込めるように声が落ちる。言葉は少ない。トーンも沈んでいる。


「流石にこの時期の雨は堪えるね。まあ、雪よりはマシか。」


唇も震えていた。それは、寒さのせいだけだろうか。


「さっきまでは雪でしたからね。お陰様でこの通りですが。」


わざとおどけたように、肩をすくめて見せる。


「今日は朝まで雨は止まないようですよ。少しでもゆっくりなさってください。」


「ありがとう。」


おしぼりを脇に置く。


「雨にちなんで……まずはレイニーブルーにでもするかな。」


徳永英明のあの名曲から名付けられた、静寂を湛える青。


「レイニーブルーですね。かしこまりました。」

 

ブルーキュラソーを小さな皿に落とし、別の皿に砂糖を広げる。

リキュールで薄く濡らしたグラスの縁をスノー・スタイルに仕上げ、そのまま冷凍庫に入れる。


シェイカーに氷を組む。

ウォッカを30ml。

コアントローとブルーキュラソーを10mlずつ。

バナナリキュールを8ml。

ライムジュースを2tsp。


ライムで輪郭を立て、好みに合わせてほんの少しだけドライに寄せる。


ストレーナーを被せ、キャップを嵌める。作業台に二回、軽く打ち付けて空気を抜く。


手首のスナップを意識しながら、小気味良い音を響かせシェーカーを振る。

指先に伝わる氷の動きと温度で、青が"雨の憂い"に変わる瞬間を見極め、止める。


グラスを冷凍庫から出して、その青を注ぐ。

コースターを添えて、そっと差し出した。


「お待たせいたしました。レイニーブルーです。」


「あぁ、ありがとう。」


グラスの脚を摘んだお客様が一瞬、その青を見つめて。


「レイニーブルー、もぉお……終わった、はずなのに……か


口ずさみながらグラスに口をつけて、喉仏を大きく上下させる。何度も。


コースターに戻された弾みで、空になったグラスを縁取るシュガーが涙の代わりに滑り落ちる。そのまま、底に取り残された憂いの青に溶けて……消えていった。


その青は、深い悲しみの前で。ただの液体として、一瞬で消えてしまった。

湧き上がる焦燥を必死に抑え込み、いつも通りにグラスを下げる。


「今日はペースが早いようですね。明日は、お休みですか?」


動揺を覆い隠し、平常を装う。


「いや、仕事だよ。」


息をふぅ、と吐き出して、小さな声が漏れる。


「部下の葬儀でね。今日は飲みたいんだ。潰れる前には……帰るさ。」


瞳が揺れる。その声が、自嘲するように響いた。


胸に走る小さな痛みを隠すように、短く息を吐く。

何かを、間違えている気がする。


「そうだったんですね……。

お悔やみ申し上げます。

お仕事には響かない程度になさってくださいね?」


「わかってるさ。雨繋がりで、もう一杯……ブラックレインでも飲ませてくれ。」


「かしこまりました。」


ブラックレイン。松田優作の遺作映画にちなんだカクテル。


フルート型シャンパングラスを取り出す。


ブラック・サンブーカを30ml、グラスに注ぐ。リキュールのスパイシーな香りが漂って、無骨さの影にどこか懐かしさと寂しさを隠す。

その香りを包み込むように、シャンパンの優しいアロマを満たす。


そのグラスは、松田優作の人生をそのまま写していた。

 

弱い光を吸い込む黒。その黒が、目の前の悲しみの深さと――出口のないオレの焦燥を映しているように見えた。 

震えそうになる手を抑えて、グラスを置く。


「ブラックレインでございます。」


「ありがとう。」


今度は流石にひと息に、とはいかない。それでも、いつもよりは格段に速いペース。



そして――黒い雨も、通り過ぎるように消えていった。

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