【第1章 きっかけ 第9話 世界の毒を一人で吸い切ろうとする老師】
チェンは共産主義国へ帰国後、その足で中南海を訪れ、ワン警護官に自身がまとめた状況を口頭で伝えようと考えていた。
その旨をワン警護官へ伝えると、午後8時に出頭するようにという指示が返ってきた。
思ったよりも遅い時間の指定に、チェンはつぶやいた。
「ワン警護官も忙しいか……」
チェンは空港から一度自宅である官舎に戻り、洗濯物を洗濯機に入れたり、食料の買い物をした後で中南海に向かった。
中南海に着いたチェンは、いつもワン警護官と面会をする『紫光閣』《しこうかく》という建物の、中央警護局がある『第七接見室』に足を運んだ。
すると中央警護局の職員が『勤政殿』《きんせいでん》に行くように言った。
勤政殿は主席が日常的に執務を行う建物であり、チェンは入った事が無い。不安げな表情を浮かべながら歩みを進めた。
勤政殿が見えてくると、入り口のところにワン警護官が、後ろ手を組んで立っていた。
チェンは小走りに、ワンの元へ走った。
「ワン警護官、お待たせしてすみません」
ワンは軽く笑顔で頷いて言った。
「黙ってついてきなさい」
チェンはワンの後ろを、恐れを隠せない捨て猫のようについて歩いた。
ワンは慣れた足取りで、勤政殿の中を進み、無言のままエレベーターに乗った。
チェンの表情はますます不安を隠せなくなっていた。
――私のようなものが、こんなところを歩いているなんて……
エレベーターを降りたワンは、そのまま護衛官の前を通り過ぎ、重厚なドアの前で止まりノックをしてドアを開けた。
「さぁ」
ワンはチェンを部屋の中に入るように促した。
チェンが部屋に入ると、そこには主席執務室のデスクに座っている、リウ主席がいた。
チェンの顔色が緊張の色に染まった。
視線を上げたリウは、席を立ってチェンに言った。
「どうした。取って食いはせぬよ。私は君たちの働きがあってこそ、この国を守っていけるのだから。今回はご苦労様」
足の震えが止められないチェンは、言葉もろくに返すことができなかった。
リウはソファーテーブルの上に、ロックグラスを三つ用意し、それぞれの中に氷をなみなみと入れた。その上から白酒を注いだ。
「まあ、二人とも座ってくれ」
ワンは物音を立てずにソファーに座った。それに比べてチェンは、大きなモーター音が聞こえるような、古い2足歩行ロボットのように、不自然な動きでソファーに座った。
「チェン同士。今回は敏速で素晴らしい調査だったようだね。心から感謝を表します」
リウの声もよく聞こえないチェンは、自分の感覚の一切が失われている状態だった。
それを見て少し笑顔でワンが言った。
「主席。やはりチェンには少し刺激が強かったようですね。チェン、落ち着けといっても難しいとは思うが、仕事の仕上げとして、日本で調べたことを主席にお伝えしなさい。今回の調査は、私ではなく主席が指示したことなのだから」
チェンはワンの顔を見た後、「ふぅ」と大きく息を吐いて主席へと顔を向けた。
「失礼の数々お詫びいたします。まさか主席と言葉を交わせる日が来るとは思っていなかったので、息をすることも忘れてしまっていました。人民解放軍情報部、チェンロウと申します」
そこまでを思い切って言うと、ふと美咲の顔が浮かんだ。
――私にも、あそこまで堂々とした自信が欲しい。助けて、美咲さん……美咲さんならどうする?
チェンは、首席が注いだグラスを手に取ると、一気に飲み干した。
それを見たリウとワンは、笑い始めた。
「リウ主席。ご馳走様でした。この白酒の味は生涯忘れないと言い切れます。ワン警護官への報告書は明日の正午までに提出いたしますが、プロテオブロックの製造は、日本で行われたと仮定するには、十分すぎる要素が存在します。どれも状況証拠と言えますが、プロテオブロックに関わることを、直接的に探ろうとすると、受付は政府へという流れでブロックされてしまいました。しかしこの現実こそ、プロテオブロックの製造を担ったのは日本であるという証拠だと認識しております。さらに確証を積み上げるために、他の国についての調査を行う事も有効かと考えます」
チェンは無意識な早口で、一気にまくし立てるような報告を終えた。
リウは自分のグラスを持ち、グラスをチェンに向けて、白酒を飲んだ。
「チェン同志、ワンが君を『とっておき』のカードだと言って今回の調査をお願いした訳だが、結果として君は、とても満足できる内容を持ち帰ってくれたよ。まずこのことにありがとう」
リウは再度グラスをチェンに向けて白酒を飲みほした。
「チェン同志よ。ここには私たち3人しかいない。君の前にいるのは国家の主席ではなく、一人の老人だ。若い君の目に映っている我が共産主義国が抱える問題とは、どのような事だと映っているかね?」
チェンは息を飲み込んだ。
「リウ主席……」
チェンは一瞬だけ迷った表情を浮かべたが、軽くうなずいてから、勇気を振り絞るようにリウをしっかりと見つめた。
「いえ、ラオシー(老師・先生)。私が感じる問題点は、人民の間に広がる格差と、信頼の揺らぎです。経済は成長しましたが、都市と農村、富裕層と貧困層の差が大きくなり過ぎた。多くの人が、党への信頼を失いつつあると感じます。富裕層は際限なく利を求め、それは自分一人の力だと考える。貧困層はやり場のないマイナスの感情を、政府に向ける。特に、政府要人の腐敗の問題が……人々の心を離していると思うのです」
チェンは言葉を切り、息を整えた。彼女の目は真剣だったが、どこか日本での幼少期を思い出すような、父や母に自分の心に積もった小さな問題を吐き出すような、そんな様々な想いがバランスを取り合うような柔らかさがあった。
「ラオシー、私はこの国を愛しています。だからこそ、人民が一つの家族のように感じられる国になってほしいと願っています」
リウはチェンの言葉を静かに聞き、グラスを置いて軽く微笑んだ。
「ラオシーか、いい呼び方だ、チェン同志」
彼は一瞬目を細め、まるで遠い記憶をたどるように視線を宙に浮かせた。
「君の言う通り、格差と腐敗は我々の試練だ。その昔、私の家族は貧しい農民だった。毎日汗を流し、党や親や先達の教えを、何の疑いもなく忠実に実行するような、どこにでもいる家族だ。あの時代、人民は貧しかった。貧しさゆえに金で我々を蹂躙しようとする諸外国から、人民を守ろうと市場経済を導入した私にとってのラオシーが居た。まだそれらに慣れていない人民は、お祭り騒ぎに踊らされてしまった。我々が団であることを忘れた時に、諸外国から蹂躙されてきた歴史を忘れて」
リウは言葉を止めてチェンを見つめた。チェンは促されている気がして言葉を発した。
「そのお祭り騒ぎが、天安門事件を呼んだ」
リウはチェンの発言に満足するような笑顔を浮かべて話を続けた。
「そう、天安門事件をきっかけにして、世界から我々の硬直性を指摘攻撃されたり、人民たちからの信頼を失ってしまった。だがあそこまで騒ぎ踊る者たちの心のブレーキを、誰かが強く踏まなければ、どうしようもない事態になるのがそこまで来ていたのも事実だ。そして我々の経済は格差が広がるのと共に、汚職にまみれる様を見た訳だが……」
またしても言葉を止めたリウに見つめられたチェンが言った。
「WTO加盟や、アフリカなどとの外交を強めて経済的な成長を手に入れた」
「そうだな。やはり経済的な成長はどうしても『結果』というものが付いて回り、有能な者とそうでない者、世界との物流に有利な土地と不利な土地で、大きな格差が生まれてしまう。次のラオシーは、経済力が世界2位まで伸びた我が国の『世界での立ち位置』を明確にするべく、世界との調和、国内での調和を重視した。その結果として汚職が進み、環境問題が悪化し、自己の利益だけを最優先するバカ者が増えていった」
チェンはうなずきながら言った。
「次のラオシーはとても強権的に、厳しく、あたかも独裁者のように振舞い、国内の汚職の正常化を実行していかれましたね」
「任期制限を撤廃したことについて、世界ではネガティブに捉えられたが、徹底的にやらねばならない状態まで、内部腐敗は進んでいた。あれだけの権力集中者から託された私もまた、それなりの強権ぶりを見せねばなるまい。私は自己保身や利己的な考えはとても醜いと考える。世界が、国同士がぶつかり奪い合うことを、一体いつまで続けるつもりなのか?そろそろ人類は、次の幕に進むべきタイミングだ。自分たちの首をどんどん絞めていく前に」
「世界一路構想。素晴らしいお考えです。そしてこれを実現させるために用意した加速装置であるウイルスも、致し方ない事だと考えます。我々は全世界に配れるだけのワクチンを用意しておいた。結局のところ、私のようなものが気が付ける問題点は、リウ主席はすべて気が付かれており、それをどうにかするための作戦行動も、立案実行されておられます。私の目には、リウ主席が望まれることさえ実行出来れば、世界は、人類は、しばらくの間、平和で楽しい毎日を享受できると心から信じるに足る景色が見えています。私の全てを、この国の、世界の安寧に捧げます」
リウはグラスを手に取り、チェンに向けて軽く掲げた。
「私はね、毎晩、自分に問うている。強くあることは、果たして正しいのか?でもね……誰かが世界に道を示さなければ、また同じ争いが繰り返される。私は、その『誰か』であろうと決めた。人を踏みつけ搾取して、自分は楽をして甘い汁を啜ろうとする者がいる。誰かが運悪く倒れた時に、ため込んだ甘い汁を決して分け与えようとしない。互助を言い聞かせれば、自由や自己責任を盾に突き返してくる。こんな者が多く生きる社会は、望ましい社会と言えるのだろうか?そんな者を許容しなければならない社会で生きる、真面目で優しい者は、正しい評価を受けられるのだろうか?自分で苦労せずに利を得続ける者を誰も修正できない世界において、正しく生きる意味はあるのだろうか?そんな時に誰か一人の価値観だけで、誰かに罰を与える国は正しいのだろうか?」
一度言葉を止めたリウを、チェンはじっと見つめ、リウの言葉に耳を傾け続けた。
「団結した同志達の多様な価値観で判断し、利己主義を貫こうとするバカ者に罰を与える。私には西洋社会が悪とする我々の『共に産みだす主義』が、悪だとは思えないのだ。人間は確かに自堕落な生き物だ。だからこそ、お互いが支えあい、励ましあうことが必要なのではないだろうか?それは自由を奪うことだといえるのだろうか?……チェン同士よ。我々の家族を食い物にするバカ者から、真面目に生きる家族を守ることに、これからも協力してほしい。君のような目を持つ若者が、いつか私の方法を否定してもいい。だが今は、誰かが世界の毒を吸わねばならない時代だ。私の夢は、都市の人間も農村の人間も、北の人間も、南の人間も。すべての人間が希望を持てる世界だ。誰かが誰かを侮蔑し、食い物にしたりしない世界だ。我々は協力して、お互いを助け合っていかねばならない。君のような若者が、その声を届けてくれると信じている」
チェンの瞳から、涙が溢れだしていた。チェンにとって言葉では表せない夜となった。




